巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ロック音楽とキリスト教礼拝ーーカトリック、プロテスタントそれぞれの視点

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主日礼拝(出典

 

目次

 

プロテスタントの視点

 

①デイビッド・クラウド牧師の証し「ロック音楽が私の人生に及ぼした影響」

 

David Cloud, What Rock Music Did For Me: A Personal Testimony (全訳)

 

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デイビッド・クラウド師、バプテスト教会牧師

 

ベトナム戦争、ヒッピー、ドラッグ

回心前、私は、文字通り「時代の子」でした。1949年に生まれ、1967年に高校を卒業したのですが、その当時ビートルズが一世を風靡しており、東南アジアにおける米軍の侵攻もそのピークに達していました。東洋宗教も人気を博しつつありました。

 

長髪のヒッピーたちが、大都市にも町にも溢れていました。私は当時主イエス・キリストに人生を明け渡しておらず、また、霊的にも哲学的にも自分の依って立つ人生の基盤がありませんでしたので、そういった危険な過渡期の潮流に押し流されていきました。



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(ヒッピーバス、60年代)出典


1969年、私は米軍に徴集されました。私は腕利きのタイピストでしたので、軍は私を書記としました。そしてその後、ミズーリ州セント・ルイスにある軍関係のセンターの運転手としてそこに配属されました。

 

そしていよいよベトナム出兵となりました。私はサイゴン近くにあるタン・ソン・ニット空軍基地に拠点を置く、軍警察所属の書記官として配属となりました。こうして1970年、私はベトナムに行き、その地で一年半従軍しましたが、そこで初めて私はドラッグを始めるようになったのです。

 

除隊し米国に帰国した後も、私のドラッグへの愛着は続きました。かなり多くの高校の同級生がいろいろとドラッグをやっていることを知った私は、すぐさま、ヒッピー文化にのめり込んでいきました。古いロックの歌詞のごとく、私は「友達の助けを借りてハイに」なり始めたのです。

 

多くの新しい経験が私を待ち受けていました。でも分かったのは、米国で入手できるマリファナは、東南アジアのそれに比べると、かなり効き目が弱いということでした。より強力なドラッグを求めていく過程で、私の抑制機能は失われていき、自分の愚かな手が入手できる限り、私はドラッグをむさぼるようになっていきました。


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(ヒッピー、60年代)

 

振り返ってみると、マリファナを始めてからいかにすぐに自分のうちにあった抑制機能が崩れていったのかに驚かされます。確かにベトナム出兵以前にも、私にはドラッグを使用する機会がたくさんありました。でもその時はまだ依然としてドラッグに対する恐れがあったのです。

 

ああ返す返すも、好奇心によるあの第一歩、マリファナを試す気になったあの日のことが悔やまれます。同じ部隊にいたある軍警にマリファナを勧められたのですが、それが災難の始まりでした。この致命的誤りから一年半後、私の抑制機能はすでにマヒしてしまっていました。


「ロック」と「ドラッグ」と「真理からの離反」という三者の間に存在する密接なつながり


「ドラッグとロックンロールにどんな関係があるのか」とお尋ねになりますか?はい、それはもう密接につながっています!ドラッグ中毒の期間を通し、私は文字通り、ロックンロールの中で食べ、眠り、そしてその中で呼吸をしていました。

 

ベトナムにいた時、多くの米兵と同じく、私も高価な音楽ステレオを購入し、何百というロック・アルバムを録音しました。兵舎もバーもナイト・クラブもロックンロール三昧でした。悲しむべきことに、ベトナムにおける米兵の国旗はロック音楽でした。そしてその状態は米国でも同じでした。


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ビートルズ、出典


東南アジアで購入された何トンというステレオ機器はやがて海を越え、全米に溢れるヒッピーたちのアパートへと持ち込まれました。こうして、醜悪なロックンロールという王たちの支配下に置かれた「巣穴」の中で、何千何万という若者たちがドラッグにより心と人生を蝕まれていきました。

 

ドラッグとロック。ロックとドラッグ。ーーこの二つはシャム双生児のごとく、密接につながっており、これらを媒介とし、悪霊は人々の人生に入り込み、彼らを破壊していくのです。

 

私がロック音楽を聴き始めたのは中学校の時(60年代初め)でしたが、たちまちのうちに、私の内にあった倫理的および心理的抑制機能が崩壊していきました。

 

そしてついにドラックの世界に入った時、私はこういったロックがリアルなものとして自分のうちで生きてきたことに驚きました!なぜでしょう。それは、ロックというものが元々、ドラッグ濫用者たちによって作り出されたものだからです。


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出典


ドラッグという疫病は恐ろしいほどの勢いで拡がっていっています。そしてそれに伴い、ロック音楽もますます人気を博し、かつてないほどの堕落ぶりを見せています。

 

この二つの世界は一つなのです。つまり、ロックの世界はドラッグの世界であり、ドラッグの世界はロックの世界です。ロックは私の抑制機能を打ち壊すことに貢献し、私を薬物乱用(そして反逆と不品行)に誘いました。そしてドラッグ濫用は私をロックへとかき立てました。

 

ロック音楽の愛好家でありながらも、ドラッグには関与していない人は確かにいますが、だからといって、それが、両者の密接な相関性の反証になるわけではありません。

 

私はうつ状態になり、敗北感と孤独、そして空虚感にうちひしがれました。将来に対する展望も消えていきました。除隊後の何年かはーー薬物は常用していましたがーーそれでも一応、それなりの目標というか人生の計画みたいなものはありました。私は南フロリダにある子供の精神病院に就職し、地元の大学で勉強しようという計画も立ていました。

 

しかし数か月もしないうちに、こういった展望はドラッグの世界の中に霧と消えていきました。こうして私は仕事をやめ、麻薬を売り始めました。

 

その後、麻薬所持と公共の場での昏酔により、私は逮捕され、しばらく刑務所に入っていたのですが、出所後、私はほとんど乞食のような生活をしていました。一時も落ち着くことができませんでした。バイトをしても数日か、長くてせいぜい数週間しか続きませんでした。私は場所を転々とし、仕事を転々とし、哲学を転々としていました。

 

