巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

教団教派を「選ぶ」ことについて

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出典

 

目次

 

選びか導きか

 

人はどのようにして自分の属する教団教派(denominations)を選ぶのでしょうか。あるいは、教団教派の選択に関しても、そこには目に見えない神の先行的選びと導きがあるのでしょうか。みなさんはどう思われますか?私はこの二つは何らかの形で互いに織り合っているのではないかと考えています。

 

例えば、私はソウル留学中に保守的な長老派教会で洗礼を受けましたが、カルヴァン主義の教理を綿密に調べ納得した上でその教会に行ったわけではありませんでした。

 

ただ当時自分のいた大学寮に、その教会に通っている韓国系のアルゼンチン人学生がいて、彼女に誘われたからその教会に行ったみたというのが私が長老派教会を「選んだ」理由です。

 

留学中の思い出

 

教団教派を「選ぶ」ということに関し、一つ興味深い思い出があります。これも韓国留学中のことですが、私はある時、誰かのつてで慶州(キョンジュ)という都市にある「地方召会」という集まりに誘われ、そこに集う信者の方々と交わる機会がありました。

 

その当時私はクリスチャンになったばかりで、大学卒業後、どこかの神学校に行って本格的に聖書を学びたいと思っていました。するとそれを聞いた召会の年配女性の方が強く反対され、「いや、教団神学校に行くのはおよしなさい。百害あって一利なしですよ。というのもね、そういう所に行くと、各教団の特殊神学を教えこまれ、かえって聖書のシンプルな真理が見えなくなりますから。」と諭されました。

 

その時私は「まあ、確かにそうかもねぇ」と漠然と思ったのですが、その後、彼女の家やその他の召会の方々の家に招待される中で、なんとなく腑に落ちないものを感じました。というのも、どこの家にお邪魔しても、そこにはウィットネス・リー*1という著者の書いた緑色の「ライフ・スタディー」全集がずらりと書棚に並んでおり、素人目にみても、この信仰グループが、ウィットネス・リーという一個人の書いた信仰著作の内容を中心に結合していることが明らかだったからです。

 

 

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韓国語訳のウィットネス・リー「ライフ・スタディー全集」북코아 - 구약 라이프스타디_출애굽기 IV (윗트니스 리/한국복음서원/1990)

 

しかしそこの召会のみなさんは皆とても親切な方々で、指導者の方も「ソウルに戻ったら、そこで2年コースのライフ・スタディー訓練をぜひお受けなさい」と熱心に勧めてくださいましたが、私は「一個人のカリスマ性でまとまっている信仰グループというのはやっぱりちょっと基盤が脆いんじゃないかな?」という疑問が解けず、ていねいにお断りしました。

 

セクト主義/教派主義

 

でもそこで私が見聞きし体験したものは、一つの〈原体験〉とも言えるものになりました。というのも、召会の人々だけでなく、プロテスタント教団教派という無数の孤島・群島の中にあって、「教派という区画化自体がおかしい。なにかが根本的に間違っている」という問題意識をもった個々人やグループがあちこちに存在することを知ったからです。

 

これらの人々は皆、キリスト教界のセクト主義/教派主義の非を悟り、どうにかしてそこからの解決口を見い出そうと理論・実践レベルで努力しておられました。事実、ウィットネス・リーも、「ウォッチマン・ニーの教えを通じ、教派主義(denominationalism)の非聖書性を悟るようになった」と記してあります*2

 

そして私は霊的旅路の先々で出会う、こういった方々の共通した願い(「キリストにあって一つになる」)に呼応し、それぞれのグループの見解に耳を傾けました。ピーター・ライトハート師がいみじくもおっしゃっているように、確かに教派主義というのは「分裂の制度化」に他ならず、それ自体がすでにキリストのみこころからの逸脱であるように思われました。

 

しかしそれと同時進行する形で、私は自分も含め、プロテスタント内のセクト主義/教派主義をなんとか乗り越えようとする個々人やグループが直面する一つのパラドックスをも目の当たりにするようになりました。

 

パラドックス

 

「特定の教団教派にとらわれない」一人(or 複数の)キリスト者が現れます。彼はただ一途に、教派的カオスの中で彷徨う羊たちのために、純粋なみことばの乳(1ペテロ2:2)で彼らを養おうとします。そうすると次第に、彼の周りに一つの群れが形成されていくようになります。そして彼が正しいと信じるひとそろいの聖書解釈がいつしか、その群れの ‟標準” あるいは ‟基本教義” になっていきます。

 

そして無数に存在する解釈オプションの中でそういった教義組み合わせになっているのは彼のグループを除いては他にほとんど見あたりません。そうなりますと、そのグループの中に入った羊は、(その群れの引率者の願いに反し)、彼という個人の解釈に信頼し、信頼するだけでなく、次第に彼の個人諸解釈に依存していくようになります

 

こうして、その群れの引率者の願いに反し、気がつくと彼という個人が一つの ‟教派”と化し、(規模の大小に拘らず)、結局は彼個人が〈教皇〉、〈枢機卿〉、〈中央協議会〉等の役割を担って(<担わされて)いくようになります。

 

このジレンマを回避しようと、牧師制度、教会におけるヒエラルキー制度を撤廃しようとする個人やグループも現れました。しかしみことばによって羊を「牧する」という行為自体に、神よりの権威が付与されるために、いかに努力しても、ある種の形態の個人 ‟教派” 化のジレンマがつきまといます。

 

こうしてセクト主義/教派主義の非を乗り越えようとする彼自体が、意図せずーー本当に意図せずしてーー個人セクトとなり、個人教派になるという悲劇が生じてきます。

 

それではどこの教団教派を選べばいいのだろう?

