巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「私の主人には神様からの召命がありません。そんな夫にどうやって従っていけるというのでしょう?」ーーエープリル・カスィディ姉の奮闘記【総集編】

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出典

 

目次

 

はじめにーーエープリル・カスィディ姉妹について


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エープリルさんは、サウス・カロライナ州に住む方で、二児の母、パートタイムの薬剤師です。非常に熱心なクリスチャンである彼女が長年抱えていた最大の悩みは、「頼りなく」「霊的なクリスチャンでもなく」「無気力でうだつの上がらない」夫グレッグさんにまつわるものでした。そして夫婦関係は座礁に乗り上げていました。

 

その中で悶々と苦しんでいた彼女にある時期、主が御言葉を通し、「夫のリーダーシップというのは、神ご自身によって立てられたものであり、そこには創造の秩序という美しさがある」ということを啓示してくださったのです。そこから彼女の人生に一大変革が起こりました。

 

2011年4月、全く別人のように変えられた妻エープリルの姿に感動を覚えた夫グレッグ氏が、「この間に君が体験したこと、主から学んだことを他の奥さんたちに分かち合ったらいいと思う。ブログを始めてごらん。」と提案されました。こうして生まれた彼女のブログwww.peacefulwife.comは、夫婦関係回復を祈り求めている多くのクリスチャンの間で読まれており、主に尊く用いられています。また、その一連の過程は、多くの人に感動と励ましを与え、書籍化もされました。

 

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The Peaceful Wife: Living in Submission to Christ as Lord

 

「私の主人には神様からの召命がありません。そんな夫にどうやって従っていけるというのでしょう?」

 

 

おそらく今あなたは、「今後私は、主人の助け手となっていこう、夫を立て夫を敬っていこう、夫のリーダーシップを尊重していこう」と、新しい人生の歩みを踏み出そうとされておられるかもしれません。

 

しかしここで問題が一つ生じます。あなたのご主人には見たところ、人生におけるビジョンとか夢とかいったものがなく、家族を引っ張っていけるようなしっかりした目標もなく、神様からの明瞭な召命もない、、、のです。

 

主人自身がそういう点をよく把握していないように見える状況なのに、どうやってそういう人を助け、サポートしていくことができるというのでしょう。私の前に座って、自分の抱いている長期的な展望や計画を話そうとしてくれない(いや、そういう展望さえ元々ない?)人にどうやって従っていけましょうか。

 

「ああ、もういやだ。」あなたは、そういう状況に愛想を尽かし、そうしてあきらめと無気力のうちに、ご自身の人生を無駄にしますか?

 

でもそれって、とっても悲しいことではないでしょうか?

 

それがまさに6年前の私の姿でした。この点において神様が私を取り扱われ始めたのが6年前なのですが、それ以前、私はこう考えていました。「夫のグレッグを通しては、神様は私を導くことなんかできない」と。

 

ああ、でもそれはとんだ間違いでした!後で分かったのですが、神様がグレッグを通して私を導くことができる・できないということが問題ではなかったのです。

 

むしろ問題は、私が神さまに従っていこうとしていなかったこと、それから、神様とグレッグの「時」を待つことができない「自分のせっかちさ」にあったのです。私は自分流のプランを全面に打ち出し、とにもかくにも、それを推し進めていこうとしていたのです。

 

愛する姉妹のみなさん、私はこれから自分の発見した驚くべきことをみなさんにお分かち合いします。そうなんです。たとい、あなたのご主人が今現在、神様からの召命をご存知なかったとしても(もしくはまだそれが見えない状態にあるとしても)、神様は実際、ほんとうにあなたのご主人に対してそういった召命およびビジョンを持っていらっしゃるんです。

 

そして主はあなたに対してもそのような召命を与えておられます。そうしてあなたとご主人のそれは結び合わさるのです。

 

神様がどこに導いておられるのか、たとえ今ご主人自身にその自覚がなかったとしても、不安に思わないでください。大丈夫です。神様はご主人をどのように導いていけばよいのかご存知です。そしてあなたをどのように導いていけばよいのかもご存知です。全知全能の神様はご計画を持っておられます。

 

ですから、今、ご主人が生涯を貫く壮大な青写真を描いてみせることができなくても大丈夫です。今後5年間の霊的ビジョンを打ち立てることができなくても大丈夫です。

 

目下、(あなたの計りによれば)ご主人は敬虔なリーダーでもなく、夫でもなく、父親でもないかもしれません。そして、そういうご主人を用いては、神様はあなたや子供たちを導くことができないと感じているかもしれません。

 

いえ、どうか気落ちしないでください。神様は異教徒の王や国々を用いてさえーー彼ら本人が、主のご計画遂行に協力していたということを自覚していたか否かに関わりなく、主の業をなすことができたのです!

 

これはすばらしいことです。なぜなら私たちの創造主である神は全てを統べ治めておられ、全能であられ、なおかつ全知であられるからです。ですから、鍵は、私たちの夫にあるのではなく、神様にあるのです!

 

主の働きを始めるにあたって、私たちは「何がなんでもこの計画の全貌を把握しなければならない!」と力みがちです。しかし、ほとんどの場合、神様はそのような方法では働かれません。(もちろん、そのように働かれる場合もあります。例えば、主はある方を若い時期に、生涯にわたる明確な宣教の働きに召すこともあります。)

 

しかし、現時点においては、遠い未来を見渡せるようなはっきりとした鳥瞰図が与えられていない場合もあります。いや実際のところ、ほとんどの場合、ただ次のステップが見えるに十分なだけの光を与えつつ、一日一日の単位で私たちを導いておられます。でもこれは、(私も含め)前もってしっかり計画を立てるのが好きな方にとっては、なかなかやっかいな事です!

