巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

教会一致のしるしの体現者ーーキュリロスとメトディオス(9世紀)

Related image

キュリロス(右)とメトディオス(左)

 

目次

 

久松英二著『ギリシア正教 東方の智』第3章 スラブ諸教会の成立と「大シスマ」 (講談社選書メチエ)から一部抜粋

 

キュリロスとメトディオスの活動

 

一方、その間に、テサロニケ出身のキュリロスとメトディオスはモラヴィアで活動を開始していた。故郷テサロニケは多くのスラヴ人が居住していたので、二人は自然にスラヴ語をマスターすることができた。彼らがどれほど宣教活動にふさわしい能力を有していたかは、彼らの死後すぐに著された伝記『コンスタンティノス伝』からうかがい知ることができる。

 

それによれば、キュリロスは俗名を「コンスタンティノス」と称し、826年かその翌年に生まれ、コンスタンティノポリスの有名なマグナウラ宮殿の大学で当代最高の学者たちのもとで学んだ。フォティオスも教師の一人だった。「哲学者」という異名を持っていたことからも察せられるように、コンスタンティノスは、すでに若くして学者としての名声を博していた。

 

彼より若干年上の兄メトディオスは俗名ミカエルと称したが、青年時代のことはほとんど知られていない。テサロニケ軍管区の一部を成したと思われるスラヴ人居住区の行政官を務めていたが、856年に出家し、小アジアのオリュンポス修道院の院長となった。メトディオスは教会の実践面に、コンスタンティノスは学問的議論や交渉手腕に秀でていた。後者はサラセン人のもとで外交使節として活動したのち、兄のいる修道院に退いた。

 

860年ごろ、二人はハザール国(7世紀から11世紀にかけて黒海北部に定住していたチュルク系のハザール人が立てていた国家)への帝国使節団のメンバーとして派遣された。ハザール国にはユダヤ人の難民が多く流入したことも影響して、住民の多くがユダヤ教を奉じていた。コンスタンティノスはクリミア半島の古都ヘルソンに到着したのち、ヘブライ語を習得した。

 

伝記によれば、彼は「ルシュク」という言語で書かれた福音書と詩篇を発見したとされ、またこの言語を知っているある男に出会ったという。これはロシア文字だと主張する学者もいるが、そうなるとこの時期にすでにスラヴ語のアルファベットが存在していたことになる。そうではなく、これはシリア語アルファベットだったとも言われているが、いずれにしろはっきりしたことはわからない。

 

教皇からの厚遇 

 

コンスタンティノスのヘルソン滞在中に起こった最も注目すべきエピソードは、ローマの聖クレメンス(30年頃~101年頃)の遺体の発見である。この人は、ローマの伝承によれば、使徒ペトロの三代目の弟子としてローマ司教の地位にあったが、首に錨を巻きつけられて黒海に沈められて殉教したという。

 

コンスタンティノスはクレメンスの遺骨の一部をコンスタンティノポリスに持ち帰り、さらにモラヴィアに携え、最後に868年、クレメンスゆかりのローマに持ち込んだ。これを教皇ハドリアヌス二世(在位867年~872年)に引き渡したことで、コンスタンティノスはのちにラテン人からの尊敬を一身に集めることとなる。

 

コンスタンティノスは、初めてスラヴ語アルファベットを発明したが、よく言われるように、それはのちに南スラヴや東スラヴに定着したいわゆる「キリル文字」ではなく、「グラゴル文字」であったという。グラゴル文字は、ギリシア語小文字をもとにしてつくられたものである。

 

二人は聖書や典礼書また教会法規書などを翻訳し、典礼の言語としてのスラヴ語の普及はもちろん、スラヴ語の書物一般の普及のために大きな役割を果たした。

 

