巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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「君だって同じじゃないか。カトリックの立場も結局『ソロ・スクリプトゥーラ』を免れていない。」という反論について(by ブライアン・クロス& ニール・ジュディッシュ)【その7】

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「権威」というのはどこから来ているのだろう?(出典

 

目次

 

全体の総目次

 

第1章.

第2章.ソロ・スクリプトゥーラの説明とその問題点ーーマティソンによる概説

第3章.ソラ・スクリプトゥラに関するマティソンの説明およびそれがいかなる点でソロ・スクリプトゥーラと違うのか

第4章.なぜソラ・スクリプトゥーラとソロ・スクリプトゥーラの間には原則的相違がないのかについて

---A.直接的そして間接的な最終的解釈権威

---B.ソラ・スクリプトゥーラの立場に内在する矛盾

---C.派生的権威という誤想

第5章.反論とそれに対する応答

---A.「君だって同じじゃないか(Tu Quoque)。カトリックの立場も結局『ソロ・スクリプトゥーラ』を免れていない。」

---B.ソラ・エクレシア:教会は自律的であり、それ自身に対する律法であり、説明責任がない。

第6章.関連事項

 

Bryan Cross & Neal Judisch, Solo Scriptura, Sola Scriptura, and the Question of Interpretive Authority(拙訳) 

 

第5章.反論とそれに対する応答

 

A. 反論:「君だって同じじゃないか(Tu Quoque)。カトリックの立場も結局『ソロ・スクリプトゥーラ』を免れていない。」

 

カトリックとプロテスタント

 

「『ソラ・スクリプトゥーラ』と『ソロ・スクリプトゥーラ』の間には原則的相違はない」という私たちの論点に対し、「いや、カトリックの立場にしても、最終的には『ソロ・スクリプトゥーラに帰着しているではないか。お互い様ではないか。」と反論する人々がいます。

 

この反論によれば、カトリックになる人も、プロテスタントになる人と同じ認識論的立場を出発点にしています。彼らは言います。

 

「カトリックになるという選択をする上で、その人は、彼自身の聖書解釈に一番マッチする教派を選んでいるに過ぎない。彼はカトリック司教たちの権威の下に自らの身を置いたのかもしれないが、それは、ルター派信者が、ルター派牧師の権威の下に自らの身を置き、バプテスト信者がバプテスト牧師の権威の下に身を置き、長老派信者が長老派牧師の権威の下に身を置くのと変わりがない。それゆえに、仮にプロテスタントになる人が自らに解釈的最終権威に置いているのなら、それはカトリックになる人だって同じである。」

 

こういった反論は理解できますが、反論者は、「カトリック教会への発見」と、「プロテスタント教派(or 集会)に参加すること」の間の原則的相違を把握できていないと思います。

 

もちろん、カトリックになるプロセスにある人は、未だ教会の権威の下にはいません。この時点においては、彼/彼女は、たしかにプロテスタントの状態に類似しています。しかしカトリックは原則的に違うなにかを見い出し、質的に異なる基準により適切にそれを見い出しています。

 

プロテスタントは、自分の聖書解釈が使徒たちの信仰、教え、実践だと示すものと同じ内容を信じ、教え、実践している信者グループを探しています。彼がプロテスタントであり続ける限り、彼は自身の内に最終的解釈権威を持ち続けています。

 

そしてどんなプロテスタント教派であれ、彼の良心を拘束するような権威は持っていません。なぜなら、〔彼の思考の中では〕教会というのは常に聖書に従わなければならないからです。しかしながら、実際には、それは、「教会というのは常に〔彼自身の施す〕聖書解釈に従わなければならない」もしくは、少なくとも「彼は最終的にーー彼自身以外のーー他の誰の解釈にも従わない」ということを意味しています。

 

一方、カトリックになりつつある人は、キリストがお建てになった教会を探しています。そしてそれをするに当たり、彼は、自分の聖書解釈とマッチしている信仰グループを探しているのではありません。

 