 

でも逆に言えば、ここが肝心かなめなポイントなのかもしれません。つまり、私たちが先走ってがっちり打ち立てた自分流の計画によってではなく、信仰によって歩んでいくーーそのことを学んでいく必要があるように思います。

 

神様は一日一日と、ご自分に従っていくよう私たちを召しておられます。そして、主のみこころが将来どんなものになるかを把握する以前に、それが何であれ、主の御意思に自発的に従っていくことを求めておられます。

 

女性らしさ、結婚、キャリア、子育て、夫婦の役割とかいったことに関してですが、私はこれまでそういったことを文化的に「なんとなく」受け入れていました。でもそれについて真剣に考えたことはありませんでした。というのも、私は自分はれっきとした聖書的な妻だって思い込んでいたからです。

 

結婚に関する聖句だって何度も読んでいました。「妻もまた夫を敬いなさい」(エペソ5:33)などを読んでも、「うん、自分はオーケー」と思っていました。

 

ぎゃーぎゃー叫んだり、呪ったり、物を壊したり、夫に物を投げつけるようなことはしていませんでしたし、、(あっ、でも一度主人に洗濯物を投げつけたことがありました。でも幸い、命中はしませんでした。)

 

まれに主人が何かを強く主張する時がありましたが、そんな時は、「まっ、主人には神与なる権威が与えられているんだから」と思いつつ、最終的に譲歩してあげていました。

 

でもその譲歩に至るまでに、私はとにかくがみがみと主人に言い逆らい、いかに自分の意見が主人のそれよりすぐれていて、かつ聖書的であるかを説きつつなんとか夫の決心を変えようとあがきました。一言でいうなら、私は喜んで従う妻ではなかったのです。

 

「たいていの場合、主人は私の言うことに同意してくれているし、万事はオーケー」と私は思っていました。そして主人が(私を)リードできるよう努めていました。もちろん、私が彼に望むやり方で、ですが。また私は夫に早急な決断を迫りました。

 

そして、自分のようにさっさと決心できず、もたもたしているように見える夫にいらだちを覚えていました。私は彼に「第二のエープリル」を期待していたのです。つまり女性のような思考を。

 

でも彼はそういった決断を前にして、熟慮する時間を必要としていたのです。そういった意味で彼の考え方のプロセスは私とは違っていたのです。でも私はそれに気づいていませんでした。

 

結婚していても、私はとても孤独でした。ストレスと重圧と心配で押しつぶされそうでした。私はいつも自分流のやり方で物事を解決しようとしていました。また結婚問題についても自分でそれを背負いこんでいました。霊的にも、精神的にも、経済的にも、私は自分がそれに責任を持たなきゃと感じていて、心に平安がありませんでした。

 

私は支配的な妻でした。人をコントロールするタイプの女性でした。私は一卵性のふたごですが、支配的な性格が幼少時からみられました。私は社交的でフレンドリーで断固とした気構えを持つ女性でした。薬剤師になってからは、そういった支配的な傾向にさらに拍車がかかり、結婚生活のかじ取りも自分がするようになりました。

 

職場で私は、患者さんに「ああしなさい」「こうしなさい」とカウンセリングしていたのですが、そのモードは家に帰っても変わることがありませんでした。私は夫にもああしなさい、こうしなさいと指示しました。それもかなり頻繁に。

 

私は自分自身に対しても、自分の周りにいる人々のことに関しても、妙に責任を感じてしまっていました。(その当時、私は全てをつかさどってくださっている神の至上権について理解していなかったのです。ですから、そこにあるのはただ自分の責任感だけでした。多くの点で結局、私が信頼していたのは、神さまというよりも自分自身だったのです。)

 

学校や職場では自分流のやり方が報われる

 

私は学校でもどこでもとにかく頑張り屋さんでした。そして完璧主義者でした。そして過度に自分に厳しく、自分のことを、そして他の人のことを寛容な心で受け止めてあげることができませんでした。

 

私は自分の目指すところが何であるかをしっかり把握しており、それに向かって突進するタイプでした。その一方で八方美人でもあり、みんなに好かれようとやっきになっていました。

 

私は自分の状況判断能力に自信を持っていました。それは自分についても、主人についても、他の人のことについても、そうでした。口にこそ出してはいませんでしたが、実際、私は自分が神様よりも状況をちゃんと把握していると思っていたのです。

 

「周りの人はみんな私のアドバイスや助けを必要としている」って思ってました。そしてそういう自分のやり方は、学校や職場では見事に報われました。

 

抜群の成績、全額奨学金、顧客サービス部門での大賞受賞、、、でも、なぜ自分の夫にだけは、この方法が功を奏さないのだろう?それが分かりませんでした。

 

消極的な夫

 

結婚する前から、主人はどちらかというと、物静かで、落ち着いており、控え目な人でした。結婚した最初の夏、住居のことやら、夫の職探し問題のことなどで、私たちはいろいろと衝突しました。すると夫は自分の殻にしっかり閉じこもるようになり、ほとんど何も話さなくなっていきました。笑いもしませんでした。

 

最初の夏の間、彼は私に触れることもせず、「おやすみ」も言わずに寝室に退くこともしょっちゅうありました。私たちは六年の交際期間の後に結婚したのですが、「えー、じゃあ、あのやさしくて責任感があって、しっかりしていて、しかも私を愛してくれていたあの人は一体何だったの?」と私は茫然となりました。こうして彼はますます消極的になっていき、その結果、私は「じゃあ、私が舵を取らなきゃ」と思い始めました。

 

実際、夫にその時何が起こっていたのかというと、彼は圧倒され、困惑し、私にどう接してよいのか分からずにいたのです。彼は彼なりに新居のことで一生懸命夜中まで働いていました。彼は疲労困憊していたのです。また夫として、家庭のリーダーとして不慣れな状態だったのです。

 

そしてがみがみ言う私のこういう姿を見たことがなかったのです。疲れて家に帰ってくる夫を待っているのは、ヒステリックな自分でした。それで夫は、「数日、妻をそっとしておいてやろう。そしたら落ち着くだろう」と思っていたのです。でもそれはうまくいきませんでした。

 

何はともあれ私たちは結婚生活を続けました。一応、住居問題のことが一段落すると、状況はましになりました。でも私たちの間に横たわる不健全なパターンは深い根をおろしてしまっていました。

 

私たちは両方とも、あまりにも準備不足でした。

 

私は実際、かなり高慢な人でした。でもそうじゃないって思っていました。ほら、箴言にも「人の心の高慢は破滅にさきだつ」(18:12)って書いてありますよね。

 

だから私たち夫婦に限っては、他の夫婦のようないざこざはある訳がなく、結婚前の6年間と同じように、これからもきっとうまくいくはずって思っていました。

 

