巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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ソロ・スクリプトゥーラ、ソラ・スクリプトゥーラ、そして解釈的権威の問題(by ブライアン・クロス&ニール・ジュディッシュ)【その4】

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出典

 

全体の目次はココです。

本稿内の小見出し

 

Bryan Cross & Neal Judisch, Solo Scriptura, Sola Scriptura, and the Question of Interpretive Authority(拙訳)

 

第4章.なぜソラ・スクリプトゥーラとソロ・スクリプトゥーラの間には原則的相違がないのかについて

 

A. 直接的そして間接的な最終的解釈権威

 

ソロ・スクリプトゥーラ

 

ソロ・スクリプトゥーラの立場の問題点は、マティソンによると、聖書に対するその高い見方ではなく、「個人が教会以上に高い解釈的権威を持っている」とする考えにあります。

 

ソロ・スクリプトゥーラは個々人を、彼/彼女が神学的に不可欠あるいは重要と考える事項に関し、それらの究極的・最終的解釈的権威を持つものとして取り扱っています。それが故に、ソロ・スクリプトゥーラはマティソンが著書の中で実例として挙げていたようなさまざまな問題ある状況を生み出してきたのです。

 

ロバート・レイモンドはニケア信条の中の一節を拒絶しましたが、彼にそれが可能だったのはひとえに、レイモンドが自分自身のことを、(AD325年に信条を作成すべくニケアに集まった)司教たちと、少なくとも解釈的そして教導的(magisterial)権威において同格の者だとみなしているからです。

 

逆に言いますと、仮にレイモンドがニケア公会議に集まった司教たちのことを自分自身よりも高い解釈的・教導的権威を持っていると認識していたとするならば、彼はニケア信条を、自分自身の解釈や立場を矯正するものとして取り扱っていたことでしょう。ーー特に彼自身の解釈や立場がニケア信条のそれとうまくかみ合っていない領域において。

 

二通りの方法

 

しかし自分自身を、自らの究極的な解釈的・教導的権威とする方法には二通りあります。一つは直接的な方法で、もう一つは間接的な方法です。直接的な方法においては、あらゆる神学的諸問題を、自分自身の聖書解釈という最終判決にダイレクトに従わせます。これがソロ・スクリプトゥーラの立場です。これはとにかくダイレクトなので、この立場の性質はかなり一目瞭然です。こういった事例において、個人が自らの究極的解釈権威として振る舞っているのを私たちははっきり見ることができます。

 

それに比べて、自分自身を、自らの究極的な解釈的・教導的権威とするための間接的な方法はより複雑で微妙なものです。この場合、個々人は、自らの個人解釈をベースに、(彼が肝要ないしは重要だと考える事柄において)自分自身の解釈と適合しているような教会共同体を設立するか、もしくは〔一信徒として〕その共同体を選びます。

 

そうした後に、彼は、それが彼自身の聖書解釈と適合する形で機能している限りにおいて、その団体に‟服従”します。しかし(彼が肝要ないしは重要だと考える事柄において)その共同体が彼自身の解釈から逸脱を始めるなら、彼はまた例のプロセスを繰り返します。ーーつまり彼は、自らの個人解釈をベースに、(自分が肝要ないしは重要だと考える事柄において)彼自身の解釈と適合しているような団体や集会を新たに設立するか、もしくは〔一信徒として〕そういった別の団体/集会を選んでいくのです。

 

直接的そして間接的、その両方において、個人は自らの究極的解釈権威として振る舞っています。しかし彼のその言動は、間接的ケースにおいては検知がより困難です。なぜなら、一見したところ、彼は自分自身ではない、複数の人間で構成される団体/集会の解釈的権威に従っているように見えるからです

 

しかしながら、彼はそれらの団体/集会が自分自身の聖書解釈に適合していることをベースに、そういった団体/集会を設立ないしは選択しており、また、(自分が肝要ないしは重要だと考える事柄において)彼らが自らの解釈と同意している限りにおいて彼らに‟従って”いるため、結局のところ、実際には、この団体/集会に対する彼の ‟恭順”は、自分自身に対する ‟恭順”となってしまっています

 