 

そのため、‟教派” というのが、ーー教団単位であれ、個人単位であれーーどちらにしても結局、付随せざるを得ないものなのだとしたら、個人 ‟教派” よりはある程度の数を持った組織的 ‟教派” の方がやはり安全なのではないかと考えるようになりました。

 

さて、それではどのようにして属するにふさわしい「正しい」教派を選ぶことができるのでしょうか。正しい教派を選ぶためには、まず何が正しいのかを判断するための「基準」がなければなりません。

 

それでは何が正しいのかを判断するための「基準」ーーこれを私たちはどのようにして得ることができるのでしょうか。プロテスタントの場合ですと、ここで聖書解釈が肝要になってきます。なぜなら私たちは皆、原則として「聖書のみ」を土台にしており、そうした上で現在4万以上の諸教派に分裂しているからです。

 

ですから、「正しい」教団教派を選ぶべく、まず私たちは何をもってある教団教派が「正しく」別の教団教派が「正しくない」のかを判断するための基準をゲットするための「正しい」聖書の読み方を取得しなければならないということになると思います。

 

数か月前に、私はD・A・カーソンの「聖句ワード・スタディー」に関する詳細論文を翻訳しました。いや、それだけでなく、このブログの翻訳記事の大部分が聖書解釈の方法論に当てられています。

 

なぜ私がこれほどまでに聖書解釈の方法論や原語の学びや認識論に心血を注いできたかといいますと、それはひとえに「正しい」聖書の読み方を知りたかったからです。そしてどうしたら誤解釈を回避することができるのか、どのようにしたら間違った教理体系によって信仰人生がめちゃくちゃになることから守られるのか、それを知り、そして正しい教師、正しい群れ、正しい教団教派の中で信仰の旅路を歩んでいきたいと願ってきたからです。

 

しかしそれを知ろうと努力すればするほど、私はますます「正しい」教団教派を選ぶことの困難さを覚えるようになっていきました。というのも、各教団教派には、ギリシャ語、ヘブル語、アラム語等の原語知識、教会史、釈義に通じた非常に有能な学者や教師たちがいて、その人たちでさえ、(しかも基本教理においてさえ)互いに同意することができていないのです

 

そうであるなら、私のような一信徒に果たして複数ある諸解釈の中の「正しい」解釈を判断することなど可能なのでしょうか?そもそも神様は一信徒にこれだけのヘビーな解釈責務を負わせているのでしょうか。

 

努力すればするほど私はますます教団教派を選ぶことにおいて自信がなくなっていきました。どのグループを選択したにしても、それを「正しい」教派だと判断した自分の認識や計りがどこかで不正確且つ間違っているように思えてなりませんでした。それだけでなくそのうち、自分が正統なのか異端なのかでさえもよく分からなくなっていきました。

 

神によって立てられた権威に信頼することによって得られる助け

 

でもそれらすべての過程の中で私は次のことを痛感するようになっていきました。それは、①神は混乱の神ではなく平和の神であること(1コリ14:33)、そして②神は、羊が負い切れないような重荷を負わせる方ではなく、むしろ軛を負いやすくすべく外的介助を与えてくださる方であるに違いない、ということでした。

 

神様はこの地上に教会と家庭という制度を造ってくださり、それぞれの場所に権威を付与してくださっています。教会における権威(教権)および家庭における権威(男性かしら性)ということを黙想しながら私は、聖書解釈の分野においても、妻は信者である夫の解釈や判断に信頼することが主によって許されているのではないだろうかと思うようになりました。

 

もちろんこれは、自分で何も調べることなくただ夫の解釈を盲信するという意味ではなく、自分でも最善を尽くすけれども、最終的な認識論的なぐさめは、「主は家庭という制度の中で男性かしら性を用い、時に適った ‟正しい” あり方に私を導き、そこに憩わせてくださる」という信頼ではないかと思うようになりました。

 

実際、主のお立てになった男性かしら性を通した導きに対する主への信頼ゆえに、私は不可知論や懐疑主義の誘惑から守られていると思います。

 

おわりに

 

最後にまた冒頭の問いに戻ります。「人はどのようにして自分の属する教団教派を選ぶのか?」私は懸命なる努力をする中で、もはや自分には「正しい」教派を選ぶ力も識別力も自信もないという地点にまで追い詰められました。

 

しかし神の善(goodness)に対する信頼は自分の中で揺るがず、それゆえ、教会選びに関しても主はご自身の羊を放置せず、外的介助を与えてくださると信じ続けました。

 

さまざまな解釈の内どれが「正しい」のか分からず途方に暮れることばかりです。でも一つはっきりしているのは、妻として、一信仰者として、家庭の中に立てられた夫の権威に従うことは「正しいこと」であり、神に喜ばれることであり、それは信仰人生や生活のあらゆる面において安定と平和と良い実をもたらすということです。

 

おそらくですが、これらすべての過程を通し、主は、教会の問題に関しても、究極的な意味での解決の鍵は、自分個人の努力や知性や霊性にあるのではなく、ご自身の立てられた秩序を通した上よりの導き(<選び)にあるということを私に体得させようとしておられるのではないかと思います。

 

読んでくださってありがとうございました。