巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

イエス・キリストと出会ったイスラム教徒の証し集

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出典

 

目次

 

 

涙の谷ーー原理主義者からキリスト教伝道者へ〔エジプト〕

 

(In the Valley of Tears, 著者から直接許可をいただいた上で2014年11月、日本語に翻訳しました。)

 

救いの証し

 

私の名前はイブラヒームですが、家族のセキュリティーを守るためテモテ・アブラハムというクリスチャンネームを使っています。私はデルタ域出身の素朴なエジプト人です。豊かなナイル河の流れ、そして四方を取り囲む一面の畑は肥沃ないのちをこの地にもたらしています。

 

生い立ち

 

幼い頃から私は強固なイスラム教育を受けて育ちました。村のお店の中にはこの宗教の聖典(al-Kutaab)のことを教えてくれる人がいて、私は彼らから「六日間のうちに天と地をお造りになった神(アラビア語でアッラー)」を畏れることを学びました。

 

こうして神を畏れ、善行および有徳な生活を奨励する宗教に対し、私は一抹の疑問も抱いていませんでした。また聖典の朗読は魂に静けさをもたらすものとして教えられていました。

 

私はスーフィー式の礼拝形式に惹かれていました。というのも彼らはこの宗教の創始者Mの人格を崇めていたからです。このグループはアブ・アル・アザイェムと呼ばれていました。私は全能の神アッラーとのより親しき交わりを求めていたのです。

 

ムスリム兄弟団へ

 

ある晩7時ごろ、私はアル・マハッタ・モスクで夕方の礼拝(al-Maghrib)を捧げていました。祈りが終わると私はモハンマド・イマームとスレイマン・カフワシュという二人の人物を紹介されました。

 

二人は「ムスリム兄弟団(al-Ikhwan al-Muslimin)」のメンバーで、私をこのグループに勧誘するにあたり絶大な影響を及ぼしました。彼らは敬虔なイスラム教徒になるよう私を励まし、毎週月曜と木曜、共に断食をするよう奨励しました。

 

こうして週に二回、私たちは日の沈む頃、断食を終えてモスクに集まり、共にパン、チーズ、ヤシの実、おいしいサラダを食べました。私はすべての行ないにおいて(食べる時の格好でさえも)預言者Mに倣うよう努めていました。ムスリム兄弟団の人々は私に親切でした。また彼らは私の内に雄弁な説教者としての可能性も見出していたようでした。

 

イスラム伝道者として歩み始める

 

それである日、当時の首領であったスレイマン・ハシェムが私の所に来てやさしく言いました。「イブラヒーム。お前はイスラムのメッセージを伝えるよう召されている。」

 

私はびっくりしました。「僕はまだ14歳だし、すぐにおじけづいてしまうと思います。」しかしスレイマンは「明日の説教の準備のために」と言って、私に本をごそっと手渡しました。それ以後、太陰月の最初の月曜日に説教するのが私の当番となりました。

 

指導者たちは近隣の町々で私が説教する機会を作ってくれ、こうして私はさまざまなモスクで熱心に説教するようになりました。皆が預言者Mの伝統に従うよう私は熱烈に欲し、そのため私の妹は聖典の掟に従い、また慎み深さを示すベールを着けざるをえませんでした。

 

父からの反対にあう

 

私は自分のしている活動について父の承諾を受ける必要がありました。父は14歳になる自分の息子がイスラム伝道者となって説教しているということをすでに耳にしているのだろうか?――私はそれが気になっていました。

 

しかし実際、父はすでに「狂信的になった」息子のことで周りの人々から厳しく批判されていたのでした。大多数の一般ムスリムにとって、ムスリム兄弟団というのは宗教ギャングとみなされていたのです。父は私のイスラム原理主義に対しカンカンに怒り、顔面にパンチを食らわしました。

 

現在私の前歯は入れ歯です。この前歯をみると、自分が熱心な原理主義者だった時代、死に至るまで(苦しみに)耐えていたこと、そして献身ゆえの迫害をあえて甘受しようとしていた、かつての自分を思い出します。

 

こうして私の父は私のスンニ・イスラム文献(主にワッハーブとサラフィー派)を焼いてしまいました。父は、モハンマド・マンスールという秘密警察がモスクの浴室から私の説教を(秘密裏に)録音していたのをよく知っていたのです。私は創始者Mの伝統に厳格でしたので女性と握手することもしませんでした。とにかく私は敬虔なイスラム教徒になりたかったのです。

 

モスクでのムスリム兄弟団の祈りが終わる頃、父はリーダーの一人であったスレイマン・ハシェムを呼び止め、「どうかこれ以上息子に関わり合わないでほしい」と嘆願しました。そして父は離婚の誓い(hilif alaya bi al-talaaq)をもって、「ムスリム兄弟団が祈っている時はモスクに入ることを禁じる」と私に命じました。

 

私は父に従いましたが、「モスクの外に座っている間、彼らの説教を聞くことだけは許してください」と父に嘆願しました。しかし私はこういったことがあっても決してひるまず、毎朝の行事(taboor as-sabah)でも教えに行く先々のモスクでもイスラムについて説教を続けました。イスラムが間違っているなんて想像したこともありませんでした。

 

ジョン

 

こうしてイスラム教を宣伝しようとしていたある時、「文通相手求めます」というコーナーのついた一冊の雑誌が私の手元に入ってきました。そこの欄にはアメリカ人の名前と住所が列挙されていました。私はその中の一人をランダムに選ぶと彼に手紙を書きました。「この男をイスラムに改宗させよう」と思ったからです。

 

こうして私はペンシルヴァニア州に住むジョンと二年に渡り文通をしました。私たちはお互いに相手を改宗させようとしていました。聖書を論駁する本なら何でも私は読みました。さらに(聖典の中で聖書は改悪されたと教えられていたので)私は聖書の上に土足で乗ったりもしていました。つまり聖書に対する敬意をこれっぽっちも持っていなかったのです。

 

ジョン、エジプトにやって来る

 

ところがなんとそのジョンが私を訪ねてはるばるエジプトの村までやって来たのです。生のクリスチャンを見たのはこれが初めてでした。彼の誠実さ、率直さ、まごころ、そして寛容さに私は心を打たれました。その後ジョンは二カ月私の元に滞在しました。彼の祈りの生活はすばらしく、それは後に私の模範となりました。

 

こうして私の家のただ中に「生ける手紙」を目の当たりにするまで私はクリスチャンが祈るということを知りませんでした。――そうです、この人は、はるか遠くの地からやって来て、私たち家族の一員となり、そして偽りのないキリストの愛を具現してくれたのです。

 

ジョンは実にすばらしい祈りの生活を送っていました。彼は聖書の言葉を語る以上にまず祈っていたのです。私はジョンが神様と親しい様子をみて嫉妬し、ますますひんぱんに自分の宗教の聖典を朗読するようになりました。

 

パラダイスへの道

 

イスラム教は追従者に、有徳、貞淑、慈善を奨励する宗教です。また創始者Mが歴史上の天才の一人であったこと――これも確かでしょう。また(イスラム教の教えによると)生前できるだけ善行を積むなら、最後の審判の日、神は(イスラム教徒)個々人の行ないをてんびんにかけて量ってくださるというのです。

 

その人の良い行ないはてんびんの片側の皿に、悪い行ないはもう片方の皿に置かれます。もし良い行ないの方の目方が重ければ、その信者はパラダイスに行きます。

 

尚、この宗教の聖典によればそのパラダイスとは大きな目をしたフーリー〈処女〉と戯れることのできる性的快楽の場です(恐ろしい出来事 56:20-23)。

 

しかし、私たちの主キリストはこう言われました。「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです」(マタイ22:30)。

 

ムスリムのみなさん。イスラムの教えによると、もしあなたの悪行の目方の方が重ければ、あなたは地獄の火の中に放り込まれるのです。
「それじゃあ、51%良い行ないをすればいい」ということになるかもしれませんが、依然としてあなたは自分がはたして天国に行けるのか否か全く定かでない状態に置かれています。あなたが言えるのはただ一つ「神のみぞ知る!」でしょう。

 

あなたはアッラーの憐れみに望みを置き、最後の日に天使もしくは預言者があなたのためにとりなしてくれるよう、そして地獄から救われるよう願っているのかもしれません。親愛なるムスリムの兄弟姉妹。私も以前あなたと同じところにいました。でも今、私は自分が確実に天国に行けるという確信があります。

 

かつての自分がいかに失われた存在であったか、そしてそんな自分を神様がいかに探し出してくださったか、、、その事を思う時、涙があふれます。神様の偉大さに打たれ、その御姿を涙のうちにみる時、永遠のいのちが与えられていることを私は喜びのうちに知るのです。

 

イエス・キリストによる救い

 

聖書の神様は義なる方であり、また同時に憐れみ深いお方です。神の義はすべての人が地獄で罰せられることを要求します。というのも神は100%完全なお方だからです。どんなに頑張って神様をお喜ばせしようとしても私たちは主の完全さには及ばないのです。

 

つまり私たちの善行は自分たちを神様により近付ける手立てとはならないのです。神様は私たちの足りなさをご存知でした。そしてご自身でその代価を払おうと決心なさったのです。

 

こうして神様はご自身のロゴスであるイッサー・アル・マスィー(イエス・キリスト)を遣わされました。イッサーは全く罪・咎のないお方であったにもかかわらず、私たちの罪のために十字架上で罰をお受けになられたのです。

 

もし裁判官が、「あなたの刑の違約金を代わりに払ってあげることにした」と言うならどうしますか。

 

ヨハネの福音書3:16にはこう記されています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 

神様は私たちを愛しておられるゆえ、ご自身のロゴスであるイエス・キリストを送ってくださり、イエス様は私たちのために死んでくださったのです。イスラム教は天国に行く保証を与えていませんが、キリストは確実にそれをしてくださるのです!

 

神様をほめたたえます!主よ、ありがとうございます。あなたは御自身の主権をもって、受肉されし御言葉である主イエス・キリストというペルソナにおいて、私たちの罪の代価を払ってくださったのです。そしてイエス・キリストこそ全能の神のご性質をあらわす明確な啓示であられるのです。

 

私がイエスを迫害している?

 

ジョンが去った後も、彼の影響はとどまり続けました。とはいっても私はこんなことを彼に言いました。「ジョン。あんたが訪問してくれたことで、僕のイスラム信仰は以前にも増して強力なものになったよ。もう金輪際、ムスリムを改宗させようなんて思わないことだね。」

 

ジョンはさぞかし落ち込んだだろうと思っていましたが、彼はひたすら神様に嘆願と祈りを捧げていました。こうして彼のとりなしの祈りは主を動かし、ある晩、私は真夜中に目を覚ましたのです。私は眠ることも休むこともできませんでした。内なる葛藤は極に達していました。そわそわと私は聖書に手を伸ばし、ランダムにページを開きました。すると次のような字句が目に飛び込んできました。

 

「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」

 

そして私は思い出しました。ある日、ジョンと議論を戦わせていた時のことです。私は聖書のことを揶揄して言いました。「ジョン。あんたの聖典は実に荒唐無稽だ。いったいどうしてサウロが福音の僕パウロになったとかいう話を信じられよう?」

 

ジョンは言いました。「この話は本当なんだ。だからこそ僕は君に対して忍耐深くあれるんだ。君はいつの日か、もう一人のパウロになるんだ!」私は答えました。「おいおい、ジョン。僕が宗教中の宗教、イスラムを離れるなんて夢にも思ってくれるな。」


「サウロ、サウロ、、、」という言葉を考えながら私は主に言いました。「主よ。わ、わたしですか?私があなたを迫害している?個人的に私はあなたに対して何ら悪いことをした覚えはありません、、、確かにあの女子医大生を警察に引き渡したことはあります、、、でもあなたに対しては何もしたことはありません。あなたの民に触れた者はあなたの瞳に触れたのだという言葉は本当なのでしょうか。」

 

イスラム教は主イエス・キリストの十字架上での死を否定しています。なぜなら、この聖典はイエスの死における勝利は自分たちのものだと主張しているユダヤ人の言い分を取り下げたかったのです。そしてこの宗教の聖典は、「神はイエスの代わりに、イエスに似た誰かを十字架に掛けた」と主張しているのです。

 

ムスリムのみなさん、聞いてください。神様は詐欺がかったことをなさるお方ではありません。もし神様がイエスを十字架から救い出したかったのなら、わざわざ騙してイエスに似た誰かを十字架に掛けるようなことはせず、奇跡を用いてそれをなすことができたはずです。

 

この点での誤りは明白であり、この宗教の聖典が神聖な起源を持っていないことを証明するものです。さらにこの聖典は自己矛盾しています。というのも、この本はユダヤ人がイエスを殺したわけではないことを主張している一方、下に挙げるように別の箇所(イムラーン一家3:55の初め)ではイエスの死の現実を明確に認めているからです。

 

神はこう仰せられた。「ああイエス、わたしは汝を死に至らしめ、そしてその後、汝をわがもとまで高く昇らせよう。」

 

ムスリムのみなさん。私はあなたを改宗させようとしているのではありません。でも次のような究極の問いを挙げたいのです。キリストとは誰なのか?キリストは十字架上で死なれたのか?そしてそれがあなたにどう関係あるのか、ということです。もし全人類の歴史がキリストを中心として繰り広げられているのだとしたら、私の全生涯および存在もこの方を軸として展開しているはずです。

 

キリストの十字架を否定することはそれ自体、矛盾した歴史です。この宗教の聖典の中で預言者M自身が経典の民(=ユダヤ教徒およびキリスト教徒)に尋ねてみよと神様にうながされているのです。ということは彼はこの聖典に関して疑いをもっていたのでしょうか。

 

「されば、もしお前(=預言者M)に啓示したことで何か疑わしい点があったなら、お前より前から聖典(=聖書)を読んでいる人々に訊ねてみるがいい」(ユーヌス10:95)。

 

探究はじまる

 

生まれて初めて私は「なぜ?」と問い始め、それまで当然のこととみなしていた一つ一つを掘り下げていきました。全ての前提が洗いざらい批判・検証されました。

 

しかしこういった私の態度は権威社会との間に軋轢を生じさせることになりました。こういう問いはアッラーの権威に食ってかかるものだと彼らは言うのです。とにかく従えと。ムスリム兄弟団における私たちのモットーは「サマアナ ワ アタアナ(我々は聞き、そして従う)」でした。

 

こうして何年も探求しつづけた結果、私は二つの論理的結論に達しました。1)聖書は誤りのない神の言葉である。そして、2)イエスは神の御言葉である、です。そしてイエスが神であることは可能であると考え始めました。

 

頭ではキリスト教の信仰さえ全て受け入れていました。しかし心の中では依然として「全能の神を『わが父』などと呼ぼうものなら殺されるんじゃないか」とおびえていました。私には奇跡が必要でした!

 

聖書も、「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です。』ということはできない(Ⅰコリント12:3)」と教えています。ですから救いの体験というのは、死から永遠のいのちへと移される誕生の奇跡なのです!こういった内的葛藤の最中にあって、私は心の底から(モスクの中でさえも)アッラーに向かって叫びました。

 

「主よ、真理を私に示してください!イエスですかMですか?あなたが私の御父であるということがありえますか?ああ私に真理を示してください。もしあなたが真理に私を導いてくださるなら、私は今後、どんな代価を払うことになっても生涯を通してあなたにお仕えします!」

 

そうするとどっと涙があふれてきました。というのも、代価というのは、私のようにか細く脆弱な人間にとって耐えがたいほど高いものだろうと思ったからです。

 

家族に勘当され、ホームレスのように道端で寝ることがはたして僕にできるだろうか?それにもしムスリム兄弟団の指導者たちが僕の動向をかぎつけたとしたらどうなるんだろう?そしてもし彼らがイスラム的正義感と熱情から、イスラムを擁護しそして僕を殺しにくるとしたら?

