巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

剥がされた神秘ーーなぜカトリック女性のベール不着用により「パンドラの箱」が開かれてしまうのかについて

The Real Presence - It's why we veil

「キリストの実在ーー。それゆえに私たちはベールを被ります。」カトリック・サイトVeils by Lilyより

 

目次 

 

はじめに

 

自然災害としての土砂崩れに段階があるように、教会内での霊的土砂崩れにも漸進的段階があるように思います。

 

2013年に、私は旧ブログの中で「祈りのベールの証し」を書きました。この証しを読んでいただくとお分かりになると思いますが、冒頭で私は自分がカトリックではなく、聖書信仰のクリスチャンであるということをまずはっきり宣言しています。なぜでしょうか。それは当時私の中に二つの(立証されていない)前提があったからです。

 

①カトリックは人間的「伝統」により非聖書的な信条や実践を数多く教会に持ち込んでいる。

②カトリックのミサでは、当然、女性たちはベールを着用している。(←おそらくは①の理由により。)

 

そこで私は仲間である福音派・聖霊派の読者のみなさんを意識しつつ、「聖書信仰のクリスチャンである私が祈りのベールを実践するようになったのは、カトリックの(人間的)『伝統』の真似したからではなく、あくまでも『聖書のみ』の枠組みの中で真面目に検証を続けた結果、女性のベール着用が聖書的実践であるという結論に行き着いた」ということをアピールしたかったのです。

 

プロテスタント・パラダイムの中では、なにかが「聖書的である」という主張は、それが「真である」という主張と事実上、同形・同サイズであるがゆえに、決定的な価値と重みを持っています。

 

ですから何であれ、自分の信じている教義や実践の正当性をアピールする際には、真摯なプロテスタント信者は、それが「聖書的である」という個人声明(or グループ声明)を出さなければなりません。

 

そして個人(or グループ)が〇〇教理や〇〇実践を「聖書的である」と宣言する時、原則的に言ってそれがほんとうに真であるためには、そこに教導権(Magisterium)に匹敵する権威が付随していなければなりません。

 

「そんな事できっこない。」とおっしゃる方がいるかもしれません。しかし、「聖書のみ (Sola Scriptura)」の原則に本気で忠実でありたいのならば、プロテスタント信者はこの部分における‟緩み”に対し警戒心を怠らず、闘わなければなりません。

 

最近では、そうやって必死に闘う人々を冷ややかに見、パロディー化する同胞プロテスタントも増えてきました。

 

こうして「聖書的であること」をシニカルに見る個人や団体は、ーー啓蒙化された福音主義者を暗に自認し、周囲にいる ‟原理主義者たち” を軽蔑しつつーー自らもまた、①多元主義、②相対主義、③主観主義の坂を傾斜し(R.アラカキ師*、彼らの軽蔑するところの ‟原理主義者たち” にひけを取らないほどの認識論的クライシスに陥っているのが現状ではないかと思います。

 

シンボル観

 

前置きが長くなりましたが、とにかく「祈りのベール」の教理を詳細研究し、また実践していく中で、次第に聖書的シンボルに対する私のプロテスタント見解に変化が生じてくるようになりました。

 

例えば、大学生の頃、私は内村鑑三の著作を読み、彼や無教会集会の人々がなぜ水のバプテスマを拒絶しているのか、その根拠を調べました。ある箇所で内村は、「カトリックには7つのサクラメントがある。宗教改革はそれを2つにした。しかしそれはさらに徹底化されなければならない。」という旨を述べていました。

 

これを読んだ時、私は「もしかしたら無教会のバプテスマ観は正しいのかもしれない。水という物質自体は大切ではなく、それは象徴に過ぎない。大切なのはそこに込められている意味であり、それを信仰によって心から受け入れるなら、内村の主張するようにそれが真正なる霊的バプテスマになるのではないか?」と思いました。そして実際に、内村鑑三記念今井館に足を運び、そこに集う人々と交わり、いろいろな質問をしました。

 

祈りのベールを実践し始め、自分の内に起された変化

 

しかしながら、頭を一枚の布という物質(material)で覆うというベールの実践を始めてから、私の内面に驚くべき変化が起されていったのです。

 

その変化はまず神礼拝に対する基本姿勢、および自分の父親や夫に対する姿勢の中に具体的に現れてきました***。私はかつてCCM賛美リーダーをしていましたが、ベールを実践し始めて以来、ロック音楽との決定的訣別がなされました。ロックの根本精神である「反抗、露出」とベールの根本精神である「従順、貞淑」の共存不可能性を悟ったからです**

 

対等主義から相補主義への移行

 

さらにこの時期、フェミニズム問題に関しても私は対等主義(egalitarianism)を徐々に脱却し、相補主義(complementarianism)に漸進的移行をしていくようになりました*

 

またフェミニスト文献を読んでいく中で、なぜフェミニストたちが全力を挙げて聖書のかしら性(headship)を再解釈しそれを従来とは違った意味に置き換えようとしているのか*、なぜ彼女たちが女性のベールを「抑圧の象徴」として忌み嫌っているのか、その背景的理由がだんだんクリアーになっていきました。

 