その頃までにはもうドラッグからの快楽というのは消え、それに代わり、私はひどいうつ状態に陥っていました。うつ状態で寝に入り、うつ状態で目ざめる毎日でした。どんなに陽気な人々の間にいても、私は自分がそこに属していないように感じ、孤独でした。平安も、喜びも、心の満たしもありませんでした。

 

そしてそれ以上に私を恐れさせたのは、だんだんと再生への希望さえ失いつつある自分の姿でした。この精神的監獄から抜け出したかった。でも、出口を見つけることができませんでした。

 

主をほめたたえます。主はこんな私をも愛してくださり、忍耐をもって私を引き寄せようとしておられました。(当時の私はありがたくも何とも思っていなかったのですが)、私には今もって一つの宝が残っていました。放浪時代を通し、私は実質上、自分の中にあった価値あるものを全て売り渡してしまっていたのですが、我知らず、私はあるかけがえのない宝ーーそうです、クリスチャン・ホームで育ったという無形の宝ーーを今も有していたのです。

 

子どもの時に教えてもらった聖句、敬虔な祖母の涙と祈り、機会が開かれるたびに私を教会に導こうと尽力してくれた父と母の愛、、、こうして1973年の夏、神は私の人生の中にある人を送ってくださり、その人を通して、神の御言葉と対峙させてくださったのです。

 

ニューエイジへの傾倒、そして神のしもべロン兄との出会い

 

ニューエイジにのめり込む


前篇のつづきですが、私はそのクリスチャンの兄弟に旅の途中で出会ったのです。その頃までに私は西洋型のヒンドゥー教(ニューエイジ)の虜となっており、特にセルフ・リアリゼーション・フェローシップに入れ込んでいました。

 

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パラマハンサ・ヨガナンダの教え



カリフォルニアからフロリダまでヒッチハイクをしている時に、あるインド人の若者たちの車に乗せてもらったのですが、彼らの話や書籍を通して、私は輪廻転生を信じるようになっていたのです。


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セイフ・リアライゼーション・フェローシップ:ニューエイジ


私は彼らからもらった書籍をむさぼり読みました。(例えば、グルであり、セイフ・リアライゼーション・フェローシップの創始者であるパラマハンサ・ヨガナンダの自叙伝)。そして私は実際に、ロサンゼルスにあるこの会の本部にフロリダからはるばる「巡礼」に行ったのです。

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(「神の仕事に奉仕するため、お金を正直に、そして上手に儲ける術は、神を見つける技法に次いで重要な能力です。」「金銭的渇望と霊的渇望を調和させてください。どちらにも他方を支配させてはなりません。」『パラマハンサ・ヨガナンダの成功の黄金律』より引用。)


そこに行く途中、ラスベガスのスロット・マシーンで70ドルほど儲けたのですが、(情けないことに)この「金運」によりますます私は、セイフ・リアライゼーション・フェローシップへの信頼を強めていったのです!

 

しばらくロスに滞在した後、私は南フロリダに戻りました。そして材木場で少し働いた後、私は仕事をやめ、自分の故郷であるフロリダ中部に戻ることにしました。


ロン・ウォーカーとの邂逅


故郷の町まではざっと320キロほど距離がありました。私はフォート・ローダーデールの近くで幹線道路に入り、いざ帰路につきました。と、少し経った後、道路の脇を自転車で走っている一人の男の姿が自分の視界に入りました。

 

もちろんすぐに追い越したのですが、その時、なぜだか分かりませんが、私は車を引き返して、この男に「どこに向かっているのか」と訊きたいという強い思いに駆られたのです。そして実際、私はそうしました。

 

道路脇で数分、この男と話した後、私は「中部フロリダまで僕の車に乗っけてやってもいいよ」と彼に提案しました。こうして私たちは彼の自転車やギアを車に詰め込み、再び北上始めました。

 

神や宗教の話を持ち出したのは、たしか私の方が先だったと思います。実際、車の中に私は輪廻に関する本も積んでいたほどでした。この男に「神を信じているか」と訊くと、彼は「ええ」と答え、ポケットから聖書を取り出しました。

 

この人の名はロン・ウォーカーと言いました。ロンはメキシコ沿岸地域で福音を伝えるために、メキシコに向かっているところだったのです。話し始めてすぐ私はもう一つのことにも気づきました。それは彼が、この小型聖書を縦横無尽に用いている、ということでした。


聖書の用い方を熟知していたクリスチャン


こうして私は人生や宗教のことについて彼にいろいろな問いを投げかけてみたのですが、私をもっとも感動させたのが、ロンの深い聖書知識でした。

 

彼は聖句を用い、私の疑問に明瞭に答えることができただけでなく、私の哲学の持つ明らかな矛盾をも聖句により示すことができたのです。今の今まで、聖書というのがこれほど実際的な本だとは知りませんでした。

 

こうして私は彼とのこういった話し合いに引き込まれ、ついに予定を変更して、ロンと共にメキシコに行くことにしました。私はもはや故郷の町に立ち寄ることすらしませんでした。

 

それからの二日間、私たちは南フロリダから(メキシコとの国境地帯である)テキサスのブラウンスビルまで車を走らせました。そして道中、私はロンに自分の人生哲学や宗教観について話し、それに対し、彼は忍耐をもって聖書の言っていることを示してくれました。

 

しかしだんだん私は不快感を覚えてきました。というのも、聖書というのは、事実上、私の信じている事と何もかも相反していることに気づいたからです!

 

例えば、私は輪廻を信じていましたが、聖書には「人間には、一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)と書いてあります。

 

また私は「人はそれぞれ自分の心のおもむくままに生きるべき」と思っていましたが、聖書は「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう」(エレミヤ17:9)と言っています。

 

さらに私は「神に至る道は、幾通りもある」と思っていました。しかし聖書は「神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです」(1テモテ2:5)と言っています。

 

また人間というのはーーその人にそれなりの誠実さがあればーー最悪の事態にまでは陥らないのではないかと私は考えていました。しかしそれに対しても聖書は「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14:12)と論駁しています。そうです、まさにこれこそ自分に対する、聖書による「論駁」でした!


