巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

家に戻りたい。

Alexi Zaitsev, 1959 ~ Impressionist painter | Tutt'Art@ | Pittura * Scultura * Poesia * Musica |

出典

 

3日前に、近所のバングラデシュ人の奥さんのお産があり、病院に付き添いで行っていました。ギリシャでは一般に、経済的に余裕のある人は、サービスの行き届いた私立のクリニックで、そして(私の友人のように)そうでない人々は公立病院で子どもを産みます。

 

事実、私たちのいた4人部屋の病室は、彼女の他には、エジプト人、クルド人、グルジア人と皆、外国人(移民/難民)女性たちでした。お産の時には通常、妊婦の母親や実家の家族が応援に駆け付けるのが一般的だと思いますが、祖国を離れてきた彼女たちは皆一人でした。

 

そのためでしょうか、友人はベッドに横たわりながらしきりに祖国にいるお母さんのこと思い出しては私に語ってきかせました。ーー彼女が小学生だったある日、学校のカリキュラムの都合で下校が数時間遅くなったことがあったそうです。電話も携帯もない時代ですから、家にいて彼女の帰りを待っている母親はその変更を知るよしもありませんでした。彼女は言います。

 

「友だちと下校していると、ずっと向こうに(こちらに向かって走ってくる)母の姿が見えました。(保守的なベンガル社会では考えられないことですが)母は外衣ではなく、室内着のまま、暴雨の中を足首まで水につかりながら、私を探そうと必死の形相でこちらに向かってきていたのです。あの時の母の姿を忘れることができません。」

 

「さっき、母が電話先で私に『いつ家に戻れるの?』と訊いた時、私は自分が今(アテネではなく)ダッカの病院にいるような錯覚になって、それで明日、自分は母や皆のいる家に戻るんだって思ったんです。不思議でした。

ああ、家に戻りたい。」

 

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家に戻りたいーー。日常という時間・空間の隙間から時折顔をのぞかせる、抑えがたい〈望郷〉の念。〈家〉を離れ、どれくらいの歳月が経ったのだろう。そこは今も私の〈家〉なのだろうか。そこに母や父や兄弟たちがいるのだろうか。それとも地上において〈家〉とは仮現的(docetic)なものとして解釈されなければならないものなのだろうか。帰属意識の源としての〈家〉。ああ戻りたい。