巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

伝統とレキシコン(by ブライアン・クロス、マウント・マースィー大学)

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出典

 

目次

 

Bryan Cross, The Tradition and the Lexicon, 2010(拙訳)

 

どうして私たちの間の意見の不一致になかなか解決がもたらされないのだろう?

 

一年半ほど前に、私はプロテスタントとカトリックのネット上でのディスカッションの場に居合わせました。彼らは現在も尚、両者の間を隔てているいくつかのテーマについて話し合いをしていました。私はそのディスカッションに遅れて参加したため、onlineでコメントのやり取りをしていた参加者たちとは幾分違った視点で、掲載されていたコメントを順々に読んでいきました。

 

コメントを読み進めていきながら私が自問していたのは「誰が正しいのか?」ではありませんでした。そうではなく、私の思いの中に次のような一連の問いが湧き起ってきたのです。

 

「根本的に言って、彼らが意見を違わせているのはなぜなのだろう?」

「なぜ彼らはこのやり取りの中で自分たちの意見の不一致を解決することができないのだろう?そして解決の方向へと前進していくことに頓挫しているのだろう?」

「何が彼らの相互理解を妨げ、互いの見解をみることを妨げ、共に真理を見い出していくことを妨げているのだろう?」

「彼らの話がいつまでもかみ合わないでいる根本的理由は何なのだろう?」

 

そうしながら私は、意見不一致の解決を妨げている、下層的諸前提、理由、パラダイムを探していました。

 

聖なる家族

 

「もしも、聖書が、『途切れることなく生き続けている主体ーー神の巡礼の民ーーを通し神から来たものである』ということを考慮に入れるなら、この主体が聖書の理解についてなにか言うべきことを持っているーーということもまた合理的に明瞭なものとなるだろう。*1 」ージョセフ・ラッツィンガー

 

コメント上のやり取りを読みながら感じたのは、これまでも自分が何度となく感じてきたことでした。「何が私たちを今もって隔てているのか?」という問いに対し、プロテスタントおよびカトリックはそれぞれ自分たちが同意できない諸教理のリストを提示します。例えば、プロテスタントの場合ですと、彼らは法廷的転嫁(forensic imputation)による義認を論じ、それに対し、カトリックは、注入(infusion)による義認を論じます。

 

またカトリックは「パンと葡萄酒はキリストの御体と血になる」と言い、それに対してプロテスタントは「否」と答えます。またカトリックは教皇の権威を是認し、プロテスタントはそれを否認します。こうして神学的意見の不一致のリストは続いていきます。

 

彼らはそれぞれ、自らのパラダイムに内在しているスタンダードや方法論に従って自分の立場を擁護しています。そしてその際、(こういった一次次元における不一致を形成している)根本的理由自体に議論の焦点が置かれることはほとんどありません。

 

そうしますと、ディスカッション参加者たちは、一次レベルにおいて当該議題をディベートしているのですが、二次レベルにおいてはそれぞれが非常に異なるパラダイムに立ったままの状態にあるため、結局、話が頓挫してしまうのが常です。

 

こうしてディベートは果てしなく続いていくように思われ、クリスチャンたちは次第に「きっとこの分裂は不可避なものなのだろう。」「仕方がない。お互いに意見の不同意があるということに同意しよう。」「またそれぞれの共同体に撤退しよう。」と考えるようになり、たまたま相手とどこかで遭遇するようなことがあっても、もう本質的なことには立ち入らず、当たり障りのない何か別な事について失礼のない程度に話し合い、、、それでまあ良しとしようとする傾向が強くなります。

 

こうして際限なく続いていくように見える意見の不一致により、多くのクリスチャンは、500年以上に渡り続いてきた分裂に終焉をもたらすべく、和解と再会に向けて共に前進していこうという気をそがれていきます。

 

二次レベルの意見の相違に注意を向ける

 

なぜ意見の不一致が果てしのないもののように見えるのかを理解すべく、私たちは、一次レベルの不一致を超え、その下層部分に横たわっている二次レベルの意見の不一致および相違に注意を向ける必要があります。

 

