巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

西に向かおうか東に向かおうか?ーーローマ行きを検討している福音主義者への書簡(by クラーク・カールトン、東方正教会)

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あれ、なんで道が二つに分かれてるんだろ?(出典

 

目次

 

Clark Carlton, A Note for Evangelicals Considering Rome(前半部分を翻訳) 

 

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クラーク・カールトン師は南部バプテストの信者として育ち、南西バプテスト神学校の教授をされていましたが、1990年、東方正教会に改宗。その後、ニューヨークにあるウラジミール神学院で、J・メイエンドルフに師事。5世紀の修道士聖マルコの教義および禁欲主義神学に関する研究で博士論文を提出されました。*1

 

増加する福音主義出身の改宗者たち

 

自らの信仰に真剣なプロテスタント信者たちは、遅かれ早かれ、現在自分の置かれている、教派的制限領域を超えたところに目を向け、より深い霊性、礼拝における神中心的経験、歴史的キリスト教共同体に属しているという具体的感覚を求め始めるようになると思います。

 

1970年代、こういった人々の探求は、カトリック福音主義(Catholic Evangelicalism)と呼ばれる一つの運動を勃興させました。これは、自分たちのプロテスタント諸教団にとどまりながらも失われた彼らの公同的遺産を回復させるべく福音主義クリスチャンたちの間で起された運動でした。*2*3

 

そしてこの運動は、1977年、46人の代表的福音主義指導者たちの会合という形で最高点に達しました。いわゆる「シカゴ・コール」です。この中で、指導者たちは、自分たちの過去をより真剣にとらえ、宗教改革期に破棄されてしまった伝統的キリスト者生活の多くの部分を回復させるべく、福音主義世界に広く訴えかけました。*4

 

しかしながら興味深いことに、シカゴ・コールに署名した指導者の幾人かはその後、「プロテスタントにとどまったままでは公同的ルーツを回復することができない」ということを自覚するようになり、その内の何人かは正教会に、そして別の幾人か(特にトーマス・ハワード*)はローマ・カトリック教会に移っていきました。*5

 

クリスチャニティー・トゥデイなどの福音主義メディアはこういった改宗劇を、空想的ロマンチズムによる飛行に過ぎないとして受け流そうとしていますが、にもかかわらず、改宗者の数は増加し続けています*6

 

最近、二人の著名な米国人ルーテル派信者が改宗しました。リチャード・ジョン・ノイハウス(『The Naked Public Square』の著者*7.はローマ・カトリック教徒に、そしてイエール大の歴史家ヤロスラフ・ペリカンは正教徒になりました。*8

 

ヤロスラフ・ペリカン(Jaroslav Jan Pelikan; 1923-2006)

 

要約しますと、プロテスタンティズムから公同的伝統へ移行していく明白なる動きがーー特に牧師や知識人たちの間でーー顕著になってきているということです。しかしながら、公同的伝統を求めているプロテスタント信者が直面する問題は、ローマ・カトリック教会、もしくは正教会の内、そのどちらがそれを具現化しているのだろうという問いです。

 

二大教派それぞれの主張に関する筋道立った評価をするために、本稿では、なぜ幾人かの福音主義者たちが正教会よりもローマ・カトリシズムを選んでいったかについての理由を見てみたいと思います。それでは、スコット&キンバリー・ハーン共著『ローマ・スウィート・ホームーーカトリシズムへの私たちの旅路』の中に詳述されている話に注意を向けてみることにしましょう*9

 

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当時若手の長老派牧師であったスコット・ハーンおよび妻キンバリーは他の誰にもまさるアンチ・カトリックでした。しかし改宗後、二人は著名なカトリック弁証家になりました。

 

スコット・ハーン(Scott Hahn, 1956-)1982年、ゴードン・コーンウェル神学校を最優秀で卒業(M.Div.)。トリニティー長老教会の牧師を務める。86年、カトリシズムに劇的転向、周囲の皆を驚愕させる。95年、マークィッテ大組織神学Ph.D.。現在、フランシスコ大教授。

 

特に私は、スコットの正教会加入可能性へ検討、そして最終的拒絶の部分にフォーカスを当てたいと思います。彼はこの事を説明するのに、(182頁に渡る彼の著書の)2段落しか割いていませんので、その部分を全部引用します。

 

「そのため私は正教について調べ始めました。私はアンティオケ正教に改宗した元福音主義者ピーター・ギルクィスト*10に会い、彼がなぜローマではなく正教に向かったのかの理由を訊ねました。

