「ガリレオは、有名なことばを残しました。神は二つの書物を書いた、その一つは言うまでもなく聖書である。もう一つは自然そのものだ、というのです。自然という神の書かれた書物を、一ページ一ページ読んでいくことがいかに信仰にとっても大切なことと考えられていたかは、そうしたことばからも読み取ることができます。」村上陽一郎『新しい科学論』p.106
目次
村上陽一郎著『新しい科学論』第2章「新しい科学観のあらまし」p.110-120
村上陽一郎(1936~)東京大学名誉教授。科学史科学哲学。
信仰から生み出された科学
、、ニュートンもまた、神に対する信仰という点では、これまでにお話ししてきた人びとに優るとも劣らない熱心さでした。ニュートンはデカルトーーあの神の存在論的証明ということに心血を注いだ人物であるデカルトの立場を、神への不信心に連なる可能性があるものとして、厳しく批判しています。
今ここにあげた人びとは、いずれも、ふつうは近代科学の基礎を築いた科学者と考えられています。中世の宗教的迷妄を打破し、近代的で合理的な自然科学を建築するのにもっとも力があったと考えられている人たちです。
ところがコペルニクスやケプラーやニュートンはもちろんのこと、キリスト教会から厳しい迫害を受けたと信じられているガリレオさえ、熱誠溢れるキリスト教的な神への信仰に燃えていた、というのはどういうことなのでしょうか。
もしほんとうに彼らが、近代自然科学の基礎を造り上げた、という考え方に誤りがないとすれば、少なくとも、近代自然科学が、中世の宗教的迷妄の否定、キリスト教的偏見の打は、除去、あるいはそこからの脱出によって築かれたものだ、という常識的な考え方は、訂正されなければなりますまい。
少なくとも彼らは、キリスト教的偏見を捨て、宗教的迷妄から解放されてありのままの自然を見たから「自然科学的真理」に到達することができたのではなくて、この世界の創造主である神が合理的に造り上げたというキリスト教的偏見をもっていたからこそ、「自然科学的真理」を得ることができたといえるのではないでしょうか。
「それは単なる時代的制約というものだ。彼らが生きていた時代は、本質的に宗教と縁を切るようなことは、その最初の段階で不可能だったのだ。しかし、そのことは自然科学的真理の本質とは無関係だ、それは単なる発生論の問題に過ぎない。」こんなふうな反応が予想されます。そしてこの反応は、ある意味では当たっています。
例えば、先にあげた近代自然科学の基礎を築いた人びとが、なべて17世紀に活躍したとすれば、彼らの成果を受け継いで発展させた18世紀の科学者のなかには、自らキリスト教的信仰から独立であり、縁を切ることを宣言する人びとも出てきます。とりわけ、すでに述べましたフランス啓蒙主義の百科全書派の人びとの間にそれが目立ちます。
しかし、先の反応は、事態を充分な目配りで眺めているとは言えないと思います。第一に「単に発生論に過ぎない」という言い方は成り立ちません。なぜなら、問題にしていたのは、まさしく「発生論」に他ならないからです。なぜヨーロッパ文化圏にだけ、近代自然科学が発生したのか、ということが問われていたからです。
それならば、近代自然科学の基礎を築いた、といわれる人びとが、どのような基本的な認識の上に立って、彼らの仕事を行なっていたか、という点こそ重要であるはずです。そしてわたくしどもは、ごく大ざっぱな何人かの例ではありますけれども、そこにキリスト教信仰が不可欠の要素として働いていたことを見たばかりです。*1
聖俗革命
第二に、確かにその後の展開のなかでは、自然科学はキリスト教信仰から切り離されて独立して行きます。そして今では、キリスト教的な伝統とは無縁といってよい日本その他の文化圏でも、充分に通用しています。この点でわたしは、二つのたいせつな点を指摘できると思います。
その一つは、ヨーロッパ文化はその歴史から見れば、17世紀から18世紀にかけて、確かにある変質を経験した、という点です。わたくしはそれを「聖俗革命」ということばで表現しています*2。それは、この時期のヨーロッパの知的状況の全般にわたってみてとれる一つの重要な断面だと思いますが、今の問題に直接関連する論点でいえば、この17世紀から18世紀へかけての、理神論の出現から無神論への移行という図式に見られる過程を眺めることが、その断面を知るのに手っ取り早い方法であると思います。
すでにくり返し出てきましたように、キリスト教の本質的特徴の一つは、この世界を整然たる秩序のなかに造り上げた唯一の人格的創造主である神への信仰ということであります。ところで、この創造主の働きは、どのような形で果たされるのでしょうか。この点について、基本的に異なる二つの考え方があり得ます。