本稿で私は、二次レベルでの相違の中の一つだけに焦点を絞ろうと思います。ーーそれは「いかにして私たちは聖書の意味および解釈を決定しているのか」に関わることです。カトリックとプロテスタントが聖書に取り組む時、表面的にみて両者は同じような方法で同一のことをしているように見えます。

 

そして ‟方法論的共通の土台” という表層的外観ゆえに人々は、「この共通の土台さえあれば自分たちは意見の食い違いを克服していくことができる」という偽りの希望を抱くようになります。

 

そしてそれぞれの聖書への訴えが結局功を奏さないという現実を前にして私たちは困惑し苛立ちを覚えます。しかしながら実際には、聖書に対する両者のアプローチは究極的にかなり異なっているのです

 

聖句の意味解釈ーープロテスタントとカトリックの違い

 

一般的に言って、プロテスタントはカトリックとは違った風に聖書解釈の取り組み方について考えています。聖書の中のある聖句の意味を理解しようとする際、カトリックは常に聖伝(Tradition)を参照します。そしてどのようにして過去2000年以上に渡り、教会がこの聖句を理解し説明してきたのかということを探ろうとします。そして当該聖句について教父たちや教会博士たちが何と言っているのかを参照します。

 

それとは対照的に、プロテスタントは通常、不明瞭な聖句の意味や用語を理解しようとする際、最初に教父に向かうことはしません。彼らは一般的に、自分のもっとも信頼する現代聖書学者たちによって編纂された現代レキシコンや註解書に向かいます。

 

出典

 

彼らが教父の言明を参照するのは、非常に稀であるか、あってもおそらく最後のステップにおいてです。プロテスタントの一般的思考でいくと、教父たちというのはしばし聖書を誤解釈しているので、教父作品を読む際には、自分自身の聖書解釈を用い、教父たちの見解を‟修正”ないしは批判的に評価する必要があるのです。そして教父たちに対するこの種のスタンスにより、プロテスタントは、自らの聖書解釈において教父たちに教導されることを自分に許しません*2

 

手短に言いますと、カトリックのアプローチは、教父たちや公会議を、聖書解釈における主要な指針として見ているのに対し、プロテスタントは、〔各自の信頼する〕レキシコンおよび現代学術的註解書を聖書解釈における主要な指針として見ているということです。(*そしてそういったレキシコンおよび現代学術的註解書の中で、教父たちの神学や聖書解釈は批判的に査定されています。)

 

教会論ーー〈家族〉としての教会理解

 

聖書へのアプローチに対するこういったカトリックとプロテスタント間の違いはどこにあるのでしょうか。まずカトリックのアプローチはその教会論に在ります。つまり、キリストおよび使徒たちにまで溯り、聖霊によって永続的に活息されている〈家族〉としての教会理解にあるのです。そして家族としてのこういった教会理解は数多くの世紀にまたがり、聖書解釈に関する方法論的含意を伴っています。

 

さて、どういう事か今からご説明したいと思います。あなたがわが家に来てくださったと仮定しましょう。そうしますとあなたは私の家族の間で語られた多くのことを理解するでしょう。なぜならあなたや私は、広範なる社会で話されているのと同じ言語を話しているからです(この場合ですと英語です)

 

しかしうちの家族のメンバーが交わす会話のいくつかは理解できないかもしれません。なぜならあなたは、〈家族内の視点〉(=inside-the-family point of view)というものを持っていないからです。またあなたは、過去にうちの家族内で起きた出来事をほのめかすような内輪ジョークの意味を解さないかもしれません。

 

また、あなたは、より十全なる現行のコミュニケーションとしての私の家族の内なる活経験を共有していません。それゆえに、うちの家族の内輪コミュニケーションを完全に理解するには、しばらくの間私たちを共に暮らすことが必要になってくると思います。そして相互に理解された背景(そこにおいて私たちは互に会話する際、自分たちの発話行為が理解されていることを期待しています)を形作っている家庭内の標語、出来事、習慣、ストーリーを学ぶ必要があるでしょう。

 

2000年以上にまたがる、〈家族〉としてのカトリック的教会理解はまた、教会内に、内側からの視点があるということを含意しており、その文脈は、異邦人やクリスチャンたち皆に共通する社会的文脈よりも、より豊か且つ完全なものです

