巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

なぜ福音主義キリスト教はかくまで力強く人々の心に届くのだろうか?

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「福音主義が間違っているのなら、なぜ福音主義者やペンテコステ主義者たちの宣教や愛の奉仕によって、実際的な実が世界中で結ばれているのだろう?」みなさんは、そう思われたことありますか?

  

私はギリシャ共和国に住み、「唯一正しいキリスト教」(=正教)に囲まれながら、常にこの問いを問うてきた気がします。特に福音主義が自分の中でぐらついてきた頃から、この問いはますます切実感をもって自分の心に迫ってきました。

 

ある人々は、「非正統派キリスト教や異端には ‟部分的真理” という要素があり、それゆえに欠陥あるセクトや宗派であっても主はその ‟部分的真理” を用いて魂をお救いになることができる」とおっしゃるかもしれません。もしかしたらそうなのかもしれませんし、そうでないのかもしれません。

 

そしておそらくは、カリストス・ウェア府主教がおっしゃるように、正教の中に福音の真理の豊満性があるのかもしれません。

 

しかしながらそういった認識があったにしても尚、私は実感として、福音主義キリスト教の内に、より一層のへりくだりと具体的愛の表現を見い出しています。

 

正教および正教徒のみなさんに対する最大限の敬意と兄弟愛のうちに申しあげますが、私の目に、(そうでない方も勿論たくさんおられることは承知していますが、そうであってもやはり)正教の方々の多くは、与えられた多額のタラントを鍵付きショーケースに飾った上で、そのタラントの「正統性」を確認/保存することにエネルギーの多くを消費しておられる感がしてなりません。

 

他方、福音主義はもしかしたら比較的少額のタラントしかなく、正統性という面でも立証が厳しい面があるのかもしれませんが、その少額のタラントを最大限用いようとしている風に私には思われます。

 

また多くの福音主義クリスチャンは、この世で苦しむさまざまな人々の「言葉」を知ろうと努力し、彼らの「言葉」で人々にリーチしようとしていると思います。彼らはアルコール中毒、薬物中毒、家庭内暴力、いじめ、鬱病、統合失調症等で苦しむ人々の「言葉」を知ろう、理解しよう、寄り添おうと努力しているように私には思われます。

 

自分自身もかつてキリストから遠い所にいた者ですが、福音主義クリスチャンたちはそんな私を「異邦人」とか「異端者」とか「Heterodox」だとか見下さず、その代りに、私のいる低い地点まで降りてきてくれました。そして私に分かる言葉で話してくれました。彼らは「正しくない者」に近づき、受け入れ、そんな自分を愛してくれました。

 

だから世界中の魂が、福音主義プロテスタントという器を通しキリストの具体的愛に入れられている事実が、自分には実感を伴って理解できるのです。

 

それゆえに、私は、自分をキリストの愛に導いてくれた福音主義およびプロテスタントの兄弟姉妹に対し、生涯、感謝し続けると思います。ーーこの先、どんなことがあっても。

主の恵みと憐れみが、すべての方々の上にありますように。