御言葉の力


主はほむべきかな。ロンは聖書に精通しており、私の投げかける質問に対し、ダイレクトで的確な答えを与えてくれました。彼は当時の私がのめり込んでいたニューエイジ系のさまざまな教えに通じていた訳ではありませんでしたし、私のライフスタイルとは全く異なる生き方をしていました。そうです、彼は「文脈化(contextualization)」した伝道方法(つまり、ヒッピーの魂をキリストに勝ち取るために、あえて自分もヒッピー文化の中に入り、彼らのような「なり」をする伝道アプローチ)などは用いていなかったのです!

 

この人はただ一途に、敬虔で聖いクリスチャン・ライフを送ろうと努めていました。そして耳を傾ける心がまえのある人に対し、地道に忍耐をもって聖書を説いていたのです。

 

聖書こそが「生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別する」(ヘブル4:12)神のことばであり、装飾のないイエス・キリストのシンプルな福音こそが、「ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力」(ローマ1:16)なのだと。


魂の戦い


私たちはアラバマでいったん休憩したのですが、そこでロンは私に欽定訳(KJV)の大型版聖書を買ってくれました。それは註解書きもなく、注・引照も何もない、御言葉のみが記されている聖書でした。彼はまた私のために、ストロングの聖書コンコーダンス事典も購入しました。

 

その晩、私たちは道路わきに車を止め、寝袋にくるまり、横になりました。その時すでに私はロンの語る聖書の内容にうんざりし始めていました。私は横たわったまま、星を見上げていました。

 

と、その時、ある強い衝動が突き上げてきました。「今すぐにでも起き上がって、ロンの自転車をとっとと地面におろし、彼を置き去りにして、車を飛ばしこの場を去りたい。もう彼の言うことなんか聞きたくない!」と。事実、私はそうしたくてたまらなくなったのです!

 

、、でも結局、それを実行に移すことなくその晩は過ぎていきました。

 

回心

 

メキシコ国境にて

 

そして翌朝、私たちはメキシコ国境に向けて旅をつづけました。その日、たしか夜半遅くなってからでしたが、私たちはついにブラウンズビルにたどり着きました。

 

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アメリカ・メキシコ国境、出典

 

そして翌日、私たちは、メキシコ入国に関して情報を得ようと係員の人に訊きに行ったのですが、私の長髪のことで、メキシコ当局は私に対し厳しい姿勢を見せました。

 

またアメリカ当局との間でも問題が起きました。というのも、コンピューター画面に、私の麻薬所持による逮捕歴が表示されたからです。私たちは服を脱がされ、取り調べを受けました。私は「もうこれ以上旅を続けるのはやめよう」と決心しました。

 

いや、実のところ、こういう風に事が展開したことで、私は内心喜んでいました。というのも、これでついにロンとおさらばできるからです。

 

でもロンの立場で考えてみると、彼は僕のような種類の人間と一緒くたにされ、服を脱がされた上に取り調べを受ける羽目になり、さぞかし屈辱的な思いをしたのではないかと私は思いました。でも彼は一切文句を言いませんでした。

 

聖書に対する敵意

 

その時点で、私は正面切って、聖書に敵意を持つようになっていました。その日の朝も、南テキサスを走りながら、私はロンに「おい。もういいかげんにしてくれ。なあ、あんたの聖書とやらを車から投げ捨ててくれよ。そうして初めて僕たちはフェアーな議論ができるってもんだ。」とイライラをぶつけたばかりだったのです。

 

でも、もちろん、ロンはそれを拒みました。「聖書なしには、僕には何ら知恵がありません」と。

 

おそらくヒマラヤの山奥にいる「聖者たち」についての本を読んでいたからだと思いますが、その当時、私はどこかの山に籠り、しばらくそこで瞑想しよう、そして自分なりに何かを見つけてみようと考えていたのです。ええ、もちろん、理論ガチガチの聖書ドグマなどによって邪魔されることのない環境で!そしてロンとか、そういう類のクリスチャンのいない所で!

 

ロン、宣教旅行をキャンセルする

 

しかしああ、この愛しきロンは、その時、全く別のことを考えていたのです。彼は言いました。「君と一緒に、フロリダに戻ることにしたよ。メキシコ行きはキャンセルしようと思う」と。

 

私はそれを聞いてがっかりしました。が、心の中で、「まあ、あと数日の辛抱だ。そしたらもう今度こそ彼とお別れだ」と自分自身に言い聞かせました。

 

そして私たちは、フロリダのデイトナ海岸まで一緒に旅をし、そこで別れることにしました。こうして私たちは再度フロリダへと車を走らせたのですが、この間、私たちの間にはほとんど会話はありませんでした。車中はしーんとしていました。

 

ロンは私が聖書の話にうんざりしていることを察知しており、賢明にもそれ以上話を進めず、ただ主の時を待ち、心の中で祈っていたのです。

 

回心

 

こうして私たちはデイトナ海岸にたどり着いたのですが、その日は(野宿ではなく)簡易ホテルで休もうということになりました。久しぶりにちゃんとしたベッドの上で休みたかったし、シャワーも浴びてリフレッシュしたかったからです。

 

こうして私たちは簡易ホテルに一泊することになりました。シャワーを浴びた後、私たちはそれぞれのベッドの上に腰かけ、また言葉を交わし始めました。

 

すると、ロンはおもむろに聖書を開き、それを読み始めました。彼がどの箇所を読み上げたのかはもう覚えていませんが、たしかそれは私たちが前に議論した聖句の箇所ではなかったかと思います。

 

そして、その時です。まさにその時、ある事が自分の身に起こりました。言いようもない平安と静けさのうちに、そして尚且つ極めて明確に、私の心に悔い改めが起こされ、私はその場で主イエス・キリストを信じ受け入れたのです。なにか光のようなものがわが魂のうちにぱっと灯されたような感じがしました。ロンと私は二人で祈りました。

 

自分のうちに起こったこの変化はもう疑いようのないものでした。突如として聖書が私にとっての宝となりました。この書が、そう、この書だけが神の御言葉であり、イエス・キリストだけが唯一の主であり救い主であることが分かったのです。たった一時間前には、こういった真理に対し頑なに敵対していた自分が一瞬にしてここまで変えられたのです。

 

翌朝、私たちは共に朝食を食べ、そしてそれぞれの帰途につきました。

 

ロンはまた自転車に乗って去っていきました。そしてそれ以後、私はもう二度と彼に会う事はありませんでした。

 

