巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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「地上楽園のユートピア」という虚像ーー進歩の理論と歴史の終末(ニコライ・ベルジャーエフ著『歴史の意味』より)

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Soviet poster from 1920. Photograph: Wayland Rudd Archive/Yevgeniy Fiks/Flint(出典

 

目次

小見出しはブログ管理人の作成によるものです。

進歩の理論

 

進歩の観念は歴史哲学において中心的意義を占める観念である。それは18世紀の初頭からはじまり、全19世紀を通じて、ヨーロッパ人の世界観に決定的に作用してきた。

 

しかしまず指摘しておきたいことは、この観念は「進歩した」人間意識の最近の時期の産物として、きわめて新しいものであるにもかかわらず、究極においては、すべての真理のように、古くそして深い宗教的根源を持っていることである。

 

そして最も深い歴史的生命と本質的な関連を持っているかぎり、それはつねにその古い根源をもあきらかにしているところがある。進歩の観念は、すでにわれわれが十分に証明したように、進化の観念と混同されてはならない。進歩の観念は、歴史的過程の目標を設定し、この目標の光に照らして歴史的過程の意味をわれわれが発見することを要請する。

 

私はさらにつけ加えて言いたい。進歩の観念は、歴史の中に存在していないような、いかなる時代、過去・現在・未来のいかなる時期にも結びつけられず、むしろ時代を超えているような目標を要請し、そしてまさしくそのゆえに、進歩の観念は歴史的過程の中にあるものを有意味的に承認することができるのである。

 

この観念の古い根源は、宗教的・メシヤ的なる根源である。それはメシヤ的解決の観念、歴史の運命の理念、来るべきメシヤの観念、イスラエルの運命のーーそれはいまやあらゆる民族の運命となったーー地上的解決の観念という古いユダヤ主義的観念である。

 

それは神の国の到来の観念、いつの日か実現すべき完全の国、真理と正義の国の到来という観念である。このメシヤ的・千福年説的観念が進歩の理論において世俗化されている。すなわち、それはそのあきらかに宗教的な性格を失い、現世的な、どこまでも反宗教的な性格を取るのである。

 

進歩の理論は、多くのひとびとにとって一個の宗教を意味した。すなわち、19世紀のひとびとは進歩の宗教に帰依したのであり、それはかれらがもはや信じがたくなったキリスト教の代用品となったと言っても言い過ぎではない。この宗教的要請をもった観念に分析を加えるのは、その根柢に存在する内的矛盾を露呈するためである。

 

人間意識の最近の時期にいたって、進歩の信仰は疑惑をまぬがれなくなった。進歩のもろもろの偶像は押し倒され、多くの批判のまととなった。ひとびとが進歩の理論でつきあたる根本的矛盾、私の歴史形而上学によって照らしだされた根本的矛盾は、時間の問題ーー過去・現在・未来ーーに対するこの理論の誤った関係にある。

 

進歩の理論は、過去と現在を犠牲にして未来を神化するのであり、科学的見地からも哲学的ないし道徳的見地からもこれを正当化することはできない。進歩の理論は、一個の宗教的帰依、一個の信仰を示す。なぜなら、われわれは進歩についての科学的・実証的な理論を基礎づけることができず、また、科学的・実証的な仕方ではせいぜい進化論までしか基礎づけることができないのであって、進歩の理論はしたがってたんに信仰の対象、信頼の対象たりうるのみだからである。

 

進歩の理論は「見えざるものについての告知」であり、来らんとするものの告知であり、「その信仰をいだくものへの福音」である。ところが、進歩の理論に属しているこの信仰、この信頼をもってしては、われわれは歴史形而上学の悲劇的な問題、時間の問題を解くことができない。

 

私はすでに時間の問題の中心的な歴史形而上学的意義を解明し、時間の堕ちた本性ーーそれは過去と未来に解体し、捉えるによしなく、あらゆる実在がそこでは砕かれ、零(こぼ)れおち、引き裂かれているーーをあきらかにしようと試みた。進歩の理論は、この分裂の支配をまぬがれることができない。

 

進歩の理論は、人間の世界歴史の諸課題が未来において解決されるであろうということ、人類の歴史において、人類の運命において、高次の完全な状態が到達されるような瞬間が到来するであろうということ、そしてこの高次の完全な状態において、人類の歴史の運命をみたしているあらゆる矛盾が解消され、あらゆる問題が解決されるだろうということを、前提とする。これはコントとヘーゲルとスペンサーとマルクスの信仰であった。

 

このような仮定は正しいであろうか?かかるものを信ずべきいかなる根拠をわれわれは持っているであろうか?また、われわれの心を惹くものすらそこにあるであろうか?なぜそれがわれわれの熱狂を呼び起こすのであろうか?なぜわれわれはそれを道徳的に許容し、なぜかかる希望がわれわれにとって悦ばしい希望となりうるのか?

