巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

神の摂理的導きと教会の悪ーークリスチャンにはいかなる回答が可能なのか?

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「現在、多くの宗教は、妙に愛想のいいバザール商人のごとく、なれなれしい媚び笑いと開かれた両手でわれわれの前にやって来ている。彼らは、市場でやるように互に競い合いつつ、盛んに慰めやら連帯やら励ましやらを提供しようとしている。しかしその昔彼らが強かった時代、こういった連中がどれほど野蛮に振る舞い、そして人々が拒むことのできない強制力でもってそれらを ‟提供” してきたのかという事を思い出す必要がある。」

ーー新無神論者クリストファー・ヒッチェンズ(God Is Not Great: How Religion Poisons Everythingからの引用)

 

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モルモン教や、エホバの証人や、セブンスデー・アドベンチストや、プロテスタンティズム等が自らの歴史観の中に取り入れている「初代教会背教説」を採ってしまうと、可視的キリスト教会史を通して働かれる神の主権的力および摂理的導きに疑問が付されてしまい、且つ、ある種の教会的理神論/ドケティズム/グノーシス主義の形態を甘受しなければならなくなるだろう。

 

そうかといって、カトリック教会のように、可視的キリスト教会に対する神の主権的力および摂理的導きの正しさを告白/宣言してしまうや今度は、これまで可視的教会の中で犯されてきた数々のリアルな悪の問題が生々しく浮上して来、私たちは、世界や自らの良心の声すべてを敵に回してしまうことにならないだろうか?

 

そしてこの点において、教会的理神論/ドケティズム/グノーシス主義は、「真のエクレシアの不可視性」という概念の中にクリスチャンが逃げ込むことを可能にしてくれているのかもしれない。

 

それは偽りの逃げ場であるのかもしれない。そして逃げ場を作らない無神論者たち(および逃げ場を作れないカトリック弁証家たち)の方がこの点においてむしろ正直でまっすぐなのかもしれないとも思う。ああでも、真の教会の真の悪に対する回答を持たずに無神論との死闘を繰り広げる悪夢を思うと恐怖で足がすくんでしまう。「大審問官」の中でドストエフスキーが突きつけているあの根本的問いに私たちキリスト者はどのように向き合うことができるのだろう?主よ、この問いに対する答えを与え給え。