一方、私は160キロほど車を走らせ、ついに実家にたどり着きました。私は家の中にまっすぐ入って行きました。そして台所のテーブルに大型聖書を置くと、開口一番、こう言いました。

 

「お父さん、お母さん、僕は神様の元に立ち返りました。」

 

ー終わりー

 

②ダン・ルカリニ師の証し「私が米国CCM運動から身を退いた理由」

 

Dan Lucarini, Why I left the Contemporary Christian Music Movement(「私がCCM運動から身を退いた理由」、抄訳)

 

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私はおそらく、(このような本を書くことで)教会の最も強固な要塞に挑戦を挑んでいるのでしょう。

 

CCMは今や、がっちりと塹壕を掘りめぐらせているため、福音主義教会の大多数によって支持されている音楽スタイルになったのではないかと思います。CCMは多くの信者の人生の中に深く根を下ろしているため、私の本を読んで、かなりつらく感じる方々もおられると思います。

 

また牧師の中には、私の言うことに不快感を感じる方もいらっしゃるに違いありません。なぜなら、彼らもまた、この運動を受容してきたからです。しかし私はあえて申し上げたいと思います。CCMを教会礼拝の中で用いるというのは作為の現象であり、この実態は光の元にさらされるべきです。

 

というのも、これはしっかりとした聖書的土台に欠いており、神に受け入れられる礼拝とされるべく、主がお授けになった掟をないがしろにしているからです。これを礼拝で用いることによって、私たちは肉的なライフスタイルを人々に奨励してしまうことになります。(p18)

 

「誰をも裁きませんよ」という雰囲気作りのため、牧師たちは、「神様はありのままのあなたを受け入れておられますよ」的な哲学を奨励してきました。そうしてCCMとこの哲学は手に手を取り合って進んできたのです。

 

ある牧師がドゥービー・ブラザーズのロックコンサートに行ったのですが、その後、自分がそこに行ったことを正当化するために彼はこう言いました。

 

「もしイエス様が今日生きていたら、主もあのコンサートに行っていただろう。なぜなら、主は罪びとと共に過ごされる方だから。」

 

こういった教えのなされる所では、自分の人生に神様を受け入れはしたいけど、ライフスタイル自体は変えたくないーーそういう種類の人々を教会に惹きつけてしまうのです。(p28、29)

 

私は告白します。CCMの賛美リーダーであることは、私のエゴを非常に強く満足させるものでした。自分に寄せられる尊敬や称賛は、(救われる以前に経験していた)ロックスター時代のあの興奮を思い出させるものでした。でも当時、私はこの事実に盲目でした。なぜでしょう?それは、こういった自己賞揚が、「ありのままで愛されている」的クリスチャン・フォーマットのオブラートで包み隠されていたからです。(p32)

 

なぜ米国CCM界を去らなければならないのか、、、まず第一に、私はCCM哲学を支えている前提そのものをもはや受け入れることができないからです、、、私たちの支柱とはこれでした。つまり、「音楽は、道徳とは無関係のものである(amoral)」という前提です。

 

彼らによると、神はあらゆる種類の音楽スタイルを受け入れておられる。そして各自の好みや趣向に対して口出ししたり、裁いたりしてはいえない、と。私はこういった主張について調べようと、聖書を掘り下げたのです。しかし分かったのは、そういう考えは、人間中心的であり、非論理的であり、基本的な聖書の原則を正しく反映していない、という事実でした。

 

二番目に、「真の礼拝とは何か」「神の臨在の中にあるとはどういう意味か」ということを聖書の中に求めていく過程で見えてきたのは、あまりにも低俗で下品な音楽と、それからそれに伴う下品な服装で、礼拝をささげ、聖なる神に賛美をしているという、私たち世代のなしている恐るべき事実でした。

 

三番目に、結婚生活を清く保ち、すべての事において神に誠実であるために、私は誘惑に溢れているCCMの現場から身を引き放す必要がありました。そうです、米国CCMの現場は、自己満足と、それから、賛美チームの女性メンバーたちに対する肉的魅力をあおる環境で充満していました。(p34)

 

キリストの弟子になるということは、自尊心の旅ではないのです。成長は変化を意味し、変化にはいつも喪失が含まれます。そして喪失というのは常に痛みを伴うものです。私たちは古い自分の習慣や楽しみなどをいつまでもそのまま保ち続けることはできません。

 

「そのままのあなたでいいんですよ。神様はね、今のあなたをそのまま受け入れてくださっているんですよ」という教えは、現代の世俗社会で流行している〈寛容〉の動きと密接なつながりを持っています。

 

真摯な求道者のみなさんは次のことを知るべきです。つまり、この「ありのままのあなたでいいんですよ」というキャッチフレーズの元に説かれている神の無条件の受け入れというのは、誤った教えであるということです。

 

わたしたちは罪を告白しないまま、あるいは罪をないがしろにしたまま、あるいは罪をここかしこにぶらさげたままの状態でありながらも、依然として、「自分は主に受け入れられるだろう」と期待してはいけません。自分好みの世俗音楽、この世の服装、この世の言葉を教会に持ち込み、そして主からの祝福を期待することはできないのです!(p38-40)

 

この〈寛容〉の教えはクリスチャンの間であまりに浸透しているため、私たちはもはや、仲間のクリスチャンの問題ある言動について問うことさえ許されない、そんな環境に生きています。

 

あなたが愛をもって、仲間の信者の問題行動に向き合ったとしましょう。そうするとあなたは「他人を裁く者」として非難されます。その際に、聖句などを引用しようものなら、あなたはすぐにパリサイ人呼ばわりされるでしょう。そしてもし教会が、誰かの個人的な言動について何かを言おうものなら、その教会は、律法主義的な教会という風にみなされます。

 

こういった〈寛容〉の教えの支配する新しい教会においては、この世への愛着およびそういった行動に対して寛容を示すことは、聖書的な識別を行なっていくことよりもずっと大切な事とされています。そして、こういった偏った雰囲気の中にいるからこそ、(CCMのあり方に疑問を抱いている教会員が)教会の音楽スタイルについて意見の声をあげることに恐れを感じているのです。(p40、41)

 

 

③マイロン・ホースト師「世俗の音楽性とはっきり一線を画した賛美を求めて」

 

Myron Hoest, Why Decidedly Godly Music?(抄訳)



