巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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ソロ・スクリプトゥーラ、ソラ・スクリプトゥーラ、そして解釈的権威の問題(by ブライアン・クロス&ニール・ジュディッシュ)【その3】

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「私は聖書からの証明、あるいは明瞭かつ明白な理由や議論によって、確信させられない限り、何も取り消すことはできないし、取り消そうとも思わない。なぜなら、良心に背いて為すことは、安全でなく賢明でもないからだ。我、ここに立つ。私はこうするより他ない。神よ、我を助けたまえ!(=Hier stehe Ich. Ich kann nicht anders. Got hilffe mir.)」 マルティン・ルター(1483-1547)出典

 

全体の目次はココです。

本稿内の小見出し

 

Bryan Cross & Neal Judisch, Solo Scriptura, Sola Scriptura, and the Question of Interpretive Authority(拙訳) 

 

第3章.ソラ・スクリプトゥラに関するマティソンの説明およびそれがいかなる点でソロ・スクリプトゥーラと違うのか

 

「ソロ・スクリプトゥーラ」とは対照的な立場として、マティソンは「ソラ・スクリプトゥーラ(「聖書のみ」)の立場を擁護しています。

 

ソラ・スクリプトゥーラとは、「①聖書が啓示の唯一の源泉であり、②教理および実践に関する最終的な権威的規範である。また③聖書は教会の中で、そして教会によって解釈されなければならず、さらに、④regula fidei(信仰の規則)に従って解釈される必要がある」という立場のことを指します。*1

 

留意していただきたいのは、マティソンにとり、これらの4つの主張は全部が合わさった形で、ソラ・スクリプトゥーラを構成しているということです。そして彼は「ソラ・スクリプトゥーラは、『聖書が唯一の教会的権威である』という観念ではない』ということを強調しています。この点において、‟ソラ” は ‟ソロ”と違うのだということをマティソンは次のように説明しています。

 

「適切に理解するなら、ソラ・スクリプトゥーラというのは、『聖書が唯一の権威である』という主張ではないという点を押さえるべきです。そこには従属的にして本質においては派生的なその他の真の諸権威が存在しています。しかしながらその中にあって、聖書は唯一の霊感され、生来的に誤りなき規範であり、それゆえに、聖書は唯一の最終的な権威規範です。」*2

 

前述しましたように、彼は「教義的論争は教会会議や公会議によって解決されるべきである」というカルヴァンの文章を引用しつつ、それに同意しています*3。そしてマティソンは使徒たちが教会会議を開き、一同に会したという例(使徒15:6-29)を挙げつつ、この立場を擁護しています。

 

マティソンによると、聖書は教会の中において、そして教会によって解釈を施されなければなりません。

 

「聖書というのは真空の中に存在しているわけではありません。これは使徒的福音という教理的文脈内で教会に与えられています。聖書だけが唯一の最終基準ですが、聖書はそのキリスト教文脈内において教会によって用いられ、解釈され、宣布される必要のある最終基準です。聖書がその適切な文脈内で正しく解釈されない場合、それは基準として適切に機能しなくなります。」*4

 

「それゆえ、聖書に関する真の解釈に際し、私たちは教会に目を向けなければなりません。なぜなら、福音が見い出されるのは教会の中だからです。個々人は、自らの良心が究極的に神の御言葉によって結ばれるべく、聖書を読み、学ぶことができますし、またそうしなければなりません。

 

しかしながら、最終的教会権威(ecclesiastical authority)は教会の個々のメンバーの裁断の内に在しておらず、それは不可能です。、、、つまり、個々人の私的判断は契約共同体の公同的判断に置き換わることはないということです。教会の諸信条は、キリストの契約的みからだの聖徒の交わり(communion of saints)に関する権威的告白です。そして除名というのは、キリストの契約的みからだとしての聖徒の交わりの権威的判断です。」*5

 

しかしソラ・スクリプトゥーラは、「聖書は教会の中において、そして教会によって解釈されなければならない」ということのみを意味しているわけではありません。マティソンによると、ソラ・スクリプトゥーラというのは、聖書が最終権威基準であるということも意味しています。

 

「それゆえに『聖書のみ』という教理はーーそれによって他のすべてが計られるものとしての最終権威基準であるーー規則の‟正典”として機能し得ます。そしてその査定をするのは教会であり、信仰の規則がその計りに関する基本的パラメーターを提供していますが、スタンダード規範であるのは一筋に聖書のみです。」*6

 

ソラ・スクリプトゥーラの教義の重要な点は、それが聖書の無謬性(infallibility)を是認し、教会の無謬性を否認していることにあります。それゆえに、マティソンによると、誤りを犯す可能性のある教会は、聖書によって矯正されるべきであり、またそれは聖書に従属しています。彼は次のように述べています。

 

「まことの道から逸れる傾向にある教会の性向ゆえに、教会には不変にして確実なる真理の基準が必要です。そしてその基準は教会自身ではあり得ず、それは霊感され誤りなき聖書以外、他にはあり得ません。」*7

