巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ソロ・スクリプトゥーラ、ソラ・スクリプトゥーラ、そして解釈的権威の問題(by ブライアン・クロス&ニール・ジュディッシュ)【その2】

John Knox Preaching

複雑に入り組んだ16世紀をみる〈眼〉が、いつも真理と憐れみ、その両方で潤ったまなざしであることを主に祈り求む。出典

 

全体の目次はココです。

本稿内の小見出し

 

Bryan Cross & Neal Judisch, Solo Scriptura, Sola Scriptura, and the Question of Interpretive Authority(拙訳) 

 

第2章.ソロ・スクリプトゥーラの説明とその問題点ーーマティソンによる解説

 

著書および関連論文の中で、キース・マティソンは「ソロ・スクリプトゥーラ」と呼ぶところの立場を批判しています。ソロ・スクリプトゥーラというのは、「聖書はただ単に唯一の誤りなき権威であるだけにとどまらず、聖書だけがただ唯一の権威である」という立場のことを指します。*1

 

ソロ・スクリプトゥーラの立場は、「教会の真正にしてしかし従属的権威および ‟信仰の規則”(regula fidei)*2でさえも拒絶している」と彼は説明しています。

 

マティソンはソロ・スクリプトゥーラに関する多くの重要な問題を見事に表示しています。(解釈学的問題、一連の歴史的諸問題、聖書的問題等)。私たちはマティソンのソロ・スクリプトゥーラ批判に実質的に同意しているため、ここではまず手短に、彼のソロ・スクリプトゥーラ批評を要約し、その後、彼のソラ・スクリプトゥーラ解説に焦点を絞っていきたいと思います。

 

ソロ・スクリプトゥーラの解釈学的問題

 

マティソンはソロ・スクリプトゥーラ批判を始めるに当たり、まずは読者に、相反する多種多様な聖書解釈の存在によって引き起こされている「解釈学的カオスおよびアナーキー」の蔓延化の実態を示しています。

 

それではなぜこの「解釈学的カオス」が問題となってくるのでしょうか?マティソンによると、その主要な理由は、クリスチャンの間の分裂や不同意はキリスト者の信頼性や福音を弱体化させるからです。彼は次のように書いています。

 

「ものを考えるクリスチャンなら誰でも、回心後数日もしない内に、互いに相反する数々の聖書解釈が存在している現実に気づくでしょう。大部分において、ラディカルな個人主義を採用した結果、プロテスタント教会内に存在する解釈学的カオスおよびアナーキーを解決する方法は果してあるのでしょうか。ほとんどのプロテスタントはこの問題を十分に真剣に受け取っていないように思われます。

 

 私たちがイエスを信じないこの世に向かい、自分たちは神より与えられた一つの真実にして最終的啓示を所持していると言いながらも、その啓示が実際に何と言っているかという事に関して互いに同意できていないのなら、この世はどうして私たちに耳を傾けるでしょうか。イエスは弟子たちが一つになるよう祈りました(ヨハネ17:21a)。それではなぜ彼はこういった一致のために祈られたのでしょうか。主はその理由を次のように説明しておられます。それは、「そのことによって、あなたがわたしを遣われたことを世が信じるためなのです」(ヨハネ17:21b)。

 

 本来ならこの世は、教会が宣べ伝えるキリストの福音を聞いているべきなのですが、実際にはこの世は、「われこそが真のキリストの教会なり」と主張する人々の打ち鳴らす、対立し矛盾する諸見解による絶え間ないカコフォニー(不快な音)を聞かされ続けています。そしてこれが今日の教会の中で私たちが直面している解釈学的問題の核心です。」*3

 

無数に異なる相反した諸解釈という事実により、この世に対しての福音の光が曇らされています*4。この「対立し矛盾する諸見解による絶え間ないカコフォニー(不快な音)」はクリスチャン自身をも困惑させ、こうして、道であり、真理であり、命であるキリストおよび福音を求め探求している人々を不確かな状態に陥れています。マティソンはこう述べています。

 

「神学的な諸問題に真剣に取り組んだことのあるクリスチャンならほぼ全員、競合する聖書解釈の問題に直面しています、、、各人がそれぞれ、『相手の解釈は間違っている』と主張しているのですが、いかなる究極的権威によって、彼らは通常そのような裁定を下しているのでしょうか?『私はその裁定を聖書の権威に置いています。』と両サイドが言います。しかしながら、それぞれの解釈は相手のそれと互いに排他的関係にあるため、両方の解釈が正しいということはあり得ません。そうなると、一体どちらの解釈が正しいのか、私たちはどのようにして識別することができるのでしょうか。」*5

 

