巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

私の活動は「問題を解決するもの」なのだろうか。それとも現行のこの在り方自体が意図せずして「問題の一部」となってしまっているのだろうか?

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出典

 

目次

 

保守改革派内における三つの被り物見解

 

私は、相補主義のプロテスタント・ミニストリーであるThe Head Covering Movementという団体でPrayer Coordinatorの一人として奉仕しています。この団体は超教派的ですが、神学的中軸は、指導者のジェレミー・ガーディナー師(カナダ)の方針により改革派神学が基盤となり構成されています。

 

保守改革派の陣営でいきますと、例えば、マルティン・ロイドジョーンズ*1やR・C・スプロール*2、ジョン・マーレー*3、チャールズ・スポルジョン*4、A・W・ピンク*5、ジョン・ノックス*6、ジョン・コットン*7、ブルース・ウォルケ*8、デイビッド・グディング*9などは1コリント11章における創造の秩序および礼拝時の女性のベール着用を公に説いています。【立場1:創造を根拠にした解釈】

 

しかしながら同じ保守改革派内でも、D・A・カーソン、ウェイン・グルーデムなどは、1コリント11章の箇所を文化的解釈で捉えており(「聖なる口づけ」や「洗足」に関する解釈問題とも類似)、「今日の文脈では適用されない」という結論を出しておられます。*10【立場2:文化的解釈】

 

またジョシュア・ハリスは、【立場1】を支持しているのですが、「適用に関しては今日の文脈を考慮して、頭にかぶるベールではなく、例えば、『結婚指輪』などでもシンボルの代わりとなり得る」という第三の解釈を展開しています。【立場3:"Meaningful Symbol"見解】*11

 

二つのハードル

 

私は数年間、この論争を丹念にフォローし、検証記事を翻訳し、考察してきましたが、今自分の置かれている枠組みの中で「被り物の教え」を擁護するに当たって、そこには二つの困難点があるように思われます。一つはシンボルと物質に関する理解、そしてもう一つは聖伝です。

 

①シンボルと物質に関するプロテスタント見解のばらつき

 

社会学者のチャールズ・テイラーは、宗教改革が「日常生活の聖化」という肯定的変化をもたらしたと同時に、「脱肉 excarnation のプロセス」と呼ばれるサクラメント性への拒絶(c.f. "disenchantment")をも呼び起こしたと指摘しており、その事に関し、カルヴァン大のジェームズ・K・A・スミス師は次のように言っています。

 

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ジェームス・K・A・スミス(1970~)。カルヴァン大学哲学科教授。

 

「、、このdisenchantment(「脱魔術化」)にはやはりサクラメント性への拒絶が含まれていると思います。サクラメント性というのは、御霊が物質の中にあって私たちと接触(meet)し、物質的な要素が恩寵の管であるという捉え方のことを指します。こういった要素が失われた結果どうなるかというと、キリスト教は典礼的な生の営みというよりは、一種の『教条の知的セット』のようなものになってしまいます。」

 

「物質的な要素が恩寵の管である」というサクラメント性に基づいた考え方は、例えば、洗礼における「水(H20)」という物質を恩寵の管と捉え、聖餐のパンと葡萄酒という物質を恩寵の管と捉えます。(おそらくここでの考え方は、神が聖書の中で「水」で洗礼を授けよとおっしゃっているからにはやはり「水」を使うべきであって、水の代わりにジュースやら砂やらその他の物質で代行はできないという要素が包含されているのではないかと思います。)

 

それが理由で、カトリック教会や東方正教会の世界観の中からは、「ベールの代りに結婚指輪などもシンボルの代わりになり得る」という【立場3】のような発想は出て来ず、また、救世軍のように、「救世軍旗の三位一体印を前にした『入隊式』がバプテスマの代用になる。だから水のバプテスマは必要ない*12」というような発想も出てこないのだと思います。

 

また最近、福音主義のユース礼拝などで、パンと葡萄酒の代わりに、ピザとコカ・コーラで 聖餐式を代用するのはどうだろうかというようなアイディアもあるそうですが*13、これなども、スミス教授の言う「サクラメント性への拒絶」の急進的適用の一例ではないかと思われます。