私は自分が実は利己的でわがままで霊的に未熟なクリスチャンだという事実に気づいていませんでした。私は孤独でした。頼ることのできる人は誰もおらず、助言をくれそうな人もいませんでした。私は自分の苦しみを夫に分かってもらおうと、毎日、彼に訴えました。何もかも聞いてもらいたいと。

 

もし彼が私の苦しみの切実さを知ってくれれば、また前のように自分のことをかまってくれ、愛してくれるかもしれないと思っていたからです。ああ、でも、私は自分が完全に拒絶されたように感じ、まったく愛されていないように感じました。その時気づいていなかったのは、自分がかなり不遜な態度で夫に近づいていたという事実でした。

 

主人はその時もまだ私を愛してはいたのです。でも私たちはこういった危機のただ中にあって、それを乗り越えるすべを知らず、相手が何を必要としているのか、それを思いやる余裕さえなかったのです。

 

もちろん、私たちの結婚生活はすべてがすべて真っ暗という訳ではありませんでした。でも住居の問題やらひどい不眠症やら、その他もろもろの問題によって、私たちの結婚は暗礁に乗り上げていました。

 

「神様、主人を変えてください!」

 

結婚後14年間、私は「主よ、主人を変えてください!」と祈り続けました。主人さえ、もっと愛にあふれた人に変えられ、家のリーダーとして立つことができるなら、万事はうまくいくはず!と思っていました。

 

でも祈りが答えられる気配はありませんでした。私は自分が主人を神様の前に、引きずっていって、「自分の願う通りの夫にしてください」と無理じいしているような気がしました。

 

私は否定的で批判精神旺盛でしたし、それに親分風を吹かせたがる傾向がありました。私は主人をあるがままに受け入れていませんでした。とにかく彼に変わってほしいって思ってました。そしてあくまでも私の願うやり方で動いてほしいと夫に対して思っていました。

 

それで、本来、神のみこころを祈っていたはずなのに、祈りを聞いてくださらない神様に腹を立ててしまっていました。でも気づいたんです。私が、夫に付与されている、神より与えられた権威に対して不遜な態度を取り続ける限り、私の祈りは今もこれからもきかれない、ということを。

 

気づき

 

そんなある日、私はエガーリッチス(Eggerichs)著『愛と尊敬』という本を読みました。この本の中で著者が説明していた「不遜の計り」という箇所を通して私の霊の目は開かれ、自分が実は、結婚生活を破壊してきたということに気づいたのです。

 

そう、私だったのです。私の不遜な態度により、主人はわが身を防御すべく、私から遠ざからざるをえない状況に追い込まれていたのです。

 

私はこれまで結婚生活における神様からの私に対する評価はAプラスではないにしても、Aだろうと思っていました。でも私の実情はDマイナスだったのです。この事実を示され、私は打ちのめされました。そして悔い改めに導かれました。

 

女性にとって愛されることが必要であるように、男性にとっては尊敬を受けることが必要なんだという事実に私は気付いていなかったのです。

 

私は男性も、私たち女性と同じように考えたり感じたりするものとばかり思っていました。もし主人が結婚生活をする中で、なにかに傷ついているのだとしたら、それを私に言ってくれるはずだと思ってました。私がいつも彼に言っていたように。

 

彼のニーズは私のそれと同じで、私たちは「同じ」なんだって思っていたんです。それが結局、フェミニズムが私たちに教えてきたことだったんですから!

 

こうして次第に、私は主人の持つ、男性としてのニーズそして世界観について理解し始めました。そして驚きました。主人の見る世界と私のそれがいかに異なっており、主人の考え方と私のそれとがいかに違うかということに。こうして、結婚に対しての神様の御旨(計画)そして、聖書的な女性らしさ・男性らしさについて私の目は開かれ始めたのです。

 

そして私は決心しました。これから最善を尽くして、敬虔な妻のあり方について学んでいこうと。

 

2008年の暮れに、私は主人に言いました。「グレッグ。いつの日かね、あなたは世界中で一番尊敬されている夫だって感じるようになるよ」って。夫は笑いました。(皮肉の笑いじゃなくて良い意味で。)

 

長い道のり

 

「主よ、私を変えてください。」私はこう祈り始めました。私は主人の中にみられる良い点について、神と夫の前で感謝の気持ちを伝え始めました。神の恵みによって、私はへりくだりました。そうすると少しずつ状況に変化が表れてきました。

 

私は先回りして、舵取りをすることをやめました。自分こそ物事の最善を把握しているんだという思い込みを捨てました。そうすると実は、主人は妥当にして賢明な意見を持っていて、私のやり方でやるよりも、より良い方向に私たちを引っ張っていく場合が多いことにも気づかされました。

 

そして神様の道というのは、自分の道よりも高いということを学ばされました。さらに、私たちの主人および神様というのは、私たち妻とは違う時刻表を持っていることにも気づきました。そしてそれが違っていていいんだってことを。

 

しかしこうしたものが内実化するまでには、時間がかかりました。多くの学び、祈り、へりくだり、そして神の御霊の働きが必要でした。

 

しかし二年余り経った後ついに、「尊敬するという行為」と「聖書的服従の態度」は、私の内でひとつの習慣となりました。それまではやはりかなり意識して霊的、感情的「筋トレ」をしているような感じでしたが、もはやその必要がなくなっていきました。

 

また女性らしさに関する神様のご計画を学ぶ中で、私の中で恐れに縛られていない、柔和で穏やかな霊というものが育まれていったのです!この私がです!なんとおどろくべき神様でしょう。

 

予想もしなかった祝福

 

このようにして真に神様に従うようになってから、驚くべきことが起こりました。今までに体験したことのない深い平安と喜びで私の心は満たされるようになったのです。そしてキリストのうちにある女性としてのアイデンティティーを私は理解し始めたのです。

 

私はその中に美しさ、女性らしさを感じると共に、自分が強められるのを感じました。いままでずっと求めてきた、そしてそうなりたいと願ってきた、その女性へと私は変えられつつあったのです。そしてもう、自分たちの結婚生活について以前のように後悔しなくなりました。

 

私が主人が必要としているものを察知するようになり、それをどのように提供してあげることができるのか学んでいきました。何年もの間、私は「ねえ、いったい何がほしいの?私に何をしてほしいの?言ってよ!」と主人に強く迫っていました。でも主人は自分が何を求めているのか分からなかったのです。

 

