巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

前提主義(presuppositionalism)ーー懐疑主義の上に構築された信仰主義(by ブライアン・クロス、マウント・マースィー大学)

 

前提主義者は、上記の循環論法に対し、どのように答えるのか?ーー無神論者たちからの挑戦(Atheism site

 

目次

 

Bryan Cross, Presuppositionalism: Fideism built on skepticism(拙訳)

 

前提主義(presuppositionalism)の問題の所在

 

前提主義の根底にある問題は、主として哲学的なものです。つまり、前提主義の誤謬のルーツは哲学の領域に横たわっているということです。

 

前提主義は哲学的懐疑主義をベースにした信仰主義(fideism)の一形態であり、この懐疑主義はカントを経由してデカルトまで溯ることができます。


前提主義者は一般的に、神学的諸前提がそれぞれの‟世界観”(つまり哲学)という認識論的土台に積み込まれているということを信じています。彼らはまた、虚偽の諸前提の上に構築されたあらゆる世界観は虚偽の世界観であり、キリスト教が唯一の真なる宗教であるということを信じているがゆえに、キリスト教諸前提の上に構築された世界観(哲学)だけが真にして信憑性あるものであると結論づけています。

この主義の誤りは、まさに最初のその前提、ーーつまり、神学的諸前提があらゆる主張/立場/理論/哲学の背後にあるという考えーーに在ります。

 

「存在の秩序」と「認識の秩序」ーーアリストテレスの区分

 

それではなぜ彼らはそのように考えているのでしょうか?この「Why?」の部分を理解するために、私たちは、アリストテレスによって為された区分について考えてみる必要があります。アリストテレスは、人間にとり、「存在の秩序 order of being」と「認識の秩序 order of knowing」*1は同一ではなく、相反していると説きました。それをまとめると次のようになるでしょう。

 

「私たちは動物である。そして動物として、(認識の秩序の中で)私たちは感覚知や諸感覚に最も近いものから出発する。その後次第に私たちは、より大いなる抽象的力をもって、より深く事物の存在に浸透していく。そして最終的に、私たちが十分に深く、注意深く考察した暁には、「存在としての存在 being qua being」、そしてついには「存在それ自体」にたどり着くことができるだろう。

 

 しかし「存在の秩序」は、「〔人間〕認識の秩序」とちょうど対極にある。すべては究極的に神から来ている。それゆえに神は「存在の秩序」の筆頭である。諸感覚に最も近接したものは「存在の秩序」の第一のものではない。(偶発が実体に先行していないのと同様。)神は「存在の秩序」の第一のものであるが、自然的「〔人間〕認識の秩序」における最後である。」

デカルト

 

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ルネ・デカルト(1596-1650)

 

さて、それでは手短にデカルトのことに触れましょう。デカルトはあらゆる感覚知を却下した上で、認識論的に確かな土台であるコギト(「私は思考する」の意)から出発しようと試みました。しかしあの「邪悪な悪霊*」はどうなるのでしょうか。デカルトはすぐさま善い神を仮定することにより邪悪な悪霊の可能性を取り扱わなければなりませんでした。ですから、神は(認識論的に)すぐに登場してきます。

 

いかなるものであれ世界に関するなにかを知るために、人は、神学的前提を想定しなくてはならないとデカルトは考えました。これは初期前提主義です。デカルトの中では、「認識の秩序」は「存在の秩序」と同じものにされています。

 

(なぜならデカルトは自らの哲学的人間学の中でーー私たちの人間性を軽視し、私たちを天使の地位に‟高揚”させようとしているという、マリタンが「天使主義」と呼ぶところのものーーに対する責めを負っていますが、その中においては、「存在の秩序」と「認識の秩序」はより一層連携しています。)

 

「存在の秩序」と「認識の秩序」の混同


前提主義者たちは(デカルトと同様の理由から)「存在の秩序(=権威の秩序)」を、「認識の秩序」と混同しています。彼らは、「認識の秩序は存在の秩序と同じであるに違いない」と思っていますが、実際には、私たちの物質性により、両者は対置されることを余儀なくされています。

 

カルヴァン主義と「全的堕落」


カルヴァン主義者にとっては、理性というのは堕落しています。つまりそれは全的堕落(totally depraved)をしているのです。それゆえに、理性は聖書以外のいかなる土台の上にも構築されてはなりません。

 

カルヴァン主義前提主義者は、「善い神」というデカルトの仮定の部分を、「真理および神の言葉(聖書)の権威ないしはキリスト教の前提」で置き換えました。「キリスト教(ないしは聖書)はその他全ての知識の土台として前提されなければならない」という彼らの主張は、それ自体、皮肉なことに、(私たちの感覚、理性、知性の信頼性に関し)、聖書ではなく、デカルト的懐疑主義を基盤にしています。