そうではなく、彼は使徒たちが任命し権限を与えた人々を歴史の中に探し、教えの伝達および解釈的権威に対し彼らが何を言い、何を為しているのかを見、継承的権威の系譜を古代から現在の生ける教導権(Magisterium)にまで辿った上で、今日のその教導権が教えている内容に自らを従わせようとしています。そして教導権を見い出す過程で、彼は自らの良心を拘束する、神的権威を持つなにかに出会います。

 

良心を拘束するという事の意味ーー法の性質について

 

ここで「良心を拘束する ; bind the conscience 」ということの意味について述べておきたいと思います。良心の拘束というのは、法の本質そのものです。法は意志を強制しませんが、法は、理性がそれを(私たちの信仰、言葉、行為が順応すべき)基準/規則として把握している限りにおいて、良心を拘束しています。

 

自然法という形をとって私たちの心に書かれている神の法は、各人の良心に訴えています。ひとたび人がその法を知るや、その人はその法に反する行為をすることは非合法であることを知ります。同様に、ひとたび人が教会の教導権的権威および、信仰/モラルにかかわる(神的啓示を伴った)法やドグマを知るや、その人の良心はそれらを信じ、それらに従うべく拘束されます。

 

そしてその人は教会のドグマに対する不信心は異端であり罪深いことであると認識するようになります。なぜなら教会が決定的に裁定したことは、事実上(ipso facto)聖霊がお語りになったことだと彼は認識しているからです。

 

教会が、使徒たちを通しキリストから授与された権威を持って、決定的にドグマを宣言する時、教会は、ーー聞き手がそれらのドグマの内容および、(それによりドグマが決定されたところの)神的権威を認識している限りにおいてーーその人の良心を拘束しています。

 

ですから、カトリックになりつつある人にとっては、その人が教導権の権威を認識する際、彼は己の信条および聖書解釈を教会教導権の権威的教えに従わせなければならないということを認識しています。

 

「教会の教導権が、『この教えは黙示の中に見い出される』という無謬の表明をする時」、彼はーー使徒継承を通した教導権に与えられている神的権威により、この声明がキリストの教えであると信じるというーー信仰の行為によってそれに同意します。」*1

 

このようにしてキリストに対する彼の信仰は、教会教導権の無謬の表明の内における信仰行為として表現されています。

 

他方、プロテスタントは、あるプロテスタント共同体に参入する際、そこに教導権を見い出しません。なぜなら、聖書の正典(canon)、聖書解釈、正統/異端の識別に関し、彼の良心を拘束することができるようななにかをその共同体に見い出していないからです。

 

それゆえに、彼は自分の属するプロテスタント共同体の中で永続的に最終的解釈権威を保持し続けています。なぜなら、その共同体におけるいかなる決定事項といえども、彼の良心を拘束する権威を有していないからです。

 

それ故、マティソンは(ターレティンから引用しつつ)、「個人の良心は、神の御言葉以外のいかなるものによっても拘束され得ない」と主張しているわけです*2

 

そしてマティソンにとっては、「聖書に対するあらゆる訴えは、聖書の解釈に対する訴え*3」であるために、そこから導き出されるのは結局、個人の良心はその人自身の聖書解釈以外のいかなるものによっても拘束され得ない、ということです。

 

そしてここにおいて私たちは、なぜ「君だって同じじゃないか!(tu quoque)」というカトリックに対する反論が破綻している様を目の当たりにしています。

 

カトリックは聖書正典や聖書解釈に関し自分の良心を拘束するなにかを見い出しており、受肉したキリストがお建てになり権威を授与した教導権を見い出しています。それとは対照的に、プロテスタントになる人にとっては、(聖書正典や聖書解釈に関し)自分の良心を拘束するものは自分自身を他において何もありません

 

それゆえに、教導権を見い出すまでは、その人は自分自身にとっての最終解釈権威であり続けます。なぜなら、聖書解釈に関し彼の良心を縛ることのできる何をも彼は持っていないからです。

 

