巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

私の辿ってきた道ーー元無神論哲学者ランダ・チェルヴィン女史の信仰行程【前篇】

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Ronda Chervin, Ph.D.(1937-)

 

目次

 

Roy Schoeman, ed., Honey From the Rock: Sixteen Jews Find the Sweetness of Christ, Ignatius, 2007, p. 115-122.(拙訳)

 

特異な家庭に生を受けて

 

思い返してみますと、双子の姉と私は、ニューヨークに住む、最も隔絶された幼児だったと思います。自分たちのような生育背景を持つ人に今まで一人も会ったことがありません。

 

姉と私は1937年に、未婚の両親の元に生まれました。両親は共産党の党内で知り合ったのですが、私たちが生まれる少し前に、党を離脱し、FBIの情報提供者になっていました。当然のことながら激怒した共産党員たちは、私たちの揺り籠を爆破すると言って脅したそうです。

 

父も母も、戦闘的無神論者でしたが、二人ともユダヤの背景を持っていました。しかしユダヤ人として育てられておらず、祭りを祝うことすら教わったことがなかったそうです。

 

ユダヤ的背景+政治的右翼+無神論者の家庭の子として、私たちは周囲にいる誰ともフィットできていませんでした。カトリック教徒とも、プロテスタント教徒とも、超正統派の宗教的ユダヤ人とも、改革派ユダヤ人とも、シオニスト無神論ユダヤ人とも、左翼的ノン・シオニストユダヤ人とも、誰とも順応できていませんでした。

 

カトリックになった今、過去を振り返って思うのは、「なにか特定可能などこかのグループに永遠に属したい」という私の切望感は心理学的且つ神学的深いルーツを持っていたのかもしれません。

 

母方の両親は知識階級のヨーロッパ系ユダヤ人であり、19世紀後半、ツァーの招きで、ロシア近代化事業の助成のためにロシアにやって来ました。

 

しかしながら、到着するや否や、二人は熱烈な無神論的コミュニストになりました。官憲たちが嫌疑のある革命論者たちを広場に集め銃殺しようとしているという知らせを受けると、私の祖父母は、子ども達およびポーランド人の召し使いたちを連れ、米国に亡命しました。

 

医師であった祖父は、ユダヤ人移民者(大半は東欧出身)の間で医療に携わっていましたが、私たちの家族は決してイディッシュ語(ドイツ語とヘブライ語の混成語)は用いず、自分たちが自由思想の持ち主且つ社会主義者アメリカ人であり、従って同胞はすべての人類であって、間違ってもゲットーの閉鎖的ユダヤ人たちではないという信念を誇りにしていました。

 

父方の祖父は、セファルディ系ユダヤ人の系統であり、南米のキュラソー島(Curaçao)生まれで、デ・ソラというスペイン家門の末裔でした。デ・ソラ家の半分は、異端審問の期間にカトリックになりました。

 

祖父はカトリックに改宗しなかった側の家系に生まれ、米国に移民後、マディソン・アベニューの歯医者になりました。祖父デ・ソラは決してユダヤの祝祭を祝おうとはしませんでした。彼もまた無神論者でした。

 

「愚鈍な」祖母の祈り

 

父方の祖母はブロンド髪で虚弱なペンシルベニア・オランダ系の女性で、祖父の歯医者に通ったことが二人の出会いのきっかけでした。敬虔なクリスチャンであった祖母グレース・ガイスト・デ・ソラは、クウェーカー、長老派、聖公会と霊的道程を経つつ、無神論者である夫のために、そして息子、孫たちのために執り成しの祈りを捧げ、昼となく夜となく聖書を読んでいました。

 

彼女は、「神や宗教のことを孫に一言でも語ろうものなら、この先決して孫には会わせない」と厳しく禁じられていました。彼女の死後、私は形見として彼女の使っていた聖書(1876年版)をもらいましたが、その中には至るところに、例えば「いつの日か、この聖句を私の孫娘たちが読むことができますように」等の書き込みがしてありました。

 

天国で今、彼女が孫娘2人共がクリスチャンになったということを知っているようにと望みます。彼女は息子(私の父)ラルフ・デ・ソラが洗礼を受け、長老派教会に通うことを熱望していました。