 

カルヴァン主義前提主義者たちは次のようなことを言います。

「神学的諸前提なしには、あなたの諸感覚の経験を知識と呼ぶことさえできないのです。」

この主張の中に前提されているデカルト的懐疑主義に留意してください。この主張をした友人に対し私は次のように応答しました。

 

 「これは〔哲学的〕懐疑主義の上に構築された信仰主義です。この立場の抱える問題は次のものです。つまり、仮に人が、まず神学的諸前提をすることなしに自分の諸感覚を信頼することができないのだとしたら、その時、人は、神学的諸前提をすることなしに自分の理性を信頼するいかなる非恣意的根拠も持たないということになります

 

 そうなると、人は自分の諸感覚や理性を信頼することができないゆえに、‟どの神学的諸前提を採るべきか””そういった諸前提が真であるのか否か”‟そういった諸前提が実際にその人の諸感覚や理性を支えているのか否か”を知る方法がなにもないということになります。

 

 人はそういった神学的諸前提を得るべく、聖書に訴えることはできません。なぜなら、彼は聖書を理解するための自分の感覚や、聖書を解釈するための理性に信頼を置くことができないからです。

 

 それゆえ、ひとたび人が懐疑的穴を掘り始めるや、ーー純然たる信仰主義的飛躍をする以外にーーそこから抜け出す道がなくなります。そしてそういった信仰主義的飛躍はどんな方向にでも進み得ます。(例:アッラー、ブッダ、クリシュナ、ガイア、エルヴィス、無神論、多神論、汎神論等、、)。

 

 信仰主義は偉大なる‟平衡装置”です。信仰主義だと、いかなる飛躍であれ他の飛躍より優れていることもなく劣っていることもありません。評価機能(つまり理性)は懐疑主義によって剥ぎ取られるのです。」

 

前提主義者のさまざまな主張


別の前提主義者は「どんな立場も皆、確証のない諸前提や諸推論から出発する」と主張していました。このような主張は懐疑主義の一形態です。

 

これは「知られ得るものは一切ない」ということを含意しています。またこれは、「各種立場は、一貫性という見地からでさえ吟味され得ない」ということを含意しています。なぜなら、論理の諸原則でさえ、それらはただ単なる諸前提であり諸推論に過ぎないからです。

前提主義は特に、①哲学的知識が可能であることを否定している人々、および、②哲学的知識の可能性に無知である人々にとって特に魅力的です。

 

次のような事を言っている前提主義者がいました。「結局、あらゆる立場は単なる諸前提でスタートするわけだから、どうせなら、神の御言葉という土台の上に構築した方がいい。」と。

 

また、「〔神の御言葉以外の〕他のどのような土台でスタートすることも結局は偶像礼拝です。なぜなら、それはその土台に神以外のなにかを置いているからです」と言っている人々もいます。

 

ここで留意していただきたいのは、彼らが「存在の秩序」と「認識の秩序」の区別をし損なっており、それゆえに「認識の秩序」において最初に来るものは、「存在/権威の秩序」においても最初に来ると思い込んでいるという点です。

 

自らが聖書に持ち込んでいる諸前提に無自覚

 

自分たちは聖書から出発していると主張していることにより、前提主義者たちはかなりの割合で、自らが聖書に持ち込んでいる諸前提に無自覚である状態を自らにもたらしています

 

「自分は聖書から出発している」と明確に主張しているのなら、その時彼は、自分が実際、聖書に持ち込んでいるところの〈何か〉から出発しているということを認識する(or 信ずる)ことを自らに許すことができなくなります。

しばし、前提主義者たちは、権威において至高のものは、認識論的に基礎を成すものであるに違いないと勘違いしています。ーーあたかもその二つが同じものであるかのように。

 

それゆえに、彼らは、「あなたは、感覚知や論拠(reasoning)ではなく聖書から出発しなければならない」と主張しているのです。(もちろん、彼らは「いかにして私たちは聖書が神の言葉であると知るのか」「どのように聖書を解釈するのか」という問題を、ーー私たちの感覚知や理性の信用性を前提することなしにーー言い繕っています。)


実際、聖書の至高権威というのは、「すべての知識および論拠は聖書の上に構築されなければならない」ということを意味してはいません。例えば、私たちは数学を聖書の上に構築する必要はありません。(しかし何人かの前提主義者たちはそう主張しています。)

 

聖書の至高権威というのが意味しているのはむしろ、私たちが努めて、自分たちのすべての知識を、聖書の教えに一致させ調和させるよう努力すべきであるということです。

ひとたび感覚知および理性が(懐疑主義によって)ノックアウトされるや、唯一可能な種類の宗教的表現はある種の信仰主義ということになります。

 