こういった解釈学的カオスの原因は、マティソンによれば、ソロ・スクリプトゥーラに在ります。ソロ・スクリプトゥーラが一連のこの解釈学的カオスを作り出しているのです。なぜなら、これはーー解釈上の論争が決定的に解決されるためのーー解釈的権威の余地をどこにも残していないからです。彼は続けてこう言っています。

 

「この問題に対する現代エヴァンジェリカルの典型的解決策は、答えを求めている探求者に次のように言います。『両サイドの議論を注意深く読み、調べ、そうした上で、どちらの見解が聖書の教えに最も近いかを判断してください。』そしてこれこそがソラ・スクリプトゥーラに他ならないのだと彼は聞かされます。つまり、唯一の権威である聖書に依り、すべての教理を個々人が検証することであると。

 

しかしながら現実問題として起こってくるのは、あるクリスチャンが他のクリスチャンたちの諸解釈を吟味し推し量る際、結局、彼は自分自身の聖書解釈のスタンダードを用いているという事実です。本来ならば、聖書に最終的権威を置くべきなのですが、聖書に関するこういった観念は最終的権威を、それぞれ個々の信者の根拠づけや判断に置いてしまっています。その結果が、今日の福音主義で私たちが目の当たりにしている相対主義、主観主義、そして神学的カオスです。」*6

 

マティソンによると、各自がそれぞれ何が正しい聖書解釈かということを判断し決めていく時、聖書はもはや最終的権威としては機能していません。その反対に、個々人それぞれの根拠づけや判断が至高の権威となり、実質上、無比にして正しい聖書の位置を奪い取っているのが現状です。ただ単に ‟聖書がそれ自身を解釈する” がままにすることにより、こういった結果を避けることができるのでしょうか?この問いに対し、マティソンは『否』と答えています。

 

「聖書に対するあらゆる訴えは、実際には、聖書の諸解釈に対する訴えに他なりません。ですからここで問うことのできる唯一の真の問いは、『それは誰の解釈によるものか?』です。異なる聖書解釈をする人々が一同に会する時、私たちはただ単にテーブルに聖書を置き、『聖書よ、私たちの間に存在する相違を解決してください。』と頼むことはできません。聖書が権威として機能するためには、それは誰かによって読まれ、解釈を施されなければなりません。‟ソロ”・スクリプトゥーラによると、ここでいう『誰か』というのは各個人を意味しています。そのため、最終的には人間の解釈者の数だけ、究極的権威筋が存在するということになります。」*7

 

これは抜本的洞察です。聖書に対するあらゆる訴えは、聖書の諸解釈に対する訴えです。しかし、マティソンによれば、ソロ・スクリプトゥーラの信奉者たちは、聖書に対するすべての訴えが実際には、聖書の‟諸解釈”に対する訴えであるという事実に気づくことができずにいます。そして彼らがこの事実に無自覚であるがゆえに、次のような問題が発生しているとマティソンは指摘しています。

 

「最終的に、聖書解釈は個人主義的なものとなり、相違克服のための解決の見通しはゼロになります。こういった事が起こるのはひとえに、ソロ・スクリプトゥーラの信奉者たちが、聖書をその教会的・伝統的解釈の文脈からもぎ取り、そうした上で、それを相対主義的真空の中に打ち置こうとすることに起因しています。

 

ここでの問題は、異なる聖書解釈があるという事実に対し、クリスチャンたちが『シンプルに御言葉に訴えさえすれば問題は解決する』と教え込まれていることにあります。ソロ・スクリプトゥーラの信奉者たちが気付いていないのは、聖書に対する訴えは、それがいかなるものであれ、聖書の‟解釈”に対する訴えであるという事実であり、彼らがそれに無自覚であるがゆえに問題が生じてくるのです。

 

ですから問われるべき唯一の問いは、‟誰の” 解釈か、です。相反する聖書解釈の問題に直面した際、私たちは聖書をテーブルに置いた上で、あたかもそれがウイジャ盤であるかのように、『聖書よ、われわれの意見の相違を解決したまえ』と頼むことはできません。聖書が権威として機能することが可能となるには、それは誰かによって読まれ、釈義され、解釈を施されることが必須なのです。」*8

 

聖書は解釈されなければならず、また聖書はそれ自身によって自己解釈することはできないため、ーー聖書が権威として機能することが可能とされるためにはーー、誰かが聖書を解釈しなければなりません。そうでなければ、和解しがたい解釈学的論争は、各派が償還ではなく分離するという形で、分裂に終わるしかなくなります。しかしこういった分裂は、キリストの弟子たちが一つとなることによって、御父が御子を遣わされたということをみますようにと祈られた(ヨハネ17章)キリストのみこころに反しています。そしてこういった分裂は、「あなたがたの間で分裂がなく皆が一致するように」と勧告した使徒パウロの命令にも反しています。*9

 