 

根拠たりうべきものはおよそないのである。ーーもし進歩の理論の中に無意識的に、世界歴史の解決に対するある種の宗教的期待があって、それが暗黙に内在しているのでなければ。ーーそれは世界歴史の悲劇が終りを告げるであろうという希望である。

 

この悲劇の解決が進歩の目標なのである。しかし19世紀にあらわれた実証的な進歩の諸理論においては、そのような宗教的信仰、そのような宗教的希望は押し隠され、意識的にそれらから閉め出された。むしろ進歩の信仰や希望や信頼は、この種のさまざまな進歩理論家によって、宗教的な新興や希望や信頼に対立せしめられている。

 

しかし、進歩の観念からその宗教的核心を完全に遠ざけるならば、いったいそこに何が残るであろうか?進歩を内面的に首肯させるべきどういう力があるであろうか?

 

けだし実証的意味における進歩の本質は、人間的歴史の運命が生起し、世代が相ついで交替する時間の流れの中で、人類がなんらかの、私のあずかり知ることのない山頂にむかってのぼって行くということであり、しかもその目指す目標である高次の状態に比較すれば、それに先行するあらゆる世代はたんに連鎖の一環であり、手段であり、道具であるにすぎず、自己目的ではないのである。

 

進歩はあらゆる人間的世代、あらゆる人間的人格、あらゆる歴史的時期を、終極の目標に対する一個の手段、一個の道具に変えてしまう。来るべき人類の完全と力と幸福というこの目標の実現状態には、しかし、われわれの中の何びとも参加することがないであろう。

 

実証的な進歩の観念は、それゆえわれわれが内面的に受け入れることのできないものであり、宗教的道徳的に承認しがたいものである。なぜなら、この観念の本性は、人生における苦悩の問題の解決を不可能にするからである。ーー全人類に対し、全世代に対し、全時代に対し、苦悩にみちた運命をもって生きたあらゆる人間に対して、悲劇的な矛盾と葛藤を解決することを不可能にするからである。

 

この理論は厖大な群衆、人間的世代の果てしない連続、時代と時期の広大無辺な系列に対して、たんに死と墓窖を与えることを、意識的に、また本質的に、主張するものである。過去の人類は不完全な、苦悩にみち、矛盾にみちた状態に生きていた。

 

しかしいつの日か、歴史的生命の頂点に、先行するいっさいの世代の冷えきった骨の上に、幸福な世代が出現し、それが頂上をきわめ、最高の生の充実、最高の至福と完成をわがものとすることができる。すべての世代はこのわれわれにとって未知で無縁な未来に出現するはずの幸福な選ばれた者たちを、このひとびとの至福の生を実現せんがためのたんなる手段にすぎない。

 

進歩の宗教は、いっさいの人間的世代、いっさいの人間的時期を、それ自身無価値、無目的、無意味なものとして、ただ未来の手段であり道具であるものとして見る。ここに進歩の理論の宗教的道徳的な根本的矛盾が存在し、それがこの理論をわれわれに受けいれがたく、承認しがたいものとする。

 

進歩の宗教は死の宗教であって、復活の宗教でない。永遠の生のために生きとし生けるものを復活させる宗教でない。いつの日か進歩の頂点に出現し、至福と完全を与えられる世代の運命と、もっぱら苦悩と不幸と不完全に終始してきたあらゆる世代のそれとを比較して、前者がとくに優遇を受けるような内的根拠はまったくない。未来の完成は、過去の世代のいっさいの苦難をあがなうことはできない。

 

このような進歩の頂点をきわめることのできた世代のメシヤ的祝祭のごときもののために、あらゆる人間的運命を犠牲に供せしめるということは、人類の宗教的・道徳的意識に反感を覚えさせるだけである。

 

かかる未来の幸運児的世代の神化を本領とする進歩の宗教は、過去と現在に対しては血も涙もない態度を取る。それは未来に関しての無限の楽観論(オプチミズム)と、過去に関しての無限の悲観論(ペシミズム)とを結びつける。それはすべての世代、すべての死者、父祖と祖先のあますところない復活というキリスト教的期待と深刻な対立をなしている。

 

キリスト教的観念は、歴史が歴史的悲劇の、あらゆるその矛盾の終末をもって閉じるという期待、この終末にあらゆる人間的世代が参与し、かつて生存したところのすべてのものがここに復活して永遠の生命に入るであろうという期待の上に立っている。

 

19世紀の進歩思想はそのメシヤ的祝祭に対してたんに未知の幸福な世代の参加だけを許す。しかもこの世代はあらゆる先行する諸世代に対して吸血鬼の役割を演ずる。この幸福な世代がその祖先の墓の上で、祖先の悲劇的運命などは思いもやらずに挙行する祝祭は、われわれの側としてみれば、なんら進歩の宗教に対して感激をおぼえさせるようなものではあるまい。ーーもし感激があるとすれば、それはくだらない感激であろう。

