巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

主人を「出迎える」ーー生活の中のリトルジーと韻律

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出典

 

カルヴァン大学哲学科のジェームズ・K・A・スミス教授は、私たちが生来的にリトルジカルで典礼的存在であると言い、次のように述べています。

 

「私たちはーー自分たちが好み、専心するところのーーリズムや儀式(典礼;rituals)によって形作られ、方向づけられています。、、若い人々は、儀式(リチュアル)から解き放たれたいのではなく、むしろ、儀式解き放ちたい、儀式の中で自由にされたいと望んでいると思います。」(引用元

 

古代教会の祈祷書(アグペヤの祈り、時課等)をひもときますと、それぞれの祈りの時刻に「キリストの十字架上での死」「復活」など、主の生涯における各テーマを私たちが深く黙想することができるよう工夫がなされており、それが霊的韻律となって信仰者を造形するものになっていることに気づかされます。

 

そういった目で周りを見渡してみますと、私たちの生活自体、いかにリチュアルで韻律を伴ったもので満ち溢れているのかに驚かされます。例えば、仕事を終え、家に帰ってくる主人を「出迎える」という日々の行為はどうでしょうか。チャイムが鳴り、玄関に急ぎ、戸を開いて、夫を迎える。

 

イエス様は天の御国のたとえの中で、ともしびを持った花嫁が、花婿を「出迎える」様を描写しています(マタイ25章)。天的かしらであるイエス様を「出迎える」ことが礼拝のクライマックスの一つであるとするなら、地上のかしらである私たちの夫を「出迎える」という日々の儀式は、栄光に富んだ天の光景のアナロジーと言っていいかもしれません。

 

東方典礼の中で私がもっとも感動するのが、聖なるものに対する人々の荘厳なる崇敬と畏れです。御聖体をたずさえた厳かなる行列(procession)を前に、人々は跪き、あるいは十字を切って頭を垂れます。

 

メルカイト東方典礼(出典

 

地上のかしらである私たちの夫の「出迎え」という日々の儀式の中にも、これと同じスピリットが満ち、願わくば、夫たちがそこに、私たち妻の畏敬ある清い振る舞い〔岩波訳〕/うやうやしく清い行い〔口語訳〕(ἐν φόβῳ;1ペテロ3:2)を見ることができますように。そして生活の中のリトルジーを通し、私たちが礼拝者として、妻として、美しく整えられていきますように。

 

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