巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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ユーカリストの本質ーーミサの犠牲的性質に対するプロテスタント諸反論について(by ローレンス・ファインゴールド、ケンリック・グレンノン神学校)【その3】

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出典

 

Dr. Larence Feingold, Association of Hebrew Catholics Lecture Series, The Mystery of Israel and the Church, Fall 2016-Series 18, On the Eucharist, Part 2. Talk # 2. Protestant Objections to the Sacrificial Nature of the Mass. (拙訳)mp3Q & A

 

②「ミサにおける犠牲というのは、毎回のミサの中で繰り返しキリストが殺されるということを意味している」という反論について

 

ジャン・カルヴァンは、もう一つの重要な反論を挙げています。「もしもミサが犠牲なら、イエスが毎回のミサの中で繰り返し殺されなければならないということにならないだろうか?」と彼は考え、次のように記しています。

 

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ジャン・カルヴァン(1509-1564)

 

 「献上された犠牲者がいけにえとして殺されるというのは不可欠なことである。仮にキリストが毎回のミサにおいて犠牲にされるのなら、主は何千という場所で毎瞬間、残酷に殺害されなければならないということになる。

 これは私の言い分ではなく、以下に挙げるように使徒たちの言い分である。『キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。』『もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。』(ヘブル9:25、26)」*1

 

トリエント公会議はこの反論に対し、犠牲における流血の様態と、非流血の様態を区別することで応答しました。

 

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トリエント公会議(出典

 

カルバリーで捧げられたのはキリストの流血を伴う犠牲であり、その際、主の血潮は物質的に御御体から分離されたために、無残なる死がもたらされました。ミサにおいても同じ犠牲者(イエス・キリスト)が、御体と血潮における現前の内に捧げられます。

 

しかしながら後者の場合、血潮は御体から物理的に分離されてはいません。なぜなら、キリストはもはや死ぬことはあり得ず、それゆえに、それはサクラメント的しるしの下に捧げられます。こうしてサクラメント的分離が御体および血潮における物理的分離に取って代わります。

 

カルヴァンによって出された反論には、「全ての犠牲には必ず物理的死が伴っていなければならない」という前提があります。しかし、犠牲というのは、心の内的奉献(interior oblation)を可視的に表象する象徴的行為であり、それは、神に与えられ、主の統治に移されている被造善という外的しるしを通してです。

 

キリストの御心の内的奉献はカルバリーにおいても、ミサにおいても同じです。なぜならキリストの内的御性質は不変だからです。「イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも同じです」(ヘブル13:8)。

 

しかし、内的奉献の外的表象は、ミサとカルバリーの間に違いがあります。カルバリーにおいては、犠牲者(イエス・キリスト)は、物理的死により、神の統治に移され、その死は一度しか起こり得ません。

 

他方、ミサにおいては、犠牲者の、その同じ内的奉献が、ーー二つの形態(聖変化した聖体の形態;species)の二重の聖別においてーーキリストの御体および血潮のサクラメント的分離によって外的に表象されます。そして、このサクラメント的奉献(immolation)はいつ、どこにおいても司祭によってミサが捧げられるところで何回でも起こり得ます。

 

その4】に続きます。

 

関連資料

Is the Mass a Sacrifice? | Catholic Answers

*1:Calvin, Institutes 4. 18.5, p.937.