兄弟たちよ。われわれの歳月は永久的なものだろうか?いや、それらは日に日にすべり去っていっているではないか。かつてそこにあったものは、もうない。来たらんとするものは未だここに有らず。前者は過ぎ去り、後者はやって来るも、また己の時に消え去っていく。
今日という日はわれわれが語るこの「時」においてのみ存在している。初めの時は過ぎ去りつつあり、残りの時は未だ存在せず、それらが来るも、やがて無の中に落ち込んでいく。
何ものも、それ自体の内に恒常性を包有していない。肉体は存在を所有していない。つまり、肉体には永続性が無いのである。それは時代と共に変化し、時と場と共に変化し、病や不慮の難によって変化する。
星々といえども転変を免れない。それらは隠された仕方で変転しつつ、空間の周囲を廻っている。それらは不動一定ではなく、存在を所有していない。
人間の心はどうか。然り、これもまた不変とは程遠い。いかに多くの雑念によって心乱され、またいかに多くの無為な野心が生じてくることだろう!いかに多くの快楽によりあちこち翻弄させられた挙句、心引き裂かれることだろう!
人間の精神自体ーー理性を授かっているにも拘らずーー変化してゆく。それは存在を所有していない。精神は意志せど、意志せず、認識するも、捉えるを得ず、記憶するも、忘却する。誰一人己自身のうちに存在の一致を持していない。
数え切れぬほどの苦しみ、病、艱難、痛みを経てきた。さあ、へりくだりの内に一(いつ)なる存在者の元に立ち返ろう。そしてかの都に共に入ろうではないか。ーー民が存在者の中に参与している、その都に。
Augustine of Hippo, Commentary on Psalm 121.6 (PL 36, 1623) 拙訳