 

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ピーター・ギルクィスト神父Peter E. Gillquist;1938-2012)60年代におけるキャンパス・クルセード・フォー・クライスト指導者の一人。ダラス神学校、ホィートン大卒。

 

彼の出した諸理由により、プロテスタンティズムというのはやはり間違っているという自分の感覚はさらに確かなものになりました。しかしそれと同時にまた、カトリシズムに対する彼の正教擁護は、自分にとっては不満足かつ表層的なものに感じられました。

 

さらに調べると、さまざまな正教諸教会が、(プロテスタントと似たような感じで)救いようなく互いに分け隔たれている事実に気づきました。もっとも正教の場合は、民族的国民主義の境界線に沿って分裂しており、自らのことを‟ギリシャ”正教、‟ロシア”正教、‟ルテニア”正教、‟ブルガリア”正教、‟ハンガリー”正教、‟セルビア”正教等と呼んでいる正教諸共同体が存在しています。彼らは何世紀にも渡って共存してきましたが、どちらかというと、自分たちの父親を亡くした兄弟たちの家族といった様相をみせています。

 

さらに研究していった結果私が辿りついた結論は、正教はそのリトルジーおよび伝統においてすばらしいけれども、神学において停滞気味であるということでした。それに加え、いくつかの聖書の教えやカトリック教会を拒絶している(特にニケア信条に書き加えられたフィリオクェ問題)という教義の点で正教は誤っていると確信するようになりました。

 

さらに、教会のかしらとしての教皇に対する彼ら正教側の拒絶は、なにか真剣な神学的根拠というよりはむしろ帝国的政治に基づいているように思われました。それゆえに歴史を通し、正教クリスチャンたちは教会の司教以上に皇帝や国家の方をより高揚する傾向が強かったのでしょう(皇帝教皇主義)。そして、20世紀を通しロシアはこういった正教の見解の諸結果の刈り取りをしてきたように私には思われました。」

 

ハーンの正教検証はもちろん紙上に書かれている以上の広範囲に及んでいるとは思いますが、それにしても彼がこの探求にそれほどまでにエネルギーを注入していなかったことは明らかです。そして正教ではなくローマ・カトリシズムを選んだ彼の理由は、なにか19世紀のアンチ正教小冊子からダイレクトに来ているような印象を受けました。

 

正教と民族性重視主義(Ethnicism)

 

それではまずスコット・ハーンの、ピーター・ギルクィスト神父との出会いの箇所から見ていくことにしましょう。私はピーター神父と旧知の仲ですが、彼自身は自分のことを神学者ないしは学者だとは自認していません。

 

それゆえ、ハーンが、ピーター神父のローマ・カトリシズム批評に深遠さを見い出さなかったのも不思議ではありません。ハーンは、アレクセイ・ヤング神父やセオドール・プルチーニ神父等のローマ・カトリシズムに精通した正教神父たちに質問すべきだったでしょう。

 

また、ピーター神父はアンティオキア正教への改宗者ではありません。‟アンティオキア正教”などというものはそもそも存在しません。ピーター神父は、アンティオキア総主教庁アメリカ大主教区で奉仕をしておられます。正教は、ーーそれがシリア人、ロシア人、ギリシャ人、アメリカ人、、いずれの間で実践されていてもーー正教であることに変わりはありません。

 

「さまざまな正教諸教会が、プロテスタントと似たような感じで、救いようなく互いに分け隔たれている。(もっとも正教の場合は、民族的国民主義の境界線に沿って分裂している。)」という主要は明らかに荒唐無稽なものです。

 

これは、当該事項に関する真剣なる検証を行うことに余りにも怠惰なプロテスタントやカトリックによってしばし持ち出される決まり文句の一種です。

 

まず第一に、正教世界がさまざまな自治型の国家的諸教会に分割されているのは、正教の内的ロジックと関連しているというよりはむしろ、バルカン諸国の内政におけるナショナリズムに関する西欧現象およびその結果としての西側列強の干渉(特に大英帝国)などとより関連を持っていると言っていいでしょう。*11

 

たしかにナショナリズムは正教にとってこれまでも問題でしたし、今もそうですが、これは決して正教の本質ではありません。実際、1872年、正教会は、「教会は領土的教区に沿ってではなくむしろ、民族別に組織されるべき(phyletism)だ」という理論を公式に異端として斥けています。*12

 