しかしひとたびその人が教導権を見い出し、それをそのものとして認識するや、彼はその時、自分自身の最終解釈権威ではなくなります。彼は、自分の聖書解釈を教導権の教えおよび解釈に従わせ一致させる必要性を認識し、教導権の教えを拒絶することはキリストを拒絶することに等しいということに気づくようになります。この点に関しイエスは使徒たちに次のように言っています。

 

「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」(ルカ10:16)

 

他方、プロテスタントの認識論的スタンスは、ウォルムス帝国議会でのマルティン・ルターの次の言葉に体現されています。

 

「私は聖書からの証明、あるいは明瞭かつ明白な理由や議論によって、確信させられない限り、私は教皇や公会議の権威を受諾しない。なぜならそれらは互いに相反しているからである。わが良心は神の御言葉に捕われている。」*4

 

ルターの言明はプロテスタントの宗教的認識論の本質を見事に体現しています。ルターの例に倣う全てのプロテスタントはこれと同じスタンスを採っています。つまり、彼らは教会の教え、公会議、解釈的伝統をーーそれらがあたかも単なる助言であるかのようにpick and chooseしながらーー、自分自身の聖書解釈の基準にそれらを従属させています。

 

マティソンによれば、「聖書に対するあらゆる訴えは、聖書の解釈に対する訴えである」とされていますので、己の良心が「神の御言葉に捕われている」というルターの主張は実際には、彼の良心が究極的に彼自身の聖書解釈に拘束されているということを意味しています。

 

自分の良心が究極的に自分自身の聖書解釈に拘束されているというこの主張自体が、教会の永続的教えに相反しています。なぜならこの主張は、キリストがご自身の教会の中で永続的教導権威を確立され、(信仰および倫理に関する事項に対し聖霊が決定的に裁定し、すべてのキリスト者がそれに従うところの)教導権威をお立てになったということを否定しているからです。

 

もしも教会が、信仰や倫理的諸問題に関する決定的裁断を下す権威をキリストから授かっているとしたら、教会はそういった事項に関し究極的に良心を拘束する権威を持っているということになります。

 

逆に言うと、もしも教会が良心を拘束する権威を持っていないのなら、教会は助言を提供することしかできないということになるのです、なぜならその場合、信仰や倫理的諸問題に関し教会が下すいかなる決断も決定的ではないからです。*5

 

「生きた人間」と「書物」

 

次に続く反論は、ある種の両刀論法の形態を取っています。この論法は次のような流れになります。

 

「各個人は聖書を解釈する際、解釈的権威の指針を必要とするか否か?仮に答えが『然り。』であった場合、彼は、最初の解釈的権威を解釈する際、別の解釈的権威の導針が必要だということになる。そして二番目の解釈的権威を解釈する際、今度は第三の解釈的権威の導針が必要になってくる。そしてこれは無限に退行していく。しかるにそのような無限の退行はあり得ない。ゆえに、個々人は聖書を解釈する際、解釈的権威の導針を必要としない。」

 

この論法の持つ問題は、それが「人」と「書物」の間の質的な存在論的区別を無視している点にあります。それゆえにそれは「仮にある書物が教会的権威として機能すべく権威的解釈者を必要としているのなら、生きた人間もまた権威的解釈者を必要としているに違いない」と誤って想定しているのです。

 

書物は読み手に関し、独白体(monologue)を含有しています。書き手は、読み手の思いの中で湧き起ってくるであろう考えや問いを想定できる場合が多いでしょう。しかし書物は「今ここで」読み手の問いを聞くことはできず、それらに答えることもできません。しかし、生きた人間にはそれができます。生きた人間は、読み手と生の対話ができますが、本にはそれができません。

 

キメル神父はG・K・チェスタートンを引用しつつ、「我々は生きた人間を裁判にかけることはできても、書物を裁判にかけることはできない」と言っています。

 

人は大域的誤解を解いたり、包括的な解釈諸問題に対し回答することができます。書物はその性質上、解釈的自己明確化に関し、制限された内在能力しか持っていません。一方、人はその性質上、原則として、解釈的自己明確化に関し、無限の内在能力を持っています。

 

そしてこういった解釈的自己明確化に関する無限の内在能力は、解釈的らせんがその目標に達することを保証しています。書物はそれが完成した時点で語っていること以上の何かを語ることはできませんが、人は、以前の言語行為を引き続きさらに明確化していくことが可能です。

 

「最終的」という語の二重の意味

 

この反論はまた次のような形をも取り得ます。

 

「仮に教会が最終的解釈権威を持っているとしても、結局は、各個人が教会の教義的諸言明を解釈しなければならない。よって、各個人が教会の教義的諸言明の最終的解釈権威である。」

 

この反論は「最終的 ‘final’」という語の持つ二つの意味を融合しています。「最終的」は、ある運動もしくは一連の諸運動の終端を意味し得ます。(例:飛行機の最終目的地。その日の一連の飛行の最後。)また、この語は、ある秩序やヒエラルキーにおける終端をも意味し得ます。(例:軍隊組織における最高司令官。)*6

 

コミュニュケーションにおいては、その通信を受け取る個人は、定義上、知識が伝達されるところのその運動の終端(terminus)です。その意味で、彼は、‟最終的(final)”解釈者です。

 

しかし、そうだからといって、彼が、ある秩序やヒエラルキーにおける終端(terminus)という意味における最終的解釈権威であるということにはなりません。彼は、解釈的権威の秩序において従属的立場を保ちつつ、コミュニケーション動作の終端である可能性もあります。

 

例えば、全地公会議における教導権による解釈的権威の行使は、信者たちが聖書を解釈したりその他の通信をしたりすることを妨げてはいませんし、彼らが聖書を解釈する技能行使を保留させているわけでもありません。

 

反対に、こういった教導/解釈的権威の行為は超自然的光を提供しており、その光によって信者は聖書を解釈する必要があります。私たちはその解釈的権威を無視するかもしれませんが、それは自分自身への危険を覚悟でなければできないでしょう。なぜなら、それは神によって授けられた権威であり、私たちの益のために存在しているからです。*7

 

「民政指導者たちはどうか?」

 

上記に関連する別の反論は次のような形をとっています。

 

「民政指導者たちは真正なる権威を持っているにもかかわらず、彼らは無謬でもなく、他人の良心を拘束できるわけでもなく、使徒継承に相似したようなものを要求されているわけでもない。それゆえに、教会における教導権威のためには、無謬性も良心拘束の力も、使徒継承も必要ではない。」

 

それに対する応答としては、確かに民政指導者には真正なる民政権威があり、彼らはそれを神から受け取っています。また彼らが無謬ではないというのも真です。しかし、彼らが人の良心を拘束できないというのは真ではありません。

 

民法は良心を拘束しており、私たちはーーそれらが、自然法であれ、教会を通して啓示されたものとしての神の法であれ、より高次の方と衝突していない限りにおいてーーそれらに従う責務を負っています。ゆえに、真正なる民政権威の性質は、「教導権は忠実なる信者の良心を拘束することができない」ということを示してはいません。

 

それに加え、教会の教導権威の性質というのは、「いかなる権威の性質が民間政府にとって十全なのか」を計ることによって正しく決定されるようなものではありません。そういった方法論は、

教会が本質において民間社会と等しい、そして

教会権威の性質に関する問いへの決定的回答を提供している既存の教会権威は存在しない、

という二点をはじめから前提してしまっています。

 

教会の教導権威と民間権威

 

それゆえに、民間権威の可謬性(fallibility)は、教会の教導権威が同様に可謬であるということを示してはいません。特に大切なことは、ーー教会の教導権威が自然法に関しても超自然的に啓示された神的法に関してもそれらへの権威的解釈を提供しているという点でーー教導権威は、民間権威と異なっているという事です。

 

この理由により、(自然法および神的法に関し)民間権威が良心を拘束できないのに対し、教会の教導権は、自然法および神的法に関し、人の良心を実際に拘束しています。

 