だから私は「自分が彼に提供してあげられるものなんか何にもないんだ、彼を祝福してあげることなんてできないんだ」と思っていました。彼の愛を必要としていましたが、彼は私のことなんか全然必要としていないと感じていました。

 

でもそれは違ったのです。私にも、彼の男性としてのニーズに応えてあげることによってなにがしかの尊い貢献をすることができるっていうことに気づいたのです!うれしい。

 

尊敬すること、そして聖書的恭順(biblical submission)についての学びは私に喜びをもたらしました。今まで背負ってきた世の重いくびきがとれ、私は解放されました。

 

恐れ、不安、圧倒されるような思いに苦しめられることがなくなりました。愛されている、大切にしてもらっている、守られていると私は感じはじめ、そして神様の愛と主人の愛の中で憩うことができるようになりました。何もしなくてもじっとそこにとどまるだけで幸せでした。

 

こうして私の人生は大きく変えられていきました。そしてそれをなしてくださった神様に対する感謝と賛美で私の心は満たされています。

 

新しい務め

 

2011年4月、主人が私に言いました。「君が今まで学んできたことを他の奥さんたちと分かち合ったらいい。うん、ぜったいにそうしたらいいよ」と。

 

彼はその時までにかなりの期間、私の変化を目撃しており、この変化は今後も私のうちにとどまり続けるだろうことを見たからなのです。

 

こうして私のブログwww.peacefulwife.comは始まりました。私の祈りは主が私を用いてご自身の真理のみを語られ、他の方々が私のたどってきた歩みを通して、希望と勇気、そして信仰を見出すことです。

 

そしてなんと今、主人は自分のことを「尊敬されし夫」と呼んで、その通りのタイトルで男性のためのブログを始めているのです!www.respectedhusband.wordpress.com 

 

私は驚きました。これから神様は主人を通してどんなことをなさろうとしているのでしょうか。

 

奥様たちのための祈り

 

神様のたてられた結婚の掟に従うことが、あなた自身の内的満たし、親密感、平安、喜び、愛への道であることをあなたが知ることができますように。そしてその中に力を見出すことができますように。

 

結婚における女性および男性に対する神様のご計画は美しいものです!主の道は最高の道です。それは私たち自身の道よりもずっとずっと良いものです。主の神聖なご計画の中で私たち男女は互いを補い合うために造られ、お互いに異なっているのです。神様の掟は自由と喜びをもたらします。

 

聖書は今日の私たちにも意味をもち説得力をもって語りかけてくる書物です。私と同じように、みなさんも、キリストとの霊的歩みの中で、そしてご主人との歩みの中で、同じ喜び、平安、そして満たしを見出してほしい、それが私の祈りです。ありがとうございました。

 

ー終わりー

 

「ああ、主人がもっと私と一緒に祈ってくれたらいいのに、、、」

 


訳者メモ

この記事を書く一週間前に、エイプリル姉妹は、読者である姉妹のみなさんを対象にアンケート調査を行ないました。実際に回答に応じてくださった姉妹のみなさんは297人。その中でクリスチャンのご主人を持つ人の割合は80%。ノン・クリスチャンのご主人を持つ人は10%。「夫が何を信じているのかよく分からない」と答えた方は8%でした。



質問1)(食前の祈り以外の場で)ご主人は「一緒に祈ろう」とあなたに提案してくれますか。


全くしてくれない―41%
ほとんどしてくれない―27%
時々してくれる―13%
毎日してくれる―7%
かなり頻繁にしてくれる―7%
その他―4%


質問2)あなたはどのくらい個人の祈りをしていますか。


一日中―47%
毎日―37%
一週間に数回―13%
ほとんどしない―3%
全くしない―0% 


質問3)「主人がもっと率先して祈りを導いてくれたらなあ、、」と思いますか?


すごくそうしてほしい!―87%
どっちでもかまわない―7%
その他―4%
そうしてほしくない―2%


質問4)ご主人があなたと一緒に祈ってくれない時でも、あなたは自分がキリストの内にあることのみで満たされていますか。


かなりいつも満足できている―37%
いつも満足できている―31%
ときどき満足できる―23%
ほとんど満足できていない―4%
その他―3%
まったく満足できていない―2%

ーーーーー

私たちクリスチャン女性の多くは、結婚するに先立ち、夫に対して、次のような期待を抱いているのではないかと思います。「きっと彼は私と一緒に祈ってくれるはず。御言葉を私と一緒に読んでくれるはず。そうしてわが家の『霊的リーダー』になってくれるはず。」


そして、その事自体は、本当に良いことです。結婚したご夫婦や家族が共に祈り、御言葉を読むことができるなら、これほどすばらしいことはないと思います。


しかし、、、です。現実はどうかというと、クリスチャン妻の大多数にとり、そういった領域で、彼女たちは夫に「導いてもらっている」とは感じていません。


《一緒に考えてみましょう》


私がまずみなさんと一緒に考えていきたいのは次の点です。

―「共に祈ること」「聖書の学び」などは本当に、私たちの夫の霊的リーダーシップの資質や得点を計るバロメーターなのでしょうか。

―私たちは、彼と一緒に祈り、聖書を読むべく、夫に嘆願し、なんとか彼を説得すべきなのでしょうか。

―そして仮に、彼がそうしてくれない場合、私たちは失望してしかるべきなのでしょうか。

―夫と一緒に祈りたいのに、彼があまり興味を示してくれない場合、私たちはどうすべきなのでしょうか。

 

結婚生活の中での祈りはすばらしいものです。しかし、ここでみなさんとご一緒に考えてみたいのは、次のことです。つまり、「主人は霊的リーダーなんだから当然すべきよ」と私たちが信じ考えている一連のことは、はたして本当に聖書が夫に命じていることなのでしょうか。

 

「夫が率先して祈りを導いてくれない」「『最近、君の霊的調子はどう?』とか、そういうスピリチュアルな気遣いをしてくれない」「一緒に聖書を開いて、みことばを分かち合うこともしてくれない」ーーそして私たちは、夫に対し憤慨したり腹を立てたりしてしますが、それははたしてどうなのでしょうか。

 

もしかしたら、私たちの夫は個人的な祈りの方を好んでいるのかもしれません。また、主人は、私たちの態度や言動をみて、私たちの霊的状態を察し、それで、わざわざ「君の霊的調子はどう?」と訊く必要性を感じていないのかもしれません。

