巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ユーカリストの本質ーーミサの犠牲的性質に対するプロテスタント諸反論について(by ローレンス・ファインゴールド、ケンリック・グレンノン神学校)【その1】

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聖パウロ教会での荘厳ミサ、マルタ共和国(出典

 

目次

 

Dr. Larence Feingold, Association of Hebrew Catholics Lecture Series, The Mystery of Israel and the Church, Fall 2016-Series 18, On the Eucharist, Part 2. Talk # 2. Protestant Objections to the Sacrificial Nature of the Mass. (拙訳)mp3, Q & A

 

本シリーズの総目次

 

その1

その2

その3

その4

その5

その6

 

執筆者について

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ローレンス・ファインゴールド(Lawrence Feingold)。米国の無神論者ユダヤ人家庭に生まれ、無神論者として育つ。美術史の研究でイタリア留学中にキリストに出会い、1989年妻と共にカトリックに入信。ローマのPontifical University of the Holy Crossで哲学と神学、その後、エルサレムのStudium Biblicum Franciscanumで聖書ヘブライ語およびギリシャ語を研究。

現在、ミズーリ州にあるケンリック・グレンノン神学校で神学および哲学を教えている。ヘブル人カトリック協会の神学ディレクターも務める。

講義シリーズ:AHC Lecture Series: The Mystery of Israel and the Church。主著:Natural Desire to See God According to St. Thomas Aquinas and His Interpreters

 

尚、ファインゴールド教授と、正教会の神学者デイビッド・ベントリー・ハート氏の対談VTR(テーマ:神を観照する自然的願望について)はココ。ベンジャミン・ウィンター氏による対談の要約記事はココ

 

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出典

 

ルターのミサ理解

 

ミサの犠牲的性質を否定した神学者は、マルティン・ルターが初めてではありません。14世紀英国の神学者ジョン・ウィクリフ(1320-1384)もそれを否定しました。しかしながら、ーー義認論および福音の性質を巡る問題との関連性とも相まり、ミサの犠牲的性質に対する攻撃がより深刻なる重大性を帯びるようになったのは、ルターが始まりでした。

 

マルティン・ルターによってもたらされた最も悲劇的且つ間接的イノベーションは、ミサの犠牲的側面に対する彼の熱情的否認にありました。ーールター自身、それが教会の聖伝全体によっては確かに犠牲のようにみえるということを認めていたにもかかわらず、です。*1

 

彼の攻撃は、1520年に出版された『教会のバビロ二ア捕囚』を持って開始されました。

 

「教会のバビロニア捕囚」表紙(出典

 

この著書の中で、(‟善行と犠牲”として理解された)ミサは、悪魔のでっち上げ、教会の第三捕囚として提示されています。*2

 

ルターの頭の中では、ミサの犠牲というのは、義認に関する中心的概念と密接につながっており、それゆえに、それは、(彼が反対しているところの)救済論に関するカトリック理解を如実に表す明白なる実例として用いられたのです。

 

この結びつきは、此のテーマを取り巻く16世紀当時の論争の要となる点を表しています。つまり、カトリック信者が、教会のいのちおよび神に対する至高なる讃美の極みと捉えていたものを、ルターおよび宗教改革全体は、逆に、至高に忌まわしきものと見ていたのです。*3

 

「ミサこそ、教皇制の要塞である」

 

ミサの犠牲的性質に対するこの攻撃は、「ミサこそ、教皇制の要塞である」というルターの信念により先鋭化されました。それゆえ、犠牲として認識されているミサというものが打倒されるならば、教皇制は崩壊するだろうとされました。

 

実在(real presence)に関し、プロテスタント内には各種意見がありますが、にも拘らず、一つの点において彼らは皆、一致していました。それは、「ミサは犠牲であり、カルバリーでの犠牲を現前させる」ということに対する拒絶でした。そしてこれが宗教改革の中心的焦点となりました。

 

その2】に続く。 

*1:"Babylonian Captivity of the Church," in Luther's Works, vol.36, Word and Sacrament II, trans. A T. Stemhauser (Philadephia: Muhlenberg Press, 1959), 35-36におけるルターの言説:「今日ほど、『ミサは善行であり犠牲である』という考えが広く一般に信じられ、浸透している時代はなかった。・・私は現在、困難な事柄を攻撃しており、この乱用はおそらく根絶が不可能ではないかと思う。なぜなら何世紀にも渡る習慣や常識により、それはがっちりと固定されていて、そのため、今流行している著書の大半を廃刊させる必要すらあるだろう。そして教会の外的形態のほぼ全部を変更し、全く異なる種類の諸儀式を導入(もしくは再導入)しなければなるまい。」また、ジャン・カルヴァンは Institutes, 4.18.1, p.934.で次のように言っています。「『ミサは罪の赦しを得るための犠牲であり奉納である』という信心により、サタンはほぼ全世界を盲目にしたのである。」

*2:"Babylonian Captivity of the Church," in Luther's Works, vol.36:35-57を参照のこと。ルターのこの立場はさらに、"The Misuse of the Mass" (1522), in Luther's Works, 36:133-230, 特に162-198の中で進展しています。

*3:Joseph Ratzinger, "Is the Eucharist a Sacrifice?" trans. Michael J. Miller, in Collected Works, vol.11 (Ignatius Press, San Francisco 2014), 207.

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ヨーゼフ・ラッツィンガーの言説:「ミサの犠牲的性質に関する問題は、今日のカトリックープロテスタント間の神学的対話の前面にはないかもしれませんが、にも拘らず、それは、宗教改革の世紀を通し、シスマに特異な性質および霊的、神学的深刻さを与えた決定的相違の一つです。ルターにとって、犠牲として理解されるミサ(つまりユーカリスト)は、偶像礼拝にして、忌むべきものでした。なぜなら、それは異教の犠牲儀式にキリスト教を落ち込ませるような退行に他ならなかったからです。

それとは対照的に、カトリックにとっては、それは、教会の中でキリストを通し、共に神に栄光を捧げるキリスト者の方法です。実際、ルターにとり、ミサを巡る論争は、義認論に関する基本的問題を表す一例に過ぎませんでした。彼はそれを『キリスト教信仰の真の性質の曲解であり、それゆえ、キリスト教の核心が破壊され、逆さまにされている』と考えていました。」