 

時間の問題を解くことがないということ、これが進歩の理論の根本的欠陥である。なぜなら、世界歴史の運命の解決、その矛盾の解決は、もしそれが可能であるとすれば、時間に対する勝利によってのみ可能である。すなわち過去・現在・未来の分裂の克服ーーたがいに敵対し、喰いあう要素への時間の分裂の克服によってのみ可能である。

 

世界歴史の運命が解決にいたりうるためには、この時間の本性的欠陥が決定的に克服されなければならない。ところが、いかなる進歩の理論もそのような期待を含んでいない。そのような課題を自己に提出せず、そのような意味を含んでいない。

 

進歩の理論は、人間歴史の運命の超時間的なものにおける、永遠における、全的統一における解決には向かわず、むしろこの問題の解決を歴史の時間の流れの内部で、未来の時間のある一部に求めようとする。それはその他の部分に対して情け容赦ない吸血鬼として登場する。というのはそれは過去を喰いつくし、過去を殺害する未来であるからである。

 

進歩の理念は、その期待を死の上に置く。進歩は永遠の生でなく、復活でなく、永遠の死であり、未来による過去の永遠の破壊、後代の世代による先行の世代の永遠の抹殺である。

 

いっさいを解決する至福が未来におけるある時間的瞬間に到来する。しかしそのときまでの各時間的瞬間は、砕け散る断片であり、喰いつくし、喰いつくされるものーー過去を喰い、未来に喰われるものである。この時間における矛盾がいっさいの進歩の理論を欠陥にみちた無益なものにする。

 

進歩の理論は、19世紀の時流に乗った議論であり、19世紀のヨーロッパ人の意識状態を、その時代のあらゆる制約と狭隘をともに反映するものである。それはある時代には適応するものであるが、人間的歴史の運命の解決に対する宗教的信仰の変形として無意識的に含まれている真理を除外すれば、なんら永遠の真理ではない。

 

地上楽園のユートピア

 

この進歩の理論および進歩の希望と直接に関係しているのが、地上楽園のユートピア、地上の至福のユートピアである。この地上楽園のユートピアはーーこれまた同様に、歴史の終末における神の国の地上的到来という宗教的理念の変形であり歪曲であるがーー相つぐ打撃を受け、思想的に破壊され、事実成り立たなくなっている。

 

この地上楽園のユートピアは、進歩の理論が含んでいるものと同一の矛盾を含んでいる。なぜなら、それも同様に時間の中における、歴史的過程の領域の内部におけるなんらかの完成状態の到来を想定するからである。それは歴史的な人間運命の解決の可能性を、あの歴史的諸勢力の閉ざされた円環の内部ーーその中でまさしく諸民族と人類の歴史が生起するーーにおいて求めるからである。

 

それは世界歴史の悲劇の内在的解決と完成状態の到来を可能と考える。それはあらゆる進歩的観念と同様に、時間に対する誤った関係の上に立っている。それは時間の悲劇が、きたるべき未来において、解決可能であるという誤った理論を含んでいる。

 

未来において実現さるべき地上楽園のユートピアを、ある人々はすでにきわめて近いものと見、また他の人々はかなり先のことと考える相違はあれ(どちらにせよ根本的な問題ではない)、このユートピアは完全にして至福な状態を、過去の充実の自己の中に摂取しない未来に置いて描く。

 

地上楽園のユートピアは、全歴史的過程がたんに一つの準備であったかのごとく、たんにその実現のための手段であったかのごとく主張する。いつの日には歴史的過程の終末にあらわれるべき幸福な人間たちの地上的な至福と完全状態が、すべてのそれに先行する人間的世代の苦悩と不幸をあがなうかのごとく言うのである。

 

地上楽園のユートピアは、人間生活の絶対的状態の到来が、地上的で時間的歴史的な生活の相対的条件のもとで可能であると仮定する。しかし地上的現実には、その本質からして、絶対的生活を容れるような余地がない。絶対的生活は、この、あらゆる側面から圧迫され制約された現実に包含されるべくもない。

 

しかし地上楽園のユートピアは、たとい従来は起こり得なかったにせよ、ともかく絶対的なものがやがては最終的に歴史的相対的現実の内部で実現されるような瞬間が到来するであろうという信仰である。

 

それはいわば相対的歴史的現実の領域と制限からなんらかの新しい存在段階へ、制約された三次元世界から第四次元へ、移行することを考えるのではない、ーーそれは、この三次元的空間の中に絶対的生活の第四次元が完全に成立することを主張するのだ。

 