 

こうしてマティソンは、ソラ・スクリプトゥーラは聖書に対し至高の教会的権威を帰しており、教会および諸信条に対し二次的な教会的権威を帰しています。個々の信者は聖書という主要権威および、教会/諸信条という二次的権威、その両方に従う義務があります。またマティソンによれば、聖書の権威の首位性は、教会に関する純正なる二次的権威を無効にはしません。*8

 

しかしここで困難な問題が生じてきます。教会が個々人よりも高い解釈的権威を持っているのだとしたら、ある個人が、聖書の教えている内容に関し教会の決定に不同意である際、彼/彼女はどうしたらいいのでしょうか。換言しますと、私的判断と、教会の解釈的権威との間の関係は何でしょうか。マティソンはこの問いに関し、フランシス・トゥレーティンの言明に訴えています。

 

Francis Turretin(1623-1687)ジューネーブのイタリア系改革派カルヴァン主義(スコラ哲学派)神学者。Helvetic Consensus(1675)の起草者の一人。

 

「トゥレーティンが説明しているように、教会の公同的な教義裁定は無謬ではなく、聖書と同等の権威を持ってもいませんが、それは教会の可視的交わりに参与するメンバーに対しては確かに真正なる権威を持っています。それでは私的裁定と公同的裁定の間の関係はどのようになっているのでしょうか。個々のクリスチャンが諸信条や告白文の中に見い出される公同的裁定が間違っていると考えている場合、彼/彼女はどうすればいいのでしょうか。トゥレーティンは次のように説明しています。

 

 『それゆえ、何か矯正に値するようななにかを見い出した場合、彼らは教会のみからだをずたずたに引き裂く分派主義者たちのように見境なく無秩序・時をわきまえない様で事を起こしてはなりません。そうではなく、彼らは自らの感じている困難点を教会に打診し、その語、自分自身の私的裁定よりも教会の公的裁定を優先させるか、もしくはーー良心が教会の裁定の中で黙諾できない場合ーーその交わりから離脱するかを決めるべきです。それゆえ、それらは、神の御言葉と調和していることが見い出されない限りーー良心という内なる法廷を拘束することはできません。(実に神の御言葉だけが良心を拘束する力を持っています。)』」*9

 

トゥレーティンによると、個々のクリスチャンは究極的には、ーー個人解釈により示され、彼/彼女の良心が教会が言っていることを受け入れることができない場合を除きーー教会の教えおよび解釈に従うべきだとされています。マティソンは続けてこう言っています。

 

「外なる教会的法廷と、内なる良心の法廷には違いがあります。個々人の良心という内なる法廷は神の御言葉によってのみ拘束され得ますが、それに対し、教会は外にある教会的法廷において教義的権威を持っています。そしてこの権威は教会の信仰における一致を保ちつつ、各種異端の誤りを拒絶すべく付与されています。」*10

 

人の良心を拘束することができる唯一の権威は神の言葉であるとマティソンは論じています。ですから、教会が彼の良心とかみ合わない、ーー彼自身の聖書解釈によって示されたところのーーなにかを教えている場合、その人は教会の教えを拒絶し、自分自身の良心に従うべきだと彼は述べています。

 

さて、ソロ・スクリプトゥーラとソラ・スクリプトゥーラの関するマティソンの区別を私たちは以下のように要約することができるでしょう。

 

ソロ・スクリプトゥーラ ⇒ 教会の解釈権威および、諸信条に関する派生的権威を拒絶している。

ソラ・スクリプトゥーラ ⇒ 教会の解釈権威および、諸信条に関する派生的権威を是認している。(ただしここには例外がある。:彼の良心とかみ合わないーー彼自身の聖書解釈によって示されたところのーーなにかを教会が教えている際、その場合には上記のものを是認しない。)

 

ーつづくー

*1:Keith A. Mathison, The Shape of Sola Scriptura, p. 256.

*2:Shape, p. 260.

*3:“We indeed willingly concede, if any discussion arises over doctrine, that the best and surest remedy is for a synod of true bishops to be convened, where the doctrine at issue may be examined.” As quoted in “Solo Scriptura: The Difference a Vowel Makes.”

*4:Shape, p. 259.

*5:Shape, p. 270-271.

*6:Shape, p. 262.

*7:Shape, p. 264.

*8:To assert that the Bible is the sole infallible authority, and that the Bible is the final and supreme norm, in no way rules out the necessity or reality of other secondary and penultimate authorities. The Church is one such subordinate authority recognized by the early Church and by the Reformers. The Church was established by Jesus Christ Himself and given authority by Him. Jesus gives the Church an authority of “binding and loosing” that is not given to every member of the Church as individuals. . . . It is only within the Church that we find Scripture interpreted rightly, and it is only within the Church that we find the gospel. Shape, pp. 267-268.

*9:Shape, p. 272.

*10:Shape, p. 273.