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ホースト一家。左から:ジョエル、ナタン、メロディー、マイロンさん(父)、キャシーさん(母)、ダニエル、カラ、ルカ)出典


私たちは現在、敬虔な賛美を歌ったり聴いたりする祝福に与り、そのことをうれしく思っています。

 

最近、教会や家庭において歌われるこういった「この世の音楽性とははっきり一線を画した」純にして敬虔な賛美の持つ価値を再認識する人々が増えてきています。こうした賛美は、かつてサタン崇拝に使われていた音楽スタイルに汚染されていない音楽です。

 

私たちの神は、音楽を愛する神です。主は高らかに歌われますし(ゼパ3:17)、私たちの賛美を好んで聴かれます。この世のはじめから音楽(賛美)は存在しており、永遠の中における天国にあっても、そこはとこしえまで音楽で満ちていることでしょう。

 

賛美というのは教会における神礼拝の中で常に重要な位置を占めてきました。もしも字句だけが礼拝で大切なものとされているのなら、なぜ音楽など、そもそも存在する必要があるのでしょう。歌詞や詩を読み上げるだけで良いではありませんか。

 

しかし神はそうなさいませんでした。なぜでしょう。それは私たちの神が、音楽を愛される方だからです。そして主は私たちが賛美する姿を喜んでおられます。そうです。賛美は礼拝においてきわめて重要な位置を占めているのです。

 

敬虔な賛美というのは、単なる人の好みや趣向といった問題以上のものです。クリスチャンの賛美において真に問われるべきは、「私たち人間がどんな種類の賛美を好むか」ではなく、「神が私たちの賛美をどう思っておられるのか」です。

 

聖書の中で、(歌詞のない)音楽が、ある時には神の力を呼び出したり、またある時には、悪霊を追い出す用途で用いられていたことに、みなさんお気づきでしょうか。つまり、賛美(音楽)は霊的な領域で何かを語っているのです!

 

2列王記3:14-15 エリシャはここで立琴を弾く人を呼んでいます。「立琴をひく者が立琴をひき鳴らすと、主の手がエリシャの上に下り、、」。そして主はご自身の使信を啓示されました。(歌詞のない音楽)

1サムエル10:5-7 ここでは預言者の一団がいて、先頭には楽器を弾く者たちがいました。そして彼らは預言をしていました。サウルが彼ら一団に会うと、主の霊が激しく下り、彼も預言を始めました。(歌詞のない音楽)

1サムエル16:14-23 ダビデが立琴を弾く時に、悪霊が反応したり逃げたりするのを私たちはここの聖句にみることができます。(歌詞のない音楽)

イザヤ30:31、32 ここでは主なる神が杖でアッシリアを打たれるごとに、タンバリンと立琴が鳴らされることが記されています。(ここも歌詞のない音楽について言及しています。)

その他、音楽に応答して神が行動を起こされた聖書箇所:
2歴代誌5:11-14、2歴代誌20:15-32、士師記7:22、使徒16:25ー35

 

バックビートとは何か?

 

今日、キリスト教書店で私たちが購入することのできる賛美CDのほとんどに、(一曲や二曲は必ず)バックビートのスタイルを持つ賛美曲が含まれています。

 

バックビートというのは、ロック・ビートの基本的要素です。それは4ビートの音楽における第2、第4泊を強調したロック特有のリズムです。


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バックビート、出典

 



バックビートを、クリスチャンの賛美の中で用いることが不適切である理由は、このロックビートが、これまでずっと(そして今、現在でも)サタン崇拝に用いられてきたものだからです。

 

オカルトから解放されイエス・キリストに信仰を持った方が大勢おられますが、こういった方々はこの事実について証言しています。それだけでなく、世俗のロック音楽の多くは、サタンおよびそのアジェンダを礼讃しているのです。

 

この事実は私たちに次のことを気づかせます。つまり、バックビートというのは、ただ単に「世俗社会から取り入れた音楽性」という範疇を超えた、別のカテゴリーに置かれている何かなのです。

 

歌詞のない音楽というものは、ある〈言語〉として、霊的領域でコミュニケーションを図っているわけですから、サタンや悪霊とコミュニケーションを図っている音楽を、(そこにクリスチャン的な歌詞を貼り付け)イエスへの賛美に用いることーーそれは到底不可能な話です。

 

霊の言語はサタンにコミュニケーションを図り、人間の言語は実際に礼拝を受けている者を隠ぺいしています。これは文字通り、羊の衣を着た狼です。ですから私たちはサタン礼拝に用いられている音楽を取り入れ、それでもって主なる神を礼拝し、主の御怒りを買うようなことをしてはなりません。

 

私たちはかつて「音楽というのは道徳基準を持つものではない(amoral)」と考えていました。しかし、音楽というものが霊的領域に語りかけるものであることに気づいた後、私たちは180度、方向転換しました。それ以後、私たちにとって、「ロックビートの是非」という問題はもはや問う必要のないものになりました。

 

またバックビートに関し、さらに検証を重ねていく上で分かったのは、ビート(もしくは音楽)の分量や度合というものは、バックビートの持つ霊的要素を変えるものではないということです。つまり、ソフトなバックビート(くつろいだ感じの音楽)であっても、ハードなバックビートと違わず、そこには依然として同じ霊的要素があるのです。

 

こうして私たちは世俗の音楽性とははっきり一線を画した賛美を求め、それを歌い始めました。それがわが家にもたらしている祝福の一つは何かと申しますと、子どもたちの精神に落ち着きがもたらされ、家庭の雰囲気自体が変えられたことです。

 

ある家庭の人々は、この点に関し、ハープを取り入れた賛美がとりわけ効果的だということを言っています。また、私たちは、こういった種類の賛美(特に、純粋で、豊かなアカペラ賛美)が私たちの精神に平安をもたらすものであることを発見しました。(その他の霊的祝福については、「子どもたちのための賛美 "Music for Children" 」という記事をご参照ください。)

 

みなさん。今、ご自分がお聴きになっている賛美の基準をどうか高めてください。そして「この世の音楽性とははっきり一線を画した」賛美をご家族のために提供してあげてください。

 

地上的なエンターテイメントは一時的なものに過ぎません。ですが、永遠は、とこしえに続くものです。


ーおわりー

 

カトリックの視点

 