マティソンによると、ソロ・スクリプトゥーラの信奉者たちの持つ誤った前提は、個々のクリスチャンがどういうわけか解釈プロセスをバイパス(無視/回避)した上で、‟ただシンプルに御言葉に訴える” ことによって解釈学的論争を解決することができるという思い込みにあります。

 

しかしマティソンが正しくも述べているように、それでは論争や不和に解決はもたらされません。なぜなら、互いに意見を違わせているグループがそれぞれ実際には、自分自身の聖書解釈に訴えているという赤裸々な事実があるからです。そして解釈学的論争や仲たがいは、対立しているそれぞれのグループが「この問題には解釈学が関わっている」ということを否定し続けている限り、解決は不可能です。ですから解釈の不可避性により、私たちは次のような明白な問いに導かれることになります。「誰の解釈に最終決定権が付与されるのだろう?」

 

この問いに関し、マティソンはストレートに、答えは「教会 “the Church”」であると言い切っています。そして当然のことながら、この点に関する私たちとマティソンとの間の論争の焦点は彼の答え(「教会」)というよりはむしろ、彼がこの語に付与している指示対象および、それがその語の指示対象である基盤にあるわけですが、これについてはまた後ほど触れたいと思います。

 

しかしながらまず私たちは、なぜマティソンが、「ソロ・スクリプトゥーラが聖書的型や例と合致し得ない誤謬であるにとどまらず、それはまた致命的に有害なものである」と主張しているのかを説明しなければならないでしょう。

 

マティソンによれば、クリスチャンが聖書解釈において教会の権威的指針に倣わない時、彼らはさまざまな種類の誤りに陥るだけでなく、彼らのそういった行為により、聖書自体が彼らの権威として機能することをストップしてしまいます。そしてマティソンはこれに関連したさまざまな具体例を挙げています。

 

具体例①ニケア信条の拒絶

 

その一例として、彼は改革派神学者ロバート・レイモンドの「異なる三位一体論を支持するためにニケア信条的な三位一体論の観念を破棄しよう」との呼びかけを取り上げています。このようにしてレイモンドは、キリストがeternally begottenされたというニケア信条の教えを拒絶しています*10。マティソンによると、この事例が指し示すのは、ソロ・スクリプトゥーラの推進者にとり、ニケア信条は実質的権威を持っていないということです。*11

 

具体例②消滅主義

 

マティソンはまた、ソロ・スクリプトゥーラ遂行の実例として、消滅主義(annihilationism)を主唱しているエドワード・ファッジのことに言及しています。ファッジは、聖書だけが「いかなるテーマであれ、疑う余地なき、拘束力をもった教理のためのリソースである*12」と主張しています。消滅主義が非正統であるということはファッジを思いとどまらせる阻止力にはなっていません。この問題に関し、彼は自分の聖書解釈こそが正しいと信じており、この点において教会はこれまでずっと間違ってきたということを信じています。

 

具体例③ハイパー過去主義

 

上の二例に加え、マティソンは、ハイパー過去主義(hyperpreterism)を擁護しているエド・スティーブンズのことを、ソロ・スクリプトゥーラの推進者に特定しています。マティソンはスティーブンズの著述を次のように引用しています。

 

「たとい各種キリスト教信条が明確にそして決定的に過去主義(preterist)の見解に相対していたとしても(実際にはそうではありませんが、、)、それはひどく深刻な問題とはなりません。なぜなら各種信条というのにはそもそも真の権威は付随していないのですから。それらは、今日の最良の諸意見と同様、権威的ではなく、ただその古さゆえに価値があるのです。ですから私たちはこういった信条を、ルター、ツヴィングリ、カルヴァン、ウェストミンスター公会、キャンベル、ラッシュドゥーニー等、一介の人間の書いた著述や意見と同格に取り扱うべきであり、それ以上に深刻に受け取るべきではありません。」*13

 

上記の引用に対し、マティソンは次のようにコメントしています。

 

「権威に関する聖書的基盤を持った諸構造に対する明確な拒絶を私たちはここに見ることができると思います。全地公会議に在席した聖職者たちの下した諸決定を、個々人の言葉と同レベルに引き下ろすことにより、教会で治めていた人々の権威が拒絶されています。これはもちろん民主的なやり方であり、極めてアメリカ的やり方ではあっても、クリスチャンのやり方ではありません。もしもソロ・スクリプトゥーラというこの教理およびそれに付随するすべての事柄が正しいのだとするなら、コルネリウス・ヴァン・ティルが古典的弁証学のことを異端と宣言するのと同様、教会にもアリウス主義のことを異端と宣言するための権利ないしは権威は特にないということになります。そうなりますと、正統と異端というのは必然的に、個人主義的かつ主観的決定に依るもの、ということになっていくでしょう。」*14

 

