Leonard Ravenhill, Agony(拙訳)
我々は十字架にかけられた人の、苦悶に満ちた死に様を見たことがない。
その男が十字架に釘づけにされるや、その人はすべての権利を失った。そしてもしあなたが十字架に釘づけされるなら、あなたもまた、自分のすべてを失うことになる。
パウロは言った。「わたしに煩いをかけないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのだから。私は奴隷である印を帯びているのだ。そう、私はイエス・キリストの奴隷なのだ」と。
私の中に、もはや自分自身の意志はない。自分自身の権利も持たない。
かつての讃美歌にこのことをテーマにしたものがある。
「私の手をして 主の言いつけをなさしめよ。
私の足をして 主の道を行かしめよ。
私の目をして イエスのみを見させよ。
私のくちびるをして 主への讃歌を歌わしめよ。
すべてをイエスのために。
贖われしすべての力を
すべての思い、言葉、行ないを
そして すべての日々、すべての時間を イエスのために!」
この人パウロはいわゆる「職業的な」説教者ではなかった。
説教は、職業などではない。
それは情熱(passion)である。
パウロの務めの中に、「専門家かたぎ(プロ意識)」のような気配は一つもなかった。そして感謝すべきことに、そこには商業主義のようなものも一切存在していなかった。
パウロには恐れがなかった。彼は言った。「私は御父の前でひざまずく」と。
パウロは御父の前でひざまずいたため、それ以外のいかなる権力ーーそれが悪魔であろうが、政治家であろうが、諸王であろうがーーの前にも、ひざまずかなかった。
彼は威厳をもって、彼らの前に立ったのである。「私は自分の体に、主イエスの焼き印を帯びている。」
米国だけでも、
何百何千という福音テープ、信仰書、神学校が存在し、
何百というバイブル・セミナーが開かれ、
聖句を暗記している聖徒も多い。
それだけでなく、五千ものキリスト教ラジオ局が毎日のように
メッセージを発している。
それなのに、、、これほど恵まれた環境にありながら、
ああ、私たちはいったい何をしているのだろう?
そう、これだけの霊的糧が与えられているにもかかわらず、
我々の大半は、未だに霊的足なえではないか!
霊的赤子、
霊的乳児ではないか!
自己憐憫
自己利益
自分探し
自己実現
自己中心ーーで夢中になってしまった子たち。
ある人は、神が与えるからという理由で神を愛している。繁栄の教えにより、私たちは発育阻害を被っている。
しかしこの点に関し、パウロは明確にこう言っている。「やがて、信心を利得と考えるような人々が出てくるだろう」と。
ペテロは彼の生きた時代について次のように言っていた。「彼らは、貪欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう」と。
そして我々の生きる今日ほど、その状況が当てはまる時代はかつて存在しなかったのである。
世界にこれほど飢える民がおり、宣教地では献金がぜひとも必要とされている切実な現状があるにもかかわらず、
神のお金が、豪勢な建物やスイミング・プール、
テニス・コートなどの費用に流れていっている。
パウロは福音を「魅惑的なもの」には仕立てなかった。
それは実に凄惨な福音なのである。
血にまみれた福音なのである。
犠牲的な福音なのである!
キリスト教の神髄は、犠牲であって、成功ではないーー私はそう信じる。
犠牲である。
我々が取り扱うべき最も尊いものは、人間の魂なのである。
天国への道は、一つしか存在しない。その一方、地獄への道は、何百万と存在するのだ!
「どのようにしたら人は地獄に行くようになるのか?」とあなたは問うかもしれない。
どのようにする必要もない。何もしないでいればいい。それだけで十分なのだ。神を軽蔑する必要もなければ、イエスの御名を冒涜する必要もないし姦淫を犯す者になる必要もない。ただそのまま進んでいけばいいのだ。
なぜなら、この世で最大の罪は、姦淫ではなく、「神なしで自分は、己の人生のかじ取りができる」という思い上がりであるからだ。これこそが最大の罪なのである。
「なぜ神は私に(聖なる)重荷・ミッションを与えてくださらないのか?」とあなたはまた言うかもしれない。なぜか?
それは、主が我々を信頼できないでおられるからなのだ。
我々はその重荷を背負えるほど、強くない。
我々の多くは、さらなる啓示の光をもはや必要とはしていない。
さらなる光(知識)はかえって、審判の日に、あなたにとってマイナスとさえなるだろう。我々が必要としているものーーそれはむしろ、さらなる従順なのである。
我々の多くは長年にわたって、自分のなすべきことを知っていながらも、未だにそれをなさずにいる。そしてためらっているのである。
イエスが弟子たちに仰せられた、あの偉大な言葉を覚えているだろうか。「わたしはあなたがたに言うべきことがたくさんありますが、
あなたにはそれを聞く力がありません」と。
わが国のクリスチャンの大半はぜい弱である。だから神は、ビジョンや(聖なる)重荷を我々に委託することがおできにならない。
宝石で飾り立てた子たちに委託することはできないし、臆病な子たちに委託することもできない。
「永遠」の中に五分もいたなら、
我々は皆、すぐにこう悔やむだろうと思う。
ああ、地上にいた時、もっと主のために犠牲を払っていたなら。
もっと祈っていたなら。
もっと愛を注いでいたなら。
もっと奮闘していたなら。
もっと嘆いていたなら。
そしてもっと泣いていたならと!
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