 

イスラム教によれば、背教者にはまず自説を撤回する3日間の猶予期間が与えられます。その後、こうした異端者の血はアッラーの名によって合法的に流されてしかるべしとなっています。

 

預言者Mの言葉が私の耳元で鳴り続けていました。「(イスラム教徒の)だれであれ、自分の宗教を変える者に対しては、この者を殺せ」と。この伝統はアブー・バクル、ウースマン、アリ、ムアドゥ・イブン・ジャバール、ハリード・イブン・ワリッド等によっても述べられています。

 

にもかかわらず、私は「私を導いてください。」と神様に祈り続けました。ああ、偉大なヤーウェ。我を導きたまえ。この不毛な地にあって私は寄留者です。私は弱い。しかしあなたは強いお方です。

 

回心

 

そんなある晩、キリストが夢の中に現れ、やさしい甘美な声で「お前を愛している」と言ってくださったのです。これまで長い間自分はどれほど頑なに主を拒んできたのだろう。そのことが分かった私は涙の中で主に言いました。

 

「私もあなたを愛しています!あなたのことを知っています。あなたはとこしえからとこしえまで永遠の方であられます。」

 

こうして目が覚めると、私の顔は涙でぬれており、私の心は大きな喜びで満たされていました。そうです、キリストご自身が私の頭にも心にも触れてくださったのです。こうして私は主に自らを明け渡しました。すると私はキリストへの燃えるような情熱で満たされ、喜びに踊り、主の御名に賛美の歌を歌い、昼も夜も主に話し続けました。

夜も胸元に誤りのない神の言葉ーー聖書ーーをしっかり引き寄せて寝ました。最初のうち、私は神様の「甘えん坊」のような感じで、自分が祈り求めたものは何でも神様にいただきました。

 

でもそのうち、私は気づきました。「神様は私が(主から)何かを得るためではなく、ご自身ゆえに、主を愛し主を礼拝してほしいと私に望んでおられるのだ」と。

 

私は自分の信仰を表には出さないように努め、パプテスマもある牧師の家で秘密裏に受けました。でも救いの喜びにあふれた私は、もうこれ以上キリストのことを隠したり否んだりすることができなくなりました。

 

それで、私の幼馴染が「キリストは十字架上で死んだのか」と訊いてきた際、私は「そうだ」と答え、その理由を説明しました。その後彼は私と一緒に祈り、キリストを心に受け入れました。彼は私と祈るたびに震え、汗を流していました。彼は主イエスの御名がどんなに力強いかを目の当たりにしたのです。

 

迫害はじまる

 

しかし私が以前属していたイスラム原理主義グループの指導者たちが、こうした動向をかぎつけ、「イブラヒームのやっていることを洗いざらい話さなければお前を殺す」とこの友人を脅迫したのです。

 

悲しいことに彼は私を裏切りました。そして私はモスクの前で――以前私はこのモスクでイスラム教を熱心に説いていたのです――彼らに殴られました。彼らの視点からみれば、私は不敬な異端者であり、再改宗しない限り、殺されてしかるべき存在だったのです。

 

私の改宗は彼らにとって、もっともおそろしい形でイスラム教および聖典の神聖を汚すものだったのです。ひそかになされた私の改宗は今や公のものとなり、イスラム教徒たちは私を殺そうと図りました。

 

それで私は逃亡を余儀なくされました。デルタ域の村からイスマイリアまで私は彼らに追跡され、その後やっとカイロにたどり着きました。しかしカイロに住むクリスチャンの友人たちは私をかくまうことを恐れ、泊めてくれませんでした。そのため私は主の守りの御手を避けどころとし、再び村に戻るより法がありませんでした。

 

家族に拒絶されて

 

カイロから戻ると私の家は怒り狂うモスレムの暴徒でいっぱいになっていました。私の母は黒い喪服を着ていました。彼らにとってイスラムを捨てた私は死んだも同然だったのです!

 

ムスリムの女性たちは私に叫んで言いました。「あんたのお母さんはこんなに悲しんでいる。なんてことをしてくれたの、あんたって人は!」

 

別の女性は嘆いて言いました。「ああ、あわれな母親!息子は母を捨ててキリスト教という異端に走った。もし私が彼女の立場だったら、犬みたいに異端者たちの後を追いかけているような息子を殺してやるのだが。」

 

その頃父はヨルダンで働いていたのですが、私はヨルダンにいる友人から手紙をもらいました。それによると、父は(息子がキリスト教徒になったことで)ムスリムの労働者たちに激しく非難され、おいおい泣きながら道を歩いていたというのです。一カ月後に父と電話で話すことができましたが、それまでの間、父はこれが原因でずっと寝込んでいました。

 

怒り狂ったムスリムたちがわが家になだれ込んできた日のことを決して忘れることができません。私の母は隣人のサイードの足元にひざまずき、「どうか息子の命を助けてやってください。そして代わりにこの私を殺してください。」と嘆願していました。

 

そしてこのような筆舌に尽くしがたい苦悶の最中、母は村人全員の前で私を勘当しました。私は世界中で誰よりも母を愛していましたが、どんな人間の力も――たとえそれがどんなに巨大なものであっても――キリストの愛から私を引き離すことはできませんでした。そしてこれからも私はいつもイエス様のために生きていきます。

 

再びカイロへ逃げる

 

私の聖書、信仰書、賛美テープはすべて押収され、そして焼かれました。私はデルタ域からカイロに再び逃避行することにしました。警察は私を追跡していましたが、主は彼らの目をふさぎ、私を守ってくださいました。

 

カイロで私はエジプト人のバプテスト派の友人M宅に隠れました。M君は私をなぐさめ続けてくれました。そして次の御言葉を読んでくれました。

 

そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った(使徒5:41)。

 

これを聞いた時、私は泣き崩れました。私はこの友M君ゆえに神様に感謝します。彼は私を訓練し、賛美と感謝に満ち満ちた勝利の生活を送ることができるよう私を指導してくれました。そしてポケット版のアラビア語新約聖書もくれました。

 

しかし彼はある日「僕の両親がこわがっているんだ」と率直に打ち明けてくれました。私をかくまっていることが発覚するなら、彼らは終身刑に処されるのだと。

 

私にはもうどこにも行き場がありませんでした。それで私の牧師のアドバイスに従い、私は靴下の中に新約聖書を隠し、それが落ちないように祈りつつ村に戻りました。

 

主だけを避けどころにして

 

そしてその後、私は逮捕されては釈放され、また逮捕され、、を繰り返しました。「神だけが私の唯一の隠れ家」という意味を私は体験のうちに学びました。刑務所の中で、私はまことの平安を体験しました。そしてそれを私の救い主はご存知でした。私は獄の中に自分自身ではなくキリストをみましたので、揺るがされませんでした。

 

輝く明けの明星が来て私を救ってくださることを期待しつつ、涙のうちにも私は喜びの歌を歌いました。そして警察が押収できない場所に聖書を隠すことにしました――そう、私の心の中に。こうして私は聖句を暗記しました。それ以来、私は聖書を脇に寝るのが習慣となりました。

 

5年後ムスリムによる殺害計画を逃れ私は亡命しましたが、ショックを受けたのはアメリカにいるクリスチャンの中には、聖書を攻撃している人がいるということでした。――私はこの聖書ゆえに死ぬことも覚悟していたのです。

 

神の御言葉は信仰による約束を与え、私は幼な子のようにそれを信じ、確信をもって祈りました。御国の門は、私たちが神の御言葉を通して祈る時、開かれるのです。主の言葉はいのちを語っているのです!

 

母の日に

 

一度私は母の日の贈り物を持って母の所へ行きました。「母の日の贈り物?」母はぼんやり答えました。「そうだよ、母さん。」私は答えました。でも母は「贈り物?」と問い返し続けました。そして悲哀に満ちた目で私を見、こう言いました。

 

「15年も待ちに待って、やっと生まれてきたわが息子。でもその子はもう死んでしまった。イブラヒーム。私は最後の審判の日までお前を勘当するよ。」

 

私は泣きました。でもキリストは私の心に触れこう言われました。「今やわたしがお前の家族だ!わたしがお前の父、兄弟、母、姉妹、友、そしてすべてだよ、テモテ。」

 

また、忘れることができないのはこの時期、母が私を逮捕するよう警察に通報していたことです。さらに母は占い師の所へ行き、私を呪ってもらい、イスラムの道に引き戻そうとしていました。しかし占い師は言いました。

 

「あなたの息子さんはある行程を進んでいます。彼はその道を捨てず、その道を歩み続ける限り、一生涯に渡って勝利に満ちた人生を送るでしょう。」

 

そして占い師の口から出されたこの言葉によって、私の弟はキリストを知ることになったのです。私たちの勝利の主に関する、悪霊の証しは懐疑主義や不信仰をちりに帰します。(どうぞローマ人への手紙8:35-39を読んでください。)

 

また私たちはキリストによって圧倒的な勝利者となるのです。そうです、勝利者であられるキリストはあなたを愛しておられます。本当です。どうか信じてください。

 

また私の聖書とすべての信仰書が押収されました。残るは唯一ラジオだけでした。私は夜ひそかにラジオの局番をキリスト教放送「希望の声(Voice of Hope)」にあわせ、賛美を聞こうとしていました。(ちなみに、現在私はアメリカという自由な国において「希望の声」を通じてメッセージを伝えています。)

 

しかし母はそれを見つけるや私の手からラジオをひったくり、靴で私の頭を打ちました。当時私は若干20歳でした。

 

さらなる迫害そして逃亡

 

私は聖書が与えられるよう祈り、主はその祈りに答えてくださいました。そして私は聖書の入った小包を受け取りに郵便局へ行きました。
しかしキャマールという郵便局長は小包の内容物が何かを知ると私を激しく叩き、顔面にパンチを食らわせました。あらゆる恐怖を目の当たりにしました、、痛さに涙が出ました。

 

彼は私に言いました。「こういう不信なキリスト教連中の後を追いかけたりしやがって。イスラムを捨てるのか?なら我々はお前を亡きものにしてやるからな。もう二度と日の光を見ることはできないと思っておれ!」

 

切羽詰まり、私は「エジプトを脱出することができますように。そして自由に信仰生活をすることができますように。」と主に祈りました。

 

ああなぐさめに満ちた御父。あなたはこれまで決して私をお見捨てになりませんでした。十字架上での苦悶のただ中にあって『わが神。わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』と叫ばれたあなたの御子を心に留めさせたまえ。

 

主イエス様。彼らは皆あなたを見捨てて去って行きました。でもあなたは御父のうちに安息されました。あなたのように、私は御父により頼む必要があります。

 

再びカイロへ

 

3年後、私はカイロに移る決心をしましたが、そこも安全な場所ではありませんでした。最後に警察に逮捕された際、彼らは私に言いました。「お前は相当な反逆罪を犯した異端者である。次に逮捕される時には、死刑が言い渡されると覚悟しておけ。」

 

さらに私の地主(キリスト教徒)が「もうこれ以上、逃亡犯罪人をかくまうことはできない」と言ってきました。もはや国のどこにも居場所をみつけることができませんでした。誰も私を受け入れてくれませんでした。


助けの手

 

しかしこの時、主が介入してくださいました。パレスティナ人の伝道者アニス・ショローシュ氏が私のことをペイジ・パッターソン博士に知らせてくださったのです。パッターソン博士は私が米国へのビザを取得できるよう奔走してくださいました。

 

最初、私のビザ申請は拒否されました。しかしパッターソン氏はあきらめませんでした。そしてついに入国ビザが下り、私は超自然的にエジプトを脱出することができたのです。

 

主よ。あなたはくびきからあなたの子を解放した後に、再びそのくびきに引き戻すようなことは決してなさいません。警察の脅迫なしにキリストを礼拝できるような場所に住むことができるよう私を助けてください。主よ、どうか人々が私を強制的にモスクに行かせるような環境に住む必要がないよう取り計らってください。

 

あなたはあなたの子どもたちが自由に礼拝することを望んでおられます、、、たといそれが命がけで逃げることを意味したとしても、、それによってキリストが全ての全てになるためです。

 

パッターソン博士の尽力がなかったならば、私は今日この地上に生きてはいなかったと思います。私の処刑はすでに計画されていました。
しかし地上で私の果たすべき使命がまだ残っていると神様はお考えになっていたのです。それゆえ、主はパッターソン氏をお用いになり超自然的に私のいのちを救ってくださったのです。

 

全能の神はみなしごの父です(詩篇68:5)。そしてダビデの言うように、私の父と母が私を捨てる時も、主が私をご自身の元に引き寄せてくださるのです。

 

友よ。全能の神があなたの御父ですか?(ガラテヤ4:6)全能にして偉大なる神はあなたのことを喜んでおられるのです(箴言8:31)。

 

米国にて

 

米国に逃げ込んだ後も、不安は続きました。というのも、私の学生ビザはいずれ期限が切れるわけで、そうなると再びエジプト警察の手に捉えられる可能性があったからです。

 

エジプト政府にとって私はイスラム教の名誉を棄損し、国家に分裂をもたらした異端者なのです。しかし私はわが祖国エジプトに対しても、イスラム教に対しても恨みの気持ちなど抱いていません。神様はそれをご存知です。

 

牧師先生たちは、「最悪の場合、あなたを牧場の中にかくまいます。」と言ってくださいました。私は誰かの宗教的憤怒のほこ先になるのではなく、ただ生きたかったのです。そんな折、ある宣教団体が私を支援してくださり、永住権を求める嘆願書を提出してくださいました。

 

そして6年という長い年月の後、主は私の願いをきいてくださり、1998年4月18日――それは私たちの結婚式の数日前でした――に永住権を与えてくださいました。結婚式の数日前と前置きした理由は、私がグリーンカード欲しさにこの女性と結婚したと誰にも偽りの非難をされたくないからです。

 

結婚の贈り物

 

私はアンジェラへの愛ゆえ彼女と結婚しました。私はアンジェラに自分の全てをささげます。というのも私たちの愛の源は神から出たものだからです。それは移りゆく感情ではなく契約であり、私と妻との間にあって主がその証人となってくださいました。妻は私の同伴者であり、私の親友でもあります(マラキ2:14)。

 

結婚の贈り物をしてくださった神様をほめたたえます。私が神様に自分自身と結婚への敬虔な願いを明け渡した時、主は私の元にアンジェラという女性を連れてきてくださいました。アンジェラは私にとって神の天使のような存在です。彼女は内面的にも外面的にも美しい女性です。私たちは共に、ムスリムの兄弟姉妹にキリストの愛を分かち合うという共通の使命をもっています。

 

彼女は祈りの女性であり、人をやさしくいたわり、もてなし、そして与える人です。私にとって彼女は最高の女性です。また彼女は私の両親を愛し、彼らに献身的に仕えようしています。

 

主よ、あなたはすばらしいご慈愛をもって私にこのようなすばらしい妻を与えてくださいましたが、私はそれを受けるに値しない者です。
私たちは心を合わせ共に祈っています。まことに私たちの創造主そして贖い主こそ最高の仲人です。

 

おわりに

 

私があなたとの交わりをないがしろにして安楽な生活をむさぼるようなことが決してありませんように。あなたは仰せられました。「また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます」(マルコ13:13)。

 

困難の最中にあってもどうか主よ、十字架のキリストの兵士として苦難に耐えることができるよう私に忍耐を与えてください。主よ、「あなたの御心を行なうことが真のいのちの糧です」と告白することができるほど、あなたの愛で私を燃やしてください。