上に挙げた三例が抱える根本的問題は(マティソンによれば)、個々人が教会およびキリスト教信条の二次的権威を認めていない点にあります。こうして個人を最終的解釈権威に仕立て上げ、教会の解釈的権威を認めないことから生じる結果として、聖書の権威が破壊されているとマティソンは述べ、次のように言っています。

 

「ソロ・スクリプトゥーラの信奉者たちは、個々人の信者の理性および良心が至高なる解釈者であると主張しつつ、これら全てを退けています。しかしここから生み出されるのは解釈学的独我論(solipsism)に他なりません。

 

これにより、聖書の普遍的かつ客観的真理が事実上無益なものにされます。なぜなら聖書が何と教えているのかということを教会が声をそろえて宣言するのではなく、それぞれ個人が、自らの目に正しいと見えるところに従って聖書をてんでバラバラに解釈しているからです。そのため、イエスを信じないこの世の人々は、生ける神の御言葉ではなく、むしろ相反する雑多な声というカコフォニーにさらされるようになっています。」*15

 

ここでのマティソンの論点は何かといいますと、個々人が聖書をその教会的コンテキストから取り外し、自分たち自身を究極的ないしは至高の解釈的権威として取り扱う時、聖書の持つ実際的権威はみごとに破壊されてしまうということです。つまり、聖書というのは、それが教会の中で、そして教会によって解釈を施される時に限り、客観的権威として機能し得るということです。*16

 

相対主義

 

各個人が自分自身の究極的解釈権威として行為をなす時、そこから引き起こされるのはある種の相対主義であるとマティソンは言います。Aさんはある聖句箇所が〇〇という意味だと捉えており、一方のBさんは同じ聖句箇所を△△という意味だと捉えています。しかしこの論争を調停し判定を下す神与の解釈的権威が不在の場合、ここから引き出される実際的結果は何かというと、聖書の意味が結局、‟自分にとっては~~という意味”というものに還元されてしまうことにあります。

 

ここには解釈的権威を持ち、「ここの箇所は~~という意味ではない」と言うことのできる人はいません。解釈的権威が不在の環境においては、他の解釈に対する反論者Aの異論は、ただ「ここの箇所は自分にとっては~~という意味ではない」となるしかありません。

 

そしてこういった回答に対し当然、反論を受けたBさんは、「ここの箇所があなたにとって~~という意味でない、というのは十分理解できます。ですが、私にとってはここはやはり~~という意味なんです。」と答えることでしょう。こういった状況は実際的相対主義の一形態です。「このようにして、ソロ・スクリプトゥーラは、聖書の権威を‟破壊”しているのです」とマティソンは論じています*17

 

ソロ・スクリプトゥーラの抱える歴史的諸問題

 

マティソンによると、ソロ・スクリプトゥーラは解釈学的問題だけでなく、歴史的諸問題を抱えています。

 

第1の問題ーーソロ・スクリプトゥーラは初代教会や中世教会の採っていた立場ではない

 

主要な歴史的問題は何かというと、ソロ・スクリプトゥーラは初代教会や中世教会の採っていた立場ではないということです*18。初期キリスト教徒は、信徒たちだけでなく、長老や司教たちも、自分たちを究極的解釈権威にした上で神学的論争を解決していたわけではありませんでした*19。マティソンによると、歴史的立場では、司教(監督)たちの教会会議が当該事項に関し、それを権威的決定として通知していました。この点に関し、マティソンはジャン・カルヴァンの文章を引用しています。

 

「教理に関し何か論争が持ち上がった際、最良にして最も確実なる治療法は、真正なる司教(監督)の教会会議が開かれ、そこにおいて論争になっている教理が吟味・検証されることである、という事を我々は進んで認めたいと思う。」*20

 

マティソンは、使徒たちが論争を解決すべく教会会議を開いていた実例(使徒15:6-29)を挙げつつ、この立場を擁護しています。

 

第2の問題ーー聖書の正典性に関し、確実性が失われる

 

ソロ・スクリプトゥーラによって引き起こされる今一つの歴史的問題は、仮に教会に何ら権威がなかったとすると、聖書の正典性に関し私たちにはいかなる確実性も持てなくなる、という点にあります*21。それゆえ、マティソンによると、ソロ・スクリプトゥーラは、ソロ・スクリプトゥーラという立場において「根本的自己矛盾」に陥ることになります。*22

 

つまり、ソロ・スクリプトゥーラの支持者たちは、自らの唯一の権威として聖書に訴えているのですが、そこに教会の権威が不在であるために、彼らはどの書が聖書の正典に属しているのか確実に知ることができなくなってしまうのです。「その意味で」とマティソンは言います。「ソロ・スクリプトゥーラの支持者たちは、聖書の正典に疑問を投げかける現代版マルキオン主義者たちに対して十分に応答することができません。なぜなら、彼らは正典を確立ないしは確証するべく、いかなる権威にも訴えることができないからです。」*23

