巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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変形された伝統ーーアウグスティヌスのローマ書解釈について(by デイビッド・ベントリー・ハート)

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聖アウグスティヌス(354-430)

 

 

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David Bentley Hart(1965-)正教の神学者。ノートルダム高等研究院特別研究員。主著:『Atheist Delusions – the Christian Revolution and its Fashionable Enemies』『The Beauty of the Infinite』『The Experience of God』等。

 

問題ある翻訳によって引き起こされる、欠陥ある聖書釈義の長い歴史は、繁茂した森のようであり、その濃密さは計り知れず、多種多様に渡っているため、分類するのが非常に困難です。

 

とは言え、これらの大部分を4つの広範な類型における、単一の連続体に沿って並べることができるかもしれません。

 

類型①いくつかの読み違いが翻訳者のミスによって引き起こされる。

類型②ある単語についての疑わしい解釈によって引き起こされる。

類型③元々の筆者が、(歴史的に固有な)イディオムに不案内であることによって引き起こされる。

類型④筆者自身の(文化的に固有な)神学的懸念にかんする ‟翻訳不可能な” 疎隔によって引き起こされる。

そして各類型にはそれ自身、特有の各種危険性や結果が付随してきます。

 

少し説明させてください。例えば、アウグスティヌスの権威あるローマ書読解のことを考えてみることにします。これは彼の大量の著述群の中に開示されており、彼の神学的後継者たちによってその後も絶えることなく展開され続けてきました。

 

そしてこれはおそらく、キリスト教思想史の中における最も卓越した‟強烈なる読み違い”であり、上に挙げた4つの類型すべてを含有する標本ではないかと思います。

 

第1番目。例えば、ローマ5:12に関する悪評高く語弊あるラテン語での彼の読み。これによりアウグスティヌスは、「パウロは、すべての人間が、ある不可思議なる仕方によって、アダムの ‟中” にあって罪を犯している」と考えるようになりました。そしてこの捉え方から不可避的にアウグスティヌスは原罪*1*2という概念を設定せざるを得なくなりました。

 

つまり、死への縛り、精神的・倫理的衰弱、神からの離反ーーそしてこれは受け継がれた罪責(inherited guilt)という観点でさらに強化されました。(←この概念は、四角の円というのと同じくらい‟論理的に一貫”しています。)そしてこれはさらにアウグスティヌスをして、「洗礼を受けずに死んだ赤子たちの正当なる永劫的苦悶」を筋骨たくましく主張せしめるに至らせました。

 

第2番目。パウロの選びの神学に関するアウグスティヌスの誤解の仕方は、ギリシャ語動詞proorizein(「前もってあらましを描く」「計画する」等)が、ーー語源学的には擁護可能ですが、内包的には不可能であるーーpraedestinareと表されているところの、一つの動詞の不確かな陳述によって教唆されました。

 

第3番目。パウロにとり、信仰と対比して区別されている ‟行ない”(erga, opera)とは、モーセ律法(“observances”:割礼、コシャー規制等)における行ないであるという事に関する度合を、アウグスティヌスはしばし認識し損なっています。

 

そして第4番目。アウグスティヌスによる、ローマ8:29-30(「神はあらかじめ知っておられる人々を、、同じ姿にあらかじめ定められた、、」)の中で打ち出されている選びの順序の最初の二語を逆転させようとの試み。

あるいは、ローマ5:18を引証する際の、彼の条件節(「ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められた」)引用への積極さ。そしてそれとはうって変わり、(厳密に同形である)帰結節(「一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられる」)引用への躊躇さ。/そしてもちろん、彼のローマ9-11章の読み全体。

 

パウロの議論の内容自体は難しいものではありません。彼が注視していたのは、メシヤが到来したのにもかかわらず、イスラエルの家はほとんどメシヤを受け入れず、他方、ーー契約の外にいたーー数多くの異邦人たちが主を受け入れているという苦渋に満ちた奥義です。それならば、御自身の約束に対する神の忠実さはどうなったのでしょうか。

 

これは誰が「救われ」、誰が「滅びる」のかに関する抽象的問いではありません。11章の終りにさしかかる頃までには、前者のカテゴリーが、‟選民”もしくは‟召された者”のそれよりもずっと広大であることが明らかになっており、その一方、後者のカテゴリーは全く現れてきていません。これはイスラエルと教会に関する具体的問いです。そして最終的にパウロは独創的に、ヘブライ語聖書における選びのロジックから引き出された回答に達しています。

 

しかしその地点に到達する前に、パウロは、完全にそして明確に条件的声で、はっきりした明暗法の内に、問題を描写しています。彼は、神的選びは神のみわざのみによるものであり、それは得るものではなく与えられるものであり、また、異邦人信者たちが選ばれたのは彼らの功徳(merit)によるものではないと言っています。

 