 

「主人たる者は、こうこうすべき」という一連の考えは、どこから来ているのでしょうか。もしかしたら、「霊的リーダー」についての私たちの定義は、今一度、再考されるべきなのではないかと私は感じています。

 

もしかしたら、、、もしかしたら、私たちは不当にも、夫を責め、批判し、彼に対して憤っているのかもしれない、、そう考えたことはありますか。夫が私の期待通りに動いてくれないという理由で、私たちは自分たちの主人に対して苦々しい思いや憤りの気持ちを積もらせているのでしょうか。

 

しかも、そういった「期待リスト」の項目が、聖書には明記されていない場合もけっこう多いのです。個人的な祈りをしていない信仰者にはたしかに問題があります。しかし、もしもクリスチャンの夫婦がそれぞれ個人的には祈っているけれども、一緒には祈っていない場合、それは罪深いことなのでしょうか。

 

妻と一緒に祈り、妻と共に聖書を読んでいないような夫は、敬虔なリーダーにはなり得ないのでしょうか。

 

自省と黙想

  

―自分の心にある、夫に対する苦々しい思い、批判的な精神、軽蔑、憎しみなどは、明確な罪となり得るかもしれない。

―結婚や家庭生活のかじ取りを自分がしようとすることは、やはり罪なのかもしれない。

―一緒に祈るとか、聖書の学びとか、そういうことで夫の霊性を判断しようとすることはやはり罪だと思う。

―霊的なセキュリティー(安定)を、キリストの中に見いだす以上に、夫との霊的活動の内に見いだそうとする試みもやはり問題だし、罪になり得ると思う。

 

こういった問題にサタンはつけこみ、私たちが心の中で罪を犯すようしむけ、こうして敵は私たちの結婚・家庭生活を破壊しようとしているのではないでしょうか。そしてサタンは、こういった「霊的な事柄」を使って、私たち夫婦の間に行き違いや仲たがい、心痛などを引き起こさせようとしてはいないでしょうか。

 

現在、自分と夫との関係がどのようなものであれ、私は、(自分も含めた)みなさんが、以下の項目をお読みになり、静かに自問する時を持たれることを望みます。

 

―私は、もろもろの自分の期待をいったん脇に置き、キリストと自分自身の歩み(従順、信仰、責任、みことばの黙想、自分の罪、祈りの生活)に集中しようと望んでいるでしょうか。

 

―私は、[自分ではなく]神様が、ご自身の判断に従い、主人の人生の内に働いてくださることを進んで認めようとしているでしょうか。そして彼に何かをすることを強要せず、今ある状態の彼をそのままで受け入れてあげようとしているでしょうか。そして、、、たとい、このプロセスが一生涯続くものであったとしても、そして自分の主人が今後もずっと自分と一緒に祈ってくれなかったとしても、、、それでも私はこういった神様のお取扱いに「Yes」と応答し続けるでしょうか。

 

―私は、キリストの内にのみ満足を見いだし、そして個人的な祈りの内に十分な満足を見いだすことを望むでしょうか。

 

「誰か敬虔な姉妹が祈りのパートナーとして与えられますように」と祈ることができるかもしれません。しかしたといそのようなパートナーが与えられなかったとしても、それでも依然として、私はキリストの内にあってのみ満ち足りることを望むでしょうか。

 

おわりに

 

あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。詩篇27:8

 

鍵は、とどのつまり、祈りというのが本来、夫の「臨在」ではなく、神様のご臨在の前でなされるものであるということではないかと思います。

 

神様さえ私たちの祈りを聞いてくださるのなら、それこそ一番大切なことではないでしょうか!それに、もし自分の夫が毎日きちんきちんと私と共に祈ってくれても、私が自分の感情的・霊的ニーズすべてを主人によって満たしてもらおうと依拠している限り、私は決して満たされることはないでしょう。

 

そういう私は常に「もっと欲しい、もっと欲しい」と枯渇し続けるはずです。自分の主人が一緒に祈ってくれるか否かということは、ですから、最重要課題ではないのです。もちろん、そうであったらどんなにすばらしいでしょう。しかし自分にとって、イエス様との私的で親密な交わりの時ほど大切なひとときはありません。本当にこれなしにはやっていくことができません。

 

イエス様は霊的にも感情的にも、いつも私とつながっていてくださいますし、そうすることのできるお方です。主は毎瞬間、自分の内にあるもっとも深いニーズに答えることがおできになる方です。そして主は決して私を見放したり、失望させたりなさいません。

 

ですからこの方だけが私のまことの必要なのです!そしてイエス様は主人にとっての最大の必要でもあられます。そうです、イエス様がいてくだされば、私たちは充足することができるのです!

 

ー終わりー

 

私たち姉妹の「Ministry」の優先順位No.1は自分の夫!

 

 

今日はみなさんとご一緒に、私たち姉妹の「Ministry(奉仕)」の優先順位について考えていけたらと思っています。

 

私たちクリスチャン女性が神様への奉仕のことを考えるとき、私たちは、まずもって地域の人々や貧しい人々、世界で苦しむ人々、孤児、教会の中の人々のこと等、、に目を向ける傾向があると思います。

 

しかし往々にして私たちは、目と鼻の先に拡がっている一つのministryの存在に気づかず、その機会をみすみす逃しているように思えます。ーーそうです、自分たちの夫に対しての奉仕です。

 

もしあなたのご主人が信仰を持っておられない方でしたら、1ペテロ3:1,2には、私たちが夫に恭順な態度を示すこと、神を畏れかしこむ清い生き方を通し、無言のうちに、夫にキリストを証することの大切さが書かれています。

 

この「無言のふるまい」(1節)というのは、私たちが(夫をキリストに立ち返らせようと)彼に説教したり、うるさくせがんだりするのではなく、私たちのふるまいや応答によって、私たちの内にある喜びや信仰を夫に表わすことだと思います。そうした静かなふるまいにより、あなたのご主人は、あなたやキリストに引き寄せられていくと信じます。

 

また、あなたのご主人は信者でいらっしゃるかもしれません。その場合もやはり、私たちの奉仕の優先順位No.1は、自分の夫に置くべきだと思います。神様は私たち女性を、男性(夫)の助け手となるべくお造りになりました。そして神様のお定めになった結婚の枠組みの中における助け手(helper)の役割はとても大きいと思います。