864年の夏、ルートヴィッヒ二世(ドイツ人王)の遠征軍がモラヴィアを攻略し、ロスチフラフは、フランク王国の宗主権を再び認めたので、フランク教会のモラヴィア教区再編が始まった。しかし、コンスタンティノスとメトディオスはモラヴィアやパンノニアで精力的に活動し続けた。だが、人手の足りなさはいかんともしがたく、彼らはスラヴ人司祭を一人でも多く得るべく彼らを叙聖させる主教をコンスタンティノポリスから連れてこようと計画した。

 

しかし、出発しようとした矢先、教皇ニコラウス1世からの招待の知らせが届き、行き先をローマに変えた。教皇からの招待の意図も、またこれを受けてローマ行きを決めた二人の意図も明らかではないが、たぶんに偶発的なものであったと思われる。

 

一行は867年12月にローマに到着したらしいが、ニコラウスは前月に病没して、ハドリアヌス二世が新教皇になったばかりであった。ハドリアヌスは一行を大いに歓迎した。聖者クレメンスの遺骨をローマにもたらしたからである。すでに指摘しておいたように、二人の名がそののち西方でも記憶されるようになったのは、もっぱらこの聖クレメンスの遺骨のおかげであり、聖遺物のご利益とでも言えよう。

 

スラヴ語典礼へのフランクの対抗措置 

 

ところが、二人の影響力が消え去ろうとしているのを見計らって、フランク・バイエルンの司教たちはモラヴィアにおいて彼らのなした活動の実を根絶するために、典礼におけるスラヴ語使用を異端として公然と非難し始めた。『コンスタンティノス伝』によると、司教たちは「三言語説」を唱えたという。

 

神は「三つの言語しか選ばなかった。それはヘブライ語、ギリシア語、ラテン語で、神を賛美するにふさわしい言語である」と主張して、スラヴ語による典礼を攻撃したのだ。もちろん、三言語説の公的な論拠はまったくない。

 

一方、教皇ハドリアヌス二世は、コンスタンティノスとメトディオスの働きに賛同し、ローマに滞在している間、スラヴ語による典礼を認めた。すでに重い病を患っていたコンスタンティノスは、修道誓願を立て、キュリロスという修道名を付与され、正式に修道士となったが、わずか数週間ののち、869年2月に死亡した。ギリシア人もローマ人も彼の葬儀に参列した。

 

シルミウムの大司教メトディオス 

 

教皇はメトディオスを司祭に叙聖し、パンノニア王コツェルの要請に従い、彼をパンノニアに派遣した。その際、モラヴィアとパンノニアの王に宛てた書簡「グロリア・イン・エクセルシス」を持って行かせたが、それはスラヴ語典礼を承認する内容であった。ただし、聖書の書簡と福音書については、まずラテン語で奉読し、しかるのちにスラヴ語訳で朗読せよとの条件が付された。 

 

869年の末または870年の初めに、教皇はメトディオスをモラヴィアとパンノニアを管轄区とするシルミウム大司教に叙聖した。シルミウムは聖アンドロニコスを初代主教とする由緒ある町で、ずっとローマ教皇の管轄下にあったが、六世紀の終わりにアヴァール人によって破壊され、司教区としては事実上消滅していた。

 

ここに新たにシルミウム大司教座を据え、スラヴ人メトディオスを大司教として派遣することは、モラヴィアの宗主権を握っているフランク王国にすれば、自分たちの権益への攻撃としか映らなかった。

 

フランクとの確執で浮上した「フィリオクェ」 

 

案の定、メトディオスはフランク教会側に逮捕され、870年の秋ラティスボン(現レーゲンスブルク)で開かれた聖俗両界の代表による会議で告発され、スヴァビア(おそらく現エルヴァンゲン)の修道院に幽閉されてしまった。このときの告発の罪状は異端ということであるが、聖霊の子からの発出の否認というのがその内容で、つまり、あの「フィリオクェ」問題がここで再浮上したのである。 

 

