巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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人間生活の尊厳にかかわる事柄が「多数決」によって決定されていくような教会に属しつつ、果たして人は生を営み続けていくことができるのだろうか?(by クリストファー・フィリップス)

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Fr. Christopher George Phillips(1949-)

 

質問者:フィリップス神父、あなたが以前に属していた信仰共同体にどのような欠けがあったために、あなたの内でカトリックへ改宗したいという思いが生じてきたのですか?

 

フィリップ神父:聖公会信者としての自分にとっての最大の悩みは、「権威の欠如」に関する問題でした。各種決定が聖公会総会によって下される時、私が目撃していたのは、それらの決定がわれわれの信仰や、神学に変更を加えつつあるという事でした

 

例えば、聖公会総会が戒規に関し何か変更を加えるというのなら分かります。それぞれの世帯は自らの望む戒規によって家を整えることができるでしょう。

 

しかしながら、叙階やモラリティー問題に関する諸変更が神学的になされる時、それは投票によって決められるような代物ではありません。

 

私は自問しました。ーー果たして自分は、人間生活の尊厳にかかわる事柄が多数決によって決定されていくような教会に属しつつ、今後も自らの生を営み続けていくことができるのだろうかと。

「いや、自分にはできない。」そう思いました。

 

私は、「神が啓示された内容はこれです。」「これが正であり、これが誤です。」と宣布することのできる教会の中にいる必要がありました。そしてそのような宣布が唯一可能な教会はカトリック教会であることに気づきました。

 

それでは、自分はそれなりに充実していた聖公会司牧生活を離れたかったのでしょうか。いいえ。そうではありませんでした。実際的に言えば、とどまっていた方がいろいろな面で賢明だったことでしょう。

 

しかしそれは適いませんでした。どうしてもとどまることができなかったのです。自分の良心がそれを許しませんでした。そして私は、真の権威が所在する場所に到達しなければなりませんでした。そうです。実に、真の権威が存在する所において初めて人は、何が正であり何が誤であるかを知ることができるのだということに気づかされたのです。(抄訳*

 

ー終わりー

 

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