 

こういった豊満なる文脈は、この家族史の中のあらゆる時期に及んでおり、教会の中にいた人々による生きた経験や証、そしてーーそういった言葉が書かれる以前にーー最初に新約聖書の言葉を話し教えた人々たちさえも含みます。

 

こういった内側からの視点ーーイエスと共に3年間過ごした人々から、司教、長老、信徒たちへ(使徒たちは昼となく夜となく福音を彼らに説きました)、そして教会ファミリーの各世代へと、生きた記憶としてそれらは家族内で受け継がれていきました。受け継がれてきた家族内の生きた記憶ーーこれを私たちは伝統(聖伝;Tradition)と呼んでいます。

 

レキシコンを介した聖書アプローチ

 

さてそれでは、教父たちを通してではなくレキシコンを介して聖書にアプローチする際に前提となっているのは何でしょうか。カトリックの視点でみますと、内側からの視点を抜きに聖書を解釈しようとするのは、譬えて言えば、わが家で内輪的に使われてきた決まり文句や暗示を理解すべく、辞書に頼ろうとするようなものだといえます。

 

私の家族と世界との間に在る言語的に共通のものは、それだけでは言語的に私の家族に特有なものを理解するのに十分ではありません。ある外部者が、自分は辞書による検索を通してこの家族〔=私の家族〕の言語行為を正しく解釈できると自負しているのだとしたら、その人は私の家族というユニークな言語共同体を認識できていないと言わねばなりません。

 

彼は「この事例における最も明確な言語共同体はただ単に英語という言語を話すひとそろいの人間たちだ」と勘違いしています。つまり彼は、広範な社会の中にある私の家族というユニークにして親密に共有された家族生活が、言語内の〈言語〉を造り出しているという事実に気づくことができずにいるのです。

 

それと同様、教父たちを抜きにしてレキシコンを介し聖書にアプローチする行為は、「聖書に関しては、家族の内側からみた視点というものは存在しない」という事を前提しています。それは外側からのアプローチであり、キリストの神秘的みからだに生命を与える神的いのちの外側からのアプローチです。

 

幾分それは、ある動物を研究するのに、それを部分部分に切り刻み、その部位を研究する還元主義的メソッドに似ています。このメソッドは有益ですが、それが有益であるのは、生きた存在としてのその動物に関しすでに知られている内容と結び付いた時のみです。さもなくば、その動物は、それが単なる部分部分であるかのように、注釈的に単なる部位に還元されてしまいます。

 

現代のレキシコンもちょうど同じように、現代学術研究者によって編纂されており、これらの学者たちは典礼的・教育的伝統の中で培われ続けてきた教会の生きた記憶から資料を引き出しているのではなく、聖書が書かれた当時生きていたクリスチャン、非キリスト者であるユダヤ人、異教徒たちの使用していたさまざまな用語の古代使用例を集積しそれらを引用しています。

 

その当時、こういった用語がどのように用いられていたのかを理解する事は非常に有益です。それは私たちがすでに知っていることに光を当て、また聖書における優先使用に関し、また異教社会における使用に関連した、これらの用語についてのさまざまな事実を明らかにします。

 

しかしながら前述しましたように、こういった辞書類が編集されるに当たっての方法論は教会ファミリーによって引き継がれてきた内側からの視点を含んではいません。それゆえに、(教父たちを抜きにした)辞書的アプローチは、方法論的に「時代を通して存在してきた教会というものは無く、世代から世代へと引き継がれ続けてきた内的記憶やいのちなるものは無い」ということを前提しています。

 

これは聖書に対する教会無しのアプローチであり、あたかも聖書というのが聖霊によって霊感されたものとして教会の内に、教会に対し、そして教会の指導者たちによって与えられなかったかのような、あるいは、「この家族の生きた記憶というのがどういうわけか死に絶え、今、外側から考古学的に再発見されなければならない」とでもいうかのようなアプローチです。

 

ニュートラルではない

 

