巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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ユーカリストの本質ーーミサの犠牲的性質に対するプロテスタント諸反論について(by ローレンス・ファインゴールド、ケンリック・グレンノン神学校)【その2】

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出典

 

【その1】はココです。

目次

 

Dr. Larence Feingold, Association of Hebrew Catholics Lecture Series, The Mystery of Israel and the Church, Fall 2016-Series 18, On the Eucharist, Part 2. Talk # 2. Protestant Objections to the Sacrificial Nature of the Mass. (拙訳)mp3Q & A

 

ミサの犠牲に対するルター及びカルヴァンの諸反論

 

①サクラメントの定義からの議論

 

この問題の重大さを鑑み、私たちは、ルターの反論の諸根拠について省察していくことにしたいと思います。

 

ルターはミサに関する自見解を、1522年に発行された『ミサの誤用(The Misuse of the Mass)』という著書の中で最も明確に説明しています。

 

彼の最も中心的論拠は、「律法」と「信仰」(もしくは「律法」と「福音」)に関する弁証法的対立(dialectic)に在ります。そしてこの弁証法的対立は、「与えることを通して神と関係すること」と、「受けることを通して神と関係すること」を対比させています

 

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Law vs Gospelという対比の仕方(出典

 

ルターの視点によれば、律法というのは、行ないを通して自分自身を義としようとする試みであり、それに対し、福音は、キリストの十字架を通し神の御愛顧という賜物を受けることです。

 

ヨーゼフ・ラッツィンガーは、ルターの立場およびそこに潜在する神学的懸念に関する優れた分析をし、次のように言っています。

 

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ヨーゼフ・アロイス・ラッツィンガー(Joseph Alois Ratzinger)出典

 

 「最後の分析ですが、ルターにとっては、神との関わり合いに関し、ただ二つの対立する方法しか存在していない、ということが挙げられます。すなわち『律法の方法』と『信仰の方法』です。・・

 

 信仰の方向は、律法の方向とは対極をなしています。つまり、それは神的愛顧を受けることであって、贈物を捧げることではありません。その結果、キリスト教礼拝はその性質からして受けるだけであり、与えることはできないとされます。〔彼によれば〕それはキリスト・イエスにおける神の救いの御業に対する受容であり、それだけで決定的に十全なものです。

 

 逆に言えば、キリスト教礼拝は、感謝の代わりに『捧げる』という要素が再導入される時、歪曲され、正反対のものに変質してしまう、とみなされるわけです。こういった視点から見ますと、ルターが、ミサにおける犠牲という考え方を、恩寵の否定、人間の自律という反逆、そして(パウロがあれほど闘ったところの)信仰から律法への逆戻り、と捉えたのも、なるほど理解できます。」*1

 

「律法」に対立するところの「信仰」という弁証法は、ルターのサクラメント理解の中において作用しています。ルターによれば、福音というのは、神に何かをお返しすることによって自分自身を義としようとする試み抜きの、神の御約束の受容と捉えられているために、サクラメントは、罪の赦しに関する神の御約束を立証するしるしとしてのみ理解されています。*2

 

ルターにとって、サクラメントというのは、「カルバリーでのキリストの贖罪の御業に対する信仰を通し私たちの罪が赦される」という福音の根幹メッセージに関する、目に見える御約束です。*3

 

それゆえに、ルターは、いわゆるサクラメントに関する「下降的側面」だけを認証しており、彼によれば、それは神から人間への約束された祝福を証します。その一方、ルターは、(犠牲が神に捧げられるという)いかなる「上昇的動き」に対してもこれを断固斥けました。彼は次のように言っています。

 

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「下降」のみ

 

「犠牲と約束というのは、東の日の出と西の日の入り程も互いにかけ離れている。犠牲というのは何か?それは、行ないであり、そこにおいて我々は自分自身のなにかを神に提示し、献上する。それとは対照的に、約束は、神の御言葉である。そしてこの御言葉は人に神の恵みと憐れみを与える。であるから、神の御約束を、人間の犠牲に仕立て、神の荘厳に関する言葉を、卑しい被造物の行ないに仕立てるというのは、虚偽であるばかりでなく、人間の理性にとっても不可解なことである。」*4

 

また別の箇所で、ルターは次のようにも言っています。

 

「それならばいかにして、我々のために贈物として与えられた神のこの誓約および証印をもって、自分自身の犠牲や行ないに仕立てることができようか。御約束をされた方に対し、なにかが約束されている手紙の封印を犠牲にするような大馬鹿者は一体誰であろうか?」*5

 

ルター見解に対するカトリック側の応答

 

上記のルター見解に対する私たちの応答は次のようになるでしょう。すなわち、(ルターによる)純粋に受動的なものとしての義認理解は不完全であり、それゆえに、彼のサクラメント定義は不適切である、と

 

より良い定義としては、「サクラメントはキリストを通した人の聖化のしるしである」となるでしょう。そしてそれは、自らが象徴するものを実現させます。*6

 

聖化の二つの要素

 

しかしながら、人間の聖化は二つの要素から成っています。それは神の恩寵を受け入れることに始まりますが、他方、生涯を通し主に栄光を帰するという務めの内に完結をみます。

 