ここでハーンが言及し損なっているのは、こういった各民族別諸教会が、同一の正教信仰を告白し、(異なる言語、地域諸慣習はありますが)同一のリトルジー生活を遵守し、互いにフル・コミュニオンを維持しているということです*13。外国の地において単一の司教の下に結束していないという事実は、彼らが真に唯一の、公同的教会の中で結合していないということを意味してはいません。異なる地域諸教会を、異なるプロテスタント諸教派になぞらえるというのは滑稽です。

 

もちろん、多数にして、重複する管轄区が米国に並立するという事実は紛れもなく大きな問題であり、不祥事の元にもなりかねません。しかしながら、こういった悲しむべき状況は、人々のコントロールをはるかに超えたところで起きた特定の歴史的諸状況の結果であるということは留意しなければならないと思います。

 

1917年のロシア革命以前、北米は事実上、ロシア教会の宣教区域でした。(かつてロシア領であった)アラスカにおける正教会の圧倒的存在に加え、正教会宣教師たちは19世紀、西海岸に沿って南に移動していました。*14

 

その後、地中海地域や東欧から正教徒たちが米国に移住を始めた際、大半の人々は既存のロシア教会の構造下に入りました。例えば、米国におけるシリア人主教ラファエル・ハワウィーニーはロシア正教会の主教でした。

 

多くのギリシャ人共同体は祖国ギリシャから司祭たちを引き連れ渡米し、別個の存在を維持していましたが、主教認可を求める彼らの要求は常に斥けられてきました。なぜなら、すでにその時点で米国には正教の主教たちがおり、ギリシャの諸教会とコンスタンティノープルはパラレルなヒエラルキー確立を望んでいなかったのです。

 

しかしながらロシア革命はロシアにある正教会だけでなく、アメリカにある正教会内にも問題を引き起こしました。革命に引き続いて起こった混沌状況の中、ーー個々の移民コミュニティーがそれぞれの母教会に援助を求めつつーー、多数の正教管轄区が確立されました。時の経過と共に、人々はこの異常な有様に慣れていくようになりました。それゆえ、現在、米国には同じ都市の中に、ギリシャ正教会、ロシア正教会、セルビア正教会などが並立しているのです。*15

 

しかし今日、この状況をノーマルだとか、受容可能だとか考えている人は一人もいないということを強調しておく必要があります。米国におけるすべての正教管轄区はこの状態が非カノン的であるという事実に気づいています。

 

もちろん、もしも正教会に普遍的教皇がいたら、彼は専断によってこの状況を治めることができていたことでしょう。そして彼はまた無謬的に奇妙な諸教理を規定し、全ての人がそれに同意するよう強要していたことでしょう。(さもなくば破門。)ある度合における秩序の乱れは、世的成功や秩序への誘惑に屈しないことに伴い教会が支払う代価だといえます。

 

皇帝教皇主義(Caesaropapism)

 

アヤソフィア内部の「イエス・キリストと皇帝コンスタンティノス9世・ゾエ夫妻」のモザイク画。イエスだけではなく、皇帝夫妻にも光背が描かれている。(出典

 

これまでの歴史において、教会が多少なりとも世俗権力によって、扱いやすい一機能にさせられ、世俗権力からのそういった不法占有により、教会が甚大なる被害を被ってきたことは動かすことのできない事実です。

 

それゆえにハーンはあれほどまでに否定的に皇帝教皇主義(カエサロパピスム)を批評しているわけです。しかしながら「正教会は皇帝が教会の方針を決定するという状況を受け入れてきたのであり、これは西洋でのあり方とは対照をなすものである」(ローマは世俗権力を凌駕する至高権を主張していた)と提示するのは、歴史に対する無知の表れに他なりません。

 

まず初めに、正教カノン法は教会の内政に対する国家(政府)の干渉を明確に禁じています。しかしそうだからといって歴代の皇帝たちが教会内政に干渉しようと試みなかったわけではありません。実際、多くの皇帝たちがそれを試み、それなりに成功した人たちもいました。しかしながら、教会は決してそういった状態をノーマルなものとして受け入れてはきませんでした。実際、正教会の暦の中には、帝国政策に順応することを拒んだゆえにひどい迫害を受けた聖徒たちの記録で満ちています。*16

 

そしてここには大いなるアイロニーがあります。ーーコンスタンティノープル陥落以前におけるローマとの再統合への最大誘発要因は帝国政治的な動機から来ていたということです。ここには、(それによってもたらされるであろう政治的利益ゆえに)正教会とローマ教会の間のコミュニオンを回復させようとの皇帝側の政略的関心がありました。*17

