【前篇】はココです。
目次
Roy Schoeman, ed., Honey From the Rock: Sixteen Jews Find the Sweetness of Christ, Ignatius, 2007, p. 122-127,
ヒルデブラント夫妻との出会い
1958年の感謝祭休暇の時、いつもは決してテレビを付けることのない母が非常に珍しくテレビをつけました。すると「カトリック・アワー」という番組が出てきました。
番組のゲストはディードリッヒ&アリス・フォン・ヒルデブラント(当時は婚約者)であり、彼らは真理と愛について語っていました。*1
ディートリッヒ・フォン・ヒルデブラント(Dietrich von Hildebrand、1889- 1977)はドイツのカトリック哲学者。ローマ教皇ピウス12世をして「20世紀最大の教会博士」と言わしめたことでも有名。また、同じく教皇のヨハネ・パウロ2世やベネディクト16世もヒルデブラントを高く評価している。
無意識の内に私は便せんを取り出し、彼らに手紙を書き始めました。そして自分はこれまで真理を探究してきたけれども、それを見い出すことができなかった旨を書き綴りました。
そうすると実は彼らはそれぞれ私と同じNYのウェスト・サイド地区に住んでいることが分かったのです。アリスは私をアパートに招待してくれました。ベルギー出身の彼女は部屋に入ってきた私をまっすぐ見つめ、私は瞬く間に彼女の心の中に引き込まれました。
そして彼女の提案により、私はディードリッヒ・フォン・ヒルデブラント及び彼の弟子であるボールドゥイン・シュワルツが教鞭をとっているフォーダム大学で講義を受けてみることにしました。
フォーダムの大学院にて
フォーダム大学(出典)
コースをいくつか受講してみて一番印象深かったのが、教授たちの諸思想というよりはむしろ、彼らカトリック哲学者たちの持つ人格的バイタリティーおよび内なる喜びでした。(彼らの思想自体はその当時よく理解できませんでした。)
当時、大半の一般大学を特徴づけていた懐疑主義、相対主義、歴史主義の圧倒的影響により、教授群の多くは悲壮かつ乾いた雰囲気を漂わせていました。
カトリック哲学者たちの内側からにじみ出ているこの喜び、そして新来者に対する温かいフレンドリーな態度に惹きつけられ、私は在籍していたジョンズ・ホプキンズ大からフォーダム大の大学院に転学しました。
尚、ボールドゥイン・シュワルツ教授の妻が、私と同じ無神論的ユダヤ人という背景を持ち、そこからキリスト信仰へ導かれていたということも、自分の人生の新しい局面への移行をより容易なものにする一要素となっていたと思います。
フォーダムに移って数か月経ち、私は、哲学科の頭脳明晰なカトリックの院生たちや、これまた図抜けて頭脳明晰なイエズス会士たちが、神の存在やキリストの神性、客観的真理のリアリティー、倫理的絶対性、教会出席の必要性というような考えをまともに信じている事実に驚愕せざるを得ませんでした。
ということは、こういったものの考え方をしているのは愚鈍で脆弱な人たちだけじゃないということなのかーー。それだけでなく、彼らは、わずか数行で、普遍的倫理諸真理が存在することや、理性がそれらを認識し得るということなどを立証することができていたのです。*2
あの時、位格としての三位一体神である絶対的真理なる御方への最終的改宗への障害物を取り除いてくださったのは、聖霊様、あなただったのでしょうか。あなたが私の名前を呼んでくださっていたのでしょうか。
ヨーロッパでの夏季講習
夏がやって来ました。フォーダム大の哲学科は毎年、ヨーロッパで夏期講習をしていました。ああ、私もこのすばらしい仲間たちと一緒にヨーロッパで過ごせたら、、、しかし私には金銭的余裕がありませんでした。
その時点ですでに私は、面白くはあってもシニカルな男性たちとの罪深い関係に苦味を覚えるようになっていました。すると、本当に予期せぬことに、シュワルツ教授から連絡があり、奨学金(寄付金)により私もツアーに参加できることになったとのことでした。
次に続く幾つかの出来事の奇跡的性格を理解していただくために申し上げたいのは、私は現代アート以外のすべての美術を毛嫌いしていたということです。子どもの頃に、無理矢理、美術館巡りをさせられていた反動でこうなってしまったのかもしれません。色彩鮮やかな印象派の絵画は好きでしたが、19世紀以前のものは一切ダメで、古臭いカトリック美術などは論外でした。
