巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

マルティン・ルターは聖母マリアのことをどのように考えていたのだろう?

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「それゆえに、人々は彼女を神の母と呼ぶことにより、彼女の全栄光をこの一語に一括している。何人も彼女の偉大さについて、また彼女に対し、たとい海の砂、天の星、木や草ほどの多くの舌をもっていたとしてもーー、これより以上に言うことはできない。神の母とはいかなるものであるかをわれわれは黙想する必要がある。」ルター著作集分冊7「マグニフィカート」(聖文舎)p.67

 

 

聖母マリアについてのルターの言明 

 

「彼女〔=マリア〕は正当に、人の母と呼んでしかるべきであるだけでなく、彼女はまた神の母でもある。・・・マリアが真にしてまことの神の母であることは確かである。」*1

 

「人がかくの如き宝を喜ぶことができるとは、おお神の慰めと溢れるすばらしさはいかばかりであろう!マリアは主の真の母である。」*2

 

「マリアはイエスの母であり、またーー彼女の膝の上で休まれたのはキリストだけであるがーー彼女はわれわれ全ての母でもある。・・・もしもキリストがわれわれのものなら、私たちは彼がいる状況にいるべきである。つまり、主がおられる場所にわれわれもまたいるべきであり、主の持っているすべてはわれわれのものでもあり、そして主の母もまたわれわれの母である。」*3

 

「神は仰せられる、、『マリアの子はわが独り子である』と。それゆえ、マリアは神の母である。」*4

 

「この働きの中で彼女は神の母とされた。数多くの非常に善きものが彼女に与えられたがゆえに誰もそれらを把握することができない程である・・マリアは〔ベツレヘムで〕生まれた主の母であるだけでなく、世界の始まる前より、永遠に御父から生まれし主の母でもある。」*5

 

「マリアが主の母であり今も尚処女であるというのは信仰箇条である。・・・キリストは完全に処女のままの胎から生まれたということをわれわれは信じている。」*6

 

「われわれの救い主であるキリストはマリアの処女なる胎の真にして自然的実であった。・・・これは人〔=人間の男性〕との協同によらず為されたものであり、彼女はその後も処女としてとどまり続けた。」*7

 

「キリストは、、マリアの唯一の息子であり、処女マリアは主以外には子どもを産まなかった。・・『兄弟たち』の本当の意味は『いとこたち』であると宣言している人々の意見に私は同意したいと思う。なぜなら聖なる書物およびユダヤ人たちは常にいとこのことを兄弟と呼んでいるからである。」*8

 

「自分に関する新たなる嘘のゴシップが出回っているとのことである。その噂によると、私は、神の母であるマリアがキリストの誕生以前あるいは誕生以後に処女ではなかったと説教したり著述したりしているというのだ!」*9

 

「聖書は、マリアが後に処女性を失ったと言及したり示したりしていない。・・・マタイ〔1:25〕が、ヨセフはマリアが子を産むまでは彼女を肉的に知らなかったと言っているが、そうだからと言って、ヨセフがそれ以後彼女を知ったということにはならない。その反対に、これは意味しているのは、ヨセフが彼女を決して知らなかったということである。」*10*11

  

「マリアの魂の注ぎ(infusion)は原罪なしに為されたというのは甘美にして敬虔なる信仰である。そして彼女の魂の注入それ自体において彼女はまた原罪から清められ、神によって注がれた純粋なる魂を受けつつ神の賜物で飾られていた。それゆえに、生の最初の瞬間より彼女は彼女はあらゆる罪から自由であった。」*12

 

「処女マリアが天にいることには疑う余地がない。だが、それがいかにして起こったのかについてはわれわれの知らぬところである。また聖書はその事に関しわれわれに何も語っていないため、信仰箇条を作ることはできない。・・・マリアがキリストの内に生きているということを知るだけで十分である。」*13

 

「マリアへの崇敬は人間の心のもっとも深奥に刻み込まれている。」*14

 

「キリストだけが崇敬されるべきなのだろうか?あるいは聖なる神の母もまた栄誉を受けるべきではないだろうか?蛇のかしらを砕いたのはこの女性なのである。どうか聞いてほしい。」*15

 

「彼女は最高の女性であり、キリストの次に最も崇高なる宝石である。・・・彼女は崇高さ、知恵、聖潔の体現である。彼女を賞賛し尽くすことはできない。キリストや聖書を損わない仕方で彼女に対し栄誉と誉れが捧げられなければならない。」*16