私たちは聖化のこういった二側面を、‟受動的聖化” と ‟積極的聖化” と言及することができるかもしれません。なぜサクラメントというのは必ず神から人間への恩寵伝達においてのみ有効でなければならず、そこに、人間がキリストを通して神に栄光を捧げることを可能たらめしる介助が含まれていてはならないのでしょうか。換言しますと、「サクラメントというのは必ず、その運動においてただ唯一下降のみでなければならず、上昇を含んでいてはならない」とする理由はどこにも無いということです。

 

ルターとは対照的に、聖トマス・アクィナスは、新契約のサクラメントにおける二重の完了状態を見ていました。

 

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トマス・アクィナス(出典

 

「新律法のサクラメントは二重の目的のために制定されている。すなわち、一つは罪のための救済策として、そしてもう一つは神聖なる礼拝のために。」*7

 

「上昇」「下降」その両方向に働く、全き仲介者キリスト

 

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「上昇」&「下降」

 

神と人間の間の全き仲介者としてのキリストは、「上昇すること」「下降すること」その両方向において働いておられます

 

仲介者としての主の御務めは、私たちのために恩寵を賜わってくださることだけでなく、私たちが自らの目的を果たすことができるよう介助してくださることにあります。つまり、私たちが余すところなく神に栄光を捧げ、神をお喜ばせする礼拝を捧げることができるよう介助してくださるということです。

 

そして両方向におけるキリストの仲介が(聖にして有効なるしるしを通し)サクラメント的に遂行されているのはふさわしいことです

 

「すべてのサクラメントが必ず一義的意味において理解されなければならない」という理由はない

 

二番目に、「すべてのサクラメントが必ず、一義的意味において理解されなければならない」という理由はどこにもありません。しかしながら、ルターは、それとは対照的に、それぞれのサクラメントが本質において均一であるとみなしています

 

例えば、バプテスマにおいて私たちは主として神の恩寵を受容しますが、ルターは、このバプテスマを(教会の至高なる礼拝行為であるところの)ユーカリストと均一視しています。彼は次のように言っています。

 

「バプテスマを善行としてみなすほどの狂気の沙汰がどこにあるだろうか?あるいは、『自分は(己自身のため、他者への伝達のため)神に捧げるという行ないを為しているのだ』と信じている洗礼志願者がどこにいるだろう?しからば、このサクラメントおよび契約の内には他者に伝達することのできる善行はなにも無く、それはミサの中におけるその他いかなるものに対してもまた然りである。なぜなら、ミサもまた、契約でありサクラメントであるに他ならないからである。」*8

 

換言しますと、「仮にバプテスマが犠牲でないのなら、なぜユーカリストが犠牲である必要があろう?いや、そのような必要はない。」ということです。

 

これに対するカトリックの回答は次のようになります。ーーサクラメント制度というのは階層的に構築されており、その中にあって、ユーカリストはサクラメントの女王とされています

 

ユーカリストが、各サクラメントの中で最大のものである理由は二つあります。第一番目に、ユーカリストだけがキリストの人性を実体的(substantially)に内包しています。そして二番目に、主は、犠牲者としての形態においてサクラメントの中に包含されているために、ユーカリストはまた主の犠牲を現前させます。

 

実にユーカリストのみが、サクラメントであると共に犠牲でもあるのです。*9

 

 【その3】に続きます。

*1:Ratzinger, "Is the Eucharist a Sacrifice?" in Theology of the Liturgy: The Sacramental Foundation of Christian Existence, Collected Works, vol.11 (Ignatius Press, San Francisco 2014), 207-208.

*2:"Babylonian Captivity of the Church," in Luther's Works, 36:124. この中で、ルターは、サクラメントを「(それらに付随している)しるしを持つ神の御約束」と定義しています。

*3:Luther, "Misuse of the Mass," in Luther's Works, 36:177においてルターは次のように述べています。「ここにおいて我々は、いかなる賠償(satisfaction)のためのいかなる行ないも、和解のための犠牲も、無用であることを明確に見ている。ただ唯一、御体と血潮に対する信仰のみによって和解がもたらされるのである。信仰がそれ自体のうちに和解の業をなすということではなく、それは、キリストが我々のために成し遂げてくださった和解を得ているのである。」

*4:同著、p.169.

*5:同著、p.174.

*6:St. Thomas, ST III, q.60, a.2. ここでトマスはサクラメントを「それが人を聖化させるという限りにおける聖なる事柄のしるし」として定義しています。

*7:ST III, q.63, a.6. トマスはその後、神聖なる礼拝の側面について説明し、(それはある意味、すべてのサクラメントに共通してはいるけれども)特に、ユーカリストの中に顕著に内包されているとし、次のように述べています。「サクラメントは、三つの方法で、神聖なる礼拝に属しているだろう。一つ目は、為された事に関して。二つ目は、仲介者に関して。そして三つ目は、受領者に関して。為された事に関して言えば、ユーカリストは神聖なる礼拝に属している。なぜなら、神聖なる礼拝というのは、それが教会の犠牲である限りにおいて、主としてその中に存している。」

*8:"Babylonian Captivity of the Church," in Luther's Works, 36:48.

*9:ST III, q.79, a.5において、トマスは次のように書いています。「このサクラメントは犠牲であり、且つ、サクラメントです。それは、(それが献上されるという意味において)犠牲としての性質を持っており、(それが受容されるという意味において)サクラメントとしての性質を持っています。それゆえに、それは受領者の内にサクラメント効果をもたらし、献上者の内に犠牲の効果をもたらす。」