巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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オリゲネスは ‟異端者” か、それとも ‟聖人” か?(by デイビッド・ベントリー・ハート)

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‟異端者” オリゲネス or ‟聖人” オリゲネス?

 

 

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David Bentley Hart(1965-)正教の神学者。ノートルダム高等研究院特別研究員。主著:『Atheist Delusions – the Christian Revolution and its Fashionable Enemies』『The Beauty of the Infinite』『The Experience of God』等。

 

一か月ほど前私は、普遍的救済論ーー特にこの説に対する純然たる教会的教理が存在するのか否かーーを巡っての正教会内部での、長々としてくどくどとした神学論議の渦中にありました。

 

これは、いくつかの理由により、東方正教キリスト者たちの間ではしばし持ち上がってくるテーマであり、その中のいくつかは教会史における最初の5世紀にまで溯り、別のいくつかは19世紀中盤のロシアにまでしか溯れないものもあります。

 

正教の全教義的内容は、全地7公会に存しており、(正教伝統におけるその他すべてのものは、それがどんなに古く、美しく、または霊的に豊かなものであったとしても、せいぜい、受容された慣習としの権威か、正当なる推測、有益な実践としての地位しか所持できません。)ーー過去数十年余りに渡って最も良心的かつ歴史的に教養高い正教神学者や学者たち(エンドキモフ、ブルガーコフ、クレメンス、トゥーリンチェフ、ウェア、アルフェイェフなど多数)のコンセンサスは、「許容可能な神学的個人見解(theologoumenon)もしくは妥当な希望としてのユニバーサリズムというものは、かつて一度も教会によって糾弾されたことがない」というものです。つまり教会の教義はこの事項に関して沈黙しているということです。

 

しかしこれを耐えられないとして憤慨する人々もいます。時にこれは、ーー彼らが聖書もしくは伝統が要求しているものだと信じている内容に対する熱心なる忠誠ゆえに、あるいは、見捨てられた人々の永劫的苦悩という思想が彼らにとっての明らかなる感情的病理学に訴えるがゆえにーー、彼らは憤慨しています。

 

その中でも最も激烈な一角を、私たちは、福音主義からの改宗者である一群の人々の内に見い出します。これらの人々は、正教の伝統が自分たちの思っていた以上に、より多様で、曖昧であり、思弁的に大胆であることに苛立ちを覚えているのです。

 

こうして議論は似たようなパターンを繰り返しつつ、続いていきました。永劫的破滅を支持する陣営は、1583年発行の『シノディコン』などのさまざまな ‟拘束力ある” 諸権威に訴え、他方、全的和解を支持する陣営は(正しくも)、正教ドグマというのは、全地七公会のみに属するものであって、カノン的言明および副次的なカノン的諸見解の収集物に依るものではないことを指摘していました。

 

地獄主義者たちは ‟聖伝”にあやふやな訴えをしていましたが、それに対し天空主義者たち(empyrealists)は、(‟聖伝”というのが、髭を剃らない司祭たちから、悪魔によって管理されている‟空中の料金屋”を通し昇った死霊たちに関する隠れグノーシス主義的迷信に至るまで、とにかく何でも意味し得るということを知っているために)地獄支持者たちのそういった訴えに無感動でした。

 

このディベートは退屈でしたが、ある一点においてそれは私に怒りを引き起こさせました。もちろん、この手の主張はいずれ出されるだろうとは思っていたので怒りを覚えるべきではなかったのだと思いますが、これは自分にとって長年の苦痛の種に触れる内容であり、二人の論客によって表明されました。

 

地獄主義の人々は、次の点を難攻不落だと信じています。ーーつまり、「ほら、553年に開かれた第5全地公会議は、アレクサンドリアのオリゲネス(185-254)を異端者と呼び、‟オリゲネス主義” を糾弾し、そしてそれゆえに、普遍的救済という考えそのものを糾弾したのではないか」と。

 

答えは、断じての「否」です。

 

伝統の中で、‟オリゲネス主義”として記憶されているものが、6世紀に誰かによって糾弾され、オリゲネスがそのプロセスの中で異端者としての汚名を着せられたことは事実です。また1000年以上に渡り、これらの諸決定は公的記録として認可されているものにより、553年の公会議と関連づけられているというのも事実です。

 

しかしながら、きまり悪いことに、この記録が偽造されたものであるという事を現在では皆が知っており、かなり以前から周知の事実となっています。

 

そしてこれは正教にとってだけでなく、カトリック教会にとっても深刻きわまりない問題です。というのも、全地公会議の権威というのはある意味において、教会の信仰伝達に関する「不可崩壊性(indefectibility)」という観念と密接なつながりを持っていなければならないからです。

 

しかし実際、これはキリスト教教理史の中における最も恥ずべきエピソードです。まず第一に、教会の平安の内に亡くなった故人を、その人の死後300年経った後に、異端者だと宣言することは、あらゆる合法的教会法秩序に対する言語道断の侵害です。しかもオリゲネスの場合は、それが特に忌まわしい性質のものとなっています。

 

パウロに次いで、オリゲネスほど、伝統全般が恩義を受けているところの人物はいないでしょう。キリストの生ける鏡として聖書を読むことを教会に教えたのはオリゲネスであり、後の三位一体論神学およびキリスト論に関する諸原理を展開・発展させたのもオリゲネスであり、キリスト教弁証のために威厳をもって基準を設定し、黙想的霊性に関する最初にしてもっとも豊満なる註解書を作成し、キリスト教思想の体系全体の土台を打ち据えたのも、オリゲネスに他なりません。

 

さらに、彼は聖潔、敬虔、愛の奉仕において秀でていただけではなく、殉教者でもありました。彼は66歳にして、デキウス帝下の迫害のさなか、残酷なる拷問を受け、その後、回復することなく、死までの3年の間、じわじわと弱体していきました。要するに、彼は教父の中でも最も偉大なる人物の一人であり、最も傑出した聖人の一人であるにも拘らず、不面目なことに、公的教会伝統はーー東方も西方もーー彼を追悼していません。

 

公会議に関する最古の記録(この公会議はある種のアンティオケ学派神学者たちの問題を取り扱うために開催されたものでした。)は、あのアナテマ15箇条は、集まった司教たちによって議論されたことさえなく、ましてや批准、出版、公布されたことなど決してなかったということを明確に示しています。

 

そして19世紀後半以降、さまざまな学者たちが、「オリゲネス及び ‟オリゲネス主義” その両方共、553年に ‟聖なる教父たち” によって公表されたいかなる弾劾対象にもなっていなかった」ということを説得力をもって確証しています。

 

現代における全地七公会の最良の校訂版ーーノーマン・タンナーの校訂版ーーは、例のアナテマの部分を、偽造の挿入句としてあっさり省略しています。

 

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それではそれらのアナテマ部分はどこから来たのかという出処ですが、凶暴にして陰険なる愚者である皇帝ユスティニアン(ユスティヌス1世;450-527)によって事前に用意されたという証拠が挙がっています。彼は神学者気取りをするのが好きで、教会を帝国的統一の柱を見、異種の神学に対し無慈悲なる怒りを示しました。

 

それに先立つ10年前にも彼はオリゲネスに関する同じようなアナテマ10箇条をメナス総主教に送付していました。そして公会議の前夜、彼はある種の教会的同意を取り付けようとの願望から、553年のアナテマ15箇条をより小規模の司教会議に提出したとされています。

 

もしくは、それらは9年前の時点ですでにシノドにおいて提示されていたのかもしれません。いずれにしても、第5全地公会議の終了後かなり経ってから、それらの文は公会議のカノンに付加され、オリゲネスの名は、糾弾された異端者たちの名前リストの中に挿入されました。このようにして、アナテマは ‟本に記載され;went on the books”、有史以前の権威を身にまとい、有無を言わせぬ強制さで、そして地獄のごとき誤謬でもって、存続しています。

 

それら自身において、アナテマ15箇条は、私たちが今や影の部分しか一瞥することのできない一連の論争に関する奇妙な遺物です。実際、オリゲネスの実際の思想にほんの少しでも類似しているような内容はほとんど無く、たとい彼の思想を連想させるものであっても、それはコミカルと言っていいほど歪曲された形をとっており、オリゲネスの名前は実際、それらの文章のどこにも出ていません。

 

おそらく曖昧に糾弾されている思想のいくつかは、ステファン・バール・スーダイル(Stephen bar Sudhaile;5世紀後半)の思想の一側面を反響しており、その他の部分にはかすかに ‟グノーシス的” ないしは ‟オルペウス的*1” 色合いが出ています。そしてこれらはいずれも歴史的手掛かりを残していない学派から出ています。

 

たといアナテマ15箇条が実際に公会議によって承認されていたとしても、それらは〔公会議とてんで無関係な〕ブリオッシュ菓子パンのレシピ書きと同様、オリゲネスに対する深刻な糾弾で成り立っていたわけではありません。

 

それにしてもなぜ反ユニバーサリストたちはこれらのアナテマ箇条にここまで固執しているのか不可解です。というのも、これらの箇条はユニバーサリズムを本当に糾弾しているわけでもないからです。

 

最初のアナテマは‟醜悪なるレストレーション(apokatastasis)”について言及していますが、それは、魂の先在に関する、特定の ‟寓話にでてくるような” 説明から論理的に引き出される思想バージョンに過ぎません。

 

そしてそれに続くアナテマ箇条は話の詳細を埋めるものです。すなわち、初めにおいて、そして終りにおいても同様、あらゆる理性的自然の、分化されていない本質的一致。/復活した体の球形(キリストも含む)。/オリゲネスの信条を推進するというよりはむしろパロディー化しているようなキリスト論的推論。/御使いおよび悪魔に関するオリゲネスの見解の風刺などなど、、、

 

とにかく、アナテマ15箇条を擁護しているだけでなく、‟オリゲネス” に対する ‟聖人ユスティニアン” の糾弾を頑強に称賛している正教改宗者の論客によって為されている浅はかな長談義へのリンクが送られてきた時点で、私はこのディベートをフォローするのを止めました。

 

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‟聖人” ユスティニアンのイコン

 

東方であれ、西方であれ、全てのクリスチャンは、キリスト教帝国史の荒唐無稽さに頭を悩ませています。しかしながら、いかなる正教観念であれ、ユスティニアンのような残忍なる凶悪皇帝 *2に ‟聖人(saint)” という称号を与えることを強いる一方、逆にオリゲネスのように清い生き方をした人物にはそれを拒絶するというのは、明らかにーーそして本当に滑稽なほどーー自己反証的です。

 

そして、こういった論客たちの行為により、伝統は擁護されるどころかむしろその反対に、ーーそれが残虐的に不正義であるだけでなく、全くもって荒唐無稽なものであるかのような印象を人に与えてしまっていることによりーー、伝統を損っています。

 

ー終わりー

 

オリゲネスについての関連記事

 

オリゲネスのローマ書解釈ーオリゲネスの寓喩的解釈との関係をめぐって(伊藤明生師、東京基督教大学)

Rehabilitating Origen | Eclectic Orthodoxy

John Meyendorff, Byzantine Theology; historical trends & doctrinal themes, I. Historical Trends, 3. The Problem of Origenism, p.25-27.

*1:古代ギリシャ世界における密儀宗教

*2:Suppression of other religions and philosophies--Justinian.