 

キリストの御名によって。アーメン。


テモテ兄より日本の兄弟姉妹へのメッセージ

愛する日本のみなさん。私はいつも日本の方々のことを、冒険心に富み、勇敢で前向きな人々だとうかがい知っております。今後あなたの証しによってムスリムの誰かがキリストにある救いに導かれるかもしれません。

 

そのためには神の愛で満たされる必要があるでしょう。なぜなら神の愛は私たちの心からイスラム教に対する恐怖心を締め出すからです。そしてあなたのうちに宿るそのような愛により、あなたはムスリムを(恐怖の対象ではなく)「サタンによって捕囚の身になってしまっている人々」と見るようになり、そのようなあなたを用いて、主はムスリムを解放に導いてくださるのです。そうして彼らもまた、あなたのように喜びをもって「アバ。父よ。」と呼ぶようになるのです。

 

「ムスリムの人々を救いに導くためにはイスラム教について、ムスリムについて熟知していなければならない」と考える必要はありません。どれだけ知っているかというのが重要ではなく、どれだけあなたが主の聖なる愛のご支配に自分を明け渡しているか、これが重要なのです。

 

そうしていったん自分を主に明け渡したなら、あなたは「助産婦」のようになります。あなたの黙々となす奉仕というのはここそこの小さなものかもしれません。しかし主こそがムスリムの魂を救う救い主であり、あなたがなすべきことはただ、祈りのうちに謙遜にそこにとどまることなのです。

 

「自分にはムスリムを救いに導くことなんてできない」とご自身の役割を過小評価しないでください。他でもないあなたを通して、全能の神は、傷ついたムスリムの心に語りかけ、奇跡のみわざをなしてくださるのです。あなたはその働きにつく心の用意ができていますか。主はあなたがそういった現場に行ってほしいと望んでおられるでしょう。そしてそれは私の祈りでもあります。

 

愛する日本の兄弟姉妹のみなさん。なにかコメントや感想がありましたら、いつでも連絡をください。

テモテ・アブラハム(Timothy Abraham) 2014年11月

彼のメールアドレスはtimothyinchristで、その後、@gmail.comです。

 

クルド人への愛の使者ーーアッシリア人ハーゼム兄の証し〔イラク・クルディスターン〕

 

クルド人S牧師の救いの証しを読んだ方は、史上はじめてのクルド人教会(イラク)が、ハーゼムという名のアッシリア人クリスチャンの愛の働きを通して誕生したという感動的な出来事を今も記憶にとどめておられることと思います。

 

私は何人ものクルド人やペルシャ人の口から、この兄弟の名前が敬意と愛情を込めて出されるのを耳にしてきました。そしていつの日か、この方に直接お話をうかがうことができたらと願っていました。感謝なことに、主はその願いを聞き入れてくださり、先日、ハーゼム兄から直接、救いの証しを聞くことができました。

 

インタビュー

 

私:こんにちは、ハーゼム兄。あなたのことは多くの兄弟姉妹から伺っております。まず、どのようにしてイエス・キリストに信仰を持つようになったのか、その経緯をお話ください。

 

ハ:私たちの神に全ての栄光をささげます。私はイラク北部のクルド人自治区で生まれました。民族的には私たちの家族は、アッシリア・アラム人(Asshuri Aramaie)です。生まれて一年ほど経った頃、私たち家族は自治区の首都Erbilに移り住みました。家族の宗教は、Chaldean Catholic(カルデア・カトリック)でした。

 

:この「カルデア・カトリック」という名称について。調べてみると、18世紀にローマ教会が中東のこの地域に進出した際、競合する当地のアッシリア東方教会との間に差異をつけようと、カトリックに改宗したアッシリア人のことを意図的に「カルデア・カトリック教徒」と新しい名称で呼び始めたことが名前の起源だそうです。ですから、彼らは民族的にはあくまで「アッシリア人」であり、紀元前10世紀以降にメソポタミア地方に移り住んだセム系遊牧民カルデア人とは関係がないそうです。)

 

話は1995年にさかのぼります。M市では姉が大学生活を送っていました。彼女はキャンパス内で某宣教師によって福音を聞き、イエス・キリストに信仰を持つようになっていました。ある日、姉は私の所に来てこう言いました。「ハーゼム。私は、あなたに最高の贈り物をあげようって思う。だから、全てを捨てて、これを受け入れて!」そして彼女は一冊の本を私にくれました。見ると、アラビア語で書かれたインジール(新約聖書)でした。

 

当時、私は自分の生死に関わるような深刻な問題におびやかされていました。私はこの問題から逃れようと必死にもがいていましたが、自分の力では抜け出ることができませんでした。

 

逃亡

 

そしてついに、私はErbilを去り、Mosel地方の小さな村に住む叔父の家に身を寄せることになりました。人里離れた村の中で、私は「死にたい。死にたい」とそればかり考えて日を過ごしました。

 

ある日私は、村にある丘に登り、頂に腰を下ろし、一人物思いにふけっていました。するとその時、急に「私はなんとしても生きなければならない」という強い思いが湧き上がってきたのです。そして私は神に向かって語りかけました。「もし生きるとしたら、これから私は、ただあなたのためだけに生きようと思います。」

 

その日は春日和で、丘に到着したのは午後の三時過ぎだったと思います。その祈りをし終えた後、私はそのまま地面に横たわり深い眠りにつきました。

  

新生

 

目が覚めると辺りは真っ暗になっていました。私は急いで叔父の家に向かいました。表情の明るい私に気づき、叔父がどうしたのかと尋ねてきたので、私は、「私の問題は、神様ご自身が解決してくださるのです!今、私にその信仰が与えられました。」と言いました。それを聞いた叔父たちはあまりの事にあっけにとられていました。

 

そして朝が明けるや否や、私はErbilに向かって帰途に就いたのです。実家に辿りつくと、私は以前、姉にもらったあのインジールを部屋から取り出してきました。そして家族に「この本の中に解決があります!」と宣言しました。

 

父は「お前は頭がおかしくなったのか?」と言いましたが、姉は、私の味方になってくれて、「お父さん、そうなんです。主なる神はハーゼムの問題を解決おできになります。」と擁護してくれました。

 

あなたのために生き、死にます。

 

こうして私は聖書を読み始めました。みことばは私に語りかけ、私は一行ごとに、「アーメン!」と応答しながら、読み進めていきました。そのうちに悔い改めが起こされ、私は主の前に自分の罪を告白し、イエス・キリストを救い主として心に受け入れました。

 

そして私は主に言いました。「生きるのなら、私はただあなたのためだけに生きます。もし死なねばならないのでしたら、その時もただあなたのために死にます。」

 

クルド人伝道の幻

 

それから一年後、主は幻の中で私に顕れてくださり、私はクルド人を始めとするムスリムの人々にもイエス・キリストの福音を宣べ伝え始めました。

 

1997年当時のクルド自治区においては、ムスリムへの福音伝道は死罪に当たる大罪でした。そのため、恐れた父は、「お前が伝道をやめるまでは、今後一切わが家にお前を入れるわけにはいかない。」と言い、私を家から追い出しました。

 

私は宿り場を求めて、親戚や友人の家に行きましたが、皆、トラブルに巻き込まれることを恐れ、私を受け入れてくれませんでした。そのため、私は昼間は公園で過ごし、夜はひそかに実家の庭に隠れ、そこで休眠をとりました。(私が庭で寝ているということを母だけは知っていました。)

 

御使い

 

ある晩、庭で寝ていた私に御使いが現れ、「行って、福音を宣べ伝えなさい。恐れてはいけない。そして明日、父親の所に行きなさい。彼はあなたを受け入れるでしょう。」と言いました。

 

私はその声に従い、朝の五時に玄関にまっすぐ向かい、「お父さん、僕は家に戻りました。」と言いました。すると、父は私を抱きしめ、「これからはお前の良いと思うようになさい」とさえ言ってくれたのです。

 

こうして私は道端でも人々に聖書を配り、伝道を続けていきました。救われる人々も起こされていきました。

 

逮捕

 

2000年、私は伝道をしていたかどで、警察に逮捕されました。逮捕の知らせを受け、国連も私の安否を知ろうと、警察に問い合わせていましたが、クルド警察は、「そのような人物は刑務所にはいない」と答え、逮捕の事実を否定したため、家族も他の兄弟姉妹も私の行方を知ることができずにいました。

 

私はその時、手を縛られ、目隠しをされた状態にありましたが、耳から入ってくる看吏たちの話し声により、その事を知りました。警察は誓約書を私の前に置き、「今後は、福音をイスラム教徒に伝えません」という項にサインをするよう強要してきました。

 

私は彼らに答えました。「私はクルド人を愛しています。しかも私が彼らに伝えようとしているのは良い知らせなのです。そして私は決して彼らにそれを強要しません。受け入れるか受けないかは彼らの選択次第です。」

 

この発言により、私はいつも以上に暴行を受けました。

  

祈り

 

独房に戻された後、私は両手を壁につけ、祈り始めました。

 

「生けるキリスト、あなたが私をここに導いてくださったことを信じます。あなたはここで何かを私に示してくださるのでしょう。私は今、最大の試練に遭っています。しかし、このただ中にあって、私はただあなたの御名だけを呼びます。アーメン。」

 

すると私に啓示があり、主は、「あなたは今日、釈放されます」と仰せられました。

 

しかし刑務所の業務時間は、午後3時までであり、その時、すでに時刻は夜の7時を過ぎていました。また釈放には、書類による手続きが必要であり、3時以降はそういった手続きは行われていませんでした。

 

夜の9時に、一人の看吏がやって来ました。「お前はハーゼムか?」と訊かれたので、「そうです。」と答えると、その看吏は、「釈放だ」と言いました。

 

こうして私は主の啓示通り、その日、(書類手続きもない状態のまま)釈放されました。その後も、逮捕・釈放が繰り返されましたが、教会は成長していきました。

 

私:ハーゼム兄、イラクにいるアッシリア人とクルド人の間には、長年に渡って宗教的、民族的壁が存在してきたと聞いています。しかしあなたはクルド人を愛し、彼らの教会の牧者として魂に仕えておられます。何がそれを可能にしたのでしょうか。

 

ハ:答えは「キリスト」です。ただただキリストのゆえです。キリストの目に、私たちは皆同じです。私は、クルド人にも、トルコ人にも、ペルシャ人にも、ムスリムにも、(福音を聞く必要のある)キリスト教徒にも、すべての人に福音を伝えています。伝道をする時、私たちは、目の前にいる人の民族や国籍や言語といったもの以上に、まずその人を「一人の人間」として見ることが大切だと思います。

 

民族の違いを超えて

 

使徒パウロは、自分の民族を愛していました。しかし救われた後、むしろ彼は異邦人のために多くの働きをするようになりました。シリア、トルコ、ギリシャ、ローマと当時の聖書地図をみると、パウロがどれだけ異邦人の住む世界に出て行って、彼らの救いのために立ち働いていたかに驚かされます。

 

キリストの愛に満たされたパウロは、民族の違いを超え、異邦人に福音を宣べ伝えたのです。地上に引力のような自然法則があるのと同様、霊の世界にも原則があります。それは全ての人が罪を犯し、神の栄光を受けられなくなっているという普遍的事実であり、従って、皆、救いを必要としていることです。そこに民族的えこひいきはありませんし、罪の大小もありません。

 

私:ハーゼム兄、日本の兄弟姉妹に何か応援メッセージがありましたら、どうぞ。

 

ハ:日本の方々は不正を行なわず、礼儀正しいです。私は日本のみなさんを愛しています。あなたという日本人がイエス・キリストに信仰を持つことで、多くの国々の民が祝福を受けるようになるでしょう。どうか、どうか決してキリストを否まないでください。一人一人がイエス・キリストを受け入れる必要があります。

 

ルカ1:30-33を読み上げます。

 

すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。(His Kingdom there shall be no end.)」

 

どれほど秩序があり、安定した国であっても、地上の国は一時的です。しかしキリストの王国は決して終わることがありません。どうか、この王国に生きる人になってください。日本人は美しい民です。私はその美しい民がキリストを受け入れず滅んでほしくない――そう心から願い、あなたがたに嘆願します。どうかキリストを受け入れ、キリストと共に生きてください。

 

私:ありがとうございました。

 

ーインタビュー終わりー

 

↓ハーゼム兄の母語で歌われている「主の祈り」です。


ファルザネ姉の救いの証し〔イラン〕

 

Ten Thousand Muslims Meet Christ, published by Iranian Christian International, Inc. Colorado, 2006.

 

日本語訳の翻訳許可を与えてくださった本書の編集者イブラヒーム・ジャーファリー氏にお礼申し上げます。

 

尚、イブラヒーム兄は、1994年1月に殉教されたハイク牧師(アルメニア系イラン人)の愛弟子に当たる方です。今回ご紹介するのは、本書の7章に収録されている証しですが、その前に、イブラヒーム兄より日本の兄弟姉妹へのメッセージがあります。

 

日本の読者のみなさま

 

本書は12の証しで構成されています。それは全てイランのイスラム教徒だった人々による証しです。本書が出版された2006年、こういった回心者の数は、実に6万5000人を超えました。それに加え、20万人余りのsecret believer(=信仰を公にしてはいないけれども、心の中でイエス様を救い主として信じている人)がいます。

 

つまり、こういった人々は、直接的にクリスチャンと連絡を取る機会がないにもかかわらず、夢や幻、キリスト教衛星テレビやラジオ、トラクト、インターネット等により、キリストの元に導かれているのです。

 

イランというーーイスラム法下にあり、宗教の自由のない国においてこれだけの数のムスリムがキリスト教を受け入れているというのは奇跡です。

 

歴史的にいえば、ムスリムは従来、キリスト教に反発し、その教えを受け入れることを恐れていました。その恐れは、イスラムの道を捨てた者に課されているイスラム法(死刑をも含めた極刑)への恐怖から来るものでした。ですから、そういった状況の中であえてイエス様に信仰を持った人々は、聖霊によって真に強められ、そのような大胆なステップを踏んだのです。

 

本書を通して、日本のクリスチャンの皆さまが励ましを受けますようお祈りいたします。またこういった証しを読まれることで、十字架につけられしイエスによって表された神の愛の福音を、ムスリムに分かち合いたいという思いが与えられる方もおられることでしょう。

 

そうです、今、私たちはムスリムの人々にイエスの愛の伝えることのできる、黄金期を生きているのです。

 

編者イブラヒーム・ジャーファリー

 

 

ファルザネ姉の救いの証しーー私の天のお父さまーー

 

 

子ども時代

 

私は非常に敬虔なイスラム教徒の家に生まれました。私の家族のきずなは強く、皆、お互いを愛し、いたわっていました。こうして私はすばらしい両親のもとで、本当に何不自由ない子ども時代を過ごしました。

 

学校で、また両親を通して、私はイエスについて少し学んでいました。イエスはイスラム教の聖典の中で「第四番目の大預言者」として言及されており、一方、イスラム教徒の創始者Mは第五番目にして最後の大預言者だと教わりました。

 

母に「イエスはどうして十字架につけられちゃったの?」と訊いた時のことを今でも鮮明に覚えています。

 

母は答えました。「それはね、イエスが自分は神の子だって言い張ったからですよ。でもね、神は結婚なんかされなかった。神に子どもはいないんですよ。」

 

クリスチャンは、父なる神、子なる神、聖霊なる神という、三つの神を信じる人たちだと思っていました。こういう説明は私の頭を混乱させました。それに比べ、ムスリムは唯一神のみに信仰を置いている。だからイスラム教は他の宗教よりもすぐれていると思っていました。

 

人生の過渡期

 

イランの高校を私が卒業すると、両親は私の今後について話し合っていました。――米国に留学させる方がいいのか、それともお見合い結婚をアレンジした方がいいのか、、、と。結局、両親は、「まず、娘の結婚を準備する。その後、夫と共に娘をアメリカの大学に送り出す。」ということに決めました。

 

こうして私はお見合い結婚をし、1973年、夫と私は米国に発ちました。私は両親から経済的サポートを受け、また政府の給付奨学金も受けていました。学生ビザの資格で米国に来ていましたので、当初の予定では、4-5年、米国に滞在し、学位取得後、祖国に帰るつもりでした。

 

米国に来た当初、私は新しい環境になじめず、それに加えひどいホームシックにかかってしまいました。「一刻も早く学位を取得して、祖国に帰りたい」と、そればかり願っていました。当時、イランと米国の政治的関係は良好でした。なんら問題や衝突の兆しといったものもありませんでした。シャー(イランの国王)政権は非常に安定しているかのように思えました。

 

危機

 

しかしまもなくして、私たち夫婦は、イラン情勢が緊迫してきているように感じ始めました。シャー(国王)は、大衆の支持を失いつつあるようでした。アヤトッラー・ホメイニー(イスラム高僧)は、国王がイランを離れるなら、亡命先のフランスから祖国に帰還しようと待機していました。

 

そしてそれは1979年初頭、まさに現実化したのです。ホメイニーの承諾を得て、イラン人はテヘランにある米国大使館を襲撃し、そこにいた大使館員を人質にとりました。その結果、米国に滞在していたイラン人はとんだしっぺ返しを食らうことになりました。

 

アメリカが、自国内にいるイラン人全ての資産を凍結すると、私たち夫婦は、イランから経済的援助を受ける道を失いました。それに加え、私は父が亡くなったという知らせを受けました。

 

主人と私は、自活するより方法がなくなりました。学生ビザでは働くことはできませんでした。しかし生活のため、止むにやまれず私は大学をやめ、フルタイムの仕事に就きました。祖国に帰ることも考えていましたが、イラン・イラク戦争勃発の知らせを聞き、思いとどまりました。

 

一方、(アメリカに住む)イラン人に対する米国人の嫌がらせはますます悪化していき、私たちは恐怖におののきながら生活していました。米国入国管理局は不法労働しているイラン人を捜査していましたので、自分も入管に捕まり、強制送還されるんじゃないかとおびえていました。

 

うちには二人の幼い子どももいましたので、私の給与だけで四人を支えていくことはできませんでした。それで主人も働き始めました。言うまでもなく、私たちの生活は、ストレスや不安、恐怖だらけでした。

 

この辛い時期にも、私はメッカの方向を向いて、一日に五回祈り続けていました。断食もよくしました。でも時々自問していました。「神さまは、私の家族のことをかまってくれているのかしら?」と。私は神さまの助けを必要としていました。でも、神さまは遠くにおられるようでした。

 

私は二人の子どもたちを、教会の運営する保育園に入れていました。というのも、そこでは嫌がらせを受けることが少ないんじゃないかと思ったからです。感謝祭やクリスマスの時期には、「ファルザネさんも、教会の行事に参加しませんか?」と誘いを受けていましたが、私は一度も足を運びませんでした。

 

そういったイベントに参加するのは良くないといつも思っていました。やっぱりイスラム教徒として、クリスチャンの祝祭を共に祝うことはできないと考えていたからです。

 

逆に私は、保育園の先生たちを自分の家に招いて、イスラムの道を教えようとしたりしていました。でも心の奥底では、「神さまはあまりにも遠いところにおられて、私の祈りなど聞いてくださっていない」と感じている自分がいました。ですから、イスラムについても説得力ある議論はできないように感じていました。

 

私の毎日は仕事と子どもの世話に忙殺されていました。「どうしてこんな羽目になっているのでしょう?」と私は神さまに問い続けました。状況があまりにも耐えがたくなってきて、私は精神安定剤に依存するようになっていました。

 

私の担当医は、「あなたはうつ病にかかっている。祖国に帰る必要があります。」とおっしゃいました。私もそうしたかったのです。でも、国の状況および家族の安全のことを考えると、それはできない話でした。

 

うちの子たちが通っている保育園の教会は、園児のお母さん向けにエアロビクス教室を開いていました。お医者さんから、不安発作を抑えるためにも適度な運動をした方がいいと薦められていましたので、私はこれに参加することにしました。

 

この教室はデボーションの時を持って始まり、祈りを持って締めくくられていました。私はエアロビクスには参加していましたが、こうした祈りの時間は避けていました。自分の信仰と相いれなかったからです。にもかかわらず、教室の女性たちは皆、私に親切でした。彼女たちの気遣いは真心からのものだと私は感じました。

 

その間にも、主人と私は多くの弁護士の所へ行き、労働許可を得ることができるよう奔走していました。そうしてついに一人の弁護士を見つけました。その弁護士によれば、夫が雇用先の会社から推薦状を得ることができれば、米国労働省からの許可がおりるだろうというのです。私たちはすぐにそういった推薦状をもらい、弁護士を通して、労働省に提出しました。

 

その当時、イランの政治状況ゆえ、私たちは祖国の家族から、ほとんど消息をきくことができずにいました。ほんの時たま電話が通じる時もありましたが、母はただ「ここは安全じゃない。アメリカにいなさい。」と繰り返すだけでした。

 

近所の人たちからの嫌がらせを受け続け、私はストレスと怒りでいっぱいになっていました。

 

私は、「このイラン野郎、とっとと国に帰れ!」と言われるためにこの国に来たわけじゃなかった。下積み仕事をするためにこの国に来たわけじゃなかった。そして何より腹が立ったのは、なぜ私の神は、祈りに答えてくれないのかということでした。それが理解できませんでした。

 

私は、労働省が主人に許可を出してくれることに、ただただ望みをかけていました。そうしたらもう恐怖と不安の中で生活しなくてもよくなるのです。

 

ある晩、電話がなりました。弁護士からでした。「労働省から不許可の知らせがきた」と。

 

私たちは打ちのめされました!もうこれで全ての希望の綱は断たれたのです。私は主人に、「イランに帰ろう。」と言いました。私は不法就労にも、嫌がらせにも、疲れ果てていました。でも子どもたちの安全を考えると不安でした。毎日、爆弾の落ちているような国にこの子たちを連れて帰ることができるのかしらと。

 

その晩、私は今までの人生を振り返ってみました。アメリカに来てからわが身に起こったことを一つ一つ考えました。自分たちの問題を解決しようと私たちは万策を尽くしてきました。

 

私は、ベビーシッター、介護ヘルパー、家事代行、ウエーター、コインランドリーのヘルパー、看護師の補助員など、いろんな仕事をしてきました。

 

私は思いました。「今、自分はどん底にいる。こんな状況に陥るためにアメリカに来たんじゃなかったのに、、、何度も断食した。神に祈り、叫び求めた。でも神は私の祈りをきいてくれたためしなんてなかった。もう外国人として生きていくのに疲れた。もし今もお父さんが生きていたら、実家に戻って、もうこんな生活とおさらばしていたろうに。」

 

でもその晩、床に就いた時、ふと思い出したのです。「そうだ、明日の朝はエアロビクスだ。」

 

そうすると、なんだか少し元気が出たように感じました。

 

翌朝、私は早々とエアロビクス教室に足を運びました。そしてデボーションの時に語られる言葉に熱心に聴き入りました。それはこれまで決してしなかったことです。

 

エアロビクスの間中、私は家族のこれからのことを考え続け、教室が終わって、祈りのセッションが始まっても、そこにとどまりました。そして、女性の一人が、「みなさん、何か祈り課題、ありますか?」と訊ねると、私は口を開き、自分の抱えている問題を何もかも吐露しました。

 

みんな、私の話を聞いてくださいました。そして私と私の抱えている全ての問題を神さまの前に差し出して、祈ってくださいました。祈りの中で、女性たちは神さまのことを「御父」と言っており、イエス・キリストのことを「救い主」と言っていました。

 

ある方が、聖書を開き、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタイ18:20)と読み上げてくれました。

 

彼女たちはイエスの約束を自分たちのものとして祈り、「これをイエス様の御名によって祈ります。」というフレーズでもって、御父に祈りをささげました。さらに女性たちは、今後も私のために祈りますと言ってくれました。

 

教室を出てからも、この「イエス」という名前は私の脳裏を離れませんでした。

 

家への帰り道、私はこのイエスに語りかけたのですが、そうすると涙が出てきました。

 

私はイエスに言いました。「もしあなたが本当に神なら、それなら、、、これまでずっと私は間違っていたということになります。私は間違った神に祈っていたことになります。」

 

その晩、食事の前にも私は再びイエスに語りかけました。「イエス様、もしあなたがまことの神様なら、うちの家族の問題をどうしたらいいのか私に教えてくれませんか?」

 

 

その晩、私は夢をみました。夢の中で、私と子どもたちはイエスに会いに、エルサレムに行こうと旅じたくをしていました。

 

私はイエスの所へ行って、イエスに私の問題を打ち明けようと思っていました。そうして私たちは道を歩き始めました。道はとても険しく、果てしがないように思えました。くたくたに疲れ切った私たち家族は、エルサレムに入る一歩手前の場所に到着しました。

 

見ると、道は古いれんがでできた壁でふさがれていました。私はあちこち探しましたが、そこには戸口がなく、イエスの所にたどり着くすべがないように思えました。私は泣き出し、言いました。

 

「イエス様、私ははるばる遠いところからあなたに会いにここまでやって来たのです。これがあなたの家ですか?でもどこにもドアがありません。あなたの所にたどり着くすべはないのでしょうか?」

 

すると(夢の中で)、私はエアロビクス教室の女性たちが私のために祈ってくれた時にくれた約束のことを思い出しました。私は再びイエスにたずねました。「イエス様、ここが私の旅の終着点ですか?」

 

すると一つの声が答えました。「いや、ここが終わりではない。」

 

その瞬間、子どもたちと私は、ドアのないれんが壁の上を上昇し始め、高く高く昇っていきました。そしてついに御国の門の前に来たのです。門が開き、子どもたちと私は中に入って行きました。そのなんと美しかったこと!

 

中に入るとすぐに、ある人が両手を広げて私を迎えようとしているのに気づきました。この方は両手にそれぞれろうそくを持ち、白い衣とサンダルと履いていました。

 

私はこの方の目を見ることができませんでした。なぜならそこからまばゆい光が輝いていて、その場所全体を照らしていたからです。

 

その時分かったのです。私は今、イエスとご対面しているのだと!

 

私は、イエスに全ての問題を打ち明けました。私は子どもの時からの事を何もかも、イエスに打ち明けました。問題をイエス様に打ち明けるたびに、心が軽くなっていくのを覚えました。うつと不安が次第に消えていきました。あまりに早口にお話したため、私は息が切れてしまいました。

 

もう疲れて言葉が出なくなってしまってからも、イエスは引き続き、私の思いの中にある問いに答えてくださいました。

 

周りをみわたすと、そこにはたくさんの部屋がありました。そして各部屋は庭につながっており、そこには人々が輝く白い衣を着て、立っていました。イエスは言いました。「この人々は過去に生きた預言者たちです。」

 

そして私は気づきました。自分はこれまでいつも自分の宗教の神を礼拝してきたけれども、この神は私の祈りに答えてくれなかった。でもイエスは答えてくれた、と。天使の群が現れ、王冠をかぶったイエスを取り囲み、歌いました。「この方こそ主なり。主の御名をほめたたえよ。」

 

私も天使と共に歌いました。「主を賛美せよ。主の御名をほめたたえよ!」

 

イエス様は私が必要なだけ時間を割いてくださり、私の問いに答えてくださいました。その後、もはや何も私を妨害するものはありませんでした。私は自分が羽のように軽くなった気がしました。

 

イエス様は、「何もかもうまくいく、大丈夫。」と約束してくださいました。私にとっては、イエスの約束、これだけでもう十分でした。私はまことの神を見い出したのです!

 

そこで私は目を覚ましました。

 

自由

 

最高にいい気分でした。うつとストレス感が消えていました。

 

その日の夕方、また弁護士から電話が入りました。労働省は主人の提出した証明書を受け入れ、永住許可のカードナンバーを発行したということでした!永住許可証の発行もそれに続きました。

 

私はイエスに水を一口求めましたが、主はカップ一杯の水を与えてくださったのです。主は私を養ってくださる方であること、またイエスさえいてくだされば十分であることを、主は私に示してくださいました。

 

主は私に力を与えてくださいました。それにより、私はもう心配や気遣いの重圧に押し倒されることがなくなったのです。涙のさなかにも、主は私に喜びを与えてくださいました。

 

「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」とイエス様は約束してくださったのです!

 

今、神様は私にとって、どこか遠くにいる存在ではなく、沈黙の神でもありません。私には天のお父さまがいるのです。そしてこの御父は私を娘にしてくださったのです。

 

ーおわりー

 

生けるまことの神ーーメフリ姉の救いの証し〔イラン〕

 

Ten Thousand Muslims Meet Christ, Iranian Christians International, Inc. Colorado Springs, 2006)

 

私の父はスンニ派のイスラム教徒であり、クルド系のリーダーでした。一方、私の母はシーア派ムスリムで、王族カジャール家の血筋を引く娘でした。私が4歳の時、父は政府によって処刑されました。

 

答えを求めて

 

7歳の頃、私は神様について、そして創造について問い始めました。私は母に、「ねえ、どうして私はこの地上にいるの?」とか「天と地はどうやって造られたの?」などと尋ねていました。

 

それに対し母はこう答えてくれたものでした。「お前が大きくなったら、どうやってお前がこの世に生まれてきたのか説明してあげるからね。でも天地の創造に関していうならね、目に見えない神様が天も地も造ってくださったんだよ。」

 

私の母はテヘランにあるカトリック系の名門校を卒業していました。すばらしい母でした。彼女はイスラム教の掟に従って生きようと努めていました。こういう母に倣い、やがて私も良きイスラム教徒になろうと願い始めました。

 

12歳になると私はイスラム式の祈りと断食を遵守するようになりました。私は目に見えない神様の臨在を心から感じました。そんな私に「神様に近づき天国に入るためには、、」と母は次のように教えてくれました。

 

1) 儀式的祈りと断食を守り行なうこと

2)他の人の不幸を願わないこと

3)盗まないこと

4) この宗教の創始者Mを神の使徒と信じ、14名の無罪性を信じること(14名とは、12人のイマーム、創始者Mそして彼の娘ファーテマのこと)

5)貧しい人に施しをすること

6)イスラム教徒にとって最も聖なる都市メッカに巡礼に行くこと

 

私は天国に行きたかったので注意深く母のアドヴァイスに従いました。定期的にコーランも読みました。16歳になった時、私は夫になるべき男性に出会いました。彼は非常に裕福な人でした。

 

結婚後すぐに、私は夫に頼みました。「私にコーランの手ほどきをしてくれるムッラー〔イスラム教聖職者〕を個人教授に雇ってくれるかしら?」

 

こうして毎週木曜の2時間、私はムッラーの指導下、聖典の学びをしました。その後10年間、私はこの学びを続けました。

 

27歳になる頃までに、夫と私は5人の子どもに恵まれました。それにもかかわらず、私は個人的に神様を知っていないように感じており、また(あまり意味のないように思える)宗教ルールや儀式を守ることは私の心のニーズを満たしませんでした。

 