それゆえに、教父たちを抜きにした、レキシコンを媒介にした聖書へのアプローチは、教会論的にニュートラルではありません。それは、①教会が存在していなかった、もしくは②教会的理神論が真であることを前提しています。ですから、辞書的アプローチは、カトリックープロテスタント間の分裂に関し、中立的前提ではありません。それは論点先取りの前提です。なぜならそれはカトリシズムの虚偽を前提しているからです。

 

それゆえ、プロテスタントとカトリックの間の解釈的意見の不一致を解決するための、こういった辞書的アプローチはーー方法論的にカトリック信者に教会および伝統を否定するよう要求することによりーーカトリックに対し論点先取りをしています。

 

ここまで説明してきましたように、教会論というのが「いかに私たちが聖書にアプローチし解釈すべきなのか」をあらかじめ定めています。‟目に見えない教会”という教会論もしくは教会的理神論を採用している人は、古代テキストの中における用語使用例を研究している辞書編集者たちの見解を参照し、彼らが達した確率的諸意見に自らの結論を整合させるだけで事足ります。

 

しかし教会というものを、「聖霊が宿り聖霊によって保持されてきた切れ目なく連続した家族である」と捉えるなら、内側からの視点(伝統)が、外側からの視点(辞書的アプローチ)優先しているということになります。そして内側から聖書にアプローチするに際し、人はそれを、伝統を受容し具体化し忠実に後代に言い伝えてきた家族の「生ける伝統」という枠組みの中でアプローチする必要があります。

 

教会はどのような自己理解をしてきたのだろう?

 

教会は、「クリスチャンたちが聖書の言葉の意味を解明する方法はただ単にそのテキスト文脈から引き出すことにある」とは決して考えてきませんでした。なぜなら教会は、「一冊の書物をまず受け取り、そうした上で、その書物を解釈しなければならない」という風に自分自身をみてはこなかったからです。

 

つまりどういう事かと言いますと、教会は、成文体での信仰内容が受容される前にすでに、キリストから、そして使徒たち自身からじかに信仰内容を受け取ってきていた、という自己理解をしてきたということです。

 

キリストは旧約聖書の意味を使徒たちに教え、その後、使徒たちはそれを、按手した後継者たちに教えました。彼らはまた福音(彼らがキリストから受け取ってきた信仰内容の全体)を自分たちの後継者に教えました。

 

教会の教導権の役割は、使徒たちによってすでに委託され、説明を施されてきた内容を保持し伝えることにあったのであって、天から降ってきた(?!)一冊の書物の意味を「さあ、われわれは解読しようではないか」というようなスタンスを採っていたわけではなかったのです。

 

語彙的アプローチ

 

それゆえに、聖句の意味を究明する上での〔排他的〕語彙的メソッドは、教会史のどの地点においても見い出されない思考法です。このメソッドは、人間記者たちから教会によって受容されたものとしての「家族的」テキスト理解が時間の経過と共に消滅したか減衰したと捉えている限りにおいて、それは教会的理神論を前提しています。

 

テキストを受け取った目撃者たちの生きた〈内側〉の記憶なしには、語彙的アプローチがなし得る最善はせいぜい、異教徒やユダヤ人たちによって使われている(新約聖書の中に見い出される)用語の使用法に当ることぐらいです。

 

しかしそれが理由で、聖書に対する語彙的アプローチは、「聖書の中に内包されているキリストの御思いは、それを、聖書執筆期と同時代に生きた異教徒作家たちの(単語使用における)思考と適合させることにより決定される」ということを暗黙の内に前提しています。

 

聖書に対するそういったアプローチに方法論的に潜在しているのは、「信仰内容における超自然的資質は、それらの単語に関連する諸概念にまでは及ばない」という観念です。それは信仰内容が、既存諸概念の新しい組み合わせで構成されることのみを許容します。

 

言い換えますと、それは信仰内容が、すでに存在している諸用語が新しい仕方で配置されているという意味においてのみ「新しく」あることを許容しているのであって、(その拡大や深化が明確に聖書に記されていない限り)、すでに存在している諸用語が拡大したり深化したり、という意味においてではない、ということです。

 

ディカイオーの意味解釈

 