他の人々が自分に同意する時だけに限って彼らに恭順しようとするのは、自分自身に恭順することです。しかし自分自身に恭順するというのは矛盾語法です。なぜなら、それは全く恭順しない状態(自らの望むままに行動する状態)と実際には見分けがつかないからです。

 

しかし、自分自身を、自らの究極的な解釈的・教導的権威とするこういった間接的な在り方は、一見したところ、他の人間たちで構成される団体/集会に従っているような外観を帯びているために、それを実践している当人は自分が純粋にそういった団体/集会に自らを従わせており、間違っても自らの究極的な解釈的・教導的権威として振る舞うようなことはしていないと錯覚しています。そして、このような状態は彼らをして、「自分たちは教会に従っているのだ」という思い込みの内にい続けることが可能とせしめています。*1

 

自分自身を自らの究極的な解釈的・教導的権威とする間接的この方法がまさに、ソラ・スクリプトゥーラに付随している方法論に他ならない?!それはなぜ?

 

ソロ・スクリプトゥーラは、自分自身を、自らの究極的な解釈的・教導的権威として振る舞うダイレクトな方法です。しかし以下に示していくように、自分自身を自らの究極的な解釈的・教導的権威として振る舞う間接的なこの方法がまさに、ソラ・スクリプトゥーラに付随している方法論に他ならないのです。

 

なぜそうなるのでしょうか?以下に理由を述べたいと思います。ソラ・スクリプトゥーラに関するマティソンの解説によれば、聖書は「教会の中において、そして教会によって」解釈を施されなければなりません。それだけにとどまらず彼はさらに、真の聖書解釈のために私たちは教会に向かわなければならないと論じています。「なぜなら福音が見い出されるのは他ならぬ教会の中だからです。*2 」福音が見い出されるのは教会の中においてであるとマティソンが主張している点に留意してください。

 

しかし「何が教会であるか」いかにして彼は決定しているのでしょうか。改革派キリスト者として彼は、‟教会”を、「どこであれ福音が見い出される場所」として定義しています。なぜなら、初期プロテスタントは教会のしるしを、‟福音”を含んだものとして定義したからです。(その‟福音”が何であるかは、各自の個人的な聖書解釈によって決定されました。)ですから、マティソンは福音が見い出されるのは他ならぬ教会の中だと言っていますが、彼は教会を福音という観点で定義しています。

 

こういう論法を、論理学ではトートロジー(tautology)と言います。これは循環論法の一種であり、これにより、誰でも自分は真の教会にいて、福音を持っていると主張することが可能になります。ある人が聖書を読み、自分流の理解によって福音論を形成します。そうした上で、彼はこの‟福音”が真の教会の不可欠なしるしであるとし、そして「福音が見い出されるのは他ならぬ教会の中だ」と結論づけることが可能です。

 

教会が(各自の聖書解釈によって導き出された)福音理解によって定義されているために、福音が‟教会の中で”見い出されるという言明がなされても、それは結局、「福音が何かということに関しての自分自身の聖書解釈を共有している人々のことを私は‟教会”と呼んでいる」ということにしかなりません。こういった種類の循環論法により、虚偽が隠されたまま、そこに残ることになります。

 

その点、カトリックの立場はこの循環性の難を逃れています。というのも、‟教会”が‟福音”という観点で定義されているのではなく、〔使徒たちにまで溯ることのできる権限の系譜としての〕使徒継承(apostolic succession)の観点で定義されているからです。

 

ご自身の御名によって福音宣教しご自身の教会を治めるべく、キリストが使徒たちに権限を与え、遣わされたように、使徒たちは、按手によって司教たちを後継者に任命し、またこの奥義により、福音宣教(教示)そして教会統治のための神聖なる権威が引き継がれていきました。

 

そして彼らもまた、同じようにして福音宣教・教示および教会統治のための権限を他の人々に継承していきました。使徒たちからの継承を受け継いできた人々だけが、福音宣教・教示および教会統治のために神与の権限を受けています。それゆえに、教会というのは(自分の個人的聖書解釈によって決定されたところの)福音によって定義されているのではありません。そうではなく、福音の内実は、教会によって特定化されており、そしてその教会は使徒たちからの継承によって特定されます。

 