またその時点で、真理の存在こそ信じ始めるようになっていましたが、神やキリストに関する知識、教会などについてはほぼ無知の状態にあり、それ以上学びたいとも思っていませんでした。とどのつまり、私がツアーに参加したかった唯一の理由は、新しくできたすばらしい友人たちと時間を過ごしたいというただその一点だけでした。
奇跡
最初の奇跡は、フランスのシャルトル大聖堂を見た時に起こりました。この大聖堂の驚くべき形状および美しいステンドグラスを見た私は、その場で泣き出しました。
キーツの詩行「美は真理であり、真理は美である」が頭をよぎり、私は自問しました。「これほど美しいものが存在し、且つその中に真理が不在ということがあり得るのだろうか?これを単なる中世の無知蒙昧と片付けることができるのだろうか。」*3
あの時、私の名前を呼んでくださったのは、美である神、あなたではなかったのでしょうか。
ツアーの参加者たちは皆、日々のミサに参列していました。好奇心から私も彼らの後についてミサを見学することにしました。見ると、自分の尊敬する博学なる哲学教授が跪いていました。
その姿に私は驚愕し、またそれは自分の内に激しい嫌悪感を催させました。私は彼を荒々しく立たせ、誰一人として人は跪くべきではないと言ってやりたい衝動に駆られました。「あなたが自分の魂の指揮官であり、あなたが自分の運命の支配者である。」
私が一度も新約聖書を読んだことがないことを知ったシュワルツ教授は、南部フランスの書店をいくつも巡り、ついに一冊の英訳聖書を見つけ、私に手渡しました。
二番目の奇跡。ツアー・バスの中で、私はよく分からないながらも福音書をぼちぼち読んでいたのですが、いつの間にか眠りに落ちていました。
夢を見ました。いくつかのテーブルのある大きな部屋がありました。そしてそこにイエスとマリアがいて、壁の方を向き腰を下ろしていました。マリアが手招きし、ヘブライ語で私に語りかけました。「こちらに来て私たちと一緒にお座りなさい。」(私はヘブライ語を解しませんが、夢の中では解していました。)
あの時、私の名前を呼んでくださったのは、シオンの祝福された女性、あなたではなかったのでしょうか。
三番目の奇跡。何かに押し出されるような形で私はホテルの床に跪き、(以前に教授が冗談半分に言っていた)懐疑論者の祈りを唱えたのです。「神よ、もしもあなたが存在するなら、私の魂を救い給え。ーーもしも私の魂が存在するのなら。」
四番目の奇跡。キャンドル灯の行進の中で巡礼者たちが数多くの言語で歌っていた "Immaculate Mary” の讃歌*に私の心は芯奥まで震撼させられました。
キャンドル行進(出典)
あの時、私の名前を呼んでくださったのは、愛しき無原罪の御母、あなたではなかったのでしょうか。
五つ目の奇跡。ここでも再び、自分が大嫌いだと思っていた美術を用いて、神は私に触れてくださいました。フローレンスにある美術館で私はダ・ヴィンチの未完の作品Nativityを観賞しました。
聖母マリアを見ました。シンプルで、ピュアで、甘美なる彼女を。私は声を上げて泣きました。彼女の内には私にはない何かがありました。--そう純潔です!そしてその瞬間初めて、私は自分が罪びとであることを知りました。
居ても立っても居られずこの事実を自分のメンターたちに告げなければならないと思いました。きっと彼らは私を追放するでしょう。しかしそうではありませんでした。イエスは罪びとを救うために来てくださったのです。
あの時、私の名前を呼んでくださったのは、聖母マリア、あなたではなかったのでしょうか。
六番目の奇跡。ラファエルのタペストリーに描かれていたキリストの御顔が生きたものとして私の前に顕現したのです。それは他の人々のためではなく、まさしく私のために為された業でした。
あの時、私の名前を呼んでくださったのは、わがイエス、あなたではなかったのでしょうか。
七番目の奇跡。ツアーの日程表には、「サン・ピエトロ大聖堂で教皇ピウス12世を見る」というものが組み込まれていました。
ツアー参加以前から、ただでさえ「美術館巡りでさぞかし疲れるだろう」と恐れていたのですが、人が押し合いへし合いする中で教皇を見学に行かねばならないとは!本来貧しい人々に属すべき金(きん)で派手に着飾った人を見に行かねばならないというのは考えただけでも拷問でした。
ですからその時間は、私だけ一行から抜けてショッピングに行くつもりでいました。しかし穏健な性格の私の教授がめずらしく、一緒に行きましょうと強く勧めてきました。それで結局、行くことになりました。