例えば、(被告に対する内的変化という理由ではなく)法的地位における変化を指すものとして異教徒たちがディカイオー(‘dikaiow’;'justify' 正当化する)という語を使用していた場合、語彙的アプローチは、「これが、聖パウロが、(われわれが福音を信じる際に神が私たちに為してくださることを指すべく)この語を使った際の語義であるにちがいない」と方法論的に前提するでしょう。

 

しかしこれは良い前提ではありません。方法論の中に潜在している小前提により、これは、「神がjustifyする時、神が為し得る事」を、「人間の裁判官がjustifyする時、彼が為し得る事」に制限してしまっています。

 

なぜ人間に対する神の義認が、その本質において、異教徒たちが為し得ること(つまり、実際に人を内的に義とすることなしに法的に義と宣言すること)に制限されなければならないのでしょうか。神は人間よりも偉大な方です。

 

それゆえに、この事例だけから言っても、語彙的アプローチには、ただ単にアンチ教会的諸前提だけでなく、潜在的にアンチ有神論的諸前提さえ付随しているということが分かると思います。

 

教会の生ける伝統の中で聖書に向かう

 

カトリックにとって、信仰内容に関する解釈は、キリストが権威を授け、委託した人々(使徒たちおよび彼らの後継者;教会の教導権と呼ばれている)に属しています。聖書の意味は、単に外部者が語彙的分析によって決定する事柄ではなく、まず第一義的に、教会の生ける伝統の中で聖書に向かうことに関わっており、それらは、信仰内容が委託され、解釈的権威が授与された人々によって私たちに開示されています。

 

語彙的アプローチは、それが教会の教導権の導きおよび後援の下に用いられるなら問題ありません。なぜならその洞察は伝統(Tradition)という文脈の中で解釈され理解され得るからです。聖書の人間記者たちによって用いられている用語の同時代的意味を理解することにより、私たちの聖書およびその意味に関する理解が深まります。

 

しかし語彙的メソッドが、ーーそこにあたかも教会が存在しないかのように/教会的理神論が真であるかのように/信仰内容に関する諸概念が異教徒の言説や文化の内に見い出される諸概念、あるいは古代ヘブル的言説や文化の内に見い出される諸概念に限定されなければならないものであるかのようにして用いられる時、そのメソッドは、①キリストが、この世の終りまでハデスの門もそれに打ち勝てないとされている教会をお建てになったということ、そして②キリストが教会の内に、それ以前のあらゆる啓示を凌駕する神的啓示をお預けになったという事を潜在的に否定しています。

 

聖書の真のコンテキスト

 

このようにして、聖書に対する語彙的アプローチは、その真のコンテキストーーつまり、教会のいのちおよびリトルジーを理解することができずにいます。

 

聖書のコンテキストというのはただ単にページの中だけに存在するのではなく、キリストのみからだ(=教会)という生きた有機体そのものでもあるのです。福音は、「キリストが教会を建て、ハデスの門もそれに打ち勝てない」と私たちに教示しているのですから、私たちは、その教会の〈内側からの視点〉を通し聖書に臨むべきでしょう。

 

語彙的アプローチが方法論的に教会(Church)を否定している限りにおいて、語彙的アプローチは福音を否定しています。福音を見い出し、福音に従うべく、私たちは教会の伝統を通し聖書に向かうべきです。

 

それゆえに、聖書は聖なる母教会の懐の中でのみ正しく理解され得るのです。プロテスタントもカトリックもその双方が、自分たちそれぞれの聖書に対するアプローチにこのような根本的相違があるということを理解する必要があると思います。ーー積年の分裂問題の解決にあたり、共に前進していくことができるために。

 

ー終わりー

 

*1:Joseph Cardinal Ratzinger, “Relationship between Magisterium and Exegetes.” Address to the Pontifical Biblical Commission. In L’Osservatore Romano Weekly Edition in English. July 23, 2003. As quoted in Covenant and Communion, Scott Hahn (Brazos Press, 2009), p. 46.

*2:That disposition has shifted significantly among a small but significant minority of Protestants toward a respect for the teachings of the Fathers.  Think of the late Robert Webber’s ancient-future movement. See, for example, this article in Christianity Today.訳者注:関連記事