使徒性(apostolicity)

 

それ故に、使徒性(apostolicity)というのがニケア信条の中で教示されている教会の4つのしるしの一つなのです。「わたしたちは、唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会を信じます。*3」しかしマティソンの解説でいきますと、何をもって‟教会”とみなされるのかというのは、常に、そして究極的に、各個人の判断に依ります。つまり、彼/彼女自身の福音理解および、彼/彼女自身の聖書解釈をベースに決定されているのです。

 

ですからマティソンの説明でいきますと、教会が一体何であり、教会はどこにあり、何が教会の教理であり、何がそうでないのかといったことに関し、決定的に言うための、より高い権威を持っている人は誰もいないということになります。

 

そしてプロテスタント宗教改革での出来事の中に私たちはこの事実を見い出します。草創期のプロテスタントは自らの聖書解釈をカトリック教会の裁定に明け渡さず、その反対に、むしろ、教会が背教しているという判断を下すべく自らの聖書解釈にその根拠を求めた上で、教会からの分離を正当化しました。

 

「教会の4つのしるし」(ニケア信条)の再定義

 

彼らはそうする上で上記の「教会の4つのしるし」(ニケア信条)を再定義し、司教たちからの許可を得ることなく、自らの聖書解釈によって、「教会のしるし」に3つ(ないしは2つ)のしるしを追加することに決定しました。

 

追加された新しいしるしは以下のものです。

福音宣教(もしくは‟健全な教理”)。*何が ‟福音” であり何が ‟健全な教理” とみなされるのかは、彼ら自身の聖書解釈によって決定されました。

サクラメントの適切な執行。*ここにおいても、何がサクラメントであり、何をもってその適切な執行とみなされるのかは、彼ら自身の聖書解釈によって決定されました。

教会戒規の正しい行使。*これに関しても、やはり彼ら自身の聖書解釈によって決定されました。*4

 

自分たち自身の聖書解釈から引き出されたこれらの新しいしるしにより、彼らは使徒ペテロの後継者によって統治されているカトリック教会は背教し、それゆえカトリック司教たちには教会的権威がなく、むしろ彼ら自身(最初のプロテスタント)こそが教会の継続であると確定しました。

 

このようにして彼らは、教会の権威を拒絶することに対する禁を、敬虔に是認することができたように思われます。例えば、カルヴァンは次のように書いています。

 

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John Calvin (1509-1564)

 

「しかしながら、福音宣教が敬虔の内に語られ、サクラメントがないがしろにされていない所において、差し当たって、偽りなく明瞭な形の教会がみられます。そして誰もその権威を拒絶し、その警告を軽視し、勧告に抵抗し、懲戒を軽視することは許されていません。ーーましてそれを破棄したり、一致を破ったりするのはもっての他です。なぜなら主はご自身の教会のコミュニオン(交わり)を非常に重視しておられるため、誰であれ、傲慢にもキリスト者社会(それが御言葉の真の意味およびサクラメントを重視しているのなら)--それを離れるような者を主は、‟裏切り者”、‟キリスト教からの背教者”とみなしておられます。」*5

 

しかしながらカルヴァン自身は元々、カトリック教会で幼児洗礼を受けた上で、人生の後半30年間余りをカトリック教会から離脱した状態で過ごしました。

 

そうしますと、彼はどのようにして「自分はもしや教会の権威を拒絶しているのかもしれない」という考えを回避することができていたのでしょうか。それはひとえに、「〔カルヴァン自身の聖書解釈によって決定されたものとしての〕福音宣教が敬虔の内に語られ、〔カルヴァン自身の聖書解釈によって決定されたものとしての〕サクラメントがないがしろにされていない所」が教会である、という具合に、教会を再定義することによって、でした。

 

初期プロテスタントは、ソラ・フィデ(「信仰のみ」)を福音の必須条件にすべく、自分たち自身の聖書解釈に訴え、そしてその ‟福音” を教会の新しいしるしとなすべく自分たち自身の聖書解釈に訴え出ていました。

 