 

堅信式の頃、ーー善に関しても悪に関してもーー常に勇敢であった青年ラルフは、集会の真ん中に立ち、「僕は無神論者です」と宣言し、教会堂から出て行きました。

 

両親はこのクリスチャンの祖母をとことん軽蔑し、馬鹿にし、私をそれを聞きながら育ちました。ニーチェや進化論が神の死あるいは無存在を証明した後にも未だに神にしがみついているような彼女は、まさしく脆弱さと愚鈍さの極みだったのです。

 

両親の離婚

 

8歳の時、両親が離婚しました。この痛ましい時期、私たち子ども達は数週間、ファイアー島にある祖母の夏の別荘に預けられました。私は、(自分たちのことを本当に優しく愛してくれてはいるものの)愚かで脆弱な人(と自分の考えていた)この祖母の元に不特定の期間、一緒にいなければならないのかと思うと惨めな気持ちになりました。

 

今こそ私たち孫娘にイエス様のことを伝えられると思ったのか、祖母は「♪ 主われを愛す」を一緒に歌おうと熱心に言ってきました。

 

♪ Jesus loves me, this I know! For the Bible tells me so...Yes, Jesus loves me! The Bible tells me so.

 

両親への忠誠心があったために、私たちは「仕方ない。歌ってあげるか。」といった風に振る舞いましたが、この歌詞はその後もずっと私の中に残り続けました。

 

あの時はじめて私の名前を呼んでくださったのは、イエス様、あなただったのでしょうか?

 

初めて聴いた聖なる音楽

 

11歳の時、通っていた公立小学校でクラス会がありました。選ばれた何人かの生徒が前に出てなにか芸や歌を披露しなければならなかったのです。おそらくカトリックの教師の企図があったのかもしれませんが、いつもほとんど目立たない静かな男の子が長い黒ローブに白シャツを着て前に出ていきました。

 

彼は全くの沈黙の内に立つと、両手を祈りの形に組み、Adeste Fidelis*を歌い始めました。私にとって生まれて初めて耳にする聖なる音楽でした。私は茫然とし、とまどいながらも、内に喜びと静けさを感じていました。

 

あの時、私の名前を呼んでくださったのは、イエス様、あなただったのでしょうか?

 

近所のカトリックの子たち

 

当時は気づかなかったのですが、あの子はカトリック教会のミサ侍者だったのかもしれません。カトリック教徒に関する私の知識は限られており、否定的かつ、ちょっぴりユーモラスでした。

 

私たちは「ウェスト・サイド・ストーリー」が描写しているのと同じNYの地区に住んでいました。プエルトリコ人たちがやって来る前、そこにはユダヤ人とアイルランド人カトリックが半々ずつ住んでいました。うちの小学校には2人しかカトリックの子がいませんでしたが、それはなぜかというと、当時ほとんどの子はカトリック系の学校に行っていたからです。そして残りのカトリックの子たちは私の覚えている限り、ギャングになりたてか、ギャングの正式メンバーでした。

 

その当時、カトリックの女子は皆、首に十字架像のネックレスをしており、男の子たちは肩衣や時にはロザリオをポケットからぶら下げていたので、彼らがカトリックであると私は知っていたのです。また彼らが一目でカトリックと分かったのは、彼らが大抵ものすごく意地悪に見えたからでした。

 

ある日、姉と一緒に家に向かっていると、十代前半の男の子たちに取り囲まれました。

 

「おい。お前たちは何なのか?カトリックか?」

「ちがう。」

「プロテスタントか?」

「ちがう。」

「ユダヤ人か?」

「ちがう。」(両親はその時点で一度も私たちがユダヤ人であるということを明かしたことはありませんでした。)

「それじゃ、お前たちは一体何なんだ?」

「あたしたち、atheists(=無神論者)よ。」

 

私たちは自信満々に答えました。Atheistsというカテゴリーを一度も聞いたことがなかったのか、彼らは「キリスト殺しのユダヤ野郎」と言って私たちを殴りつけず、そのまま去って行きました。

 

あの時、肉体的な損傷からだけでなく、カトリックに対する憎しみからも私たちを守ろうとしてくださったのは、守護天使よ、あなただったのでしょうか?

 

人生の目的

 

話は中学校の英語クラスに飛びます。その日の課題は「大人になったら何になりたいか?」に関する作文であり、その場で作成しなければなりませんでした。

 

「人生の目的が何かを知らない者に、将来なりたいものが何か、分かるでしょうか?」私は自然にこう書き記しました。

 

先生が私のその答えにA⁺を付けてくださっていなかったら、こういった早熟な哲学的問いのことなどとうの昔に忘れ去っていたことでしょう。実にそれは哲学科教授になるという将来的私の選択への預言ともいえるものでした。

 

あの時、私の名前を呼んでくださっていたのは、聖霊様、あなただったのでしょうか。

 

サルバドール・ダリの絵画

 

私はNYのシティー・カレッジからロチェスター大に転学しました。寮の壁に飾る絵を探していた時、サルバドール・ダリの「十字架の聖ヨハネのキリスト」の安価なプリントになぜか引きつけられました。おそらくその審美的価値ゆえだったと思います。

 

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《十字架の聖ヨハネのキリスト》は、画家のサルバドール・ダリによって制作された作品。制作年は1951年から1951年で、ケルビングローブ美術館・博物館に所蔵されている*出典

 

その結果、寮の大半を占めていたNYのユダヤ人学生たちは、てっきり私がカトリック信者であるに違いないと勘違いするようになりました。

 

そして実際にはそうでないことが分かると、彼女たちは(自分たち自身も宗教的ユダヤ人ではないにもかかわらず)ダリの十字架の絵を取り外すよう私に言ってきました。「だって、あなたは信仰はなくても、一応文化的にはユダヤ人なのだから」と。でも、なぜだか分からないのですが、私はそれを拒絶しました。

 

あの時、私の名前を呼んでくださっていたのは、イエス様、あなただったのでしょうか。

 

G・K・チェスタートン、カール・アダム等を知る

 

三番目に付き合った男性とは、大学院(哲学科)で知り合いました。彼はヒトラー青少年団(ヒトラーユーゲント)にいたドイツ人でしたが、あるカトリックの神父により、その恐るべき運動から救出された人でした。

 

ヒトラー青少年団、ベルリン、1933年(出典

 

彼の友の多くはその神父の感化を受け、カトリックになりました。彼自身はそうなりませんでしたが、にも拘らず「カトリシズムだけが唯一の救済である」と信じていました!そして青春の道楽を享受した後にいつの日かカトリックになることを望んでいました。

 

彼を通し、私はG・K・チェスタートンからカール・アダムに至るカトリック弁証家の著作群を知りました。新約聖書すら一度も読んだことがなかったので、著述の内容はさっぱり頭に入ってきませんでしたが、何か心に留まることがあったのでしょう、(このドイツ人男性と別れた後も)私の内に、カトリック信者と実際に話してみたいという思いが生じてきたのです。

 

あの時、私の名前を呼んでいたのは、マグダラの聖マリア、あなただったのでしょうか?

 

ダリの「最後の晩餐」

 

友人と旅行をしていた時、彼女がワシントン・D・Cにある美術博物館に行きたいと言ったので、二人で訪問しました。ダリの「最後の晩餐」のセクションの前に来ました。

 

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Salvador Dali,The Sacrament of the Last Supper, 1955(出典

 

審美的な観点から言って私はこの絵画を全く好ましく思いませんでしたが、なぜだか知らないけれども、その場に釘付けになりました。私は食い入るように主の食卓とキリストを見つめ続けました。なにか神秘的なあり方でそこに引き寄せられているような感じがしました。気が付くと15分以上経っており、やっとのことでユダヤ人の友人が私をその場から引き離す有様でした。

 

あの時、私の名前を呼んでくださっていたのは、ユーカリストのイエス様、あなただったのでしょうか?

 

哲学を専攻したのは、私なりの真理探究の方法でした。しかし自分の通っていた世俗諸大学では当時、懐疑主義が大流行しており、大学院に入って一年した頃には私はすでに希望を失いつつありました。真理はどこにあるのだろう。愛はどこにあるのだろう。なぜ人は生き続けなければならないのだろう。

 

【後篇】につづく。