前章でも触れたように、元来のニカイア・コンスタンティノポリス信条は、聖霊が父なる神から発出するということになっていたが、「子からも」発出するということを表明する「フィリオクェ」という語が挿入された形のものが、六世紀のスペインで使用され始め、これがしだいにフランク教会で一般化し、ついにアーヘン司教会議(809年)で、公式に補挿句入りの信条採択が決定されていた。

 

東方出身のメトディオスは当然フィリオクェなしの元来のニカイア・コンスタンティノポリス信条を使用していたし、ローマ教会もまだこの時点ではフィリオクェを教義としては認めていなかった。したがって、ローマにすればメトディオスの異端宣告は的外れもいいところであったが、結局、873年のメトディオス釈放までには約二年半の歳月を費やすこととなった。

 

メトディオスの死

 

釈放を実現させたのは教皇ヨハネス八世(在位872年~882年)であったが、フランク教会から突きつけられた二つの譲歩を吞むことが条件であった。

 

第一に、モラヴィア管轄用にニトラに司教を置き、ドイツ人ヴィヒンクをその地位に叙聖すること、第二は、典礼の言語としてのスラヴ語の禁止または制限である。

 

しかし、メトディオスの活動は日増しにフランク側を刺激したので、またも聖霊の発出をめぐる異端のかどで、再び攻撃をしかけられてきた。そこで、彼はローマに召還され、教皇の前で弁明することとなった。

 

弁明の内容はフィリオクェなしの信条の正統性の主張であったが、教皇はこれを受け入れ、880年、メトディオスの大司教としての地位を再確認し、典礼言語としてのスラヴ語を認めた。ただし、ミサにおける福音書奉読の際にはラテン語で読み、次いでスラヴ語訳をつけるという条件は変わらない。 

 

だが、885年にメトディオスが没したことで、ニトラの司教ヴィヒンクらによるメトディオスの異端視運動が再開した。ヴィヒンクは、教皇ステファヌス五(六)世(在位885年~891年)に取り入って、おそらく教皇の教書を偽造して、モラヴィアの大司教の地位に就いた。これに呼応して教皇はスラヴ語典礼を禁止した。

 

ヴィヒンクはその後、メトディオスの弟子たちを投獄追放、あるいは奴隷に売るなどして、キュリロスとメトディオスが築き上げてきた事業の成果を一掃した。弟子の一部は886年かその翌年に第一次ブルガリア帝国に逃れ、そこで活躍することとなった。彼らの活躍の成果が真に花開くのはこのブルガリアにおいてであり、スラヴの正教会の発展の基盤はここから始まったのである。

 

キュリロスとメトディオスの活躍の意義 

 

キュリロスとメトディオスの運命とその事業は、当時の教会情勢全体に独特な光を投げかけている。正教徒でありつつローマ管轄に属していた二人は、「慣行の多様性」を特徴とする教会一致のしるしを体現していた

 

コンスタンティノポリスとローマが、ギリシア語とラテン語を定着させていた時代に、スラヴ語による典礼を促進もしくは少なくとも容認していたことは、かつてのビザンツ帝国領から分離した東方諸教会で実践されていた各民族言語の使用という、古代教会の原則を引き継いでいたということができる

 

ところで、メトディオスは敵対する相手から教義の逸脱を非難されたが、それは、彼がフィリオクェなしの信条を使用していたからということであった。キュリロスは、ローマでこの点の弁明を余儀なくされたが、その際、彼はフィリオクェなしの信仰告白をベースとした「真の信仰を解説する」というかたちで弁明した。

 

そして、二人とも教皇たちからその正統性を認められたのである。なぜなら、フィリオクェ付きの信条はローマにおいてもまだ受けいれられてはいなかったからである。ところが、この問題は次に見るブルガリアにおける宣教をめぐる東西間の紛争で、再び表面化する。

 

ー終わりー

 

正教会

亜使徒メフォディイ及びキリルの祭日(正教会の祈祷書)

カトリック教会

聖人カレンダー 7月7日 聖キュリロス/聖メトディオス(女子パウロ会)