 

いわゆる第2リヨン公会議(1274)やフローレンス公会議(1439)はどちらも皇帝により促進されており、どちらも忠実派正教徒のみからだによって拒絶されました。皇帝教皇主義に関するスコット・ハーンの見解が正しいのなら、教会は律儀に帝国政策に従っていたはずでしょうし、ローマと正教は今頃フル・コミュニオンの関係にあったはずです。*18

 

事実、正教世界において、皇帝教皇主義がほぼ受け入れられたかのような状態になった唯一の場所はロシアにおいてであり、それはピョートル大帝の改革に引き続いて起こりました。

 

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ピョートル大帝(Пётр Алексеевич; 1672-1725)

 

ピョートル大帝は総主教座を廃止し、その代りに聖シノドを管轄するための(宗教事項に関する)彼独自の政府長官(oberprocurator )を導入し、効果的に教会を政府の一部門にしました。これによって教会は深刻に弱体化され、その結果、ロシア正教会は共産主義革命に効果的に対抗する能力を削がれてしまいました。*19

 

しかし非正教歴史家たちが常に見落としているのは、ピョートル大帝による改革が、(彼がドイツおよびスカンジナビア公国において遂行していた)教会ー国家関係を基盤になされていたという事実です。それゆえ、ピョートル版ロシア皇帝教皇主義は、西洋の、非正教的諸影響によるダイレクトな結果でした。*20*21ハーンは、ソビエト政権下におけるロシア正教会の苦難は、正教見解のもたらした実であると言っていますが、これは誤っているだけでなく侮辱的でもあります。

 

さて、教会ー国家関係のテーマを離れる前に、次の文章をみてみましょう。

 

「彼は誰によっても堕落させられることがない。なぜなら彼は信仰において公同的であり、権力において王であり、説教において司教であり、法において裁判官であり、一般教養において哲学者であり、倫理においての模範であるからである。」*22

 

これはおべっかを使う正教司教によって書かれたローマ皇帝に対する賛辞文なのでしょうか。いいえ、全く。この賛辞は、800年に教皇レオ3世によって神聖ローマ皇帝に戴冠されたフランク王国の強奪者であるシャルルマーニュ(カール大帝)に栄誉を帰しアルクィンによって書かれたものです。

 

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西ローマ帝国皇帝戴冠(出典

 

シャルルマーニュの戴冠はしばし、世俗権力を凌駕する教皇の至高性の例として引用されます。しかし実際には、西欧の教会はドイツの封建体制の一部と化しており、世俗の支配者たちによって聖職者が任命されていました。そして当然のことながら、聖職売買罪が問題になっていました。

 

この状況は11世紀のグレゴリウス改革までは変わることがありませんでした。そしてそれ以前においても、世俗権力を凌駕する教皇の至高性という主張は常に現実とマッチしているわけではなかったのです。ヤロスラフ・ペリカンは次のように述べています。

 

「叙任権論争として歴史書に描写されているものは、司教の選出・導入の権利に対する教会側の擁護だけにとどまらず、それはまた教会の主張に対する国家側の擁護でもありました。教皇は皇帝を罷免する権利を主張し、叙任権論争の中で彼はそれを実際に試みました。繰り返し、教皇と皇帝は、それぞれの司法権の制限をめぐり互いに衝突しました。教皇イノセント3世(d.1216)統治下の教皇権の絶頂は、1世紀も経たぬ内に、教皇のアヴィニョン捕囚、そして14世紀ー15世紀における屈辱的教皇制の歴史と変わっていきました。それらの時期すべてを通し、教皇は国家および教会の上に権威を主張していましたが、教会内部の諸状況をみる多くの者の目に、彼は教会をさえ治めることができていなかった事を証明しているように映っていました。」*23

 

ハーンの教会史の読みは、明らかに選択的かつ不正確なものです。イエスの元に人々が来て、ローマの硬貨と共に税に関してイエスに質問して以来、クリスチャンは教会と国家の正当な関係についてなんとか折り合いをつけようとしてきました。

 

そして東側といわず西側といわず、この問題に完璧な解決を出すことのできた人は一人だにいません。実際、完璧な解決というのはこの世においては不可能です。なぜなら、神の統治はこの世のものではないからです。(ヨハネ18:36)*24

 

ー終わりー

 

*1:同著者による記事

*2:Cf. Donald G. Bloesch, The Future of Evangelical Christianity: A Call for Unity Amid Diversity (Garden City: Doubleday & Co., 1983), pp. 48-52.