 

「どんな女性もあなたのようではありません。あなたはエバやサラ以上の存在であり、あらゆる崇高さ、知恵、聖さに勝る祝福された方です。」*17

 

「われわれはーー彼女自身が望む形で、そしてマグニフィカートの中で彼女が表現している形でーーマリアを褒めたたえなければならない。彼女は神のみわざゆえに神を褒めたたえた。それならばわれわれはどのように彼女を賛美することができるのだろう。マリアに対する真の崇敬は神に対する崇敬であり、神の恵みに対する賛美である。・・・マリアは自分自身ゆえには何者でもなく、それはキリストゆえなのである。・・・マリアはわれわれが彼女の元に行くことを望んではおらず、彼女を通して神の元に行くことを望んでいるのである。」*18

 

「堅固なる信仰を持つ者は誰であれ、悪影響なく『アベマリア(Hail Mary)』と言う!そして信仰において脆弱な者は誰であれ、彼の救いへの悪影響なしにアベマリアと言うことはできない。」*19

 

「われわれの祈りには神の母が含まれているべきである。アベマリアが言っているのは、全ての栄光が神に帰せられるべきであるということだ。そして『恵みに満ち溢れたアベマリア。主があなたと共におられます。あなたは女の中で恵まれた方であり、あなたの胎の実であるイエス・キリストは祝福された御方です。アーメン!』と言う。ここから分かるように、これらの言葉は祈りに関するものではなく純粋に賛美と誉れを捧げることに関するものである。われわれは、黙想としてアベマリアという言明を用いることができ、その際に神が彼女に与えてくださった恵みを復唱することができるだろう。次に、全ての人が彼女を知り、彼女を敬うよう祈願するべきだ。信仰のない人に対してはアベマリアと言うことを控えるよう助言されるだろう。」*20

 

ー終わりー

 

*1:Martin Luther, Weimar edition of Martin Luther's Works, English translation edited by J. Pelikan [Concordia: St. Louis], volume 24, 107. 訳者注:ルターのこの「神の母」という表現についてはルターの信仰告白書を参照。Concordien Formel.8.7.「マリアが、神の母と呼ばれるにふさわしく、また事実そうであることを、我々は信じ、学び、告白するのです。」

*2:Sermon, Christmas, 1522

*3:Sermon, Christmas, 1529

*4:Sermons on John, chapters 1-4, 1537-39

*5:Weimer’s The Works of Luther, English translation by Pelikan, Concordia, St. Louis, v. 7, p. 572.

*6:Weimer’s The Works of Luther, English translation by Pelikan, Concordia, St. Louis, v.11, pp. 319–320; v. 6. p. 510.

*7:Luther's Works, eds. Jaroslav Pelikan (vols. 1-30) & Helmut T. Lehmann (vols. 31-55), St. Louis: Concordia Pub. House (vols. 1-30); Philadelphia: Fortress Press (vols. 31-55), 1955, v.22:23 / Sermons on John, chaps. 1-4 (1539).

*8:Pelikan, ibid., v.22:214-15 / Sermons on John, chaps. 1-4 (1539).

*9:Pelikan, ibid.,v.45:199 / That Jesus Christ was Born a Jew (1523).

*10:Pelikan, ibid.,v.45:206,212-3 / That Jesus Christ was Born a Jew (1523).

*11:編者である歴史家ヤロスラフ・ペリカンは次のように付記している。「ルターは、、マリアがイエス以外に他の子たちを産んでいたという可能性をまったく考えていない。これはマリアの永続的処女性に関する彼の生涯に渡る受諾と一致している。」Pelikan, ibid.,v.22:214-5

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ヤロスラフ・ペリカン著、関口篤翻訳『聖母マリア』1998年。

*12:Sermon: "On the Day of the Conception of the Mother of God," 1527

*13:Martin Luther, Weimar edition of Martin Luther's Works (Translation by William J. Cole) 10, p. 268

*14:Sermon, September 1, 1522) [Martin Luther, Weimar edition of Martin Luther's Works

*15:Martin Luther, Weimar edition of Martin Luther's Works, English translation edited by J. Pelikan [Concordia: St. Louis], Volume 51, 128-129]. Luther made this statement in his last sermon at Wittenberg in January 1546.

*16:Sermon, Christmas, 1531

*17:Sermon, Feast of the Visitation, 1537

*18:Explanation of the Magnificat, 1521

*19:Sermon, March 11, 1523

*20:Personal Prayer Book, 1522