式典の終りに教皇は障碍者や病気の人々を祝福していました。老齢で、決して屈強ではない(後に私のゴッド・ファーザーとなる)シュワルツ教授は、私が教皇の顔を見ることができるようにと私を持ち上げてくれました。見ると、ビウス12世は、ラファエルの絵画の中の生きたイエスの御顔の中に私が見た表情と同じ表情をその目にたたえていました。
あの時、私のゴッド・ファーザーを促してくださったのは、聖霊様、あなただったのではないでしょうか。私の名前を読んでくださったのは、あなただったのではないでしょうか。
転換点
次々に引き起こされた超自然的出来事に圧倒されつつも、それだけをベースに次なるステップに進んでいくにはあまりにも理屈屋であり過ぎた自分は、C・S・ルイスのMere Christianity(『キリスト教の真髄』)等を真剣に読み始めました。
ルイスはある箇所で、イエスを単なる偉人ないしは預言者だとみなしつつ傍観することの不合理性を解説しており、それが自分にとっての知的転換点となりました。
彼は言います。ある人が自分のことを神的存在であると主張している場合、その人は①その通り、真に神である。もしくは、②彼は気違いである。あるいは、③彼は嘘つきである、かのどれかであるということになります。しかしイエスが狂人であるとか嘘つきであると考えている人はいない。そうなると彼は神的存在であるに違いないということになるーー。
また、G・K・チェスタートンやジョン・ヘンリー・ニューマンの著述を読み、カトリックになることの不可避性を悟りました。
あの時、私の名前を読んでくださったのは、聖なる三位一体の神、聖母マリア、守護天使、すべての聖人たちーー中でも聖エディス・シュタイン、あなたではなかったのでしょうか。
永遠へのルート
1959年1月4日、21歳の時、私はバプテスマを受けました。その後、生涯に渡って私は一度も自分がカトリック教徒になったことを後悔したことがありません。
後に、双子の姉、母、そして夫もカトリック信仰に導かれ、こうして私たちはヘブライ・カトリック・ファミリー*4になりました。(彼らがどのようにして救いに導かれたのかは自伝 En Route to Eternity、およびその他の著作の中に言及されてあります。)また、私は、カトリック教会に内在するユダヤ的ルーツを発見し、驚きました。*5
最後に、最近書いた祈りの詩をもって証しを終わりにさせていただきます。
愛のトンネル
時というトンネルを掘りながら、
あなたの歌が大きく響いてくることもあれば、
かすかな時もあり、
ある時には自分の歌は
弱々しく、
時にはつんざくような叫びであることもあった。
私たちが出会った時、
もはやそこに合図はなかった。
深い沈黙ーー。
あなたが私を永遠へと運び入れてくださった。
ー終わりー
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*1:ディートリッヒ・フォン・ヒルデブラント(Dietrich von Hildebrand、1899-1977)フィレンツェの厳格なプロテスタント家庭に生まれる。1914年カトリックへ改宗。アドルフ・ヒトラーおよびナチズムを激しく嫌悪していたことから、1933年のヒトラー内閣成立と同時にドイツからオーストリアのウイーンに移住する。ウイーンでは時のオーストリア首相エンゲルベルト・ドルフース支援の下反ナチ紙を編集・発行するが、ナチスにより死刑を宣告される。
ヒトラーがオーストリアを併合した1938年には、再度移住を余儀なくされる。スイス・フリウーリ郊外で約1年過ごした後、トゥールーズカトリック大学で教鞭を執っていた関係上、フランスタルヌ県フィアックに身を寄せることとなる。だが1940年にヒトラーがフランスへ侵攻すると、妻子らと共にポルトガル、ブラジルを経てニューヨークへと亡命。ニューヨークではイエズス会系のフォーダム大学で哲学を教える。
1960年に大学を退職すると、余生を自叙伝の執筆に費やし、英独両言語で書かれた著書は数十冊にのぼる。1977年1月26日、心臓病のためニューヨーク州ニューロシェルにて死去。
なお、著書の翻訳と出版は現在、ディートリッヒ・フォン・ヒルデブラント財団プロジェクトに委託されているほか、ディートリッヒ・フォン・ヒルデブラント研究所には回想録が保存されている。参照。
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