巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

統一協会の方との対話を通して考えたこと

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何が真で、何が偽なのだろう?(出典

 

目次

 

ポスト近代宗教とグノーシス主義

 

昨日、近所に住む年配のご夫婦が対話を求めてこられ、私たちは話を交わしました。このお二人は40年来の熱心な統一協会の信者です。教義内容の正誤は別として、私が常々この夫婦から感じるのは、人生の意味や、正義、悪、平和等に対する彼らの真摯なる問いかけと鋭敏なる問題意識です。

 

お二人はアイルランドでの長年に渡るカトリック、プロテスタント間の武力闘争、中東での絶え間ない宗教対立、イスラム/キリスト教原理主義の問題などを例に挙げ、真の平和の実現のためには、イスラム教やキリスト教が帰一され、一つの宗教として統合されることが不可欠であり、それが‟天の父母様”の御心であると説いておられました。

 

イスラム教やキリスト教の個別性(particularity)こそが世界平和を破壊する元凶であるとの指摘は、統一協会だけでなく、ジャック・デリダなどポストモダン思想家たちからもなされており、これまでの血にまみれた歴史や現行の国際情勢をみても、そのように考える人が多いこと自体は決して不思議ではないと思います。

 

そしてデリダ研究者の一人であるジェームズ・K・A・スミス教授がおっしゃるように、ここにおいて、「イスラム教やキリスト教といった個々のメシアニズムたちを蒸留し、個別性(特定宗教の歴史性、コミットメント等)という浮きかすを各宗教から取り除いた上で、‟純粋にして、汚されていない”〈メシア的なもの(le messianique)〉を抽出しよう」というポストモダン的グノーシス主義が魅力的な宗教代案として表出してくるのだと思います。この点についてスミス教授は次のように述べています。

 

「一方においてデリダは、公共圏に宗教のスペースを残し、従来の近代性が宗教を周縁化してきたことに対し対抗しようとしています。つまり、彼は、世俗主義者たちが『純粋理性』保持という大義の下に、宗教を公共圏から追放してこようとしてきたことを問題視しているわけです。彼がそれに批判的な理由は、ーー有限なる存在は誰一人としてそのような『純粋理性』を持つことはできないーーという彼の主張に基づいています。

 

 こうして彼は一旦、公共圏に宗教の可能性を提供し、宗教的言語を語り、概念の中に宗教的カテゴリーを用いているのですが、その道半ばにして、なぜか再び彼が批判しているところの、‟純粋に” 理想的なものに立ち戻った上で、『私が言っている ‟宗教” とは、ユダヤ教やイスラム教やキリスト教といった特定の宗教ではない』と言っています。『なぜなら』と彼は言います。『そういった個別的特定宗教に及ぶや、それは暴力につながるから』と。

 

 しかし、、、ちょっと待ってください。デリダさん、あなたはさきほど、『純粋理性』というようなものは存在しないと言っていませんでしたか?それなら、どうして『純粋宗教』なるものが存在し得るのでしょう。あなたは、啓蒙主義の理想であるところの、いわゆる ‟純粋で、偏見なく、中立的、且つ伝統を背負うことなく、汚染されていない形での” 合理性を問題視しています。そうでありながら、一旦、話が特定宗教に及ぶと、なぜまたそこにUターンしようとしているのですか?

 

 ですからここ(つまりデリダの提供する ‟ポスト近代宗教”)には内的緊張があります。ポスト近代宗教は、一方において、啓蒙主義を批判しています。しかしそれは未だ、有限性(finitude)が内包する煩雑性や個別性を認めることにとまどいを覚え、立ち往生しています。なぜなら、その根柢に、『有限性は暴力的である』という立証されていない彼の前提があるからです。」(引用元

 

「興味深いのは、こういう風に、個別的なもの、具象化されたもの、歴史的なもの、物質的なものを蒸留した上で、汚されていない ‟純粋なる” 理想を得るという考え方を、1世紀の教会教父たちは『グノーシス主義』と呼んでいました。そして初代教会はこのグノーシス主義を断固として退けました。」(引用元

 

神の男性イメージ、女性イメージという統一協会見解

 

また、もう一つお二人の話の中で興味深かったのが、「なぜ神が父母なのか?」という統一協会の神観でした。彼らは「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された」(創1:27a)を引用した上で、次のようにおっしゃいました。

 

「神はご自身のかたちに男性を造り、そして女性を造られました。ということは、神の属性には、男性イメージ、女性イメージ、その両方あるということです。ですから神は‟ご父母”と呼ばれてしかるべきです。自然界の動植物をみても、その真理が反映されています。あなたもこの真理が啓示されるよう祈ってみてください。神はきっとあなたに示してくださるでしょう。」

 

家に帰って、ここの部分の統一協会教理を調べてみたところ、サンクチュアリー教会の方のサイトの中で次のような説明がなされていました。

 