 

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ですから、聖書の中のシンボルとして用いられている物質(水、パン、葡萄酒、ベールetc..)をどのように捉えるかということが被り物の教えの一つのポイントだと思うのですが、これを突き詰めていくと、類似の論争としての16世紀聖餐論争(Eucharistic controversy)に行き着くと思います。

 

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聖餐の教理に関し論争するルターとツヴィングリ

 

聖餐に関し、ルターはローマ・カトリック教会と同じく実在説をとり、キリストの血肉が現実にパンの実体とともに現存するという共在説を主張したのに対し、ツヴィングリは単に象徴的に現存するという象徴説を主張し、プロテスタント教会の分裂の一因となりました。*14*15

 

ですから、救世軍や無教会の水のバプテスマ無用論や、祈りのベール⇒結婚指輪で代用OK論や、聖餐のパンと葡萄酒⇒ピザとコーラで代用OK論などは、ツヴィングリ的象徴説の流れを汲むシンボル観なのかもしれません。

 

そして、16世紀の時点ですでにこういった意見の相違が持ち上がってしまったために、現行の「被り物論争」においても新教内での意見の一致はそうそう簡単ではないと思います。以上がハードル①です。

 

②教父たちの証言(聖伝)に訴えることができない

 

ハードル②は、新教内での論争において、教父たちの証言(聖伝)にパワフルに訴えることができない点にあります。テルトゥリアヌス*16、使徒憲章*17、大バシレイオス*18、アレクサンドリアのクレメンス*19、聖アウグスティヌス*20、聖トマス・アクィナス*21、ヨハネス・クリュソストムス*22、ヒュッポリトス*23等、ニカイア公会議以前/以後の教父たちの一貫した証言は、「公式礼拝時、男性は被り物をぬぎ、女性は被り物を着けなければならない」です。

 

しかしながら、プロテスタンティズムの中では聖伝は参考にはなっても、権威ではありません。ですからどんなに初代教会の一貫した証言が A であっても、ある教団の ‟聖書的” 解釈が B なら、‟正しい” 解釈はBとなります。また実際問題として、「教父たちの一貫した証言」よりも「今日の文脈」の方にずっと重きと権威が置かれている感がします。これがハードル②です。*24

 

賛否双方の立場から

 

多くの姉妹や牧師たちがこのサイトによって励ましを受けたり、ベール実践に踏み切る勇気が与えられたり、そこから夫婦関係の回復が起されたり、神様との関係や祈りの生活が深まったり、、とさまざまな証が寄せられており、私自身、このミニストリーに関わることができ本当に感謝しています。

 

しかしある人々は「Head Covering Movement などというのは不和を生じさせるdivisiveな運動だ」と公に批判しておられます*25。私自身、こういった批判がある意味において理に適っているということを受け止めつつも、しかし現行の枠組みの中では構造的にこうあらざるを得ないという二つのベクトルの間にあって複雑な心境でいます。

 

確かに、プロテスタンティズム内で、雨後の筍(たけのこ)のように、次から次に「〇〇運動」というのが新しく興されてきて、それらは皆、「回復運動」という自己認識の元に活動をしています。

 

しかしながら考えてみますと、「回復」というこの語自体もかなりトリッキーな言葉です。(自分も含め)この語を使う当人たちは、回復という語を使用するに当たり、自らが推進しようとしている〇〇教理/〇〇の実践/○○的視点は、使徒時代の教会の教理/実践/視点と同一であるという前提を持っています。しかし問題は、前提というのはあくまでも前提であるに過ぎず、それは立証されなければならないということです。

 

それで「〇〇運動」内では、皆が最善を尽くしてその立証作業に取り組むのですが、プロテスタンティズム内では、論争における最終的な調停役がいないために、「〇〇運動」が「教会の正統教理確証のための内部刷新」であるとの客観的認証がどこからも来ません。あるいはその逆に「△△運動」が「教会を分裂させる新興異端運動である」と裁定される教会法機関(or 公会議)がありません。

 