そしてこれがまさに前提主義の真相です。つまり、〔デカルト的〕懐疑主義の上に構築された信仰主義です。前提主義者に、前提主義の抱える問題を示す一つの方法は、その哲学的諸前提ーー特にその懐疑主義ーーを示してあげることです。

 

前提主義者は通常、(明確にキリスト教的諸前提以外の)諸前提を自分が持っているということに無自覚な場合が多くあります。

 

二つの自己内矛盾


前提主義は治癒不可能な二つの矛盾を自己内に患っています。まずそれは前提された土台(=聖書)から出発しているのですが、自分自身の認識論的状態(例:懐疑主義)がそれへのアクセスを一切許しません(*これが一番目の矛盾)。

 

その後、前提主義はそれ自身の内に見い出される基準(例:一貫性)によってその他の「世界観」を評価しようと試みます。ーーあたかもその核心においてそれが信仰主義的(そしてそれゆえ相対主義的)ではないかのように。

前提主義者は通常、哲学に対し非常に懐疑的です。(例えば、この記事を参照。)しかし真の哲学は福音を弱体化させません。なぜなら真理は真理に矛盾し得ないからです。

神学校にいた当時(改革派のカベナント神学校)、私は「聖書信仰のクリスチャンたちの間のあらゆる教理的不一致は原則として釈義によって解決され得る」ということをナイーブにも信じていました。そしてそれゆえに、私は釈義に誠心誠意取り組み、卒業の際には、米国聖書学会から聖書釈義学の部門で特別賞を受けました。

 

しかしその時すでに、釈義と解釈が二つ別々の技術(art)であることだけでなく、解釈というのが大部分において、ーー人が解釈プロセスに持ち込んでいるところのーー哲学的諸前提に依拠しているということが自分の中で明らかになっていました。そこから私は博士課程でのコースを哲学にする決心をしたのです。

 

自分たちが解釈プロセスの中に哲学的諸前提を持ち込んでいるということに無自覚である限り、私たちはいつまで経っても、自分たちの間に立ちはだかっている解釈的不一致の根本原因にたどり着くことはないでしょう。

 
前提主義者にとっての最初のステップは、自分が解釈プロセスの中に哲学的諸前提を持ち込んでいるということを認識することだと思います。そうして初めて、彼は、そういった諸前提を評価するための方策の必要性に気づくようになるでしょう。

 

(「聖書によってそれらの諸前提を吟味する」という主張は、その人が聖書を解釈する上でそれらの諸前提を用いているという事実をそもそも無視しているわけですから、吟味/評価は循環論法となり、それゆえに意味がありません。)

 

実例を挙げましょう。以下はJoint Federal Vision Statementからの抜粋ですが、この文の中には、「自分たちは、解釈プロセスにいかなる哲学的諸前提も持ち込まない」という暗黙の前提が包含されています。

 

「我々は、聖書自身から引き出されていない解釈的グリッドによって聖書が正しく理解され得るということを否認する。」

 

もしも上記の言明が真であるとしたら、

①聖書を解釈する上で私たちの用いる最初の解釈的グリッドという‟欠落した例外条項”があるのか(その場合、上記の言明はアドホックなものということになります。)、もしくは、

②聖書は正しく理解され得ない、ということになるでしょう。

(*これは学者ぶった批判ではありません。実に、こういった種類のずさんさこそが、彼ら前提主義者たちをして、自らの立場の非一貫性を見ることを困難にせしめているのです。)

 

私たちを隔てている躓きの石が取り除かれるように

 

哲学的無知および誤謬は、私たちキリスト者の一致を妨げているもう一つの躓きの石です。そして、こういった無知や誤謬ゆえに、多くの場合、私たちを分離させている意見の不一致の根本的要因に議論が及びません

 

ですから前提主義のどこに問題があるのかを示すことで、本稿がみなさんにとって有益なものとされることを祈ります。願わくば、この躓きの石が取り除かれ、私たちが一致に向かって共に前進していくことができますように。

 

ー終わりー

 

関連資料

前提主義弁証学における内的論理矛盾について(*R・C・スプロール師は、古典的弁証学の立場を採っています。)


*1:訳注Order of Being(存在の秩序)/Order of Knowing(認識の秩序): Medieval distinction between the ontological order and the epistemological order. For example, Thomas Aquinas believed that God is the ground of existence for all other beings. Hence, in the order of being (ontology), God is primary. However, humans come to know finite objects through their senses first and must infer the existence of God from God’s effects. Thus, in the order of knowing (epistemology), finite objects precede God.(C.Stephen Evans, Pocket Dictionary of Apologetics & Philosophy of Religion,Downers Grove, IL: InterVarsity Press, 2002, p. 86.)出典.

CTC Podcast Episode 4. Faith and Reason.mp3