 

第3の問題ーー分裂の増殖化

 

第三番目の歴史的問題は、分裂の増殖化であり、マティソンはこの主要因をソロ・スクリプトゥーラに帰し、次のように書いています。

 

「キリスト教会は今日、文字通り、何千何万という教団教派に分裂しており、日々、何百という分派が新たに発生しているのが現状です。そしてこういった不和や分裂の責めの大部分は、ソロ・スクリプトゥーラという教理にあります。

 

各個人の良心が、その個人にとっての最終権威となる時、見解の相違は当然起こってきます。そして人が自分自身の個人諸解釈に対し強く‟確信”を持ち始めると、彼らは自分たちと同じ解釈をしていない、誤っている(と彼らの信じる)その他の信者たちから分離しようとします。今日、何百万という個々の信者や諸教会が、何千という互いに矛盾・相反する諸教理に対し各自が‟確信”を持った上で、それぞれが皆、言うのです。『私たちは自分たちの信条をただ一途に聖書の権威のみに置いています』と。

 

ソロ・スクリプトゥーラはこういった一連の分裂やセクト主義に深刻な影響を及ぼしているだけではありません。それはまた、解決の道をなんら提供していないのです。ソロ・スクリプトゥーラというのは、譬えて言えば、ある国家に憲法はあるのだけれども、その憲法を解釈するための法廷がないような状態だと言っていいでしょう。そしてそのどちらもカオスを引き起こします。

 

しかし聖書だけを使っていても、それは私たちに‟聖書”が何であるのか、もしくはそれが何を意味するのかを教えることはできません。それは解釈の相違という問題を解決することができず、その結果、分裂と分派はさらにひどいものへと悪化していきます。神学的相違の調停や解決には、キリスト教に関する命題的な教理内容を権威的に定義することのできる可能性を要求し、それは権威を持った教会的‟最高裁判所”の可能性を要求します。しかしながら、ソロ・スクリプトゥーラの枠組みの中では、そのどちらの可能性も許されていませんので、解決のための可能性は皆無です。」*24

 

カトリック教徒として、私たちはキリストの教会が分裂するということを信じていません。なぜなら、一致というのはニケア信条で明記されている、教会の4つの重要な印の一つであり、キリストが分裂し裂けることがあり得ないように、教会であるキリストの御体は分裂し得ないということを私たちは信じているからです。ですから永続する分裂というのはそれがどんなものであれ、教会「からの」分裂に関与しています。*25

 

しかしマティソンが言っているように確かに非カトリックであるクリスチャンたちは何千何万という教団教派に分裂しており、こういった分裂は主として、各個人が自らを、自分自身の最終的解釈権威として取り扱っている結果として生じてくるものです。

 

第4の問題ーー歴史的キリスト教信仰の破壊

 

ソロ・スクリプトゥーラから生じてくる第四番目の歴史的問題は、(マティソンによると)教会的権威を否定することにより、ソロ・スクリプトゥーラが歴史的キリスト教信仰を破壊していることにあります。教会史の特定の時期に、ある諸教理が正統且つ肝要であるということが決定的に決定され、その他の諸教理が異端であると決定的に決定されましたが、それらはこの教会的権威によってなされました。教会の権威を拒絶することにより、ソロ・スクリプトゥーラは、全地公会議や諸信条の権威を、個々のクリスチャンの意見と同じレベルに減少化させ、それゆえに、歴史を通し私たちに継承されてきた客観的キリスト教の可能性を抹消しています。*26

 

この意味において、教会の権威を拒絶することは、キリスト教にとって破壊的諸結果をもたらすことになるとマティソンは述べています。なぜなら、それは諸信条を排除し、それゆえに客観的リアリティーとしての歴史的キリスト教信仰を排除しているからです。

 

「もしも公会議での諸信条が何ら真の権威を持っていないのなら、ある人々がーー三位一体論やキリストの神性を含めたーーそういった諸信条の教理のいくつか、あるいは全てを拒絶しようと決心するのもそう不可思議なことではありません。もしある個人が『三位一体論というのは非聖書的な教理だ』と判断したのなら、それは彼にとっては虚偽の教理だということになります。彼自身の聖書解釈を除いては、彼を矯正する権威はどこにも存在しません。

 

そしてまさにこれがゆえにソロ・スクリプトゥーラは不可避的にラディカル相対主義および主観性に陥っていくのです。各自が『基督教における主要教理が何であるか』というのを決め、そうした上で各自がゼロから自分自身の信条を作り出し、こうして正統や異端といった概念は完全に廃れたものとなっていきます。

 