 

では私のなすべき奉仕の優先順位No.1が、自分の主人に置かれるべきだとしたら、私はいくつかの事を考慮しなければなりません。

 

1.私にとって、「主人の気持ちや意見」がとても大切なものとなる必要がある。

 

主人が私に何かを望む時や頼む時、私はそれを優先的に考えるよう努めています。なぜなら、私にとって、彼はこの地上で最も大切な男性であるのですから。

 

2.私の人生は、主人の「方向」に向けられているべき。

 

主人の夢、目標、ミニストリー、召命、計画はどのようなものなのでしょう。私はそこに思いを巡らせます。私たち信仰者は、キリストの似姿に変えられていくよう召されています。それと同時に、妻として私は、神様が主人に持っていらっしゃるご計画に、自分を適応させ、そして彼を支えていきたいと願っています。

 

ですから、私のなす務めは、

―彼が今、何を必要としているのかを知り、

―そして、具体的にどのように彼を支えていくことができるのかを考え、行なうことです。

 

ここで大切なのは、私は彼を「支える」のであり、決して彼を「コントロール」したり、母親的な態度でのぞんだり、自分のやり方で押し通そうとしない、という事だと思います。

 

ほっとできる「聖所(sanctuary)」づくり

 

私が主人のためにできる一つの奉仕は、彼がほっとできるような小さな「聖所(ホーム)」を作ってあげることです。そしてこのホームに安らぎや、受容、喜びが満ちるよう整えていくことです。

 

主人が仕事から帰ってきた時、私は彼の所に駆けつけ、「おかえりなさい。お帰りを待っていました!」と歓迎と喜びの気持ちを彼に表現します。

 

また以前、私は、ポニーテールにジーンズという姿で、彼の好みなど全くお構いなしに生きてきました。しかし今、私は彼の好みの髪型や服で身を包むようにしています。そして主人への敬意から、ロングスカートをはき、女性らしい姿で彼の前に出ようと心がけています。

 

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ロングスカート姿のエープリルさん

 

また彼の好きな料理を作ってあげ、食べる時間も彼の都合に合わせ調整するようにしています。

 

私たちの主人に対する奉仕として考えられるもう一つの点は、「彼の存在を喜ぶ」ということだと思います。

 

素直に彼に「ありがとう」の気持ちを伝え、そして彼を受け入れてあげるのです。彼を変えようとするのではなく、今ある彼をそのまま受け入れてあげるのです。それにより、私たちの主人は励まされ、強められていきます。

 

私も自分の願いやリクエストを主人に言う時があります。(やわらかくフレンドリーな口調で。)そして自分の見解も言います。しかしもしもそのリクエストに対する主人の返事が「ノー」であった場合には、それを静かに受け入れ、彼の決定や意向に沿うようにしています。

 

そうすると、私は神様が彼を通して働くのを実際に目の当たりにし、自己流を押し通すことでは決してみることのできなかったであろう主の働きに感動することがしばしばあります。

 

ーおわりー

 

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完全なる心の入れ替えーー祈りのベールと夫への恭順

 

 

外面的なことは容易なことです。

 

物理的に跪いた格好で数分間祈りをささげ、それから聖書を一章読むーーそれも簡単にできます。毎週日曜日に教会に行って、席におとなしく腰掛けることだって、たやすいことです。教会の中で帽子やベールを被ることも、結局、その気になればできることです。

 

「こういう外面的なことさえちゃんとこなしていればいいのよ。」と考える方々がいます。つまり、(外的な面で)正しいことをしているように見えるなら、それで十分だというのです。

 

神様は確かに外面的な面でも私たちの従順を求めておられます。しかし、主がより注意して見ておられるのは、私たちの内的な心の動機です。主に従うとき、私が正しい理由と心の持ち方でそれを行なっているのかどうかを主は見ておられ、それを望んでおられます。

 

教会にまじめに通い、毎日聖書を読み、慎み深い服装で身を包み、祈りのベールを被ること、、こういった事は非常に良いことですし、実際、これらは、キリストを信じる女性たちが尊守すべき神の掟です。

 

しかし、そもそも「なぜ」私はそういう事をしているのでしょうか。そうする私の心の動機はどこにあるのでしょうか。というのも、こういった一連のことを敬虔に行ないながらも、実際には神様から遠く離れ、主を知らないことだってあり得るからです。

 

そこで私は自問してみます。

 

ー私は、イエス様が私のために十字架の上でなしてくださった贖いの業に信頼する以上に、自分の行ないにより神様に良い印象を持ってもらおう、そして自分の救いを得よう、としているのかしら。(律法主義)

 

ー仲間の姉妹たちに対し、心ひそかに、「私はあなたよりも聖いのよ」と思い、それを他の人にさりげなく印象づけようとしているのでしょうか。

 

ー私は、自分ほど神様のために仕えていない(ように見える)他の兄弟姉妹をひそかに見下しているのでしょうか。

 

ー私が一連のことを尊守するのは、皆がそうしているし、私が単にその流れにフィットしたいから、、なのでしょうか。

 

もしくは私がそうするのは、「自分の人生のすべての領域で、ひたすら神様をお喜ばせしたいという願い」、感謝、へりくだり、そして喜びの心ゆえなのでしょうか。

 

神様が私たちに願っておられるのは、主の恵みによって根本から変えられた私たちの心から湧き出てくる、喜びに満ちた従順なのです。どうか主が私の心の動機に光に当ててくださり、それを清めてくださいますように。

 

そうすれば、私はイエス・キリストを通して主が私になしてくださったことに対する感謝にあふれ、すべてを「この方を愛し、あがめ、栄誉を帰し、お喜ばせしたいという思い」から為すことができるでしょう。

 

また私の祈りは、自分が家の中や教会で祈りのベールを被る時、次のことを決して忘れないことです。

 

.私は(ベールを被るという行為を通して)神様と御言葉に対する崇敬を表し、主に栄光をささげたいと願っている。

 

.私は(ベールを被るという行為を通して)自分の主人に与えられている、神様のお定めになったリーダーシップに対し、深い尊敬を示したいと願っている。

 

究極的には、自分の主人に与えられているリーダーシップに深い尊敬を示したいという私たちの願いは、私たちの、キリストとの関係に直結しているのです。自分の主人に対する私の尊敬度は、私の「神様に対する尊敬と崇敬度」を映し出すバロメーターです。