独自の聖書解釈および彼らの司教からの認可のない状態で、「ソラ・フィデが今や教会のしるしである」ということを規定することにより、宗教改革者たちは、その解釈に適合させる形で ‟教会” を再定義することによって、カトリック司祭たちに ‟反逆” することを回避しました。実に、こういった ‟教会” の再定義により、彼らのカトリック司教たちはもはや教会のメンバーでさえなくなったのです。

 

こうすることにより、最初のプロテスタントは自らの解釈的権威を、司教たちの解釈的権威よりも上位に位置させました。それゆえに、「最終的な解釈的権威/教示権威は自分自身に属する」という前提は、プロテスタンティズムに内在するものです。なぜなら、個人の解釈的権威/教示権威を教会のそれに従属させることは、とりもなおさず、‟カトリック教会からの初期プロテスタントの離脱” という行為自体を弱体化させてしまうことになり、従って、プロテスタンティズムそれ自体の合法性に疑問が付されてしまうからです。

 

ここでの論点は16世紀の分裂において、どちらの陣営が正しく、どちらが間違っていたのかということを示すことではありません。論点は何かと申しますと、ソラ・スクリプトゥーラ支持者たちによってなされる「教会に自らを従わせなければならない」という主張には常に、どちらの集団を教会とみなすのかに関する予断および、その判断がなされるに当たっての神学的前提ーー、この二つが潜在しているということです。

 

マティソンは「クリスチャンは皆、教会のしるしに関する教会の決定に従わなければならない」と言うことができません。なぜなら、そういった主張では循環論法に陥ってしまうからです。つまり、彼は、教会のアイデンティティーを決定するに当たっての教会のアイデンティティーをすでに前提してしまっているのです。

 

せいぜい彼が言えるのは次の言明でしょう。ーークリスチャンは皆、教会に関するプロテスタントの三つのしるしを受け入れるべきです。なぜなら、私〔マティソン〕の聖書解釈によれば、この三つは教会のしるしだからです。

 

マティソンの立場によっては、教会のしるしに関し、教会が、決定的そして権威をもった聖書解釈を為すことは適いません。なぜならマティソンの立場には、「教会のしるしに関する権威的決定は、究極的・永続的に個々人に依拠している」ということが内含されているからです。

 

中道は存在しないーーソロ・スクリプトゥーラか使徒継承か

 

一連の事は、使徒継承に対するプロテスタンティズムの拒絶に起因しています。使徒継承がない状態であるために、プロテスタンティズム内部には、(教会のしるしを含めた)教理的事項や解釈に関し、決定的決定を提供するべくすでに神的権限を付帯している人々の集まりが皆無です

 

教会のしるしを決定することにおいて各人が至高の解釈的権威を持っているという立場を付与することによって、マティソンは「ソロ・スクリプトゥーラとソラ・スクリプトゥーラの間には結局、原則的相違はない」という状態に自らの立場を置いてしまっています。

 

そしてそれ故、彼の立場は、個人主義および分裂化(fragmentation)にさらされることになっていますが、個人主義と分裂化というのは(彼が正しくも認識しているように)ソロ・スクリプトゥーラから生み出されてくるものです。従って、こういった理由を採っても、「ソラ・スクリプトゥーラがソロ・スクリプトゥーラに帰着する」ということが分かります。

 

同じ事が「どの伝統が権威的であるか」を決定する上でも適用されます。プロテスタント神学者R・スコット・クラークは、著書『契約、義認、牧会ミニストリー』の中で、クリスチャンは聖書を、改革派の視点、そしてウェストミンスター信仰告白を始めとする長老派の諸基準に照らし合わせ、聖書を読むべきであると主張しています。*6

 

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彼がこの論拠として挙げられる唯一可能な基盤は何かというと、ウェストミンスター信仰告白(WCF)が自分自身(および彼の聖書解釈に同意している人々)の聖書解釈にマッチしているということです。クラークは、クリスチャン全員が服すべきであるところのアプリオリな教会的権威を所持していません

 

また個々のクリスチャンは、(それによってWCFを評価するところの)『基準』としてWCFを用いることはできません。また、彼は他のプロテスタント諸信条を評価すべくWCFを用いることもできません。(←そうするとまた循環論法に陥ってしまいますから。)

 

