巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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「神学者レベル」の牧師と、「大衆レベル」の牧師?【その2】

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出典

 

数か月前に私は次の記事を書きました。

 

 

一説によると、福音主義界には、「神学者レベル」の牧師と、「大衆レベル」の牧師という二種類のパスターが存在し、後者のカテゴリーに属するパスターたちの方が、より一層、誤教理/誤解釈/誤体系にのめり込みやすく騙されやすいのだそうです。上の記事ではそのことについて自分なりに考察してみました。

 

その後、「プロテスタンティズムと権威の所在」というテーマをさらに掘り下げていく中で気づかされたのは、「神学者レベル」の牧師と「大衆レベル」の牧師という区分化も、やはり突き詰めていくと、「誰の解釈が正しいとされるのか?」ということを巡る正統性の根拠をなるだけ確かなものにしようとする過程の中で生み出されてきた現象の一部なのではないかということでした。

 

ある歴史家の方が言っておられましたが、カトリック教会からの離脱により使徒継承に基づいた解釈権威が真空の状態となった初期プロテスタント教会で焦眉の問題になったのは、「解釈論争においてわれわれは最終的に何に/誰に訴えるべきなのか?」という権威にかかわる問題だったそうです。

 

そしてこの問題に対し、ウェストミンスター信仰告白は、最終的にヘブル語およびギリシャ語という原語での聖書に訴えるべきであるとし、次のように規定しています。

 

ウェストミンスター信仰告白

1.聖書

8 (昔の神の民の国語であった)ヘブル語の旧約聖書と、(しるされた当時、最も一般的に諸国民に知られていた)ギリシャ語の新約聖書とは、神によって直接霊感され、神の独特な配慮と摂理によって、あらゆる時代に純粋に保たれたので、確実である*1それで、すべての宗教論争において、教会は最終的にはこれらに訴えるべきである*2。しかしこれらの原語は、聖書に近付く権利と興味をもち、神を恐れつつ聖書を読みまた探究するよう命じられているすべての神の民*3に知られてはいないから、聖書は、神のみ言葉がすべての者に豊かに内住して、彼らがみ心にかなう方法で神を礼拝し*4、聖書の忍耐と慰めによって希望をもつために*5、聖書が接するあらゆる国民の言語に翻訳されなければならない*6

 

そしてこの歴史家によると、この定義により、宗教改革教会においては、かつての「司教たちによる教導権(Magisterium)」に代わり、(ヘブル語、ギリシャ語に関する深い原語知識を駆使し聖書解釈をすることのできる)「学者たちによる教導権」が発達していくようになったそうです。(「学者たち」≒「神学者レベル」の牧師、、かな?)

 

たしかに、解釈論争が最終的には原語聖書に訴えられなければならないのだとしたら、いわゆる ‟1-2年のバイブル・カレッジ” 程度の神学教育しか受けることができず、Ph.Dレベルでのヘブル語・ギリシャ語の研究をする機会に恵まれなかった「大衆レベル」の牧師たちには、「まことに申し訳ありませんが、あなたがた大衆レベルの方々は論争における最後の場面ではどうか黙っていてください。」と言うしかなくなるのではないでしょうか?

 

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それでは、「あなたには原語知識がないので論争での発言権がそもそもありません。すみやかにお引き取りください。」と締め出しを食らった「大衆レベル」の牧師たちはどうしているのでしょうか?

 

私の観察する限り、この締め出しに対抗する手段としては、

①学識ではなく「心の姿勢」に訴える。(「聖書をそのまま素直に読めば〇〇という正しい解釈に行き着く。」等、、)

聖霊の直接啓示に訴える。(「聖霊が私に△△という解釈を啓示してくださった。*7」「私には新使徒としての特別権威が付与されている。」等、、)などが挙げられるように思います。*8

  

いずれにしても、そこには、解釈における正統性の源泉を求める過程で、「とにかくどこかで相手と差を付けなければならない」という切迫感があるのかもしれません。そしてこれがレフリー不在の解釈世界の中で起こってくる必然なのではないかと思います。

 

そしてその意味で、「神学者レベル」の牧師と「大衆レベル」の牧師という区分は、解釈論争に決着をつけようとする懸命なる過程で生み出されてきた(主知主義をベースにした)一つの人工的境界線なのではないかと思います。

 

ー終わりー

*1:マタイ5:18

*2:イザヤ8:20、行伝15:15、ヨハネ5:39,46

*3:ヨハネ5:39

*4:コロサイ3:16

*5:ロマ15:4

*6:Ⅰコリント14:6,9,11,12,24,27,28。引用元

*7:

*8:また、プロテスタンティズムのセクターの中には、「いや、司教たちによる教導権も、学者たちによる教導権も正しくない。それだけでなく聖職者と平信徒の区別自体も正しくない。霊的ヒエラルキー制度なるものは、ニコライ派由来の悪弊であり、主の教会の本来のあり方ではない。」という捉え方をするグループが19世紀初めに英国で生まれ、次のように説き始めました。 

「ニコライ派の教えの中に、聖職者と平信徒との区別の始まりがあったと言われています。 聖書のみことばにはそのような区別がありません。いかなる教育も、いわゆる『聖職者』 をつくるものではありません。聖書によると、聖霊の宮になったすべての人たちは『祭司』 と呼ばれています。生まれ変わりを通してすべての信じる者が祭司である、と聖書ははっきり記しているのです。こんにちのいわゆる『牧師制度』は、聖書には書かれていません。」(引用元

しかしこういう主張をする諸グループの内部構造を調べますと、一応、制度的には皆が ‟ブラザレン” ということになっていますが、実際には一人か二人の ‟特別なブラザレン” の個人見解が事実上その集団を統治しており、その霊的ヒエラルキー制度たるや時には、一般の司祭制・監督制・牧師制を凌ぐほどの強靭さを帯びているように思われます。アンソニー・ノリス・グローブスが、〈個人教皇化〉を強めていくジョン・ネルソン・ダービーに宛てて書いた警告と嘆きの手紙を読んでも痛感するのが、教導権やヒエラルキー制を排除しようとする個人や集団の試みは(ダービーの例に顕著なように)やはりいずれも失敗に終わっているということです。ですから問われるべきは、教導権やヒエラルキー制が正しいのか間違っているのかではなく、むしろどのような形態の教導権やヒエラルキー制が本来正しいあり方なのか、という事ではないかと私は思案しています。(どうなのかなあ。。。)

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