そのため、「〇〇運動」はーーそれが正しいにしろ間違っているにしろーー、どこまでいっても「〇〇運動」であり、そこが一番苦しいところではないかと思います。そこで私が考えるのは、いかなる種類のものであれおよそ回復刷新運動と名のつくものは、その運動の真正さという要素に加え、それがどのような枠組み、どのような権威の下で為されるのかということも同時に大切なのではないだろうかということです。

 

類似の事例ーー異端・カルト対策に取り組む個人や団体の働きについて

 

同じようなことが、「カルト・異端対策」に関わる個人や団体ミニストリーにも、もしかしたら当てはまるかもしれません。

 

近年、プロテスタント界に異端やカルトが蔓延している事態を受け、ネット上でも、いわゆる霊的検察庁/警視庁/裁判所のような役割を担っている個人や団体が存在します。私自身もこういった個人や団体の働きから有益な情報を得、大いに助けられてきました。

 

しかしながら、(その働き自体は本当に有益で必要不可欠であるにも拘らず)一つの疑問が残ります。ーーそれは、どなたかがカルト・異端対策における霊的検察官/裁判官/司法官を務めるに当たり、その役割を担う個人や団体は、どの管轄・権威の下にそれに従事する認可を受けており、統轄を受けているのかという問いです。

 

国家のアナロジーでいっても、例えば、日本国の検察庁は、法務省の特別機関です。そして検察官は法務大臣の権威の下に置かれています(検察庁法第14条参照)*26

 

また、日本の法律の中では、検察官の側に不正行為や権力の乱用などがあった場合、国家賠償法により、国を相手に裁判を起こすことが可能です *27

 

いずれにしても、こういった法治体制や国家秩序維持が体系的に可能なのは、日本国憲法下の三権分立という公的権威の所在が明確に定義され位置づけられているからではないかと思います。

 

そういった意味において、私は霊的検察庁が、キリストのみからだの中で具体的にどこに位置しており、権威の分立や抑制・監督機能という点で誰がどのような権限を持ってどのように決定しているのか、未だクリアーに分かっていない気がします。特にネット上では、陪審員でなくても、誰もがワンクリックでそのようなバーチャル空間に入ることができるため、そして誰もが霊的検察官を自称できるため、尚さら権威の所在や管轄の構造が見えにくくなっているように思います。

 

そしてそこがクリアーでないために、私は自分の従事している活動に対しても、それが果たして合法的に「問題を解決するもの」として主に肯定的に評価されているのか、それとも、現行のこの在り方自体がーー事の正誤に拘らずーー意図せずしてプロテスタンティズム内の「問題の一部」であり、神のお立てになっている本来の秩序構造から外れているのかーー、そこが未だによく分からずにいます。

 

ー終わりー

 

*1:参照1参照2

*2:参照

*3: 参照1 参照2参照3参照4

*4:参照

*5:参照

*6:参照

*7:参照

*8:参照1参照2参照3

*9:参照1参照2

*10:Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth 参照。しかしながら、1コリント11章は文化的解釈、1テモテ2章は創造解釈(実例)というダブル・スタンダード的な解釈はそれ自体が矛盾だというクリスチャン・フェミニストや同性愛支持の人たちからの批判に対し、この立場に立つ神学者たちは十分な応答をすることができていないように思われます。

*11:

*ダラス神学校のダニエル・ウォーレスは、結婚指輪代用説に懸念を示し、結婚指輪の代わりに、「慎み深い服装」で代用するのはどうだろうかと提案しています。

*12:

*13:参照1参照2〔礼拝の形式や内容について〕。

*14:参照

*15:関連記事:

*16:参照1参照2

*17:参照。

*18:参照。

*19:参照。

*20:参照。

*21:参照

*22:参照。

*23:参照

*24:ちなみに、ロシア正教会では礼拝時の女性のベール着用は義務であり、カトリック教会でも第二バチカン公会議以前の教会法では、ベール着用が義務と規定されていたようです。なぜ第二バチカン公会議でこの規定が外されたのかは不明です。

*25:

*26:法務省の組織図

*27:参照