巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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受肉の神秘ーー現代に語りかけるトマス・アクィナス

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「私の神よ、私があなたを忘れても、あなたは私を忘れないでください。私があなたを見捨てても、あなたは私を見捨てないでください。私があなたから離れても、あなたは私から離れないでください。私が逃げだしても呼びもどし、反抗しても引き寄せ、倒れても起きあがらせてください。」アクィナスの祈り

 

山本芳久著『トマス・アクィナスーー理性と神秘』p.262-264,p.267-272(抜粋)

 

たとえば、『神学大全』第3部第46問題第4項においては、「キリストは十字架において受難しなければならなかったのか」という問いが立てられ、「キリストが十字架の死を蒙ったのは最もふさわしいことであった」としつつ、7つの理由が列挙されている。

 

そのさい、「詩篇」「ヨハネ福音書」「エフェソの信徒への手紙」といった聖書に含まれる諸文書のみではなく、アウグスティヌス『83問題集』『ヨハネ福音書講解』、ヨハネス・クリュソストムス(347頃ー407)『十字架と盗賊について』、ニュッサのグレゴリウス(330頃ー395頃)『キリストの復活』といった東西の教父の著作を豊富に引用しながら議論が進められている。

 

教父たちの「権威」によってトマスは自らの見解を正当化しているというよりは、むしろ、受肉の神秘に対する古代以来の優れた思索と自らの思索とを接続させ、単なる個人的な見解に還元されることのない、歴史的な厚みのある論述を展開しようとしている。

 

我々は、トマスの声だけではなく、神秘に触れた教父たちの心の奥底から発された多様な声が時空を超えて響き渡る空間へと、トマスによって編まれた論述を通して導き入れられるのである。

 

「受肉の神秘」という人間理性による把握を超えた事柄の意味するものを、それにもかかわらず理性に基づいて探求しようとするトマスは、徒手空拳で孤独な取り組みをすることはしない。最大の手がかりである聖書を熟読しつつ、自らの先行する教父たちが探求の果てに残した熟考の精華を網羅的に列挙しつつ独自の視点に基づいて編集し直すことによって、自らの限りある視点のみではなく、多面的に様々な角度から手応えのある議論を積み重ねている。

 

雑然としているようにさえ見えかねない列挙方式を採用することによってこそ、「受肉の神秘」が人間にとって持ちうる意義の多面性が、多面的なままに、全体として浮き彫りになっていく。

 

特定の原理から出発して演繹的に議論を進めていくタイプの議論からは原理的に生まれてくることのできない豊かな洞察が、全体として一つの言語宇宙を形成し、「受肉の神秘」が、卓越した神学者たちの理性の共同作業を通じて、人間理性に可能な限り解読されていくことになる。

 

そしてトマスのテクストに触れる読者は、列挙されている議論のすべてから心を動かされることはないかもしれないが、自らの心を触発してきた聖書や教父の引用に惹かれ、その聖書の文書や教父の著作へとさらに手を延ばすことによって、「受肉の神秘」を自らの理性を駆使して探求していくための大きな手がかりを与えられもするのである。

 

ーーーーーー

「神秘」と「理性」は決して相反するものではない。受肉の「神秘」と出会うことによって、人間の「理性」は、それまでは思ってもみなかったような仕方で、神について、そして人間について、新たな仕方で考察するための手がかりと動機づけを与えられる。

 

「神秘」は、「神秘」であることによって「理性」を拒むのではなく、むしろ、「理性」による新たな探求を促し続ける。だが、「理性」によって理解し尽くされることは決してない。理解し尽くされないからこそ、汲み尽くしえない意義と魅力の源泉であり続けることができるのだ。「把握を超えている」という言い方のなかには、理性によって理解可能だが理解し尽くすことはできないという神の神秘のこのような両義性が実に絶妙な仕方で表現されているのである。

 

「理性」と「神秘」

 

以上の論述によって明らかなように、聖書を通じて人間に啓示される諸々の事柄ーーそれは「神の受肉」に極まるーーが「神秘」と呼ばれるのは、人間理性による接近を拒むものという意味ではない。むしろ、それは、人間の理性的な探求を惹きつけてやまない根源的な謎だ。

 

「神」と呼ばれる絶対的な何ものかが存在するとしたら、それは原理的に人間理性による把握を超えているはずだから理性によって探求しても意味がない、とはトマスは考えない。だからといって逆に、人間理性によって「神」を理解し尽くすことができるとも考えない。

 

すべてを把握できるはずという傲慢からも、何も理解できるはずがないという諦めからも解放されて、イエス・キリストによって開示された神の神秘へと理性によって肉薄していこうという開かれた態度、それがトマスの探求を貫いている根本精神にほかならない。

 

理性は、理性を超えたものとの出会いにおいて、その無力さを露わにするのではなく、むしろ、その本領を発揮する。自らの力を超えたものを理解すべく格闘するなかで、自らが、思いがけないほどの豊かな力を有していることをあらためて自覚していくことができる。そのような格闘こそが、トマスの驚異的な知的達成の原動力であったのだ。

 

こうした仕方で、人間の「理性」と、「理性」を超えた「神秘」である神との絶妙な絡まり合いが、トマスの思想体系を隅々まで支配しており、「理性」と「神秘」の相互関係を軸とすることによってこそ、トマス哲学・トマス神学の本質が最も的確な仕方で浮き彫りになる。

 

恩寵は自然を完成させる

 

トマスの有名な言葉の一つに、「恩寵は自然と破壊するのではなく、むしろそれを完成させる」(I, q.1, a.8, ad2)というものがある。トマスの調和的精神を象徴する言葉だ。類似した言葉として、「恩寵は自然を自然の在り方に基づいて完成させる」(I, q.62, a.5)というものもある。

 

人間を遥かに超えた神は、超自然的な恩寵に基づいて人間に働きかけてくる。だが、だからといって、その働きかけを受けた人間は、人間としての自然な在り方を失ってしまうのではない。また反対に、外から到来する恩寵は、人間がもともと自然に追い求めているものを都合よく満たしてくれるだけの存在でもない。

 

「目が見たこともなく、耳が聞いたこともなく、人の心に思い浮かんだこともなかったこと、これこそ、神がご自分を愛する者たちのために用意してくださったもの」(1コリント2:9)と言われるほどの恩寵、「神の本性に分け与る」というような信じ難いほどの恩寵に参与させられることを通じて、自らの精神が心底追い求めていたものが、自らの元々の思いを超えた仕方で与えられ、実現させられる。人間であることを限りなく超えていくことこそ、真に人間的なことなのである。

 

現代に語りかけるトマス

 

トマスにとって、人間が理性的存在であるということは、理性によってすぐに理解できる事柄に安住することを意味しているのではない。また、理性の行使を通じて獲得することができるような「枢要徳」を身につけるということに尽きるのでもない。

 

「恩寵のみ」「信仰のみ」「聖書のみ」といった信仰主義的な仕方ですべてを解決しようとするのではなく、「理性」を徹底的に重視するところにトマスの探求精神の最大の特徴があるが、そのさいの「理性」は、理性を超えたものへと限りなく開かれたものだ。

 

理性を超えた神秘との対話のなかで、理性の働きの及ぶ範囲を絶えず拡大し続ける自己超越的な在り方を常に担い続けていくことこそが、真に理性的な態度だと捉えられている。

 

哲学史においては、トマスは、信仰と理性を調和させた人物として紹介されることが多い。だが、その「調和」を静的なイメージで捉えると、極めて大事なことを捉え損なってしまう。人間理性は、啓示を通じて開示される神の神秘と出会うことによって、自らの限られた能力に絶望してしまうのではない。むしろ、自らの理性をその極みまで活用するための決定的な問いを与えられる。

 

信仰において出会われる神の神秘は、人間理性に限りない刺激を与え、自己の既存の在り方を超えた絶えざる探求へと人間を動的に動かし続けていくのだ。

 

世俗化した現代世界において、最も見失われていることの一つは、まさにこのような、理性と、理性を超えたものーー宗教的超越者ーーとのバランスの取れた関わり方ではないだろうか。

 

何らかの宗教を信仰し実践する人にとっても、特定の信仰を実践することのない人にとっても、「信じる」ということは、人間の知的活動と切り離された非合理な営みとして捉えられがちだ。

 

「神」という言葉で呼ばれてきた慈愛に満ちた世界の根源を信じるということ、理性を超えた「神秘」を自らの人生に意義を与えてくれるかけがえのないものとして受け入れること、現代においてそのような在り方を追求しようとするさいに、人間理性の開かれた可能性を肯定するトマスの神学は、極めてバランスの取れたモデルを提供してくれるのではないだろうか。

 

なぜなら、理性を超えた「神秘」を受容することが、理性の役割を否定したり人類の様々な知的な達成を拒否したりすることにつながるどころか、むしろ人類に普遍的な理性の積極的な役割をより強く是認することにつながりうるような視座を、トマスは提供してくれているからだ。

 

死後700年以上を経て、トマスのテクストは、このような仕方で、いまだ汲み取り尽くされていない豊かな読解可能性を、読者である我々に与え続けてくれているのである。

 

ー終わりー

 

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彼(トマス)は大柄で、よろよろして、無口で、すこしぼんやりした人であった。ケルン大学の同級生たちが彼のことを、「だんまり牛」だと言ってからかったとき、師のアルベルトゥスは、「いつかはこの牛の啼声が全世界に満ちるだろう」と言った。(E・ケァンズ、『基督教全史』p.318)