例えば、聖典によれば、毎日家で働いている召使たちの前で私はイスラム式ベール着用することが義務付けられていました。でも実際、この要求は実際的でなくベールは何かと邪魔になりました。召使たちとの接触は避けられず、この不便さに私はかなりイライラしてしまっていました。このルールは無意味に思えました。

 

その時私はふとこう思いました。「そうだ。メッカ巡礼に行くなら、自分の求めている平安が得られるんじゃないかしら。」このメッカ巡礼というのはイスラム教徒にとって最も大切な宗教行為であり、この巡礼を志願する人は高い費用を払わなければなりませんでした。

 

私がメッカ巡礼のことを夫に相談すると、彼はかなり驚いていましたが、同意してくれました。彼はコム市の有名なアヤトッラー(イスラム教における枢機卿的存在)に連絡を取ってくれ、すぐに私のパスポート、巡礼用の服等が手配されました。私は巡礼団の中で最年少の女性でした。私は巡礼に行けるというこの喜びをおさえることができませんでした。

 

メッカに着くと、私はあらゆる遺跡をみてまわりました。そして自分の罪および今は亡き両親や祖父母の罪のために、羊を屠りました。そうです、私は死者をも天国に行くお手伝いができると信じていたのです!こうして私は帰路につきました。

 

まことの道をみつけて

 

帰りの飛行機の中、私は今回の巡礼にきわめて満喫感を覚えていました。飛行機がテヘランに着く30分前、私は化粧室に行き、公式的なイスラム式ベールをぬぎ、服を着替えました。そしてスカーフを頭にかぶり、マントー(くるぶし丈のローブ)を着ました。

 

このマントーというのは公式な服よりも着心地が良く、イランでは社会的にも認められている服です。私が座席に戻ると、巡礼団長であったムッラー(聖職者)がつかつかと私の方に歩み寄り、だしぬけにこう言いました。

 

「何てことをしてくれたのか、ハジエ(=女性巡礼者)?なんでスカーフとマントーを着ているんだ?あんたのスカーフの下から髪の毛がのぞいているのが分からんのか?この違反行為によりお前さんは真っ逆さまに地獄に落ちるんだ。それが分からんのか!」

 

私は自分の耳を疑いました。そして驚愕した私は、彼をまじまじと見つめながらこう言いました。「一体どういうことですか?神様というのは私たちの心の中におられるんじゃありませんか?」

 

ムッラーは言いました。「違う!聖典によれば、人はヘジャーブ(イスラムの服装規約)およびシャリーア(イスラム法)を遵守することによって神に近づくのであって、心の願い云々によるのではないのだ。人の心を巣食っているのはサタンであって、神ではないのだ!」

 

この会話は私に絶望感をもたらしました。私は神様に言いました。「神様、いつもあなたに近づこうとするたびに、私は逆にあなたから引き離されるように感じます。ああどうか、あなたに近づく道を私に示してください。」

 

その後、私はイランを離れ、海外に移住することを考え始めました。私はそのことを夫に相談しました。最初夫はしぶっていましたが、ついに折れてくれました。こうして1977年、夫と私と子どもたちとは米国に発ちました。

 

米国に住み始めてしばらくして後、私はアルメニア系のクリスチャン女性と知り合いになり、「教会に行ってみたい」と彼女に打ち明けました。こうして次の週の日曜日、私は彼女と共に教会に行きました。そしてそこの牧師先生に「ペルシャ語のインジール(新約聖書)を読みたいです」とお願いしました。

 

すると先生はさっそく翌日、ペルシャ語新約聖書をくださり、「マタイの福音書から読み始めてみてください」と指導してくださいました。私は先生のおっしゃった通り、マタイ伝から読み始めました。そして新約を全巻読み終わった時、私は自分がついに生けるまことの永遠なる神様をみつけたことを内に感じました。

 

私はイスラム教の学課で学んでいた神性とはとても異なる神様を見い出しました。新約聖書の神は愛に溢れた神様でした。そしてこの神様はイエス・キリストというかたちをとって地上に来てくださり、私たち一人一人の罪の代価を払うため自ら犠牲となってくださいました。そしてイエス・キリストはその後死者のうちより蘇りました。

 

このようにして、主に信頼する全ての人のためにイエス様は死に打ち勝ってくださったのです。そして天に至る門を信者のために開いてくださり、さらに地上においても神様と個人的につながる道を開いてくださったのです。イエス様を通して、至高にして聖なる神様は、近づきやすく身近にいて私をも迎えてくださる神様となったのです。そしてこの神様は聖霊によって私を変え、私の心を清めてくださるのです。

 

こうしたものは、私が自ら獲得したものではなく、自分の善行によって得たものでもなく、主の義と愛ゆえに与えられたものです。聖書にもそのことが明確に書かれています。

 

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。エペソ2:8-10

 

イエス様を通し、他の誰とも何とも違い、神が一なる方であるいう、その意味を学びました。私はまた唯一にしてまことの神様のご人格のもつ独自性を知りました。そして私に対する天の御父の愛を直に感じました。

 

主が個人的に私とつながってくださったので、私は今主と親しく交わることができるのです!主にあって私は信頼することができます。主を通して私は変えられた人となったのです!

 

試練

 

悲しいことに、米国に来て二年もしないうちに、イランの政府は変わってしまいました。革命勃発後、イランにある私たちの家は没収されてしまいました。さらに悲惨なことに、イランにいる家族・親戚の何人かは処刑されてしまいました。そして主人にもイランへの帰国命令が出されました。

 

イランに入国するや主人はただちに身柄を拘束され、投獄されました。刑務所内でのひどい暴行により、夫は歯を何本か失い、足も折られました。主人を案じつつ、米国で一人、五人の子供を育てることは私にとって試練でした。とても孤独でした。もうどうしていいか分かりませんでした。

 

私はすべての悩み・憂いを主イエス・キリストに委ねました。私たちの家族にふりかかった災難をみて、ムスリムの友人や親せきは「あなたがイスラム教を捨て、キリスト教に走ったからこんなことが起こったんだ」と言いました。

 

でも私は自分が正しい道を選んだこと、そしてイエス・キリストを通して神様とまことの関係を持つようになったことについての内的確信がありました。ささいな出来事も含めて、私の人生における全ての事は神様の善き御手のうちにあり、神様は私に善きものしか賜らないということを私は信じていました。

 

私はひたすら祈り、神様に感謝をささげ続けました。最終的に、イランにある私たちの全財産は没収されました。しかし神はほむべきかな。夫は釈放され、私たちの元に戻ってきたのです。

 

そして再び皆で一緒に米国生活を始めました。夫と私は、子どもたちが学業を終えるまで共働きしました。そうして後二人の娘はそれぞれ結婚しました。こうしてふつうの日常が繰り返されると思っていた矢先、さらなる試練が襲いました。主人が心臓発作に襲われ、48歳という若さで召天したのです。私は再び一人ぼっちになってしまいました。

 

信仰による満たし

 

しかし私は信仰を持ち続けました。そしてこの信仰が私を支えました。神様の恵みと主イエス・キリストへの信仰を通して、私と子どもたちは次第にこの苦難を乗り越えていきました。そして神様は聖霊により私たちを支えてくださいました。

 

また日常が戻ってきました。やがて子どもたちはそれぞれ自立し、私は今、7人のかわいい孫たちに恵まれています。

 

今振り返ってみると、つらかった時期に、いかに神様が私たち家族を守ってくださっていたかがはっきりと分かります。神様は私たちにまことの平安と喜びを与えてくださいました。救いは私は最大の宝であり、この計り知れない富は神の賜物です。

 

私はこの証しをインジール(新約聖書)の御言葉をもって終えることにします。

 

この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。使4:12

 

イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」ヨハネ11:25

 

天国からの水ーーラヒーム兄の証し〔バルチェスターン〕

 

Ten Thousand Muslims Meet Christ, published by Iranian Christian International, Inc. Colorado, 2006.

 

〔編者によるはしがき〕

1979年にイスラム革命が勃発し、それは次第にイランの隅々にまで浸透していきました。バルーチェスターン州(イラン南東部)に住むラヒームおよび仲間たちは、この新政権に反発し、バルーチェスターン民族運動に加わりました。そしてそこでバルーチェスターンの自治を要求する非暴力活動に従事しました。しかしまもなく政府はラヒームの動向をつかむようになります、、、、さあ、これは死の危険を逃れ、イエス・キリストにある新しいいのちの道へと導かれたあるバルーチ人の実話です。

 

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アメリカ人の同僚

 

イラン革命が起こる前、私は二つのアメリカ系会社で働いていました。最初の会社で、私は同僚のアメリカ人と友だちになりました。仕事帰り、私たちはよく連れだって飲み屋へ行き、夜更けまで飲み明かしました。

 

二年後、私はトラック運転手および通訳者として二番目の米国系会社に就職しました。ここでも私は飲み屋に足しげく通いました。この会社で、主任のジョン・マックローグランと友だちになりました。彼は私の仕事ぶりを高くかってくれ、機材部門での監督に昇格させてくれました。

 

ある日、ジョンは私を夕食に招いてくれました。そして私にこんなことを言いました。「夕食後、今まで君が味わったことのないような最高の飲み物をあげよう。」

 

そうして彼は食事前の祈りを捧げました。食べ終わると、彼は私の所に一冊の本を持ってきました。そして「この本がさっき僕が言っていた〈とっておきの飲み物〉なんだ。」と言いました。後で分かったのですが、それはインジール(新約聖書)でした。

 

その晩、私はがっかりし、怒り狂いながら家に戻りました。ジョンは私にアメリカ最高級のウィスキーをくれるにちがいないと内心期待していたからです。帰宅するや、私はもらったその本を床に放り投げ、自分のウィスキーを開けました。

 

しかし飲んでいると、ある声がしたのです。「ラヒーム、お前のことを本当に愛している。

 

私は周りをみわたしました。しかし誰もいませんでした。すると、また声がしたのです。「ラヒーム、お前のことを本当に愛している。

 

ガタガタ体が震え始めました。私はおびえて、寝室に向かいました。見ると、妻は熟睡していました。私は寝室を出て、再びウィスキーの所に戻ると、床に落ちていたあの本を拾い上げ、読み始めました。

 

新約聖書を読み進めるにつれ、私の全存在はすばらしい満たしのようなものを感じ始めたのです。それはアルコールを通しては決して味わったことのない種類の満たしでした。

 

その晩、眠りにつくと、私は夢をみました。夢の中で乞食のように見える人が近づいてきて私にこう言ったのです。「ラヒーム、お前のことを本当に愛している。」それは私が飲んでいた時に聞いたものと全く同じ言葉、同じ声でした。そしてその人はすぐに消えました。

 

私は震えが止まらず、とにかく自分を落ち着かせようとシャワーを浴び、そして仕事場に向かいました。ジョンは震えている私を見ると、どうしたのかと訊いてきました。私は彼に一部始終を話しました。

 

すると彼は私を抱きしめ、手を私の上に置いて、祈ってくれました。そうです、1976年3月22日。忘れもしないこの日を境に、私の人生は変えられ始めたのです!ジョンはその後も引き続き、私の新しい信仰の歩みを支えてくれました。

 

神、祈りに答えてくださる

 

イラン革命勃発後、アメリカ系の会社は全て撤退していきました。そして悲しいかな、ジョンも行ってしまいました。私はジョンのことがなつかしくてたまりませんでした。もう周りには誰もクリスチャンはいなくなったのです。

 

しかしやがて、クリスチャンとの交わりを求める私の祈りに神は答えてくださいました。それはある日、妻のシャフルバヌーが予期しない時に、突如、部屋に入ってきたことにより始まりました。

 

私は当時、誰にも見えないところでこっそり聖書を読んでいました。ああ、でも、妻に見つかってしまったのです。妻は、聖書のどこかの箇所を読んできかせてと言いました。私がヨハネの福音書を少し読んであげると、妻は「私ももっと読みたい。」と言ってきました。

 

私は「ああ、いいよ。」と一応同意はしたものの、内心、敬虔なイスラム教徒である妻や妻の実家の人たちに(自分が聖書を読んでいることを政府に)密告されるんじゃないかと恐れました。

 

しかし翌日、妻は私を抱きしめ、こう言ったのです。「私もあなたの信仰に倣いたい。あの本の言葉は、全能の神の言葉よ。今日から、私はイエス様に従うことにする。」

 

主を賛美します!神は、一つ屋根の下に、妻シャフルバヌーという同志を与えてくださったのです。

 

死がすぐ背後に

 

1988年7月のある暖かい夜のことでした。時刻は午前1時。

 

タンカーの運転手として私はイラン南東部の小さな町にある病院に水を運送している道中にありました。私はトラックの前席でくつろぎつつ、貯蔵タンクから水を引き、容量が満タンになるのを待っていました。

 

と、突然、トラックのドアが開きました。驚いて見ると、そこに、いとこのモハンマドが立っていました。「何か変だぞ。」と私は瞬間的に察知しました。

 

モハンマドはバイクの後ろに乗るよう私に命じました。「一体どうしたんだっていうんだい?」私は尋ねました。

 

「つべこべ言わずに乗れ!理由は後で話すから。」 モハンマドは無造作に答えました。

 

「おい、せめてタンカーを脇に寄せて、水を止めさせてくれよ。」 私は抗議しました。

 

「死の追っ手がお前のすぐ後ろまで迫っているんだ。ぐずぐずしている暇はない。とにかく後ろに乗るんだ!」 モハンマドは迫りました。

 

バイクを走らせながら、彼は、私の命が狙われていることを話してくれました。モーターのガンガンいう音で、彼の声はとぎれとぎれにしか聞こえませんでした。

 

でもとりあえず分かったのは、政府の工作員たちが私の家を包囲しているということでした。

 

こうして私は故郷を離れ、異国の地へ、そして未知の未来へと逃亡することになったのです。家族に別れを告げることさえできませんでした。

 

パキスタンへ逃げる

 

この村の住民たちは、イランから逃亡する人たちを助けているということで有名でしたので、私は日が昇るまでとりあえず、ここの村のモスクで休むことにしました。

 

朝になると、私は村長に会いました。その親切な首長は、パキスタン側へラクダに乗って国境越えをすることができるよう取り計らってくれました。

 

村が薄暗くなり始めると、ラクダ乗りと私は出立しました。どうして私がイランを脱出しようとしているのか、ラクダ乗りは道中、私にいろいろ訊ねてきました。私がいきさつを話すと、彼は私のことを不憫に思ったらしく、運賃の半分を返してくれました。

 

ラクダに乗ること8時間、私たちはパキスタン側の小さな町に到着しました。翌朝、私はカラチ行きのバスに乗りました。カラチ市は、アラビア海沿いの港街であり、パキスタン最大の都市です。

 

B 4 Karachi busy Market

カラチ市:パキスタン

 

カラチ市の住民の大部分は、民族的に言って、私と同じバルーチ族(Baluchi)でしたので、カラチは私にとって何かしらなじみやすい都市でした。

 

私はすぐに国連難民高等弁務事務所(UNHCR)に連絡を取り、難民申請をしました。インタービュー審査の中で、自分がバルーチスタン独立に関する非暴力運動に関わっていたこと、イランから逃亡してきたことなどを話すと、すぐに難民資格が下りました。

 

私の逃亡後、政府の工作員たちはわが家を襲撃し、半分意識を失うまで妻を殴り続けました。その後も毎日、彼らは妻の所へやって来て、私の消息を問いただし、妻を苦しめました。妻は少し回復すると、四人の子どもを連れ、パキスタンに逃げました。こうして私たちはそこで再会を果たしたのです。

 