第一には、神の計画は全智全能なる神の立てたものだから、すべて最初から計画のなかに織り込まれている、したがって、神の力は「創造」のときに全面的に働いただけで、あとはその最初の設計図に従って、この自然界は、最初の計画通りに動いているのだ、という考え方です。
これに対して、先ほど、ケプラーに関してちょっと触れました、キリスト教と結びついた形でのネオ・プラトニズムにも特徴づけられているように、神の力は、時々刻々、今も働き続けているのであって、この世界には、常時、神の手の介入があり、「創造」という神の行為も、必ずしもこの世界が全体として最初に創造されたときだけに限定して考える必要はない。今も、またこれからも、それはつねに起こり続けると考えるべきだという考え方があります。
静的創造論か動的創造論か
仮に前者を「静的創造論」、後者を「動的創造論」と名づけるとしますと、どちらからも相手を不信心という形で攻撃することができます。
「静的創造論」の立場に立てば、「動的創造論」は、神が最初に行なった創造の手直しをしなければならないことを主張しているように読み取れますし、そういうことは、神の全智全能に対する重大な冒涜のように見えるわけです。神はすべてのことを知り、すべてのことを見通すことはできる存在なのだから、最初の創造のときに、あらゆる事態に対する配慮もされており、それ以降、いっさいの手直し的な介入など必要ない、ということになります。
他方、「動的創造論」の立場に立てば、「静的創造論」は、神の働きを、最初の創造のただ一点だけに限局してしまい、神の遍在(いつ、いかなる時にも神はその力を示しつつ存在している)ということに対する著しい冒涜になりかねません。
実際、デカルトはどちらかといえば「静的創造論」の立場をとったと考えられていますが、それに対して、ニュートンやパスカルらは、「デカルトはできることなら神なしですませたかったに違いない」として激しくデカルトを攻撃するのです。
最初の創造に際してだけ神の力が必要で、あとはもうその時の青写真の通りに自然は動いて行くだけ、という「静的創造論」が、そんなふうに受け取られたという良い例だと思います。先にニュートンがデカルトを不信心として批判した、と書きましたのは、こんな事情があったからです。
一方、そのニュートンは、ライプニッツから、「おまえの言い分を聞いていると、まるで神は最初の創造のときに、計画違いをし、そのためくり返しくり返し創造をやり直さなければならないと言っているようだ、これが神の全智全能に対する侵害でなくて何であろうか」と非難されるわけです。
理神論の出現
さて、理神論というのは、この二つの態度のうちの「静的創造論」を徹底したもの、とみることができます。こうした考えはデカルトをきっかけに、17世紀後半から18世紀にかけて次第にポピュラーになっていったもので、とりわけスピノザという哲学者がその旗頭とみられています。
スピノザは「神即自然」という一種のスローガンを立てたことで知られていますが、この「神即自然」という表現は、こんな意味だと理解していただいてよいでしょう。ーー神は、最初の創造の時にこの世界を造ります。その時、神は自然界に厳密な秩序を与えます。世界はその秩序の通りに動きます。
ところで、そうなってしまった後、神はどうなるでしょう。もしなお自然の外にあって、自然に対して自らの力を働かせ続けるとすれば「動的創造論」になってしまいます。それを採らないとすれば、神はもはや、自然の「外」にあるというよりは、自然そのものであると考えなければならないのではないか。つまり、神は自分が造ったはずの自然の外に出られなくなり、自分で自分を自然の中に閉じ込めてしまうことになります。文字通り自然こそ神そのものである、という意味の「神即自然」は、そんなふうな内容をもっているわけです。
結局、理神論は、神を最初の創造の場面ただ一点に認め、あとは自然そのものを眺めていればよいことになりましょう。しかし、ではなぜその自然を、まだ依然として「神」と呼ぶ必要があるのでしょうか。
この疑問に達したとき、無神論が登場することになります。「なるほど、創造のときには何か造り手は要るかもしれない。無から何かが生まれるというわけにはいかない。だが実はそこのところは誰にもわからない。わからないことは棚上げにしておけば、とにかく、自然は今かく整然たる秩序の中に動いている、それだけでよいではないか。それをわざわざもう一度『神』と呼び直す必要はないはずだ」というのが無神論の主張になりましょう。
これはディドロをはじめとするフランス啓蒙主義者たちが多かれ少なかれ到達した一つの論理的結果とも呼べるものでした。そして、この18世紀の啓蒙主義者たちは、自分たちの直接の先輩であるニュートンやデカルトやガリレオやコペルニクスの仕事を受け継ぐに当たって、彼らの仕事の中から、ことさら宗教的な色彩を消し去り、そうしたものから独立した知の体系としての自然科学というものを印象づけようとした、と言うことができると思います。