ここにこのユートピアを内面的に支持しがたいものとする形而上学的矛盾がある。なぜなら、地上楽園のユートピアは、地上的歴史から天上的歴史への移行によって絶対的生活の到達を求めるかわりに、人間的運命がこの相対的地上的現実において最終的解決に達するということ、それがあらゆる制約を伴った三次元的世界の中に最終的にはまりこむことを想定するからである。こうしたものの中へ、それとは異なった天上的現実においてのみ到達が可能であり、第四次元においてのみはじめて実現しうるところの絶対的な完成と至福を持ち込もうとするのである。

 

いくたの社会学説、いくたの歴史哲学の特徴となっているこの地上楽園のユートピアは、哲学的思考と宗教的意識の側から、もはや再び立つことのできないほどの痛撃を受けた。全歴史的過程の悲劇的な二元的性格は、ますます明白化しつつある。歴史においては、一筋の直線をなして実現する善の進歩、完全性の進歩ーーそれによって未来の世代が過去の世代よりも高いところに位置するというような進歩は存在しない

 

歴史においては、人間的幸福の進歩も存在しない。ーーあるのはただ存在の内的諸原理、たがいに相反する諸原理、光明と暗黒と、神と悪魔と、善と悪との諸原理の悲劇的な、いよいよ深いところに達する開示のみである。この矛盾の開示に、この矛盾の示現にこそ、人類の歴史的運命の至高の内的意義がある。

 

もしわれわれが人間意識の歴史におけるなんらかの進歩を主張しうるとすれば、その進歩は人間的存在における悲劇的矛盾の内的開示の結果としてあらわれるこうした意識の尖鋭化である。決して進歩理論の主張するような、否定的(ネガチーフ)なものに代わるところの肯定的(ポジチーフ)なものの不断の増大をわれわれは主張することはできない。

 

歴史的過程において、諸原理の複雑化が起こる。それはまったく対立的な諸原理を包蔵する。もしわれわれが、進歩は絶対的なる神的生活への接近であると信じ、そこから、歴史の頂点に出現するはずの世代は、絶対者に特別に近づくけれども、その他のすべての世代はかの神的生の根源からきわめて遠いか、もしくはそれとまったく関係がなく、それら諸世代が歴史の最後の世代に手段として奉仕するかぎりにおいてのみ神的生活に参加するのだという結論をひきだすならば、それは誤りであろう。

 

むしろレーオポルト・フォン・ランケが考えたように歴史の全過程の経過においてすべての世代がそれぞれ絶対者にある関係を持っている、ーーいずれも神に近づいている、と考える方が正しいであろう。ここにこそ神的正義と神的真理がある。もし進歩の頂点に立つ世代にのみ神的生活の秘義に踏みいることが許されるとすれば、およそこれほど正義に反したことはあるまい。

 

この進歩の理論は、神的摂理の存在そのものを疑わせるものである。なぜなら、こうしてすべての人間的世代には背を向け、歴史の頂点に立つ世代にのみ接近を許すような神性は、人類の大多数に対しては、不正と暴力を発揮する吸血鬼のような神性であろうから。イヴァン・カラマーゾフが神に対してその入場券を返したのは、この理由によるのだ。しかし実際にはかかる神は存在しない。

 

実際には世代は自己自身の中にその目的を持っている。それ自身の生の中にその正当性と意義を持っている。みずから創造する価値の中に、また神的生に近づいてゆく自身の精神的高揚の中に、そうしたものを持っているのであって、将来の世代のための手段や道具となることによって持っているのではない。19世紀の人間は、それに先行する諸世紀の人間よりもいっそう神に近いであろうか?

 

ー終ー

 

著者について

 

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ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ベルジャーエフ(Nikolai Aleksandrovich Berdyaev;1874-1948)。ロシアの正教哲学者。元マルキスト。ロシア革命を経て転向し、反共産主義者に。十月革命後にパリに亡命。1922年、レーニンの革命政府によって国外追放。主著『ドストエフスキーの世界観』(斎藤栄治訳)等。(参照

 

ベルジャーエフとロシア正教思想

ベルジャーエフは、ロシア正教会のメンバーであり、正教が最も初期キリスト教に近い宗教的伝統であると信じていました*1。また、彼は20世紀における最も重要なロシア正教思想家であるとしばし言及されています*2。しかしながら、彼とロシア正教の関係はなかなか複雑なようです。ベルジャーエフは自分がいわゆる ‟典型的な” オーソドックス教徒ではないと述べ、次のように言っています。

 

「私は自分のことを典型的な正教徒と呼ぶことはできない。だが、正教はーーカトリシズムやプロテスタンティズムよりもーー自分に近く(そして今後より近づいていけたらと願う)。私はこれまで正教会とのつながりを断ち切ったことは一度もない。しかしながら、告白主義的自己満足や排他性というのは自分とは無縁なものである。」*3