巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

教会というのは民主制(democracy)なのだろうか?(by ブライアン・クロス、マウント・マースィー大学)

 

目次

 

Bryan Cross, Is the Church a Democracy?, 2008(拙訳)

 

執筆者について

 

bryan

ブライアン・クロス(Bryan Cross)。敬虔なペンテコステ派の家庭に生まれる。医療宣教師を目ざし、医学部に進学するも、信仰と科学との両立問題で葛藤を覚え、医学の道を断念。大学卒業後、改革派(長老派)の信者になる。カベナント神学校卒業(M.Div.)。2003年、聖公会に移る。さらに2006年10月、妻と二人の娘と共にカトリック教会とのフル・コミュニオンに入る。セント・ルイス大学にて哲学博士号。現在、マウント・マースィー大学哲学科助教授。(testimony

 

「もしも教皇が~~するなら。。」

 

プロテスタントの友人たちとの会話の中でしばし耳にするのは、「もしも教皇が x や y や z を施行するなら、その際には私はカトリック教会に帰還する」という言明です。

 

ここで言う x や y や z というのは、(教理の面であれ、サクラメントや典礼の面であれ、教会政治の面であれ)ある意味においてカトリック教会を ‟プロテスタント化” するような諸行為のことを指しています。


(同様の考え方を、タッチストーン誌掲載の"Plausible Ecumenicism"という記事に見ることができます。また、クレッグ・ヒジンのコメントに対する私の返答もご参照ください。)

 

カトリック、プロテスタント、それぞれがかけている「眼鏡」

 

先週、私はあるプロテスタントの友人と話をしていたのですが、彼は言いました。「真のエキュメニズムというのはね、みんなが妥協しなきゃならないってことさ。」

こういった言明は、プロテスタントの「カトリック教会観」を如実に表しています。つまり、プロテスタントの ‟眼鏡” をかけカトリック教会を見ているということです。

 

もちろん、私は、(カトリック教会を概観するに当たり)プロテスタントの友人たちがカトリックの‟眼鏡”をかけるようには期待してはいません。ただ一つ言えることは、私たちの間の対話が実り多きものになるためには、最低限、全ての参加者が出来る限りにおいて自らのかけている‟眼鏡”の存在を自覚することーーこれが必要ではないかと思います。

 

プロテスタント・パラダイムとは何か?


ある意味において、プロテスタントは、共有されたプロテスタント・パラダイム*1というものの存在に自ら気づいています。私がペンテコステ主義から長老派主義に転向した時、周囲にいた人々は誰一人私に何も言ってきませんでした。またその後、今度は長老派主義から聖公会主義に転向しましたが、その際にも、誰も何も言ってきませんでした。

 

しかしひとたび私が「自分はカトリックになりつつある」ということを公にするや、突如として、再考を促すレターや電話が殺到しました。(カトリック教会に入る予定の日の朝でさえ、それを考え直すよう懇願する電話が来たほどです。)なぜでしょうか?

そうです、こういった善意の人々(心から私のことを愛してくれている自分にとって大切な人々)は、私が今まさに「プロテスタント・パラダイム」を去ろうとしていることを察知していたのです。

 

以前に「二つのパラダイム("Two Paradigms")」という記事の中で触れましたが、本稿ではそれをもう少し掘り下げて考察してみたいと思います。

 

魚というのは、乾燥状態を経験しない限り、自分が濡れた状態にあるということが分かりません。それと同様、人は、ーー自分がいつも中にいるところのーーパラダイムから(ある程度)外に出てみない限り、自分のパラダイムを把握することは非常に困難です。


プロテスタント・パラダイムから一歩外に出てみて初めて、私はそれをより明瞭に見ることができるようになりました。実にそれは、私のペンテコステ主義時代を通し、長老主義時代を通し、アングリカン主義時代を通し、常に私と共に在ったのです。

このプロセスを通し、私に常に付随していたのは、教会的権威との関連における教会および自分自身に関するある種の考え方でした。このパラダイムの中において私は、自分にとって最も聖書に忠実であるように思え、また最も自分の霊的ニーズを満たしてくれるように思える教派を選び取っていました。*2