そしてキリスト教自体の概念が廃れたものになります。なぜならそれはもはやなんら意味ある客観的定義を持たないからです。ソロ・スクリプトゥーラには、聖書の命題的な教義内容が権威的に定義されるための手段を全く持っていないため、そういった命題的内容は各個人によって主観的に定義されるより他に法がありません。Aさんは三位一体論を必要不可欠と捉えている一方、Bさんはそれを、キリスト教内に持ち込まれた異教思想*27だと考えているかもしれません。 

 

キリスト教における命題的な教義内容に関し権威的に定義された言明なしには、いかなる個人であれ彼の見解のことを、決定的に、そして最終的に誤りと宣言することはできません。ソロ・スクリプトゥーラはこの可能性を破壊しており、それゆえにキリスト教が意味ある観念である可能性を破壊しています。そしてソロ・スクリプトゥーラはキリスト教を相対主義および主観性に還元させることにより、キリスト教を非合理主義、そして究極的にナンセンスなものへと帰着させています。」*28

 

ここでもまた、マティソンは全く妥当なことを述べています。自分自身を教会以上に強大な解釈的権威に据え置くことによって、教会の権威を否定することは、(まさしくマティソンが挙げた理由により)、キリスト教信仰を破壊する行為に等しいのです。

 

こうして、信仰内容は、銀貨の海の中に隠された一個の銀貨のようになります。つまり、隠されたその一個の銀貨を、競合する無数の神学的諸見解から選り分け、識別する原則的方法がどこにもありません。そして善き牧者であるキリストがご自身の羊たちに受け継がせたのは本来このような状況ではなかったはずです。しかし問題は、信仰内容が澱み、不明瞭になるだけにとどまりません。マティソンは続けて言います。

 

「ソロ・スクリプトゥーラは、自分自身がみずからの〈法律〉と化した個々の信者の自律という現象を引き起こしています。聖書は個人の良心および理性に従って解釈されています。そして何が聖書的であり、何が非聖書的であるかに関する個々人の意見という最終的基準に照らして万事が評価され裁定されています。ソロ・スクリプトゥーラによると、聖書ではなく、結局、個人が実際の最終権威なのです。これは反逆に満ちた自律であり、神の大権に対するはく奪行為です。

 

ソロ・スクリプトゥーラの信奉者たちは、‟聖書のみ”というのが‟私のみ(me alone)”という意味ではないということを理解していません。聖書の真の意味が何であるかをそれぞれ個々の信者が自分勝手に決めていいというような事を聖書は全く言っていません。」*29

 

教会の解釈的権威を拒絶することにより、個々人は自分自身を自律した存在に仕立て上げています。しかし本人自体は、自分のことを自律的、反逆的などとは思っていないかもしれませんし、おそらく彼は「自分は神に従っている」、「聖書に記されている〔彼自身の解釈による〕神の言葉に従っている」と思っていることでしょう。しかし神によって立てられた教会の解釈的権威を無視することにより、個々人は、キリストが教会に委託されたところの権威を侵害し、不当に奪っています。それがゆえに、マティソンによると、最終的な解釈的権威をわが物にすることにより、個々人は「反逆的自律」の咎を負っているのです。*30

 

ソロ・スクリプトゥーラは非聖書的である

 

マティソンは、ソロ・スクリプトゥーラの立場は非聖書的であると論じ、次のように言っています。

 

「聖書自体が‟ソロ”スクリプトゥーラというものを教えていません。キリストはご自身の教会をお建てになりましたが、その教会には権威の構造があり、キリストはご自身の教会に、御言葉の務めのために特別に任命された人々をお与えになっています(使徒6:2-4)。なにか論争が持ち上がった際、使徒たちは個々の信者たちに、『さあ、家に帰って各自、どちら側が正しいのか判断してください』とは指示しませんでした。彼らは教会会議を召集したのです(使徒15:6-29)。」*31

 

聖書各書は教会の所有物であるということを聖書自体が示しており、聖書の解釈は全体としての、共同体としての教会に属しています。特に、それは特別に賜物がある人々に委託されてきました、、肝要な点は、キリストが権威の構造をもったご自身の教会をお建てになり、それに従う必要があるということです(ヘブル13:7)。聖書に関する現代エヴァンジェリカルの教理は、御言葉の務めをしている人々および全体としての教会に付与されている真の権威を実質上破壊しています。」*32

 

マティソンによると、聖書が教会に属しており、教会の中そして教会によって解釈を施されるべきです。注目すべきことにここで彼は不可視的な教会のことを言ってはいません。彼が言っているのは、「キリストは可視的な教会をお建てになり、その教会には、聖書を講解し解釈する責務を委託された叙聖(按手)された人々で構成されている可視的な権威構造があるということを聖書は教えている」という事です。またマティソンは、「そういった人々に従わなければならないと聖書は教えている」と言っています。*33

 

そして、ソロ・スクリプトゥーラは教会の解釈的権威を否定しているため、ソロ・スクリプトゥーラは結局聖書に相反していると彼は結論づけています。

 

ー続くー

*1:Solo Scriptura: The Difference a Vowel Makes,” pp. 25-29, 16 Modern Reformation Mar./Apr. 2007. Cf. The Shape of Sola Scriptura, pp. 237-253 (Canon Press, 2001) [hereinafter Shape]. 