その後5年に渡り、私たちは最低生活水準でしたが、そこの難民キャンプで生活しました。キャンプ内にいた難民たちは、飢えや、劣悪な住居、ひどい公衆衛生という環境の中で苦しんでいました。

 

またキャンプ内の治安にも深刻な問題がありました。中には、殺されたり、誘拐されてイランに連れ戻されたりする難民もいました。そんなきびしい状況の中、わが家にはもう一人女の子が生まれました。

 

インドへ

 

前述したような深刻な治安問題ゆえ、私たち家族は難民キャンプを出ることにしました。

 

その後、しばらく私たちはカラチ市で生活しました。それからトラックの運転手として蓄えていたわずかな賃金をはたいて、国境越えの手助けをする業者を雇い、インドまで連れていってもらうことにしました。

 

私たちは汽車に乗り、国境の町まで行きました。それから業者は私たちを超おんぼろジープ(第1次世界大戦当時のジープ)に乗り込ませました。

 

こうして漆黒の夜、私たちはパキスタンーインド国境を走り始めたのです。しかししばらくすると、ジープのモーターが動かなくなりました。なすすべなく、私たちは、砂漠の中を何キロもジープを押して行きました。

 

B 5 Baluchi desert

 

やがて飲み水が尽きました。私たちはへとへとになり、埃まみれとなりました。喉が渇いて仕方がありませんでした。数分おきに、「お父ちゃん、お水がほしいよう。」と子どもたちが哀願しました。

 

哀れな子どもたちの顔を見ると、私はいたたまれずに涙を流しました。私は子どもたちに、「もうすぐしたら、着くぞ。そしたら父ちゃんはレストランで冷たいジュースを買ってやるからな。」と言いきかせ続けました。

 

それから6マイルほど進むと、ある村に着きました。訊いてみると、私たちはインド側に到着したとのことでした。

 

私たちはいっせいに土手に走りました。水はにごり、蚊が湧いていましたが、そんなことにお構いなく、私たちは、それを天国からの水のように飲みました。

 

それから私たちはラクダに乗り、さらに48キロ以上進みました。

 

B6 camel

 

別の小さな町に着くと、業者の男は、塩の袋を積んだトラックの荷台に私たちを乗せ、ブッジ(Bujj)という街に向かいました。太陽のギラギラ照りつけるお昼頃、私たちはブッジにたどり着きました。

 

私たち家族は、そこにあった大きな木の下で、何時間か休みました。すると突然、雨雲がおおい、雨が降り始めました。カサカサに乾いた皮膚に流れる雨粒はなんとも言えず気持ちがいいものでした。雨の贈り物をくださった神さまに私たちは感謝しました。

 

やがて業者の男は戻ってくると、スラット市行きの汽車の切符を手渡しました。そして去って行きました。さあ、私たちは今後、この異国の地で、自分たちだけで進んでいくことになったのです。

 

空が暗くなり始める頃、私たちは汽車に乗り込みました。汽車は夜のただ中へゆっくり進んで行きました。

 

スラット市で、私たちはボンベイからちょうど到着したばかりの別の汽車に乗り換えました。その汽車はもともとギュウギュウ詰めでしたので、新しい乗客が乗り込むと、本当にひどい寿司詰め状態になりました。

 

どこにも座る場所がなかったので、私たちは人に挟まれながら、ニューデリーまで960キロ以上もの道のりを立ち続けなければなりませんでした。

 

ニューデリーに到着

 

B3 New Deli

 

ニューデリーに着くと、私たち家族は駅のそばの歩道で休みました。あまりに疲れていたので、道端でしたが、皆すぐに眠りに落ちました。

 

目が覚めると、私たちは牛に囲まれていました。服は汚れてしまっていました。

 

私たちは一文無しで、飢えていました。しかし何はともあれ目的地に無事に着くことができたことを私たちは神さまに感謝しました。妻と子どもたちをその場に残し、私は国連のオフィス(UNHCR)を探すべく、ニューデリーという過密都市に徒歩で乗り込んで行きました。

 

何時間か探し回った挙句、やっとオフィスを見つけました。しかし入口にいた警備員は、私のうす汚れた身なりを一瞥するや、立ち入りを禁止しました。私は彼に、パキスタンで発行してもらった国連のカードを見せ、必死に事情を説明したところ、とうとう彼は入館を許可してくれました。国連のオフィスは私に少しお金をくれ、翌日、家族を連れてもう一度ここに来るように言いました。

 

「ああ、これで食料を買える!」私は喜びいさんで、家族のために食べ物を買いました。みんなで夢中で食べた後、私たちは公衆浴場へ行き、そして安ホテルで一泊しました。

 

こうして私たちのニューデリーでの生活が始まったのです。UNHCRのオフィスは私たちに新しい難民カードを発給してくれました。そして私はニューデリーの貧民街の一角に小さなアパートを借りました。4m四方の一部屋に七人家族がぎゅうぎゅうに身を寄せ合って暮らしました。また私たちは飢えにも苦しみました。

 

天国からの水

 

しばらくして私は近くにカトリック教会があることに気づきました。そこの神父は私たちがパキスタンのカラチにいた時、そこのカトリック教会に通っていたことを知ると、私たちに興味を持たれたようでした。こうして私たちはニューデリー生活の最初の四カ月、ここのカトリック教会に通いました。

 

その後、私たちは、ニューデリー・ペルシャ人教会に通う一人のクリスチャンに出会いました。そして彼の招待により、私たちはこのペルシャ語礼拝に集うようになりました。

 

この集会は、元イスラム教徒からの改宗者(イラン人、アフガン人)で構成されており、現地のインド人クリスチャンが支援していました。私たちは、ここで多くの兄弟たちに出会いました。

 

また私たちは人類に対する神の愛ーーつまり、イエス・キリストが人としてこの地上に来られたことーーを学びました。そしていかにしてイエス・キリストが私たちの罪のために身代わりに死んでくださり、復活され、死に打ち勝たれたかを知りました。このイエスを信じる人は、神との交わりを持ち、永遠のいのちにあずかることができるのだと。

 

イエス様の恵みにより、あわれみと義が私たちにとって本当にリアルなものとなりました。そしてイエス様を通して、神は私たちの御父となったのです。主は、私たちの罪の赦しおよび新しいいのちを約束してくださっています。

 

このようにしてイエスの弟子であることの喜びを味わい始めた私たちにとって、人生は新しい意味合いと目的を持ち始めました。イエスを自分たちの個人的な救い主および主として受け入れることにより、私たちは、主に従う者になるという喜びを味わいました。

 

ヨハネの福音書で、イエス様は井戸から水を汲もうとしていた女にこう言われました。

 

「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ4:13-14)。

 

B 7 Oasis

 

私たちの家族は、物質的にだけではなく、霊的にも渇いていたのです。私たちがイエス・キリストに信頼を置くなら、主は私たちの全ての必要を満たし、御国において主と共に永遠のいのちに与るその道をも備えてくださるのです。そのことを知った私たちの心は喜びで満たされました。

 

そうです、私たちは天国からのまことの水を思う存分飲んだのです。

 

ニューデリーで遭遇した危険

 

私たちはUNHCRからの支援金(月70ドル)だけを頼りに、貧困のうちに生きました。しかし同時に、私たちは主の喜びをも体験していました。1993年、私たちは一家そろってバプテスマを受け、ペルシャ教会の正式メンバーとなりました。

 

そして神の愛である福音を、他のイラン人、アフガン人難民に伝え始めました。私たちの教会は、霊的にも、その規模においても成長していきました。

 

イスラム教は、ムスリムが自分の宗教を捨て、他の宗教を受容することを有罪とみなしているため、私たちの回心や伝道は、ニューデリー市内のイスラム原理勢力の怒りを買い、迫害が起こりました。

 

何度か私を殺し、うちの子どもたちを誘拐しようとする動きがありましたが、主の示しにより、私たちは常に用心深く行動していましたので、深刻な危害からは守られました。その間にも私たちは自分たちの敵のため、彼らの救いのために祈り続けました。

 

カナダへの再移住

 

1995年、私たちは国際イラン人クリスチャンの宣教団体と連絡を持つようになりました。そして4年後の1999年9月、この宣教団体とCanadian Luthren World Reliefを通して、カナダの教会が私たちを受け入れてくださり、私たちはカナダに移住しました。

 

現在、カナダの地において、おびえることなく自由に信仰生活ができることを神さまに感謝しています。しかし、インドやパキスタンでのあの苦難を決して忘れることがないよう肝に銘じています。そしてイエス・キリストの福音を、隣人や同僚、子どもや、子どもの同級生に引き続き伝えていこうと願っています。

 

実際、主の祝福を一度も経験したことのない方々がカナダ中にたくさんいらっしゃるのです!最後に付け加えますが、1995年、インド滞在中、極東放送協会(FEBA)の招きで、私たちはバルーチ語による福音放送の働きに携わることができました。現在、この働きをカナダにおいても続けることができていることを神様に感謝しています。

 

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黄色い部分がバルチェスターンです。

 

ーおわりー

 

イエス、美しい救い主ーーあるアフガン人の信仰詩と賛美〔アフガニスタン〕

 

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アフガニスタン(Band-e-Amir)出典

「神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。」 詩67:3

ای خدا قومها تو را حمد گویند. جمیع قومها تو را حمد گویند

 



Isa Monji-e Zeba(=イエス、美しい救い主)


イエス、美しい救い主。 あなたは神として、そして人としてのご性質を宿し、賛美を受けるに全くふさわしい方です。

 

イエス、美しい救い主。あなたは私たちのために、全きいけにえとなり、十字架の上で 私たちのために 命を捨ててくださいました。

 

あなたはきわみまで私たちを愛し尽くしてくださいました。
あなたは、私たちと共に歩んでくださる友であり、魂の朋友です。

 

イエス、美しい救い主。あなたの光により 私たちの心は照らされ、
そしてあなたの愛が この世界に注がれています。

 

イエス、王の王。私たちの心の中に今や永遠の御国がおとずれました。あなたは天と地を統べ治めておられます。イエス、あなたこそ王の王です。

 

あなたは再びこの世界に来られます。おおイエス、王の王。イエス、美しい救い主。


عیسی منجی زیبا(私訳)


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上の詩で〈魂の朋友〉と訳した語はyar(یار)と言い、古く美しいペルシャ語に由来します。yarは単なる友以上の存在であり、そこには見返りを期待しない純粋で誠実な友情、精神的なつながり、絆といった意味が込められています。中世ペルシャの文豪ハーフェズなども詩の中でこのyarという語を用いています。

そして感動的なことに、信仰を持ちキリストにあって新生したこのアフガン人クリスチャンは、愛を込め、イエス様のことをyarと親しく呼びかけているのです。ちなみに、このyarから派生したyari kardanという動詞は「見返りを期待せず相手を助ける」という意味を持っています。私たちの罪の贖いのために、十字架の上で死んでくださったイエス様こそ、まことに私たちのyarであり、最も誠実な友です。

 

友のために命を捨てた牧師 ーーハイク・ホヴセピアン(1994年殉教)の生涯と証し〔イラン〕

 

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネの福音書15:13)

 

第1部

 

はじめに

 

現在、イラン国内外で、驚くべきことが起こっています。激しい迫害にもかかわらず、イエスを救い主として信じる人が日々起こされているのです。人々の心は今までになく福音に対して開かれており、教会の戸をたたく求道者が後を絶ちません。いったい今、何が起こっているのでしょうか。

 

1945年の冬、テヘランの一家庭に一人の男の子が産まれました。ーーハイク・ホヴセピアン・メフル(Haik Hovsepian Mehr;Հայկ Հովսեփյան Մեհր)。やがてこの子は成長し、現代イラン・キリスト教会の中で大きな役割をはたしていくことになります。実にハイク・ホヴセピアンの信仰と犠牲なしに、現在イラン国内外で起こっている霊的覚醒運動を語ることはできないでしょう。さあ、まずは彼の生い立ちからみていくことにしましょう。

 

生い立ちと回心

 

ハイク・ホヴセピアンは1945年1月、テヘランのアルメニア人家庭に生を受けました。

 

〔アルメニアは301年にアルケサス朝のティリダス3世がキリスト教に改宗し、世界で初めて、キリスト教を国教としました。しかし428年、アルケサス朝アルメニアはペルシャの支配下に入ります。こういう歴史的事情があって昔からイラン(ペルシャ)にはキリスト教徒であるアルメニア人が存在していたのです。〕

 

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イラン西アゼルバイジャン州マクーにあるアルメニア使徒教会(Chapel of Dzordzor

 

しかしハイクが本当にイエス・キリストを個人的な救い主として心に受け入れたのは、彼が15歳の時でした。そして彼はキリストにある新生を体験します。二年後には、はやくも彼はテヘラン郊外にあるマジディエで教会を牧し始めました。その後、徴兵に就き、カスピ海近くの町ゴルガンに駐屯したのですが、そこでも家の教会を始めました。

 

結婚そしてゴルガン伝道への召し

 

1966年、ハイクはタクーシュ・ギナゴスィアンと結婚します。その当時、彼はマジディエで牧会していたのですが、神が自分をゴルガン(二、三のアルメニア人家庭を除き、住民のほとんどがイスラム教徒である未伝道地域)での開拓伝道に召しておられることを確信し、翌67年、タクーシュと共にゴルガンへ移り住みました。

 

会堂を借りることは至難の業でしたが(キリスト教の礼拝堂として使われるということを聞くと、貸し手は契約を拒んだからです)、神の助けにより、会堂もその費用も備えられました。また、その頃、二人の間には愛らしい男児も生まれました。ハイクは牧会のかたわら、聖書の学び、教会音楽、そして英語の勉強にいそしみました。

 

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左がハイク。

 

悲劇

 

そんな一家をある日とつぜん悲劇が襲います。1969年のある晩のことでした。

 

ハイク一家とアメリカ人宣教師の一家は、テヘランからゴルガンまで車で移動していたのですが、そこで大きな自動車事故に遭遇したのです。大人は九死に一生を得ましたが、中に乗っていた子どもたち(ハイクの6カ月になる息子および宣教師の子どもたち3人)は全員、死んでしまったのでした。

 

ハイクとタクーシュ自身も足に大けがを負い、「今後、歩行は不可能」と言われていました。しかし数カ月後、神は再び二人を立たせてくださいました。息子を失った痛みと悲しみを乗り越え、こうして二人は再び伝道地ゴルガンに戻っていったのです。

 

牧会中、ハイクは度重なる脅迫にあいます。特に、ゴルガン地方に拠点を置いていたイスラム原理主義グループ「タブリガーテ・イスラミー」により、集会が妨害されたり、窓から石を投げ込まれたり、元イスラム教徒の改宗者に対する嫌がらせがあったりしました。

 

もう一つ別の原理主義グループは教会堂を焼き討ちにしようとしました。(その時は政府の介入があり犯行は未然に防がれました)。しかしそんな中にあっても二人はひるまずその地にとどまり、14年もの間、誠実に人々に仕え続けました。

 

イスラム革命勃発

 

1979年、イラン・イスラム革命が勃発します。

 

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イラン・イスラム革命(1978-1979)出典

 

この革命以後、外国人宣教師は国外追放を受けました。もっとも革命の初期、教会にはこれといった大きな変化はなく、アルメニア系やアッシリア系のクリスチャンには信教の自由も与えられていました。しかし、そういったクリスチャンがモスレムに福音を伝え始めた時、大きな問題が生じてきたのです。

 

こういった過渡期(1981年)に、ハイクはイランにおけるアッセンブリー・オブ・ゴッドの総監督に選任され、家族と共にテヘランに移ってきたのです。当時、七つの(ペルシャ語)教会が彼の監督下にありました。さらに5年後の1986年には、イランにおけるプロテスタント教会が合同し、ハイクはプロテスタント協議会の会長になりました。