この事を自覚している人たちにとって、信仰および倫理に関する諸事項における教導権の決定的教理に対し、「人よりも神に従うべきです」と主張することによって、それに反抗することーーこれは彼らの良心にかけ、決してできないことなのです。

 

良心が異教徒にとっての神の声であるのと同様、教導権の決定的教理は、カトリック教徒一人一人にとっての神の声です。それゆえに、カトリックは、信仰および倫理事項における教会の決定的教えに自らの良心を適合させうよう努めなければなりません。なぜなら、教会の教導権は彼自身の良心(つまり理性のみ)よりもより高次の権威だからです。

 

「民間諸権威が果たして使徒継承に相当するようなものを通し自らの権威を獲得しているのか否か」に関してですが、回答は「然り」でもあり「否」でもあると言えます。(但し、それぞれ異なった観点において。)

 

市民社会における合法的統治者は、法律によって規定されたプロセスに従い選任されています。一方、強奪者はーーその人物がどんなに大衆の人気を得ていたとしてもーー合法的統治者ではありません。

 

その意味において、民間権威が自らの民間権威を獲得する方法は、教会的権威を保持している人物がその教会的権威を獲得する様に類似していると言えます。なぜなら、教会的権威は、すでに教会法および聖伝の中に敷かれているプロセスにより、そういった権威を取得しているからです。

 

そして、イエスがピラトへの言及の中で示しているように(ヨハネ19:11)、民間権威は神の摂理により、自らの権威を授与されています。(聖パウロもローマ13:1の中で同様のことを教えています。)

 

しかしながら、教会の教導権威は、摂理のみを通しては取得することができません。仮にこの二つの権威の間になんら本質的相違がなかったとしたら、教会というのは市民社会となんら変わらないということになり、これは「わたしの国はこの世のものではない」(ヨハネ18:36)と仰せられたイエスの言明と矛盾しています。

 

超自然的社会としての教会と使徒継承

 

イエスが「わたしの国はこの世のものではない」と仰せられた時、主が意味していたのは、ご自身の国がどこか別の世界に所在しているということではなく、その国はこの世の中に在るけれども、その国は自らの権威をこの世から得ているのではない(つまり、自然的秩序から得ているのではない)ということでした。

 

教会を(ただ単なる自然的社会ではなく)超自然的社会とせしめているものーーこれこそがまさに、教会が統治されているところの権威が超自然的権威である所以なのです

 

そしてこの超自然的権威は、キリスト御自身の権威です。キリストの権威は超自然的です。なぜならキリストは神であられるからです。そして主は、御自身の超自然的権威をサクラメント的に御自身の使徒たちに与え、使徒たちは同様にそれを自分たちの後継者たちに継承していきました。*8

 

それゆえに、使徒継承なしには、教会というのは、摂理的に神によって統治されている自然的社会、その他の国々の中の一国であるに過ぎないということになるでしょう。実に、使徒継承によってのみ、教会は、自然的諸社会と競合しない神的社会になり得ます。なぜなら恩寵は自然の上に築かれているからです(=grace builds on nature)。

 

要約しますと、民間諸権威は、合法的プロセスを通し、神の摂理によって、自らの自然的民間権威を取得しています。一方、教会は超自然的社会であるがゆえに、教会的諸権威は摂理的指針の下、自らの権威を自然的に取得することはできません。教会的権威は自然的権威ではなく超自然的権威であり、それゆえに、超自然的リソースからの継承を要求しているのです

 

ー終わりー

*1:Donum Veritatis, 23 .

*2:Keith A. Mathison, The Shape of Sola Scriptura, p. 273.

*3:“Solo Scriptura: The Difference a Vowel Makes.”

*4:Here I Stand: A Life of Martin Luther, pp. 143-144.

*5:訳注:関連記事 

*6:Of course the Commander in Chief is under the authority of God, but here we are speaking of ‘final’ only in a certain respect, i.e., within the human society.

*7:Hebrews 13:17.

*8:Christ did this when He instituted the Eucharist, and when He breathed on them and gave them the authority to forgive sins. Cf.Luke 22:19 and John 20:22-23.