それゆえに、仮にある人が使徒継承を否定したとします。そうしますと、「果たして聖書はWCFによって特定されている教義的枠組みに従って解釈されるべきなのか否か」を決定するために、個々のクリスチャンは、自分自身の聖書解釈と比較することによって、WCFを評価しなければならないということになります。

 

それゆえに、使徒継承なしには、伝統という二次的‟権威”ないしは(それによって聖書を解釈するところの)‟基準”が究極的には、個々人の裁定の下に従属しつづけ、よって、引き続き、実際の権威などではなく、ただ単に権威のように見える幻影的外観を帯び続けることになります。*7

 

ソラ・スクリプトゥーラ支持者にとって、仮に彼自身の聖書解釈が変化した場合(例:いかなる教理や実践が ‟健全な教理” なのか)、もしくは仮に、目下彼が ‟教会” とみなし彼の決定を満足させている人々の集まりが、彼の聖書解釈とは相反する決定を下した場合、その際にはもはや彼にとって、彼らに従うべき理由は何もないのです。

 

まさしくその事実(つまりこの種の変更)によって彼らは(教会論にとって肝要だと彼が判断するところの)彼の基準をもはや満たさなくなります。ーーちょうどカトリックの司教たちが初期プロテスタントによって権威がないものと定義されたように。

 

こういった事が発生すると、ソラ・スクリプトゥーラ支持者は今の彼の聖書解釈にマッチしているような別の集まりを設立するか、選ぶかした上で、新しいグループのその人たちに‟従う”のですが、その関係も、何をもって‟健全な教理”とみなすのか、サクラメントの適切な執行、正しい戒規といった点で、彼とその新しい集まりの人々に亀裂が生じ始めるやまたもや分散してしまいます。

 

ですから、ソロ・スクリプトゥーラとソラ・スクリプトゥーラの間に原則的相違点がない理由は、その両事例において、個人がおのれ自身の究極的な解釈的・教導的権威だからです。ーーソロ・スクリプトゥーラはダイレクトな方法で、そしてソラ・スクリプトゥーラは間接的な方法で。

 

それゆえに、ソロ・スクリプトゥーラとソラ・スクリプトゥーラの間に原則的違いがない理由は、ソラ・スクリプトゥーラの付与および使徒継承の否認、それから個人と教導権の間における解釈的権威平等の付与ーーこれらにより、いかなる教会公会議、いかなる教義発布も個人の良心を拘束し得ないことに在ります。

 

いかなる信条、いかなる教会声明であっても、個人は、自らの聖書解釈をベースに、それに対する裁定役を務めるでしょう。ーーちょうど初期プロテスタントがトレント公会議(やその他の初期公会議)での法令に対する裁定役として立ちはだかったように。先ほど見ましたように、カルヴァンは教会公会議の権威を認めていたようなふしが見られます。

 

「教理に関し何か論争が持ち上がった際、最良にして最も確実なる治療法は、真正なる司教(監督)の教会会議が開かれ、そこにおいて論争になっている教理が吟味・検証されることである、という事を我々は進んで認めたいと思う。」*8

 

しかし「真正なる司祭(監督)」という語に留意してください。使徒継承なしには、何をもって「真正なる司祭」とみなされるのかは、唯一‟私の聖書解釈に同意する者” であるしかない、ということになります。換言しますと、カルヴァンの言明は、要するに「自分自身の聖書解釈に同意している司教たちで構成されている会議に対し、私は進んで従いたい」ということになります。

 

そしてこうしたやり方と、ソロ・スクリプトゥーラの間にはなんら原則的違いはありません。つまり、前者は本性をマスクで隠したソロ・スクリプトゥーラなのです。自分が同意している人たちにだけ ‟従う” というのは、‟自分が同意する時にのみ従う” という行為の一種に過ぎず、それ自体、‟自分に対してだけ従う” という行為の間接的形態であり、それは見せかけの服従に過ぎません。

 

ソラ・フィデ(「信仰のみ」)とトレント公会議

 