*3:訳者注:シカゴ・コールについて

*4:The text of the Chicago Call may be found in Robert Webber, Common Roots: A Call to Evangelical Maturity (Grand Rapids: Zondervan, 1978), pp. 251-256.訳者注:The Chicago Call - Collection 33

*5:Robert Webber and Donald Bloesch are somewhat conspicuous in that they have steadfastly remained in their Protestant denominations - denominations that are among the most liberal in America. Webber is a member of the Episcopal Church and, as far as I know, Bloesch remains a member of the United Church of Christ.

*6:Perhaps the most visible Evangelical to convert was Frank Schaeffer, son of the late theologian Francis Schaeffer. See his Dancing Alone: The Quest for Orthodox Faith in the Age of False Religion (Brookline, MA: Holy Cross Orthodox Press, 1994).

*7:訳者注:リチャード・ジョン・ノイハウスの改宗ストーリー

*8:Pelikan was received into the Orthodox Church on March 25, 1998 (The Feast of the Annunciation) at St. Vladimirs Orthodox Theological Seminary in New York.

*9:Scott & Kimberly Hahn, Rome Sweet Home, San Francisco: Ignatius Press, 1993. 訳者注:

*10:訳者注:

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*11:Fr. John Meyendorff observes: In Greece and in the other Balkan countries of Bulgaria, Serbia and Romania, nationalism was generally promoted by a western-trained and western-oriented secularized intelligentsia which had no real interest in Orthodoxy and the Church except as a useful tool for achieving secular nationalistic goals. Ecclesiastical Regionalism: Structures of Communion or Cover for Separatism, originally published in St. Vladimirs Theological Quarterly 24 (1980), pp. 155-168. Reprinted in Meyendorff, The Byzantine Legacy in the Orthodox Church (Crestwood, NY: SVS Press, 1982), pp. 217-233 (226). It should be noted that this essay was originally written for an ecumenical colloquium and is far from being anti-western. The reader should be aware, however, that Fr. Johns criticism of modern Orthodox regionalism and his expressed openness to the concept of Roman primacy in this article is part of an intellectual dialogue and can in no way be interpreted as a denial of the basic tenets of Orthodox ecclesiology, which clearly rule out concepts such as universal ordinary jurisdiction.

*12:See Meyendorff, Ecclesiastical Regionalism, p. 228.

*13:There are two primary exceptions to this world-wide Orthodox unity. The first involves the Church calendar. In 1923, Ecumenical Patriarch Melitios Metaxakis (whose career was colorful to say the least, and the legitimacy of whose election is highly questionable) abandoned the traditional Orthodox (Julian) calendar and adopted the Gregorian calendar. Leaving aside the fact that such a calendar change had been condemned by previous Orthodox synods, the action was undertaken without the universal consent of the other Orthodox Churches - a de facto denial of the conciliar structure of the Church. It was, to put it bluntly, the result of papal pretensions on the part of the patriarch. The calendar change was adopted by several (but not all) local Churches, prompting schisms in Greece, Romania, and Bulgaria that have lasted to the present day. The calendar change - and I am a member of a local Church that uses the new, Gregorian calendar - was an unalloyed evil and a curse for the Church. It would have never happened, however, had the conciliar nature of the Church not been utterly disregarded. For a decidedly unsympathetic treatment of Patriarch Melitios and the calendar change see Bishop Photius of Triaditsa, The 70th Anniversary of the Pan-Orthodox Congress in Constantinople in The Orthodox Church Calendar: In Defense of the Julian Calendar (Jordanville, NY: Holy Trinity Monastery, 1996), pp. 5-29. The second exception to Orthodox unity is a direct result of the Russian Revolution: the division between the Church of Russia (Moscow Patriarchate) and the Russian Church Abroad (a.k.a. the Synod ). With the demise of the Soviet Union, however, tentative efforts have begun to heal this breach. Lest Roman Catholics get too smug in observing these inner-Orthodox problems, however, we should point out that the entire Reformation, with its thousands of resulting denominations, started out as a schism within the Roman Church. Furthermore, there exist other bodies that claim to represent true Roman Catholicism, notably the Old Catholic Church of Utrecht and the Polish National Catholic Church.

*14:For the history of the Alaskan mission as well as a general treatment of Orthodox missiology, see the two excellent studies by Fr. Michael Oleksa: Alaskan Missionary Spirituality (New York: Paulist Press, 1987) and Orthodox Alaska: A Theology of Mission (Crestwood, NY: SVS Press, 1992).