 

忍び寄る迫害の波

 

革命が進行するにつれ、政府は教会に対して牙をむき始めました。ハイク牧師およびアッセンブリー教団は以下のような条件をのむよう命じられました。

 

教会の礼拝は、イランの公用語であるペルシャ語で行なってはならない。

教会員には会員証が発行されなければならず、また出席する際には会員証を提示しなければならない。

教会員の名簿(住所も明記のこと)を当局に提出すること。

集会は日曜日に限る。公的な礼拝日である金曜日に行なってはならない。

日曜礼拝に参加できるのは教会員に限る。

新参者は、情報・イスラム指導省に通知がいって後はじめて、教会員として認められ、また集会に参加することが許される。

 

「私どもの教会は、来る者拒まず、です。教会は誰にでも開かれているのです。」と、ハイクはこれに署名することを断固として拒否しました。

 

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さて、その後、ハイクに何が起こったのでしょうか。

 

ーーーーーーー

第2部

 

1970年以降のイラン・キリスト教会ーー迫害史ーー

 

ここで、70年代以降のイラン国内における迫害の歴史をかんたんに振り返ってみたいと思います。まず70年後半から80年代にかけてですが、迫害の矛先は主として英国国教会(聖公会)に向けられていました。

 

79年にはシラーズ市の聖公会司教アラストゥ・サイヤ氏(イスラム教からの改宗者)が、求道者を装った二人の青年に喉をかき切られ死亡しました。

 

80年には、エスファハン市の聖公会司教の息子バフラム・デフガニー・タフティーが射殺されました。(父親であるハッサン司教も、自宅の寝室で休んでいるところを急襲・発砲されましたが、奇跡的に助かりました。隣で休んでいた奥さんのマーガレットさんは愛する夫を銃撃から守ろうと、自ら夫の上におおいかぶさりました。銃弾の一発はマーガレットさんの手を貫通しましたが、二人は九死に一生を得ました。)

 

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Hassan Barnaba Dehqani-Tafti (1920–2008)イラン聖公会司教 

 

一方、90年代に入ると、クリスチャンに対する迫害は主として、アッセンブリー教団をはじめとするプロテスタント諸派に向けられるようになります。90年12月、マシュハド市のホセイン・スゥードマンド牧師は背教罪のかどで処刑されました。

 

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処刑されたホセイン・スードマンド牧師

 

94年、テヘラン市にある聖ヨハネ・アルメニア人福音教会の主任牧師(プロテスタント協議会の会長でもあった)タテオス・ミカエリアン氏が行方不明になった末、同年6月29日に遺体となって発見されました。

 

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故タテオス・ミカエリアン牧師

 

96年には、サリ市のアッセンブリー教会(地下教会)モハンマド・ヨセフィー牧師も行方が分からなくなり、同年9月28日、サリ市に近い公園の中で遺体が発見されました。ヨセフィー牧師(35)は、同じくイスラム教からの改宗者である妻アクタールさんとの間にラムスィナ(9)、ステファン(7)という二児があり、また彼は投獄中の同僚メフディー・ディバージ牧師の二人の息子をも養い育てていました。

 

友を救うためにーーハイク、立ち上がる

 

こういう緊迫した空気が漂う中、1993年、ハイクの元に「投獄中のメフディー・ディバージ兄に死刑判決」の知らせが届きます。

 

イスラム教からの改宗者であったメフディー兄は、83年に逮捕され、それ以来10年にわたってサリー市内の刑務所に投獄されていました。獄中で、メフディーは、繰り返し、拷問を受け、2年間は電灯のない真っ暗な独房に入れられていました。そしてついに1993年12月3日にイスラム法廷で裁判にかけられ、背教罪のかどで死刑判決が出されたのです。

 

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メフディー・ディバージ

 

メフディー兄の友であり同労者でもあったハイクは、友を救おうと立ち上がり、国際社会に向けてメッセージを発信し始めました。その結果、世界中のクリスチャンがとりなしの祈りをはじめ、また国際的な助命運動の輪がひろがっていきました。

 

しかしハイクの友人たちは、彼の身の安全を憂い、ハイクに警告して言いました。「今、君のやっていることは非常に危ない。君には4人子どももいる。自分のいのちを危険にさらすようなことはやめた方がいい。」

 

それに対して、ハイクは静かに答えました。「メフディー君のところにも4人子どもがいる。」

 

こうしてハイク・ホヴセピアンは身の危険を承知で、友の救出運動を続けていったのです。

 

メフディー師釈放と、それについた命の代価

 

国際的な祈りとハイク牧師によるキャンペーンの結果、メフディー・ディバージ兄は94年1月に釈放されました。

 

A Cry from Iranというドキュメンタリー記録映画をみると、釈放されたメフディー兄が、ハイク・ホブセピアンと肩を寄せ合い、食卓を囲んで、再会を喜んでいる映像が残っています。生きて出獄することができ、10年ぶりに子どもたちと再会できたメフディー兄の喜びはいかばかりであったでしょう!

 

しかし、そういった喜びの日々は長くは続きませんでした。メフディー兄の釈放からわずか3日後、ハイク・ホブセピアンは拉致され、行方不明になります。そして1月20日、むごたらしい惨殺体となって発見されたのです。

 

さらに半年後(94年6月24日)、娘の誕生会に向かおうとしていたメフディー兄も拉致され、7月5日に西テヘラン公園内で遺体となって発見されました。

 

この時期についてハイクの妻タクーシュは次のように語っています。「ショックでどうしていいのか分かりませんでした。でも、私は一人じゃなかったんです。世界中から何千通という励ましの手紙が届き、兄弟姉妹のみなさんが私たちに寄り添っていてくれたのです。」

 

第3部

 

ハイク牧師の残してくれたもの

 

こうしてハイク牧師は無残な最期を遂げ、彼の美しい歌声をこの地上できくこともできなくなりました。彼の人生は失敗だったのでしょうか。彼は無意味に死んでいったのでしょうか。いいえ。彼の献身的な生涯とその信仰は、今にいたるまで永遠の実を結び続けているのです。

 

テルトゥリアヌスが「殉教者の血は、教会の種子である」といった通り、ハイク・ホヴセピアンの殉教後、彼の証しをきいて、多くの兄弟姉妹の信仰が燃やされたのです。そしてそれまで以上に大胆に福音を伝えるようになったのです。

 

ハイク牧師の家族は、その後、米国に亡命し、成長した子どもたちはさまざまな形で父の遺志を継ぎ、キリスト教会の建て上げのために献身しています。

 

また、メフディー・ディバージ兄の息子さんの一人は、現在、すばらしい翻訳者、編集者となり、全世界に散っているイラン人亡命キリスト者の精神的指導者の一人として活躍しています。

 

また、賛美の賜物に恵まれていたハイク・ホヴセピアンは、多くの美しい賛美を作詞・作曲し、またアルメニア語、英語、アラビア語等の賛美歌を翻訳されました(たとえば「♪アメージング・グレイス」「♪イエス、あなたの名は」等)。ハイクの声には太さと深さ、そして独特ののびやかさがあり、聴く者の魂をゆさぶらずにはいられません。

 


 

そして彼の偏狭でない心と純粋な愛は、「アルメニア人」という一民族の枠を越え、「アッセンブリー教団」という一教派を越え、多くの人々の人生に影響を与えました。彼は、クリスチャンからだけでなく、イランに住むユダヤ人やカトリック教徒、そしてムスリムからも愛されていました。

 

こんな逸話も残されています。ゴルガンでハイクが牧会をしていた時のことですが、ある原理主義者たちが(ハイクの)教会を焼き討ちするといって脅していました。それを聞いた地元のイスラム聖職者は、町の中央広場に立って、こう宣言しました。「もしあんたたちが教会を焼き討ちしたいのなら、まず、この私を焼き殺してからにしなさい!」

 

またハイクの葬式に参列したあるカトリックの祭司は、目に涙を浮かべ、シャベルでお棺に土をかけながら言いました。「この人はね、、聖人だったよ、、そして殉教者だった。」

 

最後に、ハイク牧師が拉致される前日に書いた手紙(『友への手紙』。ロンドン・タイムズ紙にて紹介されています。)の抜粋を訳出します。

 

「主の勝利をほめたたえます。ディバージ兄弟が今日うちにやって来たのです。今晩、わが家には50人以上の若い熱心なクリスチャンが集まっていました。ディバージ君がわが家に来ると聞きつけていたのです。ディバージ君が家に入ってきた時、みんな声をあわせて「♪イエスの御名によって、われら勝利す」と歌い始めました。これがわれらが英雄にささげられる最高のあいさつだったのです。

 

(中略)、、私が今やっていることが危険きわまりないということ、それは自分でも承知しています。でも私は教会のため、死ぬ覚悟ができています。それにより、今後、他の兄弟姉妹がおびえることなく安心して主を礼拝できるようになるのでしたら、それが本望です。  ーーハイク・ホヴセピアン」

 

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メフディー師とハイク師

 

また、ハイク牧師は次のような言葉も遺しています。

 

「(イスラム)革命は教会にとって非常に大きな祝福となりました。なぜなら、私たちは革命が起こらなかったならば決して学ぶことのできなかったような教訓を多く得ることができたからです。敵のありとあらゆる敵意にもかかわらず、神に選ばれた者はイランにあえて残り、主の働きを続けています。迫害はむしろそれを促進したのです。同時に、迫害が起こったことで、教会は、誰が本当の福音伝道者であり、誰がたんなる ‟雇われ人” なのかを識別することができるようになりました。

 

 革命前、イランには多くのRice Christian(=物質的援助等を受けたい下心をもって信仰を表明する人々)が存在していました。しかし、革命が起こってからというもの、そういう人は一人としていなくなりました。というのも、今日キリストのもとにあえて来ようとする人は、命の代価を払わなければならなかったり、もしくは少なくとも経済的な損失をこうむることを余儀なくされるからです。それに加え、さまざまな教団・教派の教会指導者たちの間にみられる一致も、私たちが享受しているもう一つの大きな祝福といえましょう。」

 

聖書には、「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」(伝道者の書3:1)とあります。また、当時の超大国バビロンに捕われの身となっていたダニエルは天の神をほめたたえ、こう言いました。

 

「神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、、、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す」(ダニエル2:21‐22)。

 

私たちが信仰の目で歴史をみる時、そこに人知を越えた、神のご支配をみることができます。そしてそれは国の歴史にとどまらず、私たち一人一人の人生という個人史の中にも見い出すことができると思うのです。

 

ハイク・ホヴセピアンは、人間的な目でみれば、悲惨極まりない、悲しみに満ちた人生の現実に対し、国の現実に対し、信仰をもって「Yes!」と答える選択をしました。そして最終的にすべてを善きものへと変えてくださる主に信頼し、信頼しつづけました。

 

そして、、、周りの同胞を励ましながら、歌いつつ、祈りつつ、人生のコースを走り抜けたのです。

 

最後に、ハイクの作詞した賛美歌の一節をご紹介して終わりにいたします。

 

「♪ ああ、イエス、私の近くに来てください。私の導き手となってください。私のたましいをあなたの御手にゆだねます。すばらしきわが導き主よ!あなたご自身に飢え渇いています。あなたの臨在に飢え渇いています。あなたに願い求めます。いつも共にいてください 私の導き主よ!」Persian Hymnbook 86番(私訳)

 

「♪ 悲しみと苦難のさなかにあって喜ぼう。迫害下にあって 主をほめたたえよう。たとい試みは激しくても賛美と感謝、これこそ唯一、勝利の道。イエスに重荷をゆだねたのではなかったか?それなら、なぜ君はいまだに重荷の下に 打ちひしがれているのか?*おお民よ、喜ぼう。主の臨在の中で力の限り賛美しよう。キリストにあってとこしえに、キリストにあってとこしえに。」♪ ei tamamie ruie zamin (私訳)

  

故メフディー・ディバージ師のイスラム法廷における信仰告白

 

「また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。」(マタイ10:18)

 

「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。」(マタイ10:32)

 

ここでは、1993年にイスラム法廷において行なわれたメフディー・ディバージ兄の裁判の際、メフディー兄が提出した答弁書(証)をご紹介いたします。

 

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メフディー・ディバージ

 

1983年にメフディー兄が背教罪のかどで逮捕された時、彼には10歳を頭に、4人の幼い子どもたちがいました。「今後、父親なしで生きてゆかなければならないこの子たちのことを思うと私は正直、大きな不安に襲われました」とメフディー兄弟は告白しています。はたして今後、生きて獄を出ることができるのか、それさえ分からない状態だったからです。

 

「しかし」と彼は続けて言いました。「その時、私は気付いたのです。私には父親としての経験がある。でもそれはたかだか10年に過ぎない。でも、天のお父様は、永遠の昔から『父親』の経験があるのだ、と。

 

それで、私は祈りました。『ああ、御父よ。あなたはいにしえより父親であられます。私は自分の4人の子どもをあなたの御手に委ねます。どうかあなたがこの子たちの父親となってください』と。」

 

投獄されて3年後には、奥さん(石打ちにされるという脅迫に屈し、メフディー兄を離縁。その後、この方は別のムスリム男性と再婚。)が彼の元を去るという悲しみが彼を襲います。また、獄中では繰り返し拷問にかけられ、見せ掛けの処刑(mock executions)も何度も行なわれました。

 

しかし、以下にご紹介するの彼の証しからは、それらすべての苦しみ、艱難に打ち勝った勝利者の声がきこえてきます。主の御手のうちに、すべてをゆだねきった弟子の内なる喜びが伝わってきます。彼は主のためにすべてを失い、主が彼にとってすべてとなりました。

 

この答弁書をしたためた半年後、メフディー・ディバージ兄は拉致され、殉教しますが、彼の勇敢な生涯と信仰は今も多くの兄弟姉妹の心の中で星のように輝き続けています。

 

イスラム法廷におけるメフディー・ディバージ兄(1994年殉教)の答弁書

 

(メフディー氏の息子さんであるイッサー・ディバージ兄弟から許可をいただいた上で2014年6月日本語訳いたしました。)

 

われわれのいのちであり存在の源である神の聖い御名によって

 

このような貴重な機会を与えてくださったことについて、私は、全天全地の審判者である神に、謙遜の限りをつくして感謝申し上げます。

 

そしてくだかれた心をもって、主がご自身の約束にしたがい、私をこの裁判から解放してくださるよう待ち望んでいます。また裁判にご臨席のみなさまにお願いがあります。どうか忍耐をもって私の答弁をお聞きくださると共に、主の御名ゆえに敬意を払ってご傾聴ねがいたく存じます。

     

私はクリスチャンです。そして罪人である私は、次のようなことを信じております。

 

すなわち、イエスは十字架上で私の罪のために死んでくださり、主の復活および死に対する勝利により、聖い神の前に私を義としてくださったということです。

 

まことの神は、この事実を、福音書(Injil)つまり主の聖いみことばの中で語っておられます。イエスは、「救い主」という意味です。なぜなら、イエスはご自身の民をその罪からお救いになるからです。

 

イエスはご自身の血潮により、私たちの罪の代価を払ってくださり、私たちに新しいいのちを与えてくださいました。それにより、御霊の助けによって私たちが神の栄光のために生きるようになるためです。

 

さらに、私たちが汚染を食い止めるダムのような存在となり、祝福といやしをもたらす通り管となるためです。そして私たちが神の愛による守りをいただくためです。

 

こうした主のご慈愛への応答として、私が自分自身を否み、完全に自らを主に明け渡した弟子として生きるべく、主は私に求められました。そしてたとえ人々が私の肉体を亡きものにしようとしても人を恐れず、私にあわれみと慈愛の冠をくださるいのちの創造主に寄り頼むよう、主は私に求めました。

 

主はご自身の愛する者および彼らに備えられている報いをかたく守ってくださる方です。

 

私は背教罪のかどで訴えられています!私たちの心をご存じである、目に見えない神はーー私たちクリスチャンは、やがて滅びさる背教者などではなく、永遠のいのちに与る信者であるという確信を私たちに与えてくださったのです。

 

イスラム法(シャリーア)では、背教者というのは、神を信じず、預言者もしくは死者の復活を信じないものとされています。でも、私たちクリスチャンは、それら三つをことごとく信じているのです!