キリスト教的自然観の形骸化
自分たちは無神論の立場に立つことによって、宗教的な桎梏から逃れることができた、とすれば、自分たちの先輩たちの仕事もまた、そうした桎梏から解放してやるのが至当ではあるまいか。
こうして、コペルニクスやガリレオやケプラーやデカルトやニュートンの共通の前提であり、「先入観」であったキリスト教的信仰は、すっかり邪魔物として取り払ってしまった上で、彼らの仕事の結果の部分だけを、これこそほんとうの科学だ、として再提示してみせてくれたのが、フランスの百科全書派の人たちだった、と言っても、それほど大きなまちがいにはなりますまい。
17世紀の人びとにとって、科学とは、この自然界の創造主たる神が、この自然の中に自らのどのような計画を描き込んだのか、という点を、自然を研究することによって人間が知り、それを通じて神のみごとな御業を讃える、という営みとして考えられていました。
18世紀の人びとにとっては、科学は、自然のなかに現れている秩序の追究という営みを指すことになって、造物主であり、創造主であり、かつ計画の立案者である神のことは棚上げにされ、故意に忘れ去られました。わたしくはこの過程を「聖俗革命」と呼んでいます。
17世紀の人びとにとっての「科学」のもつ意味合いと、18世紀の、とりわけ啓蒙主義者たちにとっての「科学」の持つ意味合いとの間には、非常な重要な差があります。そして言うまでもなく、今日のわたくしどもは、18世紀啓蒙主義者たちと同じように「科学」を考えているのです。
第1章でくわしく眺めた、科学に対する今日の常識的な考え方の大部分は、啓蒙主義者の「科学」に対するイメージ造りをそのまま受け継いでいるわけです。
だからこそ、啓蒙主義者たちが闘わなければならなかった宗教的「桎梏」は、科学の敵とみなされもするわけですし、キリスト教の中から科学が生まれたという事実も認められないことになるのです。もう少し先走って言ってしまえば、現在のわれわれの常識は、啓蒙主義的「偏見」や「先入観」の上に形づくられていることにもなるわけです。
この18世紀の「聖俗革命」のもつ意味は、確かに予想以上に大きいことーーつまりそれは「科学」の意味を一変させたにとどまらず、今日まで巨大な影を投げかけているからですがーーは確認しておかなければなりますまい。
そして、この点から見る限り、科学はキリスト教的信仰と無縁のものとして存在することになりますが、それは言ってみれば啓蒙主義以降の「科学」という概念の定義上そうなるわけです。そしてそれゆえに、発生論を故意に切り離され変質させられた「科学」が、キリスト教文化圏以外の日本やその他にも受容されることができるようになったのでしょう。
形骸化とは一つの継承性の現われ
しかし、この問題についてもう一つのたいせつな点は次のようなことです。確かに「聖俗革命」によって科学は変質しました。聖俗革命以前の科学を科学A、以後の科学を科学Bと呼ぶとすれば、科学Aの中にあったキリスト教的な諸概念は、科学Bにあっては払拭されてしまいました。
つまり、科学Aの持つ聖的な構造は、科学Bでは俗ーーこの俗ということばは「俗っぽい」とか「通俗的な」という意味はもっていません。あくまでも「聖」に対する「俗」なのです。ーーの構造へと転化しました。変質が起っているわけです。
けれども、ここで気をつけておかねばならないことは、確かにそれは変質であるにもかかわらず、科学Bは、科学Aからその基本構図を受け継ぐことによって初めて生まれ得た、という点です。
すでに「静的創造論」か理神論へ、そして理神論から無神論へという考え方の転換をお話ししましたが、その転換は、一種の論理性さえ帯びていたことからもお分かりのように、無神論は理神論を土台にしていましたし、その理神論はキリスト教的な創造主観ーー少なくともその一部ーーを基にして生まれて来たものでした。
つまり、ある言い方をすれば、ここに現われた無神論は、キリスト教的な創造信仰の一つの変形であることにもなりましょう。神がこの自然を造り、しかも、その創造に際しては見事な合理的秩序の中に自然が置かれた、という前提をぬきにして、理神論と無神論もなかったはずだからです。
当然のことながら、一般に無神論といったときには、この型の無神論ばかりではないでしょう。例えば、日本における無神論は、おそらくは、この型の無神論とは縁もゆかりもないものだと思います。
だが少なくとも、18世紀以降ヨーロッパの無神論は、結局のところ、キリスト教の構造を背中に背負っている、という宿命的な特性を持っている、とみなしてよいと思われますし、その意味では、近代自然科学は、キリスト教から完全に自由にはなっていない、とみることも充分可能であるようにわたくしには思われます。
ー終わりー