*2:“Solo Scriptura: The Difference a Vowel Makes.

*3:Shape, pp. 274-275.

*4:In his letter of March 10, 2009, Pope Benedict XVI said something quite similar. He wrote:

Leading men and women to God, to the God who speaks in the Bible: this is the supreme and fundamental priority of the Church and of the Successor of Peter at the present time. A logical consequence of this is that we must have at heart the unity of all believers. Their disunity, their disagreement among themselves, calls into question the credibility of their talk of God. Hence the effort to promote a common witness by Christians to their faith – ecumenism – is part of the supreme priority.

Readers are also encouraged to examine the exposition of this theme in Pope John Paul II’s encyclical, Ut Unum Sint.

*5:Shape, pp. 239-240.

*6:Shape, p. 240. On the following page Mathison writes, “Unless one can escape the effects of sin, ignorance, and all previous learning, one cannot read the Scriptures without some bias and blind spots.” Here he is decrying what he describes as the “naïve belief in the ability to escape one’s own noetic and spiritual limitations” that undergirds the solo scriptura orientation. Shape, p. 241. 

*7:Solo Scriptura: The Difference a Vowel Makes,” pp. 25-29. Note that we, as well as Mathison, nevertheless accept that scriptura scripturae interpres (Scripture interprets Scripture), in the sense that the whole and each of the parts of Scripture function in such a way as to illuminate the meaning of one another. Dei Verbum, one of the documents of Vatican II, teaches; 

"Holy Scripture must be read and interpreted in the sacred spirit in which it was written, no less serious attention must be given to the content and unity of the whole of Scripture if the meaning of the sacred texts is to be correctly worked out. The living tradition of the whole Church must be taken into account along with the harmony which exists between elements of the faith. It is the task of exegetes to work according to these rules toward a better understanding and explanation of the meaning of Sacred Scripture, so that through preparatory study the judgment of the Church may mature. For all of what has been said about the way of interpreting Scripture is subject finally to the judgment of the Church, which carries out the divine commission and ministry of guarding and interpreting the word of God."  Dei Verbum, 12.

*8:Shape, p. 246. We do not agree with Mathison that solo scriptura necessarily entails relativism. The person holding solo scriptura may believe firmly that his own interpretation is objectively true, and that everyone who disagrees with his interpretation is wrong. But we agree with Mathison that there is some truth to the connection between solo scriptura and relativism. That is because it is difficult in our present fluid culture to sustain the notion that anyone who disagrees with one’s own interpretation is wrong. The continual encounter with those of obvious intelligence and sincerity revering the very same book, and yet interpreting it differently from oneself, makes some form of relativism attractive without a principled basis for believing that one’s own interpretation is the authorized interpretation. So in this way, solo scriptura lends itself to a ‘practical relativism,’ which easily slides into an unqualified relativism. 

*9:1 Corinthians 1:10. Someone might object that divisions are good, since St. Paul says, “For there must also be factions among you, in order that those who are approved may have become evident among you.” (1 Cor. 11:19.) But St. Paul is not there praising division among Christians. He is teaching that division always entails schism from, not schism within.

*10:Shape, p. 241. See also Paul Helm’s 2001 article “Of God, and the Holy Trinity: A Response to Dr. Beckwith.”

*11: Reymond, for his part, will respond that the Nicene Creed does have “real authority,” but that the authority it possesses is derivative and contingent upon its fidelity to Scripture; and since in his estimation it fails to conform to Scripture on this point of Trinitarian doctrine, he wishes to see it rectified “in light of the Biblical teaching.” The confluence between Mathison’s and Reymond’s orientations in this instance is quite striking. Striking, too, is the appearance that for Mathison the “real authority” of the Nicene Creed entails its irreformability: for Mathison does not criticize the theological or exegetical argumentation upon which Reymond relies to justify his repudiation of the “Nicene Trinitarian Concept,” but contents himself merely to point out Reymond’s departure from it, leaving us to conclude that his departure from the Nicene Creed is ipso facto a mistake.  Yet if the “real authority” of Nicaea entails the irreformability of its Creed — as it certainly appears to here for Mathison, at least “in practice” — then it can be no argument against the “infallibility” of Nicaea or any other Council that the dogmatic decrees promulgated in them are likewise “irreformable.” Why, then, are we meant to believe that the irreformability of (infallible) Catholic dogma is objectionable, whereas the irreformability of the “real but subservient authority” of the Councils Protestants accept fails to infringe upon the ultimate authority of Scripture? 訳者注:

*12:Quoted in Shape, p. 242. 