 

主人に対する私の振る舞いは、「私が実際のところ、神様に対してどのように振る舞っているか」をかなり正確に示してくれる尺度でもあるのです。主人を見下すような態度をとっているのなら、おそらく私は神様に対しても同じような不敬さを持っているのでしょう。

 

神様は、私たちの他者に対する接し方、および主に対する従い方を見ておられ、それはそのまま私たちの主に対する愛の表現とみなされるのです。

 

おわりに

 

一人の女性として私は、キリストのみからだの中で、そして神の前で、男性のみなさんと等しい価値と尊厳を持っています。また私はキリストと共に、そして主人と共に、相続人ともされています。

 

主人に対する一連の恭順は、つまるところ、私が神の主権(sovereignty)を信じ、その主権の中において、「(地上のかしらとして置かれた)主人という一人の人間を通し主は私を導いてくださる」ということに対する、神への信頼――これに尽きると思います。

 

そしてこれは自分の信仰が試されることでもあります。ですから被り物をする時、なぜ自分がそうするのか、そして自分がはたして恭しい尊敬の態度を持って主人に接しているのかどうか、、それを覚える必要を感じています。

 

それは主人が常にその尊敬に値するような言動を取っているからでもなく、主人を神格化している訳でもありません(彼も私と同じ一介の人間にすぎません)。そうではなく、イエス様が常に私の最大にしてもっとも深い崇敬を受けるにふさわしい方であるからなのです。

 

祈りのベールを始めるまでの葛藤、模索、そして実践後の祝福について

 

 

2010年3月16日。その日、神さまと私はがっぷり四つで対話をしていました。

 

その頃、私は第一コリント人への手紙を通読していたのですが、その日は11章でした。そしてはたと止まりました。今まで何度も読んだことのあった章なのに、あたかも初めて読んでいるかのように感じたのです。

 

それまで私はいつもこの章の最初の16節はすすっーと読み飛ばして、それについて少しも良心の呵責を感じていませんでした。でも今回、なぜだか私はそれを無視することが全くできなかったのです。神さまが私の目をそこに向けさせたのです。

 

神さまに押され、私はここの聖句に取り掛かり始めました。これに解決をつけない限りは神さまは私をこの先一歩も進ませてくれない、そんな感じでした。1コリント11章に取り組む前、私は主人を敬うことについて、そしていかに神さまが夫を私の権威としてお立てになったのかということについて学んでいました。

 

そしてその学びを通して、神さまが「霊的権威」について語っておられる時にはいつでも注意を向けなければならないことに気づいていました。霊的権威というのは、とてもとても大切なテーマです。Ⅰコリント11章には、結婚について、そして神のデザインされたものついての深奥な真理が語られています。

 

みなさん、どうかこの箇所を敬虔な思いを持って、そして御霊に満ちた斬新な目でもって読んでみてください。そして祈りつつ、神さまがあなたの心に語ろうとしておられることは何でも受け入れますといった、開かれしスピリットを持って読んでみてください。

 

Ⅰコリント11章1-16節

3 しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。 

4 男が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。

5 しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。

6 女がかぶり物を着けないなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。

7 男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。

8 なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、

9 また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。 

10 ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。

11 とはいえ、主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。 

12 女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。 

13 あなたがたは自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。 

14 自然自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであり、 

15 女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。 

16 たとい、このことに異議を唱えたがる人がいても、私たちにはそのような習慣はないし、神の諸教会にもありません。  

 

でも、この箇所は現在もう適用されない、、、そうですよね?これはこれで置いといて、次の17節から始まる主の晩餐の話題に移っちゃいけませんか?

 

私は神さまと格闘しました。

 

なんだかんだ理屈をつけて主を納得させようとしました。「ほら、イエスさま、見てください。私、長く髪を伸ばしているじゃないですか。長い髪ーーこれが私の女性としての光栄ですよね。それで十分じゃないですか?」 

 

そしてなんとか理由を見つけて、神さまが私に求めておられるらしいことから逃れようとあがいていました。

 

私はこれまで多くの牧師が、かぶり物というのは「文化的なこと」であり、現在、もはや適用されないと言っているのを聞いてきました。でも私はそういう理由付けに納得できませんでした。というのも、パウロはここで霊的権威そして神>キリスト>男>女という「かしら性headship」について、創造における男女の秩序について言及しているからです。

 

また、パウロは女性がかぶり物を着けなければならない理由として御使い、ならびに夫の霊的権威が彼女の上にあるというしるしのことを挙げています。こういった理由は、どう考えても「文化的」だとは私には思えませんでした。

 

またこのテーマを学んでいく中で、教会の女性は1900年以上に渡り、祈りや預言をする時、かぶり物を着けていたことにも気づきました。

 

さらに多くのクリスチャン女性は、常時(つまりフルタイムで)、かぶり物を着けていました。それにより、家の「かしら」である夫にまっとうな敬意を払いつつ、いつでも「適切に祈る」ことができたからです。

 

しかし1960年代になりフェミニズム運動の高揚にともない、女性たちは祈る時や教会に行く時、もはやかぶり物を着けなくなっていったのです。

 

かぶり物の象徴がもはや私たちにとって「文化的に今日的意味を帯びていない」理由は、私たちが、神より与えられている夫の権威を捨て去ってしまったことにあるのです。

 

私たちは権威に関する神のシステムを捨て去ってしまったため、もはや夫の権威の象徴などをもはや「必要」としなくなったのです。そうです、もう神のやり方は御免だと私たちは結論づけたのです。

 

こうして神のやり方は現代女性にとって「抑圧的」「性差別的」「家父長的」「旧式」「不適切」だとみなされるようになりました。

 

(でもことわっておきますが、男性が全権を持ち、妻たちを支配していた時分、男性たちによって虐待されひどい扱われ方をしてきた女性たちがいた(いる)ことを私は全くもって認めます。それは女性に対するむごい不正義であり、そういった夫たちは権威を乱用したことに関し、義にして聖い神の前に申し開きをしなければならないと思います。虐待や暴虐は神が私たちに望んでおられることではありません。エペソ5:22-33では、結婚に関する神の美しいご計画が言及されています。)

 

ですから、1960年代、私たちの文化は――教会内でさえも――夫や教師、牧師、政府のリーダーといった人々に対する敬意、そして親に対する敬意を投げやってしまったのです。

 

60年代、70年代のフェミニズム運動、ヒッピー、反戦運動により、私たちは「権威からの自由」を得ました。でもその権威というのは、私たちを保護し、益を与え、供給し、主の方法でもって私たちを導くべく、神が私たちの上に置かれたものだったのです。

 

 Feminist demonstration

 

そういう物が取り去られた後、残るは全て、「私」に関することのみ、となりました。私がほしいもの。私が一番いいと思うもの。誰が金輪際、権威のことなんか考えるものですか!私たちがほしいのは「自由」と「独立」なの!

