巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

エフェソス公会議(431)及びカルケドン公会議(451)について(by ブライアン・クロス、マウント・マースィー大学)

431年に開催されたエフェソス公会議(出典

 

目次

 

Bryan Cross, The Councils of Ephesus and Chalcedon, 2010(拙訳)

 

全地公会議に対するプロテスタントとカトリックそれぞれの捉え方

 

多くのプロテスタントの方々は、最初の4つの全地公会議を進んで是認しようとしています。感謝なことに、この点において、カトリックとそういったプロテスタントの方々の間には共通の土台があります。

 

しかし大半のプロテスタントは、カルケドン公会議(451)以後に行なわれた公会議に関しては、これらを否認するか、もしくは曖昧な態度を取っています。そしてこれにより、プロテスタントは一方の側に、そしてカトリック/正教徒はもう片方の側に互いに分離されています。

 

エフェソス公会議

 

プロテスタントがカルケドン公会議以降の公会議を受け入れようとしたがらない理由のいくつかは、〔カルケドン以後の〕公会議での諸教理を支えるための、明瞭明白なる基盤を聖書の中に見い出すことができないことに起因しています。

 

この点においてプロテスタントとカトリック教会を分け隔てているのは、「もしも聖書がある教理を明確に説明していないのなら、その教理は主要教理ではなく、教会はそれを主要な教理として宣言する権威を持ち合わせていない」というプロテスタント思想に在ります。

 

また別の理由として挙げられるのは、カルケドン以後の公会議での教えが、第3、第4公会議で決議されたドグマをどのように受け継いでいるのかーー、そこら辺の相関性を捉えることに彼らが困難を覚えていることにあると思います。

 

プロテスタントの方々は、三位一体やキリストの二性に関する諸教理が聖書から導き出され得るということは了解していますが、例えば、キリスト単意論(キリストにはただ一つの意志しかもっていなかった)などは、哲学的であり、聖書の扱える領域を超えているように感じている場合が多いのではないかと思います。

 

告白者マクシモス

 

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告白者マクシモス(Μάξιμος ο Ομολογητής;580年頃ー662年)

 

しかし、ここで告白者マクシモスのことを取り上げてみることにしましょう。AD655年、75歳という年齢で、マクシモスは皇帝からの命により逮捕され、異端者として裁判にかけられました。その咎は、彼がキリスト単意論に関連した妥協説に甘んじることを拒否したためでした。(時の皇帝は、この妥協案を支持していたのです。)

 

こうしてマクシモスは国外追放され、662年に引き戻された上で再び、コンスタンティノープルで裁判にかけられました。(その時の咎も前回と同様、キリスト単意論に関連した妥協説に対する断固とした彼の拒否にありました。)

 

こうして有罪判決が言い渡され、彼がもう二度と話したり書いたりできないよう、彼の舌は切り取られ、右手が切断されました。その後、彼は見せしめのために街中を引き回され、なぶりものにされた挙句、再び国外追放されました。こうしてその年、彼は息絶えました。

 

もしも聖マクシモスが、人間が作ったに過ぎない哲学的根拠だけを頼りに立っていたのなら、彼は聖人にも殉教者にもなっていなかったでしょう。

 

マクシモスは熟知していました。ーー私たちには意志がある。従って、そこから不可避的に導かれるのは、つまり、イエスは完全に人間であったので、人間の意志を持っていたに違いないと。そうでなければ、イエスは完全には人間になれ得ず、ただ単に人間の肉体を持っているだけということになる。(ロゴスを所持したゾンビのように。。。これはアポリナリオス主義です。*1.)

 

もちろん、三位一体神の第二位格は、彼が人間本性をとった時、神的意志を決して失ってはおられませんでした。それゆえに、キリスト単意論は、ダイレクトにキリスト単性論から来ています。

 

それ故、聖マクシモスは、拷問、捕囚、死を甘受してでも、キリスト単意論の問題に対し妥協することを自らに許さなかったのです。キリスト単意論はキリスト単性論と同様、異端的です。キリストが二意志を持っていたということを否定することは、受肉を否定することに他ならず、それゆえに、キリスト教信仰全体を否定することになります。

 

ですから、仮に私たちが自らのキリスト教信仰のために殉教の死をも甘受せんとするなら、その時私たちは、ーーキリストには神的意志及び人間意志という二意志があったという真理のために死ぬべきです。

 

しかしこれを理解するには、私たちは第3、第4公会議それぞれについて理解する必要があります。

 

過去2週間に渡り、アベマリア大学Institute for Pastoral Studiesのローレンス・フェインゴールド教授が、ヘブル人カトリック連合(Association of Hebrew Catholics)主催で二つの特別講義を行ないました。

 

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ローレンス・フェインゴールド(Lawrence Feingold)。米国の無神論者ユダヤ人家庭に生まれ、無神論者として育つ。美術史の研究でイタリア留学中にキリストに出会い、1989年妻と共にカトリックに入信。ローマのPontifical University of the Holy Crossで哲学と神学、その後、エルサレムのStudium Biblicum Franciscanumで聖書ヘブライ語およびギリシャ語を研究。現在、ミズーリ州にあるケンリック・グレンノン神学校で神学および哲学を教えている。ヘブル人カトリック連合の神学ディレクターも務める。講義シリーズ:AHC Lecture Series: The Mystery of Israel and the Church。主著:Natural Desire to See God According to St. Thomas Aquinas and His Interpreters

 

フェインゴールド教授の最初の講義はエフェソス公会議(431)に関するもので、二番目の講義は、カルケドン公会議(451)に関するものです。二番目の講義の後半部分でフェインゴールド教授は、キリスト単意論の問題に対するカルケドン公会議の意義について説明しています。下に挙げる講義およびQ&Aセッションをぜひ聴いてみてください。

 

 “Nestorius, Theotokos, Hypostatic Union [The Council of Ephesus in AD 431]” (download)

Q&A (download)

“Christ is Perfect Man and Perfect God [The Council of Chalcedon in AD 451]”  (download)

Q&A  (download)

 

ー終わりー

*1:アポリナリオス主義(Apollinarism)は、ラオディキアのアポリナリオス(Apollinaris of Laodicea)によって唱えられたキリスト論。イエス・キリストには、人間の体と人間の魂はあったけれども、人間の理性(νοῦς, ヌース)は無く、神性・神言葉(ロゴス)が人間の理性的霊魂の場を占めていたと主張しました。381年の第1コンスタンティノポリス公会議(第二全地公会)で異端として排斥され、キリスト教の主流派から異端とされました。アポリナリオス主義の主張を言い換えれば、イエスの人間性は完全な理性的人間ではないことになります。アポリナリオスへは次のような反論がなされました。すなわち、イエスは人間性を救うために人間性を担ったのですが、もしキリストが人間の精神(ヌース)を担わなかったのであれば、人間の精神は救われなかったこととなってしまいます。しかし精神の中でこそ罪は最も活動的であり力強いのであり、人間が全体として救われるためには神言葉(ロゴス)が完全な人間存在において受肉しなければならないとされました。参照