このパラダイムによれば、もしも自分の属している信仰共同体や教団教派がもはや聖書に忠実でなくなったか、あるいは、もはや自分の霊的ニーズを満たさなくなったように思われた場合、私はどこか別の場所に行くことができるし、そうすべきなのです。

改革派のカベナント神学校に在籍していた時、私たちは、『ウェストミンスター信仰告白』の中でどの部分が(自分の受け入れられない)‟例外条項”であるのか、各自一覧表を作成しました。

 

すると、隣りにいた神学校の級友が私の一覧表をのぞき込むと、驚いて言ったのです。「おいおい、君にはそんなにたくさん‟例外条項”があるのか?それなら、なぜ、そもそも君は僕たち〔の教派〕の一員になりたいのか?」

 

ここに在る明らかな背景的前提は何かというと、「ある人が〇〇教派に参入するのは、その人が大部分においてその教派の教理に同意しているからだ」ということです。言葉にこそしなかったものの、そこには「君は、僕らの教派の権威ゆえに、僕らの教派に同意し、従うべきである。」という暗黙の前提がありました。

 

米国の長老派教会のおける最近のFederal Vision論争(FV論争)から、私たちはまさにそれと同様の考え方を見て取ることができます。というのも、FVの支持者たちは、自らのFV的考え方により友好的な教派の元に避難するか、探し出すかを余儀なくされているからです。

 

J・I・パッカーは最近、カナダ聖公会(Anglican Church of Canada)を離脱し、南米聖公会司祭(South American Anglican bishop)と提携する決断をしました。

 

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カナダ聖公会指導層内の同性婚是認およびリベラル化問題により、教団離脱を決意をしたJ・I・パッカー(Theologian Packer quits Anglican Church of Canada | Christian News on Christian Today

 

これもまた同様の考え方を露呈しています。つまり、自分自身の聖書解釈に適合する内容を教えている人々の下に自らの身を置くということです。(参:2テモテ4:3)。

 

それに対し、「しかし君たちカトリックだって同じ事をしているじゃないか」と返答するプロテスタントは、その回答により、自らが視点的に(perspectivally)未だにプロテスタント・パラダイムに制限されていることを露呈しています。*3

「質料」ではなく「形式」によって定義されたものとしての教会観

 

このパラダイムに堆積しているのは、質料ではなく形式によって定義されたものとしての教会観です。このパラダイムによれば、教会というのは数多くの分枝('branches')を持つ不可視的からだ*4であり、それは多かれ少なかれ聖書に忠実ではありながらも、その本質はある種の"mere Christianity(根幹的キリスト教)"です。

 

教会の本質をある種の"mere Christianity"として捉えることが、このパラダイムが教会を「形式」によって定義するやり方です。それによると、どの「分枝」も "the Church"ではなく、また ‟キリストがお建てになった機構” でもありません。このパラダイムによれば、既存するいかなる教会的機構もキリストによって建てられたものではありません。

 

それゆえ、この中においては、教会のどの「分枝」にも究極的教会権威は有りません。そのため、エキュメニカル対話の場ではそれぞれの「分枝」に均等なる発言力があるとされています。(しかし実際には、より多数のメンバーを擁している教派に、より強大な発言力があるというのが実情です。そしておおざっぱに言ってこれが、世界教会協議会〔World Council of Churches; WCC〕の内に見い出されるエキュメニカル枠組みです。)

 

そしてこのパラダイムにおいて、キリスト者のなすべき教会的タスクはその人の人生の現時期において自分に最もマッチしている分枝を選ぶことです。それゆえに、いわゆる「教会ショッピング」現象が生じてくるわけです。ある人が、ある分枝の中で戒規処分を受けたり、‟破門”されたとしても、その人は別の分枝に移動するか、もしくは自分で新しく独自の分枝を始めることができます。

 

カトリックの教会観

 

他方、カトリックの教会観でいくと、教会というのは、キリストによって使徒たちの上に建てられた可視的御体です。そして教会にとって不可欠なものは、按手により使徒たちからサクラメント的継承を通し受け継がれてきたキリストの権威です

 

使徒継承に関するこういったサクラメント的理解が、カトリックの教会観をただ単に形式なるもの("formal")とはせしめていないのです。なぜなら、手を置くこと(按手)は本質的に質料("matter")を包含しているからです。形式(つまり教理)と質料(つまり、使徒たちからのサクラメント的継承)は、教会にとり、統合され、相互に不可欠なものとして保持されています


それ故に、カトリック教会は、東方正教諸教会を実際の〔特定〕諸教会(Churches)と認証している一方、プロテスタント諸教会に関してはそれらを「教会的コミュニティー("ecclesial communities")」と見なしているのです。

 

なぜならプロテスタントには使徒継承が欠如しているからです。詳しくは昨年の7月に発行されたResponsa ad quaestionesを参照してください。(それに対する世界教会協議会〔WCC〕からの応答はココです。)

 

これまで二つのパラダイムの相違を述べてきましたが、この説明によって、なぜカトリック教会がWCCのメンバーでないのか、その理由がより明確になったのではないかと思います。

カトリックのパラダイムにおいては、仮にある人が破門された場合、その人にはもうどこにも行き場がなくなります(参 ヨハネ6:68)。というのも、その人は「教会("the Church")」から破門されているからです。

 

またこの枠組みの中では、教会がある教義を確立し、ある人がそれを拒絶した場合、その人は事実上、異端者ということになります。(この点に関するトマス・アクィナスの言明はココです。)

 

たといそれを理解できないでいるとしても、教会の権威を基盤に、信仰によってその教義を受け入れている人は、「理解を求める信仰(fides quaerens intellectum)」という句で表されている超自然的信仰の徳を体現しています。

 

信仰には、「使徒たちの後継者の権威を基盤に信じる行為」が内包されています。なぜなら、それが、使徒たちの聞き手が福音を信じた方法であるからです(つまり、使徒の権威)

 

(「自分に関する限り、ーーカトリック教会の権威によって動かされたものとして以外の福音を私は信ずべきではない。」-聖アウグスティヌス)

 

一方、プロテスタントの教会パラダイムの「個人主義」および「対等主義」は、信仰を、聖書の神的霊感および権威に対する信心へと制限せしめており、そのため、信仰を解釈的行為それ自体から排除してしまっています。

 



上の図表をみていただくと、カトリック教会の内部に22の諸教会(22 Churches)が存在していることがお分かりいただけると思います。ラテン教会には4つもの典礼が有ります。

 

ですからこの意味において、カトリックの視点で言うと、カトリック教会の《内部》には、多様性があり、分枝があります。しかしこれらは全て一つの機関内に存在しており、いずれもローマの司教とフル・コミュニオンの関係にあります。

 

個人主義およびアンチ・ヒエラルキー的対等主義

 

ここで論じたように、質料ではなく形式によって定義されたものとしての教会観念は、その不可避的含意として個人主義およびアンチ・ヒエラルキー的対等主義(anti-hierarchical egalitarianism)を有しています。そして個人主義および対等主義に適合する唯一の政治形態は民主主義です。

 

「もしも教皇が x や y や z を施行するなら、私はカトリック教会に帰還する」というような言明は、本質的にアンチ・カトリック的です。なぜなら、それらは本質的に‟形式”によって特定できるものとしての教会観を持つパラダイムに根付いた民主主義的及び対等主義的な神学諸前提を伴っているからです。

 

そして同様のことが「真のエキュメニズムというのは、皆が妥協しなければならないということである」といった言明にも当てはまります。教会に関する民主主義的概念は、個人的自律です。ここにおいて統治権威は被統治者から引き出されているために、それは被統治者によって(もしくは究極的に被統治者の要望に従属する形によって)取り除かれ得ます。

 

しかし教皇が全てのクリスチャンの特定の諸要望や諸立場に自らを適合させなければならず、合意点や共通のコンセンサスにより、一致を達成しなければならないと想像してみてください。そうなると、教理は一つだに残存しなくなり*5、一致というものも残存しなくなります。そして一致が不在のところには、存在もありません。つまり、教会はもはや存在しなくなるということです。*6

 

こういった民主主義的パラダイムを土台にしたエキュメニズムについて、次のように述べることができます。

 

「分裂している分派間の最低ラインでの共通分母を探すことによって一致を見い出そうとする種類のエキュメニズムは、最初から失敗に終わる運命にあります。それはダニエル2章にあるように、鉄と粘土でできた足の指による脆弱な一致の如くあります。こういったものが目指している平和とは、この世的平和です。」*7

カトリックの教会観は民主主義的ではなく、これまでも決してそうではありませんでした。ダビデがどのようにサウルを取り扱ったかを見ますと、私たちはそこに非常に異なる考え方を見い出します。そしてこの考え方は、(統治者の性格や諸信条に関し)統治者の権威が被統治者の意見に依拠することを許していません。

 

イエスはマタイ23:2-3においても同様のことを示しています。イエスは人々に言いました。パリサイ人は「モーセの座」に座っているので、「彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。」

 

イエスはここで、パリサイ人の偽善が彼らの権威自体を無効にしているわけではないということを含意しています。(そしてこれがモンタヌス主義、ノヴァティアヌス主義、ドナティスト主義を、カトリック教会から引き離すシスマ〔教会分裂〕とせしめたのです。)*8

 

ボトム・アップではなく、トップ・ダウンーー権威の所在

 

なぜなら、カトリック・パラダイムにおいては、教会指導者の教会的権威はその起源を信徒たちによる指導者選択の内に持っていないからです。カトリックの概念の中では(この記事の中で指摘したように)、権威というのはボトムアップではなく、むしろトップダウンなのです。

 

もちろん、そうだからといって、信徒の方々には教会の諸決定や諸行為に貢献する役割や責任が何もないということではありません。ですが、階層的権威の中心は常にーーキリストから、使徒たちへ、使徒たちを通して彼らの任命した司教たちへ、そして彼らの任命した司教たちへ、、、、ーーという風にトップダウン式に来ていると信じられてきました。権威の中心はボトムアップ(つまり、信徒から聖職者へ)としては決して捉えられてきませんでした。

「もしも教皇が x や y や z を施行するなら、その際には私はカトリック教会に帰還する」というような言明のアイロニーは何かと言いますと、そういう風な考え方をしている人は、ーーたとい教皇が x や y やz を施行したとしてもーー、教会権威に関する観念において彼は依然としてプロテスタントであり続けるということです。なぜならそういった人は、「(自分の方ではなく)教会こそが自分に適合すべきである」と考えているからです。

 

私たちがカトリックになるのは、自分たちが‟こうあるべきだ”と考えているところのものに教会を適合させるためではありません。そうではなく、教会を通しキリストが私たちをーー彼が私たちをご自身の望む形に造り変える御業がなされるべくーー、私たちはカトリックになるのです。

 

キリストに従うことは御自身の教会に従うことです。同様に、「真のエキュメニズムというのは、みなが妥協しなければならないということである」といった考えには、現行のどの機構も(全てのキリスト者が自らを適合させるべき)キリストがお建てになったものではないという暗黙の前提が伴っています。

 

そしてこの言明に潜在しているのは、〔話し手である〕自分こそ、何が ‟真のエキュメニズム” であるのかに関する権威的裁定を所有しているという前提です。ですから権威の所在に関する問題は私たちがどうしても避けることのできない問題です*9。人は権威を見い出し、それに従うか、もしくは、それを不当に自分自身に帰するか、そのどちらかです。

 

よくバンパー・スティッカーに「平和を望んでいるのなら、正義のために尽力せよ」と書いてあるのを目にします。教会の文脈でいうと、次のようになるかもしれません。「エキュメニカルな一致を望んでいるのなら、真正なるサクラメント的権威を探し求めよ。」

聖霊降臨祭を前に、どうか御霊が私たちを真に一つになさしめるべく、私たちの内に働いてくださいますように。

In nomine Patris, et Filii, et Spiritus Sancti. アーメン。

 

ー終わりー

*1:訳注:

*2:"Ecclesial Consumerism vs. Ecclesial Unity".

*3:"The Alternative to painting a magisterial target around our interpretive arrow"

*4:訳注:

*5:ココを参照

*6:ココを参照

*7:ココを参照。

*8:詳しくはこの論考のp.4-.を参照のこと。

*9:訳注:関連記事