巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

カトリックに「帰正」されかかっている一プロテスタント信者の視点からみた第二バチカン公会議以前/以後の《エキュメニズム》

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ウサギの穴に落っこち、どんどん落下していくアリス(『不思議の国のアリス』)出典

 

 

上記の記事を書いてから、「帰正のエキュメニズム」と「第二バチカン公会議の新エキュメニズム」、および教皇庁と聖ピオ十世会の間の確執と和解に向けた50年史を読み、静かに熟考しています。

 

前にこの記事の中で告白しましたように、カトリックおよび東方正教会の弁証家たちのプロテスタント教理論駁の内容に真剣に耳を傾け、検証を続けた結果、今年の9月、私はプロテスタントとして自分が20年近く堅持し信じ続けてきた新教土台教理(「聖書のみ」及び「信仰のみ」)が神学的にも歴史的にも哲学的にも真であると立証され得ない非聖書的な教理であるという悲痛なる結論に至りました。

 

つまり、(元カルヴァン主義長老教会牧師でありカトリックに劇的改宗をしたジェイソン・スティールマン師の言葉**を借りるなら)自分の支えであったプロテスタント・パラダイムが崩壊し、真っ逆さまにきりもみ降下していく絶体絶命のピンチに陥ったのです。

 

それで、今、私は不思議の国のアリスのように、穴の中をどんどん落ちていきながら、それと同時進行で、これまでの事や、落下後の事などを目まぐるしく考えているのです。

 

私は硬派(=忠実派)のプロテスタントでしたので、逆向きの「帰正」概念を持っていました。つまり、カトリック信者の大半は真の福音を理解していない。新生していない。だから、カトリックこそプロテスタントに「帰正」すべきだという信念を持っていたということです。

 

Aが真なら非Aは真ではない。そしてプロテスタントの「聖書のみ」「信仰のみ」の教理が真なら、それを受諾していないカトリックはまことの教会ではあり得ないーー。その意味で、私は、「あなたはOK。私もOK。みんなOK。」というような宗教多元主義的/相対主義的なスタンスに初めから反対していました。

 

しかし、ひとたび、プロテスタンティズムの土台教理が真でないとなると、話は180°変わってきます。つまり、「帰正」のベクトルが今度はプロテスタントである自分の方に向けられ、私の方こそ逆にカトリックに「帰正」しなければならないという大どんでん返しが起ってくるわけです。

 

ですから、そういった動乱期にある人の視点からみると、たしかに「第二バチカン公会議の新エキュメニズム」を受容している神父たちの一部における「あなたはそのままでOK。私もそのままでOK。みんなそのままでOK。」的な発言*に対し、なぜ聖ピオ十世会(SSPX)や、教皇空位主義者(Sedevacantism)等伝統的カトリック信仰を持つ方々が警告のメッセージを発信しているのか、それはものすごくよく分かりますし、心情的にはフルに共感しています。*1

 

しかしその一方、自分のような硬派(=忠実派)プロテスタントが、カトリック側の見解に真剣に耳を傾けるようになった経緯を注意深く振り返ってみますと、そこには、第二バチカン公会議で打ち出されているNew Evangelizationの宣教スピリットや方法論 *2が、ある意味、肯定的に働いているのを自分自身の経験から証言できるように思います。

 

例えば、ロバート・バロン神父は、カトリック教会の中ではややリベラル寄りの弁証家ではないかと思います。バロン神父の救済論の幾つかや、"Amoris Laetitia"擁護*などを聞きますと、「うーん、ちょっと大丈夫かな?」と不安を禁じ得ない時も多いのですが、そういう不安要素があったとしても、それでも、彼のmercifulなプロテスタント批評***は、自分も含め、数多くの硬派プロテスタントの心を溶かし、「カトリック側の意見にも耳を傾けてみたい」というポジティブな反応を人々の心に引き起こしている(<引き起こす最初のきっかけになっている)事実は動かせないと思います。

 

また、伝統的カトリック信仰を持ちつつ、且つ、第二バチカン公会議文書も妥当なものとして受諾しているカトリック弁証家たち(例:Catholic Answersのジミー・アキン師、Called to Communionの神学者たち)の言明を聞いていますと、「帰正のエキュメニズム」と「第二バチカン公会議の新エキュメニズム」はくっきりはっきりした排他・対立関係にあるというよりはむしろ、(後者の最も健全な形態において)後者は前者を補強/補佐(fortify, enrich, reinforce, complement)しているのではないかと思わされます。

 

多元主義/相対主義/懐疑主義の中で育ってきたミレニアム世代には、もはやかつてのような〇✖式の世界観や攘夷派的レトリックはどんなに頑張ってもやはりもう通用しないのではないかと思います。

 

元来超保守派である私がこのことを申し上げるのは、「〇✖式の世界観や攘夷派的レトリック」や伝統的価値観を相対化したいからではなく、むしろ、福音が普遍的真理であるがゆえに、それはあらゆる時代の時代精神を鋭敏に読み取り、その中でもがき苦しみ道を求めている人々のリアルな言葉を用い、彼らの言葉で真理を語るダイナミズム及び柔軟性を持っているに違いないと考えているからです。

 

そして(リスクを伴いつつも)もしかしたら、こういった「新エキュメニズム」をも用い、神は、最終的に魂を、オーソドックスな意味における「カトリック帰正」に導かれるのはないかーー。そんな風に思っています。読んでくださってありがとうございました。

 

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*1:しかしながら、2017年7月にバーク枢機卿は、SSPXはシスマの状態にある("The Priestly Society of St. Pius X is in schism")と公に批判しました。いろいろと複雑に込み入っているようです。御心がなりますように。

(以下、引用)In newly released audio, Cdl. Raymond Burke, former head of the Apostolic Signatura, made the remarks at the Sacred Liturgy conference in Medford, Oregon in July. In answer to a question about attending liturgies offered by the priestly group, Burke said:

[T]he fact of the matter is that the Priestly Society of St. Pius X is in schism since the late Abp. Marcel Lefebvre ordained four bishops without the mandate of the Roman Pontiff. And so it is not legitimate to attend Mass or to receive the sacraments in a church that's under the direction of the Priestly Society of St. Pius X.

*2:Lumen gentiumAd gentesGaudium et spes, Dignitatis humanae.