「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(9:13)。これはマラキ書からの引用文ですが、ここでヤコブはイスラエルの予型、そしてエサウはエドムの予型となっています。ご自身の御目的のために、神はパロの心をかたくなにされました。神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされます。(9:15-18)。

 

「しかしこれを不公正と思うのなら、おお人よ、あなたをお造りになった神に言い逆らうあなたは一体何ですか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか」(9:19-21)。

 

「ですが、もし(what if神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです」(9:22-24)。

 

おそらく要約すると次のようになるかもしれません。ーー神の御力を示すべく、選ばれた民だけが救いに与り、残りの者は神に見捨てられ、また、神の忠実さはご自身に属する事柄であると。

 

さて、ここまでは立派にアウグスティヌス的です。しかしその一方、これはまた純粋に条件的なものです。「もし~なら。」(“What if . . . ?")。解決を板挟み状態の苦境に持っていく代わりに、パウロは、絶望にひんし、それをもっとも陰鬱なる形で言い直しています。

 

しかし、ここで止まってしまうのではなく彼は、神の義を引き続き問い、次につづく2章で、この暫定的回答を、曖昧さを残さず一義的に拒絶しています。ーー全く異なる、そしてさらにずっと栄光に富んだ結論に達するべく。

 

ーーーーー 

創世記全体を通し、神の選びのパターンは、頑強に、‟意固地”なまでに、無律法主義的です。繰り返し、兄の方に本来属している正当なる長子相続権が弟に取って代わられ、その中で神は、あらゆる自然的‟正義”を無視する形での選びを行なっています。

 

これが実際上、ーーカイン/アベルからマナセ/エフライムまでーーテキスト全体をつなぐ連続したモチーフです。しかしーーここが重要なポイントですーーこれは排他/包含にかんするパターンではなく、(‟正しくも” 外されていた兄弟を受け入れることにより、‟不正にも” 看過された兄弟に益がもたらされるという)選びの領域を大いに拡大させている遅延であり脱線です。

 

これはヤコブとヨセフそれぞれの話において明白であり、それゆえにエサウとヤコブはパウロの議論に、かくまで適切なる予型論を提供しているのです。なぜならエサウは最終的に拒絶されていないからです。この二人の兄弟はやがて和解し、まさしく一時的離別ゆえに両者ともに増え拡がりました。そしてヤコブはエサウに(その逆ではありません)次のように言いました。「私はあなたの顔を、神の御顔を見るように見ています。」(創33:10b)。

 

それゆえパウロは尚も議論を続けます。イスラエルと教会の場合、選びはさらに文字通りの‟無律法主義”になります。すべて信じる者に義を得させるために、キリストは律法の終りとなられ、そこにユダヤ人と異邦人の区別はありません。それゆえ、神はすべての人を祝福しておられます(10:11-12)。

 

イスラエルの内の、信仰を持った‟レムナント”についてですが(11:5)、彼らは‟救われた者”の数として選ばれているのではなく、イスラエルはみな救われる(11:26)ことを通しての約束(earnest)として選ばれており、部分が全体を聖いものにするのです(11:16)。

 

そしてここでも再び、選びの進路における摂理的楕円性は、その包含をかなり拡大させています。ーーすなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時(“full entirety” ;pleroma)までのことであり(11:25b)/彼らがつまずいたのは倒れるためだけでなく、もし彼らの罪過が世の富となり、彼らが全部救われたなら(“full entirety” ;pleroma)、どんなにかすばらしいことであろう。/彼らの捨てられたことが‟世の和解”となったとすれば、彼らの受け入れられることは、‟死人の中から生き返ること”ではないか。(11:11-12、15参)。

 

そうなりますと、これはパウロの情け容赦なき「もし~なら」という影ーー否定的クラリオンーーを消散させる輝かしい答えとなります。つまり、そこには、怒りの器とあわれみの器の間の究極的な‟事例的”隔てがないということです。すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのです(11:32)。

 

しかしそうだからといって、事が十分に明白であるわけではありません。ローマ書11章のある古典的アウグスティヌス解釈ーー特に改革派の伝統においてーーは、一見したところパウロの大げさな表現(「すべて」「全部」「世界」など)は、すべての人が、選民の ‟模範的” ないしは ‟代表的” 形においてのみ救われるということをただ意味しているに過ぎないと主張しています。ですが、これはもちろん、馬鹿げています。

 

上記のような読みにより、パウロは彼の始まりであったところの暗闇にそのまま残され、栄光に富んだ彼の発見は陰鬱なるトートロジーに還元され、こうして、神的愛の広大なる領域へのパウロの壮大なビジョンが惨めな狭量性をもった滑稽な漫画と化してしまいます。

 

しかしながら、全体的にみると、これらの聖句に関するアウグスティヌス的伝統は相当に広大かつ強靭なるものであるがゆえに、この伝統は、何百万人というクリスチャンたちにとり、パウロの議論における真の内実を空洞化させるものとなっています。

 

そしてこれは最終的に、神学的/倫理的ニヒリズムという一連の発作を引き起こし、ジャン・カルヴァンをして「神は人類の堕落までも予定し*3、愛は神の本質に属しているのではなく、選民が神を経験するあり方のみに属する*4」とまで主張せしめました。Sic transit gloria Evangelii.