 

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義憤

 

そのうち私は内に義憤を覚えました。

 

私たちの世代がどれほど女性としてのアイデンティティをはく奪されてしまったか、どれだけのものを私たちは失ってしまったのかー神の知恵、結婚に関する神のご計画、女性らしさ、育児、、、こういったものはことごとく私たちの世代には無縁のものです。

 

私たちの前の世代がボールを落としてしまったのです。そして私たちは今その代価を払っており、しかもその代価というのは天文学的に高いものです。今日、結婚の実態をみてくださいーそして私たちの教会の実態を。

 

(私自身の結婚も、非常に高い代価を払いました。それは、私がかつて神より与えられし権威につばを吐きかけ、「私は夫よりもよく知っている!私は神よりよく知っている!私がここの責任者なの!神よ、あなたにきく必要なんてない!私はわが道を行くんだから!」と世的で不敬虔な態度を受け入れてしまっていたことに原因がありました。)

 

私の従順はどれほど深いものか?

 

今や私は神の御言葉を受け入れ、神に従おうと考えるようになっていました。なんといっても、神は私の主なのですから!天が地よりも高いように、主の知恵は私の知恵よりすぐれているのです。主であり王である、私の愛の対象である神さまに「No!」などと言えるでしょうか。

 

それで、今、このトピックに関する私の歩みについてみなさんにお分かち合いしているのです。なぜなら、この証しによって神さまに栄光を帰すことができると思うからです。

 

私は人からの称賛を求めていません。もし人からの称賛がほしいのだったら、このトピックについてなどぜったい書かなかったでしょう。

 

私はかぶり物についての議論を、賛成側/反対側、両サイドから検証してきましたが、これは多くの女性にとって、かなり物議をかもしだしている問題だということに気づきました。

 

でも私にとって問題は結局のところ、「主が私に何かをするように求められた時、私はそれに従うのだろうか、それともあえて自分の思う通りにやっていこうとするのか?」というところにありました。

 

結婚しても自分の思うがままに振る舞っていた頃、夫を尊敬することなんてちっとも理解せず、結婚の舵とりを自分がしていた頃――私は自分たちの結婚生活をめちゃくちゃにしていました!その結果、自分があれだけ求めていた親密感は得られず、私はさみしく、ストレスだらけの女性でした。

 

私は心配ばかりし、批判的で、マイナス思考で、ゆううつ、かつイライラした女性でした。いろんな面で、私は敬虔な女性とはいえない存在でした。私の人生、態度、言葉や行ないは神に栄光を帰すものではありませんでした。

 

主人はというと、彼は無気力で消極的な人でした。私たちの結婚生活は、キリストと教会の奥義を表すものからは程遠いものでした。だからⅠコリント11章で、権威の秩序のことを読んだ時、私は苛立ちませんでした。

 

いやむしろ、自分の人生に、神さまの立てた権威の秩序を喜んで受け入れたいと思ったほどでした。というのも、これまでの過程で、主のやり方に従う時、自分の心に深い平安が訪れることをすでに発見していたからです。

 

私をカバーし、養い、権威となり、守る者として神さまが主人をお立てになったことを受け入れました。すでに一年前に、敬意を示すことや聖書的恭順(submission)について学んでいたので、このこと自体は難しいことではありませんでした。

 

でも私にとってしんどかったのは、祈る時に、頭の上に何かをのせるよう、神さまが私に求めていらっしゃるということでした。そんなのイヤ、したくないって思いました。だってそれって変じゃないですか。周りにいる人だって誰もそんな事してないし。

 

(そういえば、うちの教会には2、3人、帽子をかぶって礼拝に参加する姉妹たちがいましたが、それでも2000人以上の教会の中にあってはほんの一握りの人でした。)

 

とにかく、人に変って思われたくありませんでした。それに不便だし。今の世じゃ、文化を逆行するようなものです。エー、いやだー。「神さま、本当にしなくちゃならないんですか?そんなことし始めたら、大恥かくことになります!」

 

恥ずかしい、、、

 

でもその時、私の発言が、神さまの耳に、どんなに浅はかに聞こえているだろうということに気づきました。キリストは私に代わって、非常に屈辱的でむごたらしい死を死んでくださったのです。

 

私が帽子やベールなどを頭につけて祈ることで、キリストに栄光を帰すことができ、主人に敬意を示すことができるのなら、そしてそれが御使いや主のためなのなら、

 

――それなら、「そんな犠牲なんてあなたのために払いませんよ。あなたは、私にとってそこまで価値ある方ではないんです。あなたが望んでおられることを進んでするほどの信仰は私にはありません。そう、たとえそれが自分の頭に帽子やベールを着けるといったシンプルなことであっても、です。」などと神さまに言う私って何様なんでしょう?

 

あぁー!

 

決心

 

それで神さまが私にこれを実践するよう求めておられるなら、私は主に従おうって決心しました。私はその事に関して祈り、主人の同意を得ることができますように、と祈りました。そして主人に打ち明けたのです。

 

「あのー、、、ベールで頭をおおってもいい?家で祈る時、それから教会で祈る時、私の上に立てられたあなたの(夫としての)権威に敬意を示すために、、」

 

それを聞いた夫は答えました。「うん、いいよ。」

 

えっ???何?ほんとに?

 

こんなにあっさり同意してくれた夫の反応に私はびっくり仰天してしまいました。私は、ここに神さまが働いておられることをみました。

 

「分かりました、神さま。あなたに従います。他の誰も、そんなことしてなくても、とにかく私は従います。」

 

親愛なる奥さん、神さまに愛されている姉妹のみなさん。私はここでみなさんに、「あなたもかぶり物を着けなