巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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ソロ・スクリプトゥーラ、ソラ・スクリプトゥーラ、そして解釈的権威の問題(ブライアン・クロス、マウント・マースィー大学)【その5】+プロテスタント信者の方との質疑応答

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全体の目次はココです。

本稿内の小見出し

 

 

Bryan Cross, Solo Scriptura, Sola Scriptura, and the Question of Interpretive Authority(拙訳)

 

第4章.なぜソラ・スクリプトゥーラとソロ・スクリプトゥーラの間には原則的相違がないのかについて

 

B. ソラ・スクリプトゥーラに内在している矛盾

 

ソラ・スクリプトゥーラ(「聖書のみ」)に関するマティソンの言述には内在的矛盾が含まれています。一方において彼は、「聖書に対する訴えはすべて、聖書の諸解釈に対する訴えである」と主張し、次のように述べています。

 

「聖書に対するあらゆる訴えは、実際には、聖書の諸解釈に対する訴えに他なりません。ですからここで問うことのできる唯一の真の問いは、『それは誰の解釈によるものか?』です。異なる聖書解釈をする人々が一同に会する時、私たちはただ単にテーブルに聖書を置き、『聖書よ、私たちの間に存在する相違を解決してください。』と頼むことはできません。聖書が権威として機能するためには、それは誰かによって読まれ、解釈を施されなければなりません。」*1

 

他方、彼は聖書が最終的権威であると次のように主張しています。

 

「ソラ・スクリプトゥーラの教理に付随する重要性は、聖書が教理および実践に関する唯一の最終的・権威的規範であるという主張にあります。」*2

 

「伝統に関する〔カトリック、福音主義〕それぞれのこういった新型観念は、最終的権威の中軸を混同しており、究極的にそれを、教会の精神に置くか(カトリック)、あるいは個人の精神に置くか(福音主義)してしまっています。そしてその結果として生じてくるのは、神および神のみことばの権威に対する自律、そして反逆です。」*3

 

しかし、聖書に対するあらゆる訴えが、聖書の諸解釈に対する訴えに他ならないのであれば、そこから必然的に導き出されるのは、誰かの聖書解釈が教理および実践に関する唯一の最終的・権威的規範である、もしくは聖書それ自体は教理および実践に関する唯一の最終的・権威的規範ではあり得ない、ということです。

 

の選択肢はプロテスタント教徒であるマティソンには開かれていません。なぜなら、聖書が教理および実践に関する唯一の最終的・権威的規範であるという事を否定することは、まさしくプロテスタンティズムの土台であるソラ・スクリプトゥーラ(「聖書のみ」)を否定することに他ならないからです。

 

しかしながらの選択肢もマティソンには開かれていません。なぜなら、使徒継承(apostolic succession)を抜きにしては、プロテスタンティズムには、誰かの解釈が教理および実践に関する唯一の最終的・権威的規範であるということのサクラメント的基盤をなんら持っていないからです

 

それゆえ、マティソンの立場は、本人にとって一つのジレンマを作り出しています。そしてこのジレンマが解決されるためには、彼がプロテスタントであることをやめるより他に法がありません。

 

「教会」が最終的な解釈的権威を持っているというのと「個人」が最終的な解釈的権威を持っているという事の間に中道的立場はありません。繰り返しますが、マティソンは、聖書に対するあらゆる訴えが、聖書の諸解釈に対する訴えに他ならないということを認め、そして個人に最終的な解釈的権威があることを否定しています。

 

しかしそれと同時に、プロテスタント教徒としてマティソンは、教会が聖書に対し説明責任を持つべく、個人は自分自身の聖書解釈に訴えることができると主張しています。そして場合によっては、教会から去ることもできると。(それゆえ、自分自身を真の教会の継続だとみなすことになります。)そうでなければ、マティソンは自らの議論により、16世紀にプロテスタントがカトリック教会から離脱した、その基盤自体を弱体化させてしまうことになるでしょう。

 

ですからマティソンの立場は実質上、次のように帰着します。「教会には最終的な解釈的権威がある。ーーただし教会の解釈が個人の解釈と食い違っている時を除いて。」しかしその例外状況というのは欺瞞です。なぜなら、「(私が同意する限りにおいて)自分は服従する」という時、結局自分が服従している相手は、自分自身だからです。

 

それゆえに、ソラ・スクリプトゥーラにおいては、究極的に、そして常に最終的な解釈的権威を所有・保持しているのは個人です。

 

ソラ・スクリプトゥーラは、ソロ・スクリプトゥーラのより洗練されたバージョンですが、付加されたこの洗練性は、ーー個々人が「自分は、巷にいるああいった『わたしとマイ・バイブル』的個人主義者たちとは違うんだ」と信じ込むことを彼に許すことにより、ーーこの立場を、より一層欺瞞的なものにしています。

 

「ソロ・スクリプトゥーラ、ソラ・スクリプトゥーラ」の論考に対する新教側の反論と旧教側の回答の事例

 

 

【プロテスタント側からの反論】

 

何が(←『誰が』ではありません)聖書を正しく解釈するのかに関するもう一つの決定的回答があります。それは次のものです。

 

「教会を一致させるものは福音です。福音を定義するのは聖書です。聖書を正しい解釈に至らせるものは、十字架につけられたイエス・キリストーー、抜本的な恵みをすべてに与えるべくご自身をお捧げになられた、罪びとにとっての十全なる救い主を中心に据えた解釈です。」レイ・オートランド、イマヌエル教会牧師HPより抜粋

 

【カトリック側からの回答】

 

応答ありがとうございます。さて、あなたは何が(←『誰が』ではありません)と言っていますが、その直後に、「レイ・オートランド」という人物に言及しています。レイ・オートランド氏にどんな権威があるがゆえに、私たち皆が彼の言っている意見に従わなければならないのでしょうか。

 

それから、オートランドの言明についてもご一緒に考えてみましょう。

 

「教会を一致させるものは福音です。福音を定義するのは聖書です。聖書を正しい解釈に至らせるものは、十字架につけられたイエス・キリストーー、抜本的な恵みをすべてに与えるべくご自身をお捧げになられた、罪びとにとっての十全なる救い主を中心に据えた解釈です。」

 

彼は、教会を一致させるものは ‟福音” であると言っています。しかしここでまず問題になってくるのは次の問いです。「それは誰の規定による福音であるのか?」この世には、福音に関する数多くの異なるバージョンや解釈や諸概念があります。彼がここで意味しているのは、「福音に関するレイ・オートランドの規定」ということでしょうか。

 

「聖書を正しい解釈に至らせるものは、十字架につけられたイエス・キリストを中心に据えた解釈です。」

 

「十字架につけられたイエス・キリストを中心に据えた解釈」としてみなされるものは、誰の規定によるものでしょうか。レイ・オートランドによるものでしょうか。

 

こういった種類の諸回答は、権威の所在の問題の周りを踊っていますが、回避することはできません。人は教導的権威を認めるか、もしくはそれを自分自身のものとみなすか、そのどちらかです。

 

なぜなら、個人的仲介者(personal agent)を抜きにしては、いかなる解釈的活動も為され得ないからです。いかなる解釈的プロセスの中であれ、人間が常に行為しています。「聖書が解釈行為を行なっているのであって、私たちは解釈行為を行なってはいない」という風に私たちが装う時、私たちは自分自身を欺いているのです。

 

ー終わりー

*1:Solo Scriptura: The Difference a Vowel Makes,” pp. 25-29.

*2:The Shape Of Sola Scriptura, p. 260.

*3:Shape, p. 276.