*13:Shape, p. 243. 

*14:Shape, pp. 243-244.

*15:Shape, p. 246.

*16:He writes: 

"The doctrine of solo scriptura, despite its claims to uniquely preserve the authority of the Word of God, destroys that authority by making the meaning of Scripture dependent upon the judgment of each individual. Rather than the Word of God being the one final court of appeal, the court of appeal becomes the multiplied minds of each believer. One is persuaded that Calvinism is more biblical. The other is persuaded that dispensationalism is more biblical. And by what standard does each decide? The standard is each individual’s opinion of what is biblical. The standard is necessarily individualistic, and therefore the standard is necessarily relativistic." Shape, pp. 246-247.

*17:Someone might claim that “the science of exegesis” will overcome this problem. But the evidence does not support that claim. Protestant theologians in many different traditions have been using exegetical methods to support their particular interpretations of Scripture for almost five hundred years. And yet there has been little to no convergence of these various traditions and denominations. Instead new theological positions and traditions have arisen, positions such as dispensationalism, Pentecostalism, open theism, federal vision, etc., each defending itself by the very exegetical methods that are supposed to bring and preserve all Christians in unity. The continued diversification and variegation within Protestantism indicates that exegesis is not capable of establishing or preserving unity among Christians who believe in the inspiration and authority of Scripture. Exegesis has shown itself to be used more within a tradition to support the theological position held by those in that tradition. So the appeal to exegesis only pushes back the question: Whose exegesis? Lutheran exegesis? Calvinist exegesis? Methodist, Anglican, Baptist, Pentecostal, (etc.)? And we have to ask ourselves how much more time would be necessary to falsify the claim that exegesis is capable of unifying all Christians.

*18:Mathison writes, “It should go without saying that solo scriptura was not the doctrine of the early Church or of the medieval Church. However, most proponents of solo scriptura would not be bothered in the least by this fact because they are not concerned to maintain any continuity with the teaching of the early Church.” Shape, p. 247.

*19:The first recorded use of the term ‘layman’ in the early Church Fathers is found in St. Clement’s epistle to the Church at Corinth, written around AD 96.

*20:Quoted in “Solo Scriptura: The Difference a Vowel Makes.”

*21:“Solo Scriptura: The Difference a Vowel Makes.”

*22:Shape, pp. 248-249.

*23:“Solo Scriptura: The Difference a Vowel Makes.”

*24:Shape, pp. 250-251. 

*25:In 1 Corinthians 1:13 St. Paul asks, “Is Christ divided?” The obvious answer is “no.” And that answer must remain the same forever.

*26:Mathison writes: 

"The doctrine of solo scriptura also reduces the essential doctrines of the Christian faith to no more than opinion by denying any real authority to the ecumenical creeds of the Church. We must note that if the ecumenical creeds are no more authoritative than the opinions of any individual Christian, as adherents of solo scriptura must say if they are to remain consistent, then the Nicene doctrine of the Trinity and the Chalcedonian doctrine of Christ are no more authoritative than the doctrinal ideas of any opinionated Christian. The doctrine of the Trinity and deity of Christ become as open to debate as the doctrine of exclusive psalmody in worship.It is extremely important to understand the importance of this point. If the adherents of solo scripturaare correct, then there are no real objective doctrinal boundaries within Christianity. Each individual Christian is responsible to search the Scripture (even though he can’t be told with any certainty what books constitute Scripture) and judge for himself and by himself what is and is not scriptural doctrine. In other words, each individual is responsible for establishing his or her own doctrinal boundaries-–his or her own creed." Shape, p. 249.

*27:訳者注:三位一体論を「キリスト教内に持ち込まれた異教思想」だと教えているヘブル的ルーツ運動関連団体は現在、数多く存在します。例:Yahweh's Assembly in Yahshua - The Truth About the Trinity/The PAGAN TRINITY EXPOSED - Indisputable FACTS the Trinity IS False! - YouTube

*28:Shape, p. 250. 

*29:Shape, p. 252.

*30:Shape, p. 252.

*31:Solo Scriptura: The Difference a Vowel Makes,” pp. 25-29.

*32:Shape, p. 245.

*33:Mathison’s claim here is very much in agreement with that of the Catholic Church. The Catholic understanding of the relation between Scripture and the Church treats Scripture as a treasure entrusted by Christ to the Church, properly known and understood only within the bosom of the Church as explicated by her divinely appointed shepherds. Catholics come to Scripture through the guidance of Holy mother Church.