 

また正教神学者として私は次のことも言わなければなりません。私はこれまで何十年にも渡り、ーー形而上学/三位一体論神学/神に関する魂の知識の領域におけるーー正教論客たちの、欠陥あり且つ純粋にポレミックなアウグスティヌス思想解釈に対し反対の声を挙げ、アウグスティヌスを擁護してきました。(そのためしばし同僚の正教徒は、私に対し苛立ちを覚えています。)*5

 

しかしながら、最も広範囲な影響を及ぼしてきたアウグスティヌスの知的遺産の一部である、罪、恩寵、選びに対する彼の理解という点に関していえば、ーー私は、アウグスティヌスの諸結論に対する東方側の不快感(or 恐怖感)を共有しているだけでなく、この点に関し私はある意味、過激派の部類に入るかもしれません。

 

聖書の‟読み違い”に関する長く濃厚なるキリスト教史の中にあっても、この部分に関するアウグスティヌスの誤読ほど、重大にして克服しがたいほど繰り返し頻発し、破滅的なものは他に存在しないのではないかと私は考えています。

 

ー終わりー

 

本記事に対するカルヴァン主義陣営からの反論

 

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関連ビデオ

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*1:訳者注:プロテスタントにおける「原罪」(引用元)宗教改革期において、プロテスタントは概ね、アウグスティヌスの説に従い付け加えることをしなかったと、プロテスタントからは評される(ただしカトリック教会はアウグスティヌスの説をプロテスタントは誤解していると捉え、トリエント公会議でプロテスタントの原罪にかかる説を予定説などとともに否定している)。ただし、「プロテスタント」は数ある諸教派の総称であり、プロテスタント内にも教派ごとに原罪にかかる理解に差がある上に、以下、教派ごとの理解の概略を述べるが、それぞれの教派内にも様々な見解の差異がある。ルター派は原罪を、行為ではなく性質・状況・生来の状態と捉える。原罪と人の本性とは異なるものであるが、人の本性から原罪を切り離すことは神にしか出来ない。洗礼と聖霊による新生のみにより、原罪の結果から逃れることが出来るとする。アウグスティヌスの教え、およびオランジュ公会議のカノンなどの影響を受け、カルヴァン主義者(改革派教会、長老は教会)は原罪にかかる教理として、アルミニウス主義を否定して成立したドルト信仰基準において全的堕落を確認した。カルヴァン主義においては、全面的に堕落した人間は悪い性質によって本来の性向と意志とが特徴づけられているとされ、救いに必要な霊的な働きをするための意思能力を一切失っているとされる。ルター派もカルヴァン主義も、原罪により、人類が原義(original righteousness)を喪失したとみなし、堕落後の自由意思を認めない。これに対し、ジョン・ウェスレーは、アダムによる原罪と堕落により人類が原義(original righteousness)から大きく離れていることは認めたが、堕落を全面的なものとはせず、神の先行的恩寵によって、全ての人はキリストを選ぶか拒絶するかの自由意思を有するとした。アルミニウス主義の影響を受けたウェスレーによるこれらの考え方は、メソジストの教理となった。

*2:訳者注:原罪に対する正教会の見解(引用元)(正教会における人間観の基礎の一つについては「神の像と肖」を参照。)正教会において原罪(Первородный грех, : original sin)に対する認識は西方と幾分異なっている。正教会においては、西方教会における原罪の概念を否定的に捉えることから原罪という術語を用いる事にさえ慎重な見解をもつ者もいれば、他方、原罪という術語を用いる事自体は忌避していない者もいる。いずれにしても、西方教会における原罪についての理解・論争からは距離をとっている事は共通している。西方教会では人間全てが完全に堕落し、十字架にかけられ罰を受けるべきだったがキリストが代わりに十字架にかかった、と強調し、東方教会では人間は完全に堕落したわけではないので罰を受ける必要はなかったが、完全な神の像のときアダムが罪を犯したため、完全な神の像であるハリストス(キリスト)が十字架にかかり罪を贖った、と強調する。正教会は、カトリック教会における教義(1854年決定)である、聖母マリアの無原罪の御宿りを認めない。原罪の結果に対するアウグスティヌスの考え方に同意しない正教会において、無原罪懐胎の教理は、「誤り」であるというよりも、むしろ「不要」なものであると評される。

*3:in book 3 of The Institutes

*4:in his commentary on 1 John

*5:訳者注: