巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

シスマ(schism/教会分裂)というのはそもそも正当化され得るものなのだろうか?(by ブライアン・クロス、マウント・マースィー大学)

Image result for schisma

出典

 

シスマ

シスマ(ラテン語: Schisma)とは、「分裂」を意味する語で、宗教史上、宗教団体の分裂を指します。元々古典ギリシア語で、(布などを)引き裂くこと、あるいは、その裂け目を意味する "σχίζω" に由来しています。離教、教会分裂とも訳されます。

 

目次

 

シスマ(教会分裂)は正当化され得るのだろうか?

 

Bryan Cross, Is schism ever justified?, 2008(拙訳)

 

カトリックにとって、シスマ(schism)というのは常に罪です。私たちは決して自らをキリストのみからだから引き離すことをしてはなりません。

 

(プロテスタント信者の中には、パウロとバルナバの仲たがいの箇所を引き合いに、シスマの正当化を試みている人々がいますが、カトリックの視点で言いますと、こういった訴えをする人々は、「宣教使命における相違」を、「コミュニオンにおける相違」と取り違えた上で当該箇所を誤って解釈しています。)

 

キリストのみからだから自らを引き離すことは、キリストから自らを引き離すことです。教会が異端者を破門する際、教会はシスマ〔の罪〕を犯してはおらず、また、自らの身をシスマに置いているわけでもありません。破門された人は、反抗と強情によって自らを教会から分離させています。破門は公式的にこの分離を認め、当該人物に対するサクラメント的実践における諸変更を施行します。

 

しかし、非カトリック信者の中には、「教会が異端に陥った際には、我々が分裂状態にあることが正当化される」と主張する人々がいます。

 

「シスマが正当化される場合」を設定するこの非カトリック見解は(教父たちの教えに反し)①エクス・カテドラ(ex cathedra*1.)の教えにおいて教会は異端から守られており、②教会が建てられている岩であるところの、聖座(See;教皇庁)なるものは存在しない、ということを前提しています。

 

ですから、例えば、この非カトリック見解によると、仮に私が「(自分もしくは自分と意見を同じくするグループ以外の)残りの教会は異端に陥っている」と考えているとした場合、その時、私が自らを残りの教会から切り離すことは何ら問題にはならないのです。

 

しかしそうであるなら、なぜそれをシスマと呼ぶのでしょうか。この場合、次のようにシンプルに言うべきではないでしょうか。「私および現在私に同意している全ての人々こそが教会(Church)であり、異端に陥っているあの人々は教会ではない。尚、シスマというのは常に悪であるが、私はシスマの状態にはない。なぜなら、私および現在私に同意している全ての人々こそが教会の全体(entirety)であるからである。

 

それゆえに、この非カトリック見解には問題があります。この立場は、本来、両立不可能な次の主張を同時にしています。

 

異端支持者たちを教会の〈外側〉に据え置くには〔論拠が〕不十分であり、それゆえに、その程度にしか異端を扱うことができない。(というのも、私たちは、自分たちが異教徒たちと分裂状態にあるとは言いません。ですが、この非カトリックの立場は、「異端者たちとの間にシスマを形成する自分たちの行為は正当化されている」と主張しています。)

にもかかわらず、自らの身を、彼らとのコミュニオンから切り離す行為にかんする正当化に対しては論拠が十分だとしています。

 

仮に異端がそれを奉じる人々を教会の〈外側〉に置かしめるのであるならば、(私たちが異教徒たちともシスマの状態にない限り)異端者たちとシスマの状態にある、ということは不可能です。

 

しかし仮に異端がそれを奉じる人々を教会の〈外側〉に置かしめないのであるならば、その際、私たちは彼らとの間にシスマを形成していることを正当化することができません。なぜなら、私たちは、キリストのみからだを分裂させることを正当化できないからです。

 

一方、カトリックの立場はこの問題を抱えていません。なぜならカトリックの立場は誰ともシスマの状態にあることを主張しておらず、且つ、シスマが正当化され得るということも主張していないからです。

 

カトリックの視点では、シスマが在る場所においては、それらの人々は聖座(Holy See;教皇庁)からの分離状態にあるか、もしくは、聖座とのコミュニオンにある人々からの分離状態にあります。*2これは、教会の一致の原理(principium unitatis)として聖ペテロの役割から来ています。

 

本稿において私がこの問題をみなさんに提示した理由は、真の一致に関する理解は、「何がシスマであるのか」に対する理解なしには得られないと考えているからです。真の一致が何であるかを理解しないことには、真の一致に到達することは不可能です。

 

質疑応答

質問者(ジョン):

自分の司祭/主教に対し異議を唱えることは正当化されますか?仮に正当化されるのだとしたら、その際、あなたはどのような条件の下に、司祭の見解に従う代わりに、自分自身の分析・判断に信頼を置いていることになるのですか。彼らが確かに信仰とは相反する〔偽りの〕教えを説いており、単なるあなたの勘違いではないということをいかにして確信/決定しているのですか。いかなる要素により、合法的異論者は非合法的シスマになることから防がれているのでしょうか。

 

回答(クロス): 

良い質問です。カトリックの立場から言いますと、私たちは「シスマを形成すること」と「異端を信奉すること」の二択を迫られてはいません。

 

仮にある司祭が異端教理を教えているとするなら、私たちは引き続き正統教理を保持すべきです。しかし教皇無謬性に関するカトリック教理が含意しているのは、たといある教皇が異端者になったとしても、聖座から語る時〔エクス・カテドラ〕、彼は決して異端を教えることはないということです(そしてその教皇によって全地公会議が批准されることもありません。)

 

それゆえ、仮にある教皇が異端者になった場合、私たちは彼の異端的諸信条を拒絶すべきですが、彼とのコミュニオンを断交するようなことはしません。なぜなら、彼の異端的諸信条は、私たちがキリストのみからだを分裂させる行為を正当化しないからです。ですから簡潔にお答えしますと、異端とシスマとの二択というのは、カトリック教徒にとっては、虚偽のジレンマということになります。なぜならそれは教皇の無謬性という教義を考慮すると、不可能なシナリオだからです。

 

教皇の異端の可能性について関心があるのでしたら、カトリックの視点から、デイブ・アームストロングが記事を書いています。

 

ー終わりー

 

関連記事

*1:訳者注:以下カトリック用語集からの引用。エクス・カテドラ(Ex Cathedra):ラテン語で「座から」という意味。教皇が、不可謬的な判決の条件を満たす時に、聖ペトロの使徒座から、不可謬的に語ることを表す。キリストが教会に明かした教義を構成する故、改革不可能(不変)である教皇のエクス・カテドラの判決を否定することは異端であり、大罪である。

ピウス9世、第1バチカン公会議、1870年、第四会期、4章:「・・・ローマ教皇が聖座から語るとき[エクス・カテドラ]、すなわちそれはすべてのキリスト者の牧者とし教師として、その使徒的な権威によって全教会が守るべき信仰と道徳の事柄に関して述べるなら、それはペトロの名において約束された聖なる力の助けを受けるものであり、教会の信仰と道徳に関する教えについて救い主から来る不可謬性が与えられる。そしてそのような決定は、それ自体によって教会の同意によってではなく、改正不能なものとなる。」Denzinger, The Sources of Catholic Dogma, B. Herder Book. Co., Thirtieth Edition, 1957, no. 1839.

*2:CCC #2089.