 

彼らはこう言います。「お前は以前イスラム教徒だったのに、今やキリスト教徒になりさがった」と。でもそうではありません。長い間、私は無宗教者でした。求道し、学んだ末、私は神の招きに答え、主イエス・キリストを信じ、永遠のいのちをいただいたのです。

 

人は自分の宗教を選びますが、クリスチャンというのはキリストによって選ばれるのです。キリストは言われます。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです」(ヨハネによる福音書15:16)。

 

それではいつ主は私をお選びになったのでしょうか。そうです、この世のはじまる前から主は私をお選びになっていたのです。

 

人々はこう言います。「しかしお前は生まれた時からイスラム教徒だったはずだ。」しかし神はこう仰せられます。「あなたははじめからクリスチャンだった」と。

 

主は何千年という昔にーーこの宇宙の創造以前にーー私を選んでくださったのです。こうしてイエス・キリストの犠牲を通して私たちは主のものとされるのです。

 

クリスチャンというのは、イエス・キリストに属する者という意味です。いにしえより終わりを見通すことができ、またご自身のものとすべく私を選んでくださった永遠の神は、どの魂が主に引き寄せられ、逆にどの魂が一杯の煮物のために信仰と永遠を売り払ってしまうのかはじめからご存知でした。

 

全能の神が私と共にいてくださるなら、たとい全世界の人々が私に敵対するとしても、私はそれを厭いません。栄光の神が私を認めてくださるのなら、たとい(人々に)背教者呼ばわりされようとも私はあえてそれに甘んじようと思います。

 

人は外面をみますが、神は心をご覧になります。とこしえにわたって神であられる主にとって、不可能なことは何もないのです。天地に存在するすべての力は主の御手のうちにあるのです。

  

全能の神は、ご自身のお選びになった者を引き上げ、他の者を引き倒します。ある者を受け入れ、他の者を拒みます。ある者を御国へ、他の者を地獄へとやります。

 

このように神はご自身のみこころのままに何事でもなすことができるのであるなら、誰が私たちを神の愛から引き離すことができましょう。誰が、創造主と被造物との関係を壊し、主に忠実な者のいのちを損なうことができましょうか?

 

忠実なる者は、全能の神のみ陰の下にあって守られているのです!わたしたちの避け所は、神の贖いの座であり、そこはいにしえより崇高なる場所なのです。

 

私は自分の信じてきた方を知っており、主は、私がご自身に委ねてきたものを最後までーー私が御国に到達するまでーー守ることができるお方です。神の国では義人は太陽のように輝きますが、悪を行なってきた者はやがて、地獄の火の中で刑罰を受けることになります。

 

人々は私にこう言います。「(イスラム教に)戻れ!」と。

 

でも神の御腕からいったいどこに「戻る」ことができるというのでしょう?神の御言葉に従うのではなく、人々の言っていることを鵜呑みにすることがはたして正しいことでしょうか。

 

奇蹟をなす神と共に人生を歩みはじめてかれこれ45年になります。主のご慈愛は私を包み、父のような主の愛と心遣いに私は感謝しています。

 

イエスの愛は私の全存在を満たし、私は全身に主の愛のあたたかさを感じています。わが栄光、誉れ、守り主であられる神は、あふれんばかりの祝福と奇跡をもって私に証印を押してくださいました。

 

こういった信仰の試練は、その明確な一例です。恵み深く善き神は、ご自身の愛される者を叱り、懲らしめられます。私たちを御国にふさわしいものに整えようと神は私たちを試されるのです。

 

神はダニエルの友を火の燃える炉から助け出されましたが、同じ神がこの9年間、私を獄中で守ってくださいました。その間、苦しいことがいろいろありましたが、それら全ては結局、私たちの善となり益となりました。ですから今私の心は喜びと感謝に溢れかえっています。

 

ヨブの神は、私の信仰と忠実さを試されました。そうすることによって、私がより忍耐強く、忠実な者とされるためです。この9年間、(地上での)責任はことごとく私から取り払われました。そして誉れある主の御名の下、私は求道心とくだかれた心をもって、祈りと御言葉の学びに専心いたしました。

 

そして主を知る知識において成長することができました。こういった貴重な機会が与えられたゆえに、主を賛美いたします。

 

狭い独房の中にあって主は私の心をひろげてくださいました。また、非常な苦しみの中にあって私にいやしを与えてくださり、主のご慈愛は私を生き返らせました。ああ、主を畏れる者に備えられている祝福はなんと大きいことでしょうか!

 

人々は福音伝道のことで私を訴えています。しかしもしある盲目の人が井戸に落ちそうになっているのに、それを見た人が、沈黙を保っているとしたら(何ら行動を起こさないとしたら)その人は罪を犯すことになります。

 

ですから、悪を行なっている人々に対し、その罪深い生き方から立ち返るよう、義なる神の怒りと来るべきおそろしい刑罰から逃れそこから救われるよう人々を説得するのは、神の憐れみの戸が開かれている限り私たちクリスチャンのなすべき責務といえます。

 

イエス・キリストは言われます。「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます」(ヨハネの福音書10:9)。

 

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネの福音書14:6)。

 

「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです」(使徒4:12)。

 

神の預言者のうち、イエス・キリストだけが死からよみがえられました。そしてイエスは私たちの、生けるとこしえのとりなし主なのです。イエスは私たちの救い主であり、(霊的な)神の子です。主を知ることは永遠のいのちを知ることを意味します。

 

私は、一介の無益な罪びとにすぎませんが、この麗しい方(イエス)を信じており、福音書に書いてある御言葉および奇蹟をことごとく信じる者であります。

 

そして私は自分の人生を主の御手に委ねています。私にとっていのちとは、主に仕えることのできる良い機会であります。そして死とは、キリストと共にいることのできる、さらに良い機会であります。

 

それゆえ、私は主の聖き御名の栄誉ゆえ、獄中にいることに満足しているだけでなく、私の主イエスのためにこのいのちを投げ出す覚悟もできており、近いうちに御国に入る心の準備もできております。

 

御国において、神に選ばれし者は永遠のいのちに入るのです。しかし悪人は永遠の滅びに入ります。神のご慈愛と主の祝福といやしの御手がとこしえにみなさんの上にとどまりますように。アーメン。

 

敬意を込めて

あなたのキリストにある囚人、

メフディー・ディバージ

 

ーおわりー

 

「神よ、汝のために私を完全燃焼させたまえ!」ーーヘンリー・マーティン宣教師の生涯と信仰〔19世紀インド、ペルシャ〕

 

「神よ、汝のために私を完全燃焼させたまえ!」ーー1806年4月、ヘンリー、宣教地カルカッタにて

 

今、手元に一冊の聖書があります。Old Versionと呼ばれるペルシャ語聖書(1846年初版)です。

 

近年、すぐれた現代語訳ペルシャ語聖書が発行されていますが、原典にもっとも忠実な訳として現在でも高く評価され、各地の教会で用いられている聖書、それがOld Versionなのです。英語聖書でいえば、欽定訳(KJV)のような存在です。おどろくことに、このペルシャ語聖書(新約聖書と詩篇)は、ヘンリー・マーティンという弱冠30歳の青年宣教師によって手がけられました。コイネー・ギリシア語の原典とつきあわせてみると、ヘンリーがどれほどギリシア語に通じていたか、そしてペルシャ・アラビア語の語彙・表現にどれほど長けていたかがよく分かります。

 

彼は、若くにしてケンブリッジの教授としての輝かしい将来を約束されていたエリートでした。美しい婚約者もいました。しかし、ヘンリーは主の愛に捕えられ、この世のすべてを投げ打って、福音の伝わっていない異邦の地に向かう決心をしました。そして31歳という若さで召されるまで、彼はインドおよび中東の人々の救いのため、聖書翻訳のために、文字通り、いのちを注ぎ出しました。さて、本ページでは、ヘンリー・マーティンの人生について振り返ってみたいと思います。

 

イギリス時代

 

Henry Martyn 

Henry Martyn

 

ヘンリー・マーティンは、1781年、イングランドのコーンウォールで生まれました。彼は、ケンブリッジを首席(数学)で卒業し、フェローとしての輝かしい将来が約束されていました。しかし、ケンブリッジ大にいる間、彼はある重要な人物と出会うのです。そう、チャールズ・シメオンという敬虔な牧師にです。

 

シメオン牧師は、1792年に初のプロテスタン宣教師としてインドへ渡った靴職人ウィリアム・ケアリーのことを熱心にヘンリーに語って聞かせました。シメオン牧師の霊的感化を受け、その後多くの若者(ヘンリーもその一人)が福音伝道のため献身していくことになるのですが、その事実をかんがみても、この方が情熱とビジョンに満ちた信仰の人だったことがわかります。

 

また、この頃、ヘンリーは、デイヴィッド・ブレイナードの書き物(『ブレイナードの日記』)を読み、そこから甚大な影響を受けます。(ブレイナードは、北米においてネイティブ・アメリカンの伝道に生涯をかけた人です。彼の敬虔さと魂への情熱、祈りに満ちた日記は、今日に至るまで世界中のクリスチャンの心に語りかけています。)

 

当時、イギリスの東インド会社は、自社の利益を守らんがために、インド等、会社の置かれていた地域への宣教師の入国を禁止していました。しかし、シメオン牧師は、ウィルバーフォースとも協力して、東インド会社のチャプレンとして宣教の情熱をもった若者たちを送り込もうと働きかけました。

 

折しも、ヘンリーの実家は、経済的な破綻に見舞われます。本来彼は、CMS(Church Missionary Society)という宣教団の一員として宣教地に派遣されることを望んでいたのですが、自分の妹の生活費を稼ぐためにも、このチャプレン職を受け入れることにしました。

 

当時、ヘンリーにはリディアという美しい婚約者がいました。しかし、リディアはヘンリーの宣教へのビジョンを共有することができませんでした。多くの困難と危険の待ち構えている宣教師としての道は、リディアにとって代価が高すぎたのです。

 

当時の彼の日誌を読むと、神への愛とリディアへの愛との狭間で苦しみもがき、そのただ中にあって、みこころに全てをゆだねていこうとするヘンリーの信仰の戦いをつぶさにみることができます。結局、1805年7月5日、ヘンリー・マーティンは愛する家族、友人、そしてリディアに別れを告げ、インド行きの舟に乗り込みます。

 

インドにて

 

1806年4月、マーティンはインドのセランプール近くのアルディーンに到着します。そしてその年の10月にはディナプールに向かい、さっそく現地の人々と現地語でコミュニケーションを取り、共に礼拝の時を持ち始めました。1809年の4月にはカウンポールに移り、非キリスト教徒からの脅迫や妨害にもめげず、そこに住むイギリス人やインド人に福音を説きました。

 

そうする一方、彼は寸暇を惜しんで現地語の習得に励みました。そしてディナプール滞在時にはすでに、ヒンドゥスタニー語新約聖書の改訂作業にいそしんでいました。また、病気に侵されながらも、彼は新約聖書全巻を、ウルドゥー語およびペルシャ語に翻訳し、さらに詩篇をペルシャ語、また福音書をユダヤ・ペルシャ語に、(英国国教会の)祈祷書をウルドゥー語に翻訳しました。

 

しかし、彼の体調の悪化を危ぶんだ医者が、ついに彼に「航海に出て、外の新鮮な空気を吸ってくるよう」勧告します。しかし、船上でも、彼はペルシャ語新約聖書の改訂作業をすすめました。

 

最後の航海そして死

 

ボンベイからヘンリー・マーティンはペルシャのブシーレ(バンダレアッバース港の近く)にたどり着き、そこからさらにシラーズ市、イスファハーン市(現イラン)に向かいました。シラーズ市では、彼はスーフィー教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒に囲まれ、議論を挑まれました。

 

彼は当地の、ある寛大なスーフィー教徒の家に約一年間滞在し、その間、さらにペルシャ語新約聖書の改訂をすすめました。また、完成した新約聖書をタブリーズ市の避暑地に滞在中のシャー(王)に献上しようと試みたのですが、その時はうまくいきませんでした。(しかし後、彼の新約聖書はシャーの手に渡り、シャーよりヘンリーへ労をねぎらう感謝状が届きました。)

 

しかし、ヘンリーの病状は悪くなる一方でした。イギリスで安息年をとり、体調を回復させようと、彼はペルシャを発ち、コンスタンティノープル(現イスタンブール)に向かいました。しかし帰路の旅は険しく、途中のトキャト市でついに彼は馬に乗れないほど衰弱してしまいました。さらに、ガイド役として雇われていた男は、それに乗じてヘンリーの所持品を盗むと、瀕死のヘンリーをうち捨てて、去っていったのです。1812年10月6日、果樹園の木の下で、彼は最後の力を振り絞り、日誌を書きました。

 

「、、、果樹園の中に座り、やさしい慰めと平安のうちに、わが神を想う。わが神!さみしい時の、わが友、わがなぐさめ主。ああ、いつ時は永遠にとって代わられるのだろう?義人の住む新しい天と新しい地はいつあらわれるのだろう?かの地、そう、かの地ではもはや汚れたものはいっさい入ってくることがない。人を野獣以下におとしめる悪ももはや存在しない。死の惨めさにさらに追い打ちをかけるような堕落もない。そう、かの日には、私たちはそういったものを見ることも、聞くこともなくなるのだ。(日誌はここで終わっています。)

 

1812年10月16日、ヘンリー・マーティンは、当地のアルメニア人クリスチャンたちの手厚い介抱を受けつつ、トキャト(現トルコ)にて31年の短くも神に捧げ切った生涯に幕を閉じたのでした。

 

インドに到着してまもない1806年4月30日の日誌に彼はこう書き記しています。

 

「月光に照らされ歩きながら、私は主の使命について黙想していた。はじめのうち、私の魂はくずおれるような落胆した思いにあった。しかしやがて神は、主ご自身の計画の中にある知恵に信頼を寄せるようにと私を引き立ててくださった。まことに、私は再びこう言おう。『大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。』こういったことは神にとってたやすいことなのだ。そしてふさわしい時にそのみ旨は成るにちがいない。そしてたとい私がみずからの働きのうちに、一人の改宗者も見い出せなかったとしても、自分が忍耐をもってこの働きを続けることにより、将来につづく宣教師たちの励ましとなることを神は意図しておられるのかもしれない。」

 

ヘンリーは神に示された道程を全身全霊で走り切りました。ヘンリーが祈った「将来につづく宣教師たち」の中にあなたや私が含まれているのかもしれません。

 

願わくば、ヘンリー・マーティンに道を示された神が、あなたや私にも行くべき道を示してくださいますように。情念やこの世のむなしいものに惑わされず、ただひたすら主の御国のために若さも、情熱も、エネルギーもすべて注ぎ込むことができますように。地の果てまで主の証人として飛び立っていく勇気と力が与えられますように。

 

ーおわりー