巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ソリ・デオ・グロリア(「ただ神にのみ栄光」)に関する省察(by ジョナサン・ディーン)

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Jonathan Deane, A Salient Moment – Reflection on Soli Deo Gloria, 2009(拙訳)

 

ジョナサン・ディーン。カリフォルニアのカルバリー・チャペルでイエス・キリストを信じる。その後、ディスペンセーション主義神学に対する疑問が生じ、カルバリー・チャペルを離れ、OPC(Orthodox Presbyterian Church)に、そして数年後、同じ長老派内の別の教団PCA(Presbyterian Church in America)に移る。さらにその後、探求を続けていく中でカトリック教会へと導かれる。分子生物学で博士号。遺伝子学の研究所Genomics Institute of the Novartis Research Foundationの研究員。Podcast Episode 1 - Dr. Jonathan Deane's Conversion Story

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およそこの地上に存在する宗教の中で、カトリシズムというのは、自分にとり、受容可能性ゼロの宗教でした。

 

大概のプロテスタント信者と同様、私も、福音の全ては、神に栄光を帰することであり、ただ神にのみ栄光を帰することであるという事を是認していました。ですから、どんなにキリスト教的に見えても、その中心的肝要点の欠落しているような信仰は、自分にとってはまがい物に他なりませんでした。

 

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しかしこういった主張をするに当たり、私は異なる神観を持っていただけでなく、自分自身をも異なるレンズで見ていたのです。

 

カルヴァンは、『キリスト教綱要』の第1篇の冒頭で次のように述べています。

 

「われわれの知恵はーーそれが真にして堅固なる知恵とみなされる限りにおいてーー二つの部分に分けられる。一つは神に関する知識、そしてもう一つはわれわれ自身に関する知識である。しかし両者は多くの紐帯により互いにつながりを持っているため、二つの内のどちらが先行し、他方を生み出しているのか、それを判断するのは容易なことではない。

 

 それゆえ、すべての人は、自分自身に関する知識を得ていくに当たり、神を求めるよう内的促しを受けるだけでなく、神を見い出すよう導かれる。他方、人は、ーーその人が前もって神の御顔を黙想し、そういった黙想の後に自分自身に関し検討するまではーー、決して、自己に関する真の知識を得ることはできない。」

 

福音主義から、改革派神学への移行により、私の地平は拡がり、私は契約という概念に導かれました。人間は誰一人として孤島ではなく、そういった基本的前提理解から、幼児洗礼などを受け入れるようになりました。しかしそこには依然としてはっきりした一線があり、それは明確に輪郭化されていると私は考えていました。イザヤ書には次のように記してあります。

 

「わたしは主である、これがわたしの名である。わたしはわが栄光をほかの者に与えない。また、わが誉を刻んだ像に与えない。」(イザヤ42:8)

 

功徳の概念や、聖人たちの執り成し、(典型的な改革派の教会堂と対照をなす)カトリックの十字架像にみられる基本的美学などはーー、自分たち改革派の人間が決して足を踏み入れることのない別の世界を物語っていました。

 

そういった教えを受け入れるというのは、自分にとっては、ーー神の栄光が、塵に過ぎない一介の人間たちに与えられている栄光によって従属させられているーー、そのような場所に自らの身を置くに等しい行為でした。

 

カトリシズムを受容した今、多くの人々は私が以前の神観を捨て、神に対してだけ捧げられるべき栄光を拒否してしまったのだと思っておられます。しかし、前述のカルヴァンの言明のように、ソリ・デオ・グロリア(「ただ神にのみ栄光」)をカトリックの視点から理解する上での鍵となるステップは、自分の神学的理解における量子力学的飛躍ではなく、むしろ、自分自身をより良く知っていく過程の中で起されました。

 

私たちの救い主が、ご自身の民、ご自身の牧場の羊として私たちのことをお語りになっている言葉ーーこれらは実際、神が御自身の栄光を分かち合うことをどのように考えておられるかについて、どんな思弁以上に力強いものです。キリストは御父に言われました。

 

「父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。」(ヨハネ17:21)

 

プロテスタントの読者のみなさんに考えていただきたいのは、ヨハネの福音書のこの聖句の中に明確に純化/蒸留されている、ご自身の子たちに対し主が抱いておられるビジョンである大いなる一致についてです。

 

しかしご自身の栄光を共有することに関する神の見方および御心に対し、私の心の眼が開かれていく中で気づかされたのは、それが、一致のためのイエスの祈りの土台であるという事でした。私たちは、神の‟チーム”を拡大・拡張させるためだけに一つに召されているのではなくーー、私たちがリアルなもの、有形にして触知することのできるなにかを共有しているがゆえに、一つになるよう召されているのです。

 

そしてその〈なにか〉とは、キリストが私たちに与えてくださっている栄光です。そして主が栄光をご自身の子たちと分かち合ってくださっているのを見る時、私は目を上げ神を仰ぎ見ます。

 

しかし誤解なさらないでください。神は、己れを誉れを受けるべき者とみなす詐称者たちにねたみを起こされる御方です。しかしながらご自身の子である私たちに対しては、そこには質的相違があります。

 

神は、処女マリアや聖人~~の功徳/善良さゆえに彼らに誉れを与えているのではなく、ただひとえにそれらの人間たちが、無限の神に結び付いているからなのであり、栄化されることによって生じる自然的結果が、創造主なる神とつながりをもっている被造物の内に見い出されるこの畏怖ゆえなのです。

 

にもかかわらず、神の偉大なる恵みゆえに有限なる者に授けられている無限なる固有価値は無限です。ですからそれを私たちがそれ以外の方法で取り扱うことは、神を神ご自身として見ることにも、私たち自身を私たち自身として見ることにもならないのです。

 

神の与えてくださっている、言語に絶する賜物ゆえに主に感謝します!