①「御ミサにおけるロック不要論」

(一部抜粋)

 

【Inter Pastoralis】聖ピオ十世の聖楽に関する教皇自発教令(1903年)

教会固有の音楽は、純粋な声楽であるが、オルガン伴奏は許される。特別な場合においては、適当な限度内で、又、適切な用心をもって、他の楽器を用いることが出来る。けれども、その為には、司教式典書( Caeremoniale Episcoporum) の規定に従い、必ず、教区長の許可を得なければならない。(6-15)

 

ピアノ、トロンボーン、太鼓、チェンバロ、鈴、及びこれに類する楽器のように、騒々しく、軽薄な楽器を教会で使用する事は、禁じられている。(6-19)

 

「御ミサにおけるロック不要論」でよく聞かれる「音がうるさいから駄目!」「俗っぽいから駄目!」といった曖昧なイメージ的な理由に対して「新しい教え」派の反論に「若い人も楽しめる」とか「世代の違いですよ、趣味の問題」などといった声も聞かれます。

 

「若い人にも」に関しては「どこ向いて御ミサを考えているんだ~!」とか言えますが、「世代」「趣味」などと言われた場合に、一寸でも理性的に「駄目」な理由を答える事が出来るきっかけの一つになれば、と思います。

 

1.ロックの特性

 

問1:ロックという音楽はどのようなものですか?

 

答1:「理性から精神を解放する事」に特化した音楽ジャンルです

 

「精神を解放する」というと良い印象をもたれるかもしれませんが、分かりやすくいうと「道徳観・倫理観などといった理性的規範といった思考を停止させ、感性と本能に忠実に行動する状態になる」という事です。お酒に例えれば「酔うためだけに作られた強いカクテル」といったところでしょうか。

 

問2:「精神の解放」へと働きかける因子は何ですか?

 

答2:主に律動です

 

音楽の三要素は律動と旋律、和声です。その中でも律動は心拍数や呼吸数と密接な関係があって人間の感性の本能的原始的な部分に訴えかけます。故に乳幼児は律動に直感的反応を示します。

 

律動の違いによって人間は本能的に「安心感」「安定感」「焦燥感」「高揚感」「浮揚感」など感性の部分で影響を受けます。

 

ロックの場合は特に「高揚感」「浮揚感」などを感じる律動が主となります。この感覚は律動が一定時間持続する事により酔っ払ったような状態に似た効果により思考停止へと繋がります。理性が働かず感性に基づいた行動を中心とする状態が生じ、これが「快感」として記憶に残ります。ロックバンドのライブが好きな人はある意味「ライブ依存症」ともいえるかもしれません。

 

問3:楽器の編成などは「精神の解放」に関係しますか?

 

答3:使用される楽器の構成と音量などにも影響されます
ロックといえば使用楽器としてドラムセット・パーカッション・ベース・ギター・ピアノ・シンセ・キーボード類を用いた大音量を思い浮かべるかもしれません。


確かにそうなのですが、ロックのライブで観客が感じているのは実は「律動」を奏でる楽器の音が主。ロックでのポイントである「高揚感」「浮揚感」を構成しているのは具体的に律動を奏でるドラムセット・パーカッションそしてベースです。ベースは弦楽器ですがロックの場合は律動パートなのです。

 

旋律は知性的要素が含まれますので律動とは脳内で捉える場所が違います。しかしロックでよく使用されるエレキギターの定番であるディストーションやオーバードライブなどがかかったセッティングの場合、旋律は感性を刺激し大音量でミュートして弾くとそれだけで律動を奏でる事が出来、「理性から精神を解放する事に特化」に適しています。

 

2.御ミサでのロック

 

ロックの特性を考慮し御ミサを考えると・・・

 

問1:御ミサにおけるロックの問題点は何ですか?

 

答1:主に「祈りが出来ない事」「人間を賛美する事」「神を見失う事」などです

 

問2:「祈りが出来ない」とはどういうことですか?

 

答2:律動と音量により集中力が著しく低下します

 

問3:「人間を賛美する」とはどういうことですか?

 

答3:意識が演奏者に向けられます

 

問4:「神を見失う」とはどういうことですか?

 

答4:「高揚感」「浮揚感」などにより意識下から神の存在が消えてしまいます

 

解説

クラシックの場合、律動は存在しても律動を具体的に奏でる楽器を使用せず旋律楽器のみで楽曲を構成しているモノが多く在ります。
その点でクラシックは精神安定剤からほろ酔い気分、そしてカンフル剤までモーラしていますから平均的に知的に高度であると言えるのだと思います。

 

そういえばフランスなどではパイプオルガンと金管楽器がなっている場合がありますね。しかし御ミサで使用すると言った場合、Rickは個人的にはベートーベンやモーツァルトなどのミサ曲も必ずしも好ましいとは思えません。これも音量や律動、そして音の多さに問題がありそうで・・・

 

フォークミサというものもありますが、楽曲と楽器その奏法によってはまだ許容されるかもしれませんね。日本みたいにストロークでかき鳴らす反戦フォークみたいなものは駄目ですが。

 

そういう意味ではロックだけではなくジャズやボサノバ、レゲエなどジャンルを問わずドラムやパーカッションなど律動を刻むための楽器の導入自体が問題かもしれません。

 

また御聖堂でバンドのセッティングをする場合に「演者はどちらを向いているか?」もポイント。祭壇を向いていますか?それとも会衆席?会衆席を向いていたら、意識が神ではなく演奏者に向きがちですね。神を賛美するための演奏なのか?演奏者・会衆・司式者など人間を賛美しているのか?