カルヴァンおよび初期プロテスタントは、ソラ・フィデ(「信仰のみ」)に関しトレント公会議で出された法令を拒絶しました。そうするに当たり彼らは、彼ら自身の聖書解釈に従い、「ソラ・フィデの教理が教会のしるしである」という予断的決定に基づいて拒絶しました。トレント公会議は信仰のみによる義認論(justification by faith alone)を否認しましたので*9、トレント公会議はプロテスタント自身が規定した教会のしるしの一つを満たしておらず、それゆえに、事実上(ipso facto)‟真正なる司教たち” で構成されておらず、事実上、妥当でない公会議だとされたのです。*10

 

使徒継承を抜きにしては結局、教会が何であるかを特定すべく、‟福音” や ‟健全な教理” の決定とは、究極的に変更不可的に個々人それぞれの聖書解釈に依拠しています。従って、いかなる信条であれ、教会法令であれ、それらは、ーー個々人が自分の聖書解釈と十分に整合している限りにおいてのみーー‟権威的なもの” となります。

 

もしもそれが自分自身の聖書解釈とかなり相反していると彼が判断し、しかもそれが重要なポイントであった場合、その時、それは彼に対し何ら ‟権威” を持っていません。‟教会の” 聖書解釈に対する彼の不同意は彼の立場を異端的なものにはしません。彼の思考ラインでいくと、むしろ ‟教会” が異端的であり、彼自身の立場こそ正統である可能性がかなり高いかもしれないということになります。(よって、彼が真の教会の継続者であり、残りの者たちは異端者ということになります。)

 

しかしそれを確実に知ることは決してできないでしょう。よって、‟正統”と‟異端”は、使徒継承の拒絶によって相対化されます。ソラ・スクリプトゥーラはソロ・スクリプトゥーラに負けず劣らず、使徒継承を拒絶しているため、そして使徒継承の拒絶は異端/正統に関する相対主義化を伴うため、この理由によっても両者の間には原則的違いはないということになります。

 

なぜなら前述しましたように、ソラ・スクリプトゥーラの付与と、使徒継承の否定により、誰が/何が教会であるのかということを決定するべく、何が ‟福音” で何が ‟健全な教理” なのかを決定する上で個人が最終的な解釈的・教示的権威を持っているからです。

 

しかしながら、もしも使徒継承が正しいのだとしたら、何をもって ‟福音” および ‟健全な教理” とみなすのかに際する決定において、教会が最終的な解釈的・教示的権威を持っているということになり、そうなりますと、初期プロテスタントが、カトリック教会から離脱したことは正当化されなかったということになります。

 

彼らがカトリック教会からの離脱を正当化しようとするなら、その方法は唯一、教会のしるしに関する自分たち自身の聖書解釈に訴えるしかなく、それゆえに、使徒継承を拒絶し、自分たち自身がカトリック司教たちと同等もしくはそれ以上の解釈的権威を持っているのだと前提するしかありません。

 

それが理由で、ソラ・スクリプトゥーラは、それ自身を反証することなしには決して、教会に最終的な解釈的権威を授与することができないのです。

 

そのために、たといソラ・スクリプトゥーラが究極的な解釈的権威に関し、教会権威に従っているかのような外観を一見帯びているようにみえたとしても、ソラとソロの間に原則上の違いはありません。ソロにしてもソラにしても、その両ケースにおいて、個人が自分自身の最終的な解釈的・教示的権威であり、そうであり続けます。

 

本項のまとめ

 

要約しますと、マティソンは自分が、ソロ・スクリプトゥーラとは根本的に異なる立場を擁護していると思っているのですが、実際には、両者はその本質において同一の立場です。しかしそれは、個人的に選択した実践および個人的に選択した人々(集まり)という枠組みの中に隠れているために、その本性は隠蔽されています。

 

これはマティソンのソラ・スクリプトゥーラ概説の中に表れています。一方において彼は、個人に最終的な解釈的・教示的権威があるという観念を拒絶しています。マティソンによると、「個人に最終的な解釈的・教示的権威がある」という考えがまさにソロ・スクリプトゥーラという立場の誤謬です。しかし他方、マティソンは各人が自分の良心に従っている限りにおいて、それぞれの個人は教会を矯正し、教会に従わず、教会を離脱すべく、その根拠を聖書に訴えるということを是認しています。*11

 