(フェミニストたちはーー女性が頭を覆うという行為が単なる象徴ではなく、それ以上のなにかであるーーということを意識的にせよ無意識的にせよ察知しているのです。)

 

また研究を進めていく中で私はフェミニズムが元々マルクス主義的母胎から生み出されたイデオロギーであることを知りました。そして、カトリックの社会学者であるガブリエラ・クビー女史が指摘しているように*、フェミニズムによって現在引き起こされているグローバル「性革命」が今後ある種の全体主義を生み出していくという予測にも納得がいくようになりました。

 

(「右翼、左翼というカテゴリーに惑わされてはならない。ファシズムの形態はその両方にまたがっている」というG・エドワード・ヴェイス教授の指摘*、そして20世紀のソビエト連邦史等もそのことを物語っているように思います。)

 

バプテスマやユーカリストにおける「シンボル」に注目し始める

 

聖書の中に記されているベールという「シンボル」がこれほどまでに一女性の内面や信仰、そして世界観に抜本的変化をもたらし得るという発見により、私の地平は拡がりました。

 

改革派神学を基盤に祈りのベールを弁証するサイトであるHead Covering Movementの翻訳者として、さまざまな教団教派のシンボル観に触れる機会が与えられ、そこから私はーー聖餐における「パンとぶどう酒」やバプテスマにおける「水」という物質が、果して、ベールというシンボルと同じように、なんらかの形で実際に変化を起こさせるなにかであるのかという点に注目し始めました。

 

そして調べていく中で、洗礼による再生(baptismal regeneration)が初代教会においての統一見解であったこと*、また一方的な神の恩寵により、パンと葡萄酒の実体変化に関する尊い経験が与えられました*

 

さらに、そこからオリヴィエ・クレマン*や、アレキサンデル・シュメーマン*等の東方正教会の著述家たちの典礼学やユーカリスト文献に導かれ、「ベール」や「水」や「パン、葡萄酒」といったシンボルがいかに典礼の中で全体論的に意味をなし、そこに神と人との神秘的結合及びコミュニオンが生じているのかに気づかされました。そして、その発見について私は次のように記しました。

 

 「・・それまで、教会論、聖餐論、神論、人間論、聖霊論、礼拝論等と折り目正しくカテゴライズされ自分の頭の中に収められていた諸理論が、突如として生けるもののようになり、互いに有機的に、そして造形美術的につながり、結合していきました。

 実に、ユーカリストという中心からキリスト者の壮大なる宇宙論が生み出され、それはえもいわれぬ美しさをもって組織神学の全頁を一つのタペストリー、一つの完成された聖画(icon)としてこの世に開示しているのだということを知り圧倒されました。

 それは実際、ほんとうに美しいなにかであり、聖餐は神的なものーー人となられたロゴスであるイエス・キリストがーー被造物とコイノニアするという神秘の極みだと思います。」(引用元

 

こういった旅路を通ってきたゆえに、私はカトリックの典礼の中でベールが使用されなくなった場合の霊的災害の大きさに人一倍敏感なのだろうと思います。なぜなら、ベール不着用という行為により、内的/外的コスモス(κόσμος;宇宙、秩序ある世界)の逆転、Uターン、退行現象が不可避的に生じてくるということを私は体験的に知っているからです。

 

それはまず可視的な形で古代教会のシンボル観という美しいタペストリーに穴を開けます。またカトリックや正教は教会を可視的御体と認識し、ユーカリストの中で文字通り、御聖体を拝領することを告白しています。ならば、尚更のこと、物質的シンボルである「ベール」を文字通りではなく文化的/象徴的にとり、それを実践しないというのは、カトリックの根本精神に矛盾していないでしょうか。

 

それとも「ベール」というシンボルだけは、(現在、プロテスタントの大部分の方々がそうしているように)文化的解釈を施しても構わないのでしょうか。

 

神秘(mystery)

 

第二バチカン公会議までは、全てのカトリック女性はミサ時にベールを着用するよう義務づけられていたと聞いています。初代教会以来、1900年以上大切に保持されてきたこの尊い実践を、なぜ、いかなる理由で私たちは止めてしまうのでしょうか。

 

「教会と白いベール」と聞けば、仏教徒でも無神論者でも、跪き祈っているカトリックの修道女や信徒の女性たちを思い浮かべると思います。純潔なカトリック女性とベールは切っても切れない関係にあると思います。(ベールをしていないマリア様やリジューのテレーズを想像できるでしょうか。)そしてこの世の人々は、そういうベールの女性たちを神の聖堂の中に見たいと願っていると思います。

 

絶壁の中に住んでいる正教会の隠遁士が、「第二バチカン公会議以降のカトリック教会からは神秘(mystery)が消えつつある」と警告のメッセージを発しておられました*

 

本来、神の前で慎ましく覆われるべきものが露出される時、神秘は神秘であることができなくなります。そして典礼から神秘の要素が剥ぎ取られていくに比例して、ミサは、(多くの忠実なカトリック教徒の方々が警告しておられるように)もはや本来のミサであることを止め、それは、霊的土砂崩れを起こしつつ、この世と歩調を合わせた ‟ロック化”の崖を崩落していくのだろうと思います。

 

ー終わりー