 

またバンド形式の場合、演者は神を賛美している意識が希薄になっているのではないか?会衆に向かってアピールしているだけではないか?とかも思います。

 

そして最も問題なのはロックの場合、律動により得られた「高揚感」「浮揚感」などにより、その場しのぎですが快感に満たされる事ができます。それにより本来神による「主の平安」が位置する場所に「ロックによるまやかしの快感」が居座ることになります。このため意識下より神の存在が消え、かつ不必要になります。麻薬や酒に逃げるのと同じですね。

 

②バンド編成における問題点

(一部抜粋)

 

うちの教会の英語ミサはDaily Massのような一般的スタイルではなく・・・


【カナダのDaily Mass】

 

 

たぶんフィリピン・スタイルです。フィリピンの方が中心ですので・・・

 

ミサ曲も含めて御ミサで使用される音楽がPOPS系の音。うちの場合はPCにあるミュージック動画(唄・歌詞つき)をプロジェクターに映し出します。それに合わせてエレキギターのおじさんがパフォーマンスします。


主の祈りの時に、英語で「手をつなぎましょう」とアナウンスがありみんなで手をつなぎあいます。※これって「手をつなぐこと」の善し悪しではなく、根本的な問題が生じます。聖体拝領直前ですので手をつなぐと必然的に舌での拝領か、拝領をやめるしかありません。もし手で聖体拝領するなら手をつなぐことはできませんよね。

 

といっても当のフィリピンの方に聞くところによると、フィリピンでの御ミサがすべてこのようなスタイルというのではなく・・・Daily Massみたいなオルガンを使用する一般的なものもあれば、最近はトリエントミサも急増中。


また跪きや舌での聖体拝領率は日本よりも格段に高いということ。でもうちの御ミサではほとんどの方が跪かず手での聖体拝領ですから「日本適応版フィリピン新スタイルミサ」ということなのかな?もしかしたら日本式を押し付けてる?

 

あと・・・意図的かどうか分かりませんが「英語ミサ」と表示されると、世界中における全ての英語での御ミサはこのようなスタイルだと誤解を招きかねません。「フィリピン新スタイルミサ」と表示した方が良心的だと思います。

 

何人か怒って帰っていく白人系外国人グループを見ました。ただ英語ミサの良いところは「ミサ式次第」が日本司教団版よりラテン語原文に近いということ。やはり翻訳ですので問題はありますが・・・そして御ミサ自体が有効ならば、御聖体が拝領できるという事♪

 

ということで話がそれましたが、表題の「バンド編成における問題点」に話を進めましょう。先に結論を言います。「バンド編成における問題点」は・・・

 

「バンド編成は、演者の音楽志向がそのアレンジによって≪自由に≫表現できる」ということ。

 

この≪自由≫は制限されるのか?この≪自由≫を自己抑制するために規範はあるのか?行き過ぎの判断は誰が行い、誰が止めるのか?

 

「Shine Jesus Shine」という曲で考えよう

 

さて、うちの「フィリピン新スタイルミサ」で使用される「Shine Jesus Shine」という曲をご紹介します。アメリカ西海岸のヒッピー系伝道師による1960年代のプロテスタント「ジーザスムーブメント」から生まれたWorship Songというジャンルになります。この曲の様々なアレンジを聞き比べてみてくださいね♪

 

まずはこれ↓・・・うちの教会で使用されているものに近い動画。御ミサではここにエレキが加わります。

 

これ↓もよく似たアレンジですね。ほとんど同じ・・・


 

おお!これ↓は80年代POPSみたいです!!

 

これ↓はファンキッシュな感じ?(Live)

 

これ↓は70年代ディスコみたいです。(Live)

 

これ↓は・・・とうとう、やっちゃったって感じですね。(Live)

 

 

これ↓・・・日本語です。ハモって70年代のフォーク系バンドみたい。

 

これ↓も日本語です。やはり昔のフォーク系バンドみたい。


 

いかがです?アレンジしたい放題!特に日本語版の70年代フォーク系バンドタイプなんか大阪教区ミサでやりそう!!!教区ミサはシナピスの女帝が仕切っているという噂ですけど。彼女の趣味か!?

 

さて日本語版のプロテスタントの動画は別として、海外のライブ・・・どこかのイベント会場です。これなら問題ないんですよ♪ ちなみにRickの好みのアレンジは上から3番目の80年代POPSっぽい屈折した感じの音のもの。

 

だけど・・・これは御ミサで決して演ってはいけない。

いや・・・どれも御ミサではアカンやろ!って感じ。

 

③危険度の高いワーシップ・ソング

(一部抜粋)

 

カトリック教会内で私たちがロック・ミサやフォーク・ミサと呼ぶ御ミサ中にバンド形態で使用される音楽は、ジャンルとしてワーシップ・ソング(Contemporary worship music)=「現代的礼拝音楽」というものに当たるらしいです。

 

資料を取り寄せたり色々調べている間に、このワーシップ・ソングを「しっかりと認識しない事には大変な事になる」といった感触を得ました。

 

それでは、まずワーシップ・ソングとは何か?を考えてみましょう・・・

 

Worship Song

 

細かい点では諸説色々あるようですので、大雑把ですが・・・

 

プロテスタントの共同体の一部において、若者離れへの対策の一つとして当時の世俗的流行の音楽にクリスチャン的な歌詞がのった歌を用いる発想が起こったのがW.W.Ⅱ後の50年代から60年代。

 

そして花開くのが70年代で・・・

 

1960年代後半~70年代前半にアメリカ合衆国の西海岸で起こったジーザス・ムーブメント(イエス革命)の影響大。

 

ジーザス・ムーブメントは「下からの神学」派の反体制的ヒッピー版と思えば分かりやすいかも。またはジーザスの名の下に「Love&Peace」を説くといったバージョンも??

 

彼らは「人間イエス」が好きですしねぇ・・・有名なロック・ミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」の世界観なんかもそうかも。

 

時代的に警察相手のデモの合間に昨日まで「プロテストソング」をフォークギターで歌っていた連中が、ジーザス・ムーブメントの影響で今日からは「イエスの愛」を歌う。

 

基本的にプロテスタントは「ミサ聖祭」というものはありませんので礼拝は単なる集会・祈りの会。だからある意味好きにできる。ということで、礼拝の時には自分たちで作ったフォークソングアレンジの歌を用いるようになります。これをワーシップ礼拝といいます。

 

若者に媚びるワーシップソングの宿命として、フォークソングにとどまらずロックやファンクなど受けそうなものに変化していく・・・

 

ワーシップ礼拝について推奨者はこう語ります。

 

「ワーシップソング(略してワーシップと言うことが多い。)あるいはプレイズ&ワーシップソングとは文字通り「礼拝の歌」であり、伝統的な聖歌、賛美歌に比べて、より現代的な音楽として最近多くのプロテスタント教会で好まれるようになっています。特に若い人々にとっては、意味のわからない文語で、テンポの遅い賛美歌に比べて、より心を解放して歌いやすいのが受けているのでしょう。