*15:訳者注:「正教の離散」問題。参照:Timeline of the Assembly | Assembly of Canonical Orthodox Bishops of North and Central America.

*16:Caesaropapism, however, never became an accepted principle in Byzantium. Innumerable heroes of the faith were constantly exalted precisely because they had opposed heretical emperors; hymns sung in church praised Basil for having disobeyed Valens, Maximus for his martyrdom under Constans, and numerous monks for having opposed the iconoclastic emperors in the eighth century. These liturgical praises alone were sufficient to safeguard the principle that the emperor was to preserve, not to define, the Christian faith. John Meyendorff, Byzantine Theology: Historical Trends and Doctrinal Themes (New York: Fordham University Press, 1983), p. 6.

*17:Remember that Constantinople was facing overwhelming odds in defending herself against the Moslems.

*18:From the thirteenth century on, all discussions between the popes and emperors regarding reunion took place in an atmosphere dominated more by political than by religious considerations, the Byzantine Church itself remaining largely outside the picture. Moreover, those discussions showed that the West harbored completely false ideas about the existence of Byzantine caesaropapism and thought that it was sufficient to win over the emperor to gain the allegiance of the whole Church. It was with this in mind that the popes encouraged the personal conversion of the Emperor John V in 1369. Even today the view is quite common that the Byzantine schism had its roots in caesaropapism; nevertheless it is a fact that from the eleventh century the emperors were almost consistently in favor of reunion with Rome because of the undoubted political advantages to be derived from it, and they tried to bring reunion about at all costs, even by the use of brute force. Equally consistently, since the time of Michael Caerularius, the patriarchs, or most of them at any rate, opposed their efforts in the name of the true faith. By relying so much on the emperors to bring about reunion, the popes were relying, actually, on a caesaropapism which did not in fact exist. John Meyendorff, The Orthodox Church: Its Past and Its Role in the World Today (Crestwood, NY: SVS Press, 1981), pp. 59-60.

*19:The Patriarchate was re-established at an All-Russian council literally during the October Revolution. Unfortunately, the reforms came too late to stop the communist take over of the government. Interestingly, the newly elected patriarch, St. Tikhon, had been the Archbishop of New York, overseeing the American mission before his election. For an account of the reform movement prior to the Revolution, see James W. Cunningham, A Vanquished Hope: The Movement for Church Renewal in Russia, 1905-1906 (Crestwood, NY: SVS Press, 1981).

*20:Cf. Fr. Georges FlorovskyWays of Russian Theology, Part One; Vol. 5 in The Collected Works of Georges Florovsky, Tr. by Robert Nichols (Belmont, MA: Nordland, 1979). Peter wished to organize church administration in Russia just as Protestant countries ordered it. Such a reorganization did not just correspond to his own estimation of his authority or merely follow from the logic of his general conception of state authority or the monarchs will. It also conformed to his personal religious perception or opinion. Peters outlook was wholly that of a man of the Reformation world, even if he retained in his personal life an unexpectedly large number of habits and impulses belonging to the Moscovite past (pp. 117-118). The Reformation remained an act of secular coercion, compelling the body of the church to wither but finding no sympathetic response in the depths of the churchs consciousness (p. 120). And again: The churchs mind and conscience never became accustomed to, accepted, or acknowledged this actual caesaropapism, although individual churchmen and leaders frequently with inspiration submitted to it. The mystical fullness of the church remained unharmed (p. 121).

*21:訳者のミニ所感:こういった歴史観の正誤は別として、一介の正教徒になるために人が必ずこういう感じのスピリットを獲得しなければならないのだとしたら、私は、、、正直ちょっと気が滅入ってしまいます。およそ世界に存在する政治宗教抗争史というものに、くっきりはっきりした《正義の具現者》vs《悪代官》的構図なんてあり得るのかなぁ。。。あ~(いろんな意味で)ため息。

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*22:Quoted in Pelikan, The Growth of Medieval Theology, pp. 51-52.

*23:Jaroslav Pelikan, The Riddle of Roman Catholicism, p. 44. At least one Roman Catholic writer cites the Churchs involvement with secular rule as a tragedy: But from the time the popes entered the temporal arena, heavy and irremovable chains were forged around their churchly kingdom. Malachi Martin, The Decline and Fall of the Roman Church (NY: Putnam, 1981), p. 14.

*24:"The Kingdom of God" is more properly rendered as "the Reign of God".