マティソンによると、個人の良心は、彼自身の聖書解釈によってのみ拘束されています。そしてこの観念は、その他すべての教会的権威(例:諸信条、告白文、教導権)を単なるアドバイスの次元に還元させます。なぜでしょうか?それはなぜかというと、使徒継承抜きには、いかなる人の教えや解釈も神的に権威づけがなされておらず、それゆえに、人の良心は、自分自身の解釈的・教示的権威以外のいかなる解釈的・教示的権威によっても拘束されていないのです。そしてこれがまさしくソロ・スクリプトゥーラの本質です。

 

個人が、教会の解釈を裁定するという位置に立つためには、彼は教会の解釈的・教示的権威と同等ないしはそれ以上の解釈的・教示的権威を持つ必要があります。

 

逆にそうでないとすると、教会の解釈が個人の解釈と異なる場合、教会の教えや解釈というのは、個人が自分自身の解釈を〔教会のそれに〕同調させるための基準としての役目を果たすことになります。

 

トリニティー神学校のケヴィン・ヴァンフーザーは次のように書いています。

 

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Kevin Vanhoozer(1957-)

 

「神の御言葉には誤りがありませんが、人間の諸解釈はそうではありません。神は天におられ、私たちは地上にいます。天と地のはざまに位置する私たちには、御使いのような知識に欠けています。そうなりますと、私たちにはどんなオプションが残されているのでしょうか。

 

解釈学的相対主義:あなたの内にいる解釈者を受け入れ、士師記の時代のイスラエルの民が「めいめい自分の目に正しいと見えることを行なっていた」ごとく、自分もそのように生きる。(もちろん、他の人を傷つけない限りにおいて、ですよ!)

ローマへの街道を進みゆき、数における安全性を得る。

どこかの独立教会に加わる。そこでは正しい読み方というのは、その人の地元の解釈的共同体の機能です。

 

 しかしながら上の3つの選択肢のどれも私たちに確信を与えません。それで私は四番目の可能性を提示したいと思います。本稿で示したように、私たちは巡礼者のように出立します。そして理に適う道に従う介助を与えてくれる解釈学的ツールを駆使します。そして御霊の照明を祈りつつ、自分の間違いや踏み誤りを素直に認めることのできる謙遜さが与えられるよう祈ります。そして自分たちの先を進んでいる他の巡礼者たちに相談し、今日世界の他の場所にいるクリスチャンたちの見解をも参照します。」*12

 

ヴァンフーザーの選択肢は、ソロ・スクリプトゥーラに関する説明です。選択肢はカトリシズム。選択肢は、ソラ・スクリプトゥーラに関する説明であり、ここでの ‟独立教会” は教団教派と置き換えることができます。選択肢は、第4番目の理論的オプションではなく、現行の解釈学的めちゃめちゃ状態からの脱出を求めての一つの提案です。

 

もちろん、私たちはが誤りであることに同意しており、その理由を本記事において詳説しています。そしてヴァンフーザーの選択肢は不可避的に選択肢につながると私たちは考えています。

 

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*1:Cf. 2 Timothy 4:3.

*2:“It is therefore to the Church that we must turn for the true interpretation of the Scripture, for it is in the Church that the gospel is found.” Shape, p. 270.

*3:引用元.

*4:Cf. the Confession of the English Congregation at Geneva (AD 1556), the French Confession of Faith (AD 1559), articles 26-28; the Scottish Confession of Faith (AD 1560), chapters 16 and 18, the Belgic Confession of Faith (1561), articles 27-29, and the Second Helvetic Confession (AD 1566), chapter 17.

*5:John Calvin, Institutes of the Christian Religion, IV.i.10 [hereinafter Institutes].

*6:Covenant, Justification and Pastoral Ministry, p. 12. 

*7:Once again: “When I submit (so long as I agree), the one to whom I submit is me.”

*8:Institutes, as quoted by Mathison in “Solo Scriptura: The Difference a Vowel Makes.”

*9:Cf. Session 6, Canon 9.

*10:We see here again the relevance of the statement, “When I submit (only when I agree), the one to whom I submit is me.”

*11:Shape, pp. 272-273.

*12:“Lost in Interpretation? Truth, Scripture, and Hermeneutics,” JETS 48/1 (March 2005) p. 92.