 しかし、音楽的趣味の問題よりも、礼拝賛美というものを生き生きとしたものに蘇らせたのがワーシップの大きな功績でしょう。ワーシップは単純なメロディと歌詞の繰り返しであるため、音符や歌詞にとらわれることなく歌うことができ、また多くの場合、歌集を見ながら下を向いて歌うのではなく、OHPスクリーンに映し出された歌詞を見ながら歌うので、解放された両手と顔を上に向けて、心を高揚させて歌うことができます。また歌詞の内容も、神を称えることが中心です。


 アメリカでは半数以上の教会が伝統的な賛美歌を礼拝では使わず、Praise&Worshipのみであるという統計が出ています。併用している教会も含めれば80%以上にもなります。しかも、そのような教会の会員数は、賛美歌しか使わない教会の2倍以上です。また急速に教会が増えているアジア、アフリカ、南米などはペンテコステ、カリスマ派の教会が多いことを考えると世界的にはかなりの趨勢になると思われます。


 ワーシップの功績は、礼拝と賛美の刷新です。形式的でなく、心からの会衆賛美が神に捧げられる礼拝は素晴らしいものです。顔や手を上に向けて、繰り返し繰り返し、自分達の日常の言葉で神を賛美することで心が神に向けられていきます。体を揺るって歌うのは、もはやカリスマ派の専売特許ではありません。これを音楽的な趣味の違いや、表面的な違和感、習慣、文化、世代の違いから拒否するのは残念なことです。しかし伝統的な聖歌、賛美歌の価値も否定してはいけません。その中にも本当に素晴らしい賛美があります。いろいろなジャンルがあっていいでしょう。心から神がたたえられる礼拝であるならば!(eChurch-Japanより)」

 

ね、とても危険でしょ?

 

日本におけるカトリックではよく聞かれる内容との親和性が高いと思いませんか?カトリックの教義や慣習よりもエキュメニカルの名の下にプロテスタントと連帯して「新しい教え」に従うということなのでしょうか・・・

 

さて問題は「カトリックにこれが必要なのか?」です。秘蹟などのないプロテスタントによる世俗を迎合した礼拝における苦肉の策。それを信仰の頂点であるカトリックのミサ聖祭に取り入れるということは、ミサ聖祭を根本的に破壊することではないでしょうか・・・

 

「聖変化」「イエズス様の現存」「聖体拝領」「カルワリオの再現」などなど、きちんと伝えればいいだけではないのかな?

 

ワーシップソングに頼らなければならないほどに司祭のレベルが低下、または自信がないのか?ワーシップソングを用いてミサ聖祭の破壊を反カトリックの手先となって意図的に行っているのか?

 

④御ミサをワーシップ礼拝にしたいのかな?

(一部抜粋)

 

教会音楽論と大それたタイトルを掲げ、ロック・ミサの話からワーシップ・ソングへと話は進みましたが・・・

 

突き詰めていくと、これは音楽だけにはとどまらない「脅威」ではないかと感じ始めました。

 

ワーシップ礼拝は集団トランス状態に導く?

 

ワーシップソングを具体的に調べていて、特に感じた事があります。
それは「個人」と「集団」、「私」「私たち」と「聖三位」との関係性です。

 

ほぼRickが感じたことをWikipediaで上手にまとめてあったので拝借:

 

「CWM(ワーシップソングのこと)はカリスマ運動と密接な関係にあり、歌詞の内容や、時には音楽的な要素もその神学を反映している。カリスマ運動は特に聖霊、神との個人的な邂逅や関係、およびアガペーの愛を重視することが特徴である。


 歌詞では、関係を表す表現に口語や親称表現が用いられる。「私達」"we" や「神」"God" に代わって「私」"I"「あなた」"You" といった語彙が用いられることが多く、ポップスのラブソングと似たような歌詞をもつものもある。俗語や命令形なども使用されており、こうしたくだけた表現は神との個人的関係を強調するカリスマ運動の神学の現れである。

 

 また「両手をあげる」「踊る」「歌う」といった身体の動作を表す歌詞も多く、ドラムスによりポップスのリズムが加わることで全身での礼拝を促す曲が構成される。歌詞の隠喩表現は主観的で誤解の危険を孕み、上記のような神との個人的関係の強調は必ずしも知的な理解と同等なものではない。」

 

「カリスマ運動」自体は難しいので、現在は敢えて頭からはずしてあり言及できませんが・・・

 

歌詞に「I」や「You」が多い事は気になりました。さて、この「I」や「You」が多い部分から「個人」的関係に見えますが・・・礼拝という空間においてリズムに合わせて手拍子するなどは五感を刺激することによる「集団」との関係性もあるのでは?と思います。

 

ワーシップソングまたはワーシップ礼拝は各々の「自己暗示」が共鳴しあった「集団トランス状態」「集団酔っ払い状態」に導く可能性があります。

 

「五感には感知せられないが、ミサ聖祭において主イエズス・キリストは、パンとぶどう酒との形色のもとに実際に祭壇に降臨し給い、世のいけにえとなり、人々の霊魂の糧となり給う」カトリックの「御ミサ」ではない、祈りの集いであるプロテスタントの「礼拝」においては、擬似神秘体験を得る一つの方法なのかもしれません。

 

しかし考えすぎかもしれませんが・・・そのような人為的に作られた擬似神秘体験の中で「聖」と「悪」を見極めることができるのでしょうか?

 

「聖霊の働き」も「イエズス様」も「天主様」も人智を超えた存在としていらっしゃるわけですし、その集会が「聖なる働き」に満たされる事もあるのでしょう・・・しかし必ずしも「聖なる働き」であるとは限らず、「悪の働き」ではないと否定するためにはどうするんだろう?とか思ってしまいます。

 

そこで問題なのは完全なる「ミサ聖祭」があるカトリックがなぜ擬似神秘体験を促すワーシップ・ソングを取り入れようとするのか?ということです。(と、これは一部からツッコミが入りそうですね「完全なるミサ聖祭とはノブスオルドミサではなくトリエントミサの事だ!」とか・・・汗)

 

カトリックの御ミサにワーシップ・ソングを導入する理由をRickどうしても見出せません。

 

ー終わりー

 

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