「宗教の歴史を振り返ると、神さまに対する人類の理解は、時間が過ぎれば過ぎるほど発展し、変化してきたということが分かります。旧約前の時代とシャーマニズムにおいては、人々は、山の神や川の神など、自然に向かって祈祷しました。旧約時代には、神さまがみずからを主、あるいは王としてあらわし、イスラエルの人々は神さまを自分たちの敵を打ち破り、エジプトから解放し、約束の地につれて行ってくれる、強力な主だと思っていました。それから新約時代では、神さまを天の父と呼ぶ時代に入りました。そして、今、私たちは、新しい時代である天一国時代に進入しています。では、ずっと私たちは、神さまを天の父と呼ばなければならないのでしょうか。神さまは、真の父母様を通して、私たちが神さまを天の父母様と呼ばなければならないと教えてくれました。ですからこれが、神さまの本性に対するより完全な理解なのです。」(引用元

 

① シャーマニズム時代:山の神や川の神など自然に向かって祈祷した。

② 旧約時代:神は自らを「主」あるいは「王」とあらわした。

③ 新約時代:神を「天の父」と呼んだ。

④ 天一国時代:神は真の父母様を通し、神を「天の父母様」と呼ばなければならないと教えた。

 

ここにおいて私たちは、神観の領域における宗教進化論的考え方を見ることができると思います。しかし、これがなぜ誤っているのかということを福音主義の立場から論証するのは思った以上に困難なことであると思わされます。というのも、福音主義の内部にも、これと類似した解釈があるからです。(「軌道解釈 trajectory interpretation」**

  

ローズマリー・リューサー著『性差別と神の語りかけ : フェミニスト神学の試み』(新教出版社、1996年)の第2章において「性差別と神を表す言葉ーー神のイメージの中の男と女」が取り上げられており、また、日本福音同盟(JEA)HPの「女性委員会」のセクション*1でも「神の女性的イメージ」(p.21)のことが言及されてあります。

 

そしてこういった線上から、統一協会と同じように、福音主義フェミニストたちもまた、神のことを「父母」と呼ぶべきだという結論に導かれつつあり***、彼らの見解は年毎にメインストリーム教団教派に浸透していっています。

 

しかし、統一協会を異端、異端と声高に糾弾しつつ、その一方、自らの内に増殖するそれと同種の教えに関しては「多様性」の名の下にそれを黙認するというのはダブル・スタンダードではないでしょうか。みなさんはどう思われますか。

 

何をもってある解釈体系が真とされ、あるいは偽とされるのか?

 

統一協会の方々が自分たちの創世記解釈を「理に適っている」と考えているように、福音主義フェミニストの方々も自分たちの創世記解釈は「理に適っている」と考えておられます。***

 

こういった人々の諸見解に耳を傾けながら私が痛感するのが、聖書というのは、ある人々が主張するほどそう‟明瞭”ではないのではないかということです。善意であれ曲解であれ、とにかく人々はさまざまに聖書を解釈し、体系を構築した上で、それが聖書的であると信じています。

 

統一協会信者のこのご主人は、原理理論が整合性ある解釈体系であるということを力説しておられました。しかし、整合性ある解釈体系ということなら、カルヴァン主義TULIPも、古典的ディスペンセーション主義も、それぞれ内的調和を持った整合性ある体系です*

 

ですから、ここから私が学ぶのが、ある解釈体系が「理に適って」いて「整合性がある」ということは、真理のための必要条件ではあるけれども、それだけでは、それが真である決定的証拠にはならないということです

 

昨年の3月、私は「聖書的」であることの意味についてという記事を書きました。その後考察を続けていく中で、私は、「A氏やB氏の言う『聖書的』がイコール真であるためには、それが、ーー400年近くかけ聖書正典を編纂しそれを真であると宣言した教会(Church)の文脈の中で読まれなければならない」と考えるようになりました*

 

聖典文書を真なるものとして信頼するということと、その文書を真だと決定した編集主体(=教会)を信頼することは、切っても切れない関係にあると思います。

 

そうでなければ、統一教会の信者の考える「聖書的」、フェミニストの考える「聖書的」、私やあなたの考える「聖書的」がなぜ、いかなる理由で、正しいのか、あるいは誤っているのかを判断する究極的根拠がないということになってしまい、その先には暗い不可知論の沼が私たちを待ち受けています。

 

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自分も含め、人は、事物の起源、存在の理由、悪の問題、平和と一致への希求心を持ち、神観、世界観、人間観を見い出そうとしています。人間は虚無とカオスの中では生き続けることができないと思います。

 

私たち一人一人が現在どの地点にいるとしても、人生の意味を真摯に問い続ける魂の叫びに、私たちの神は答えてくださり、最善の仕方で私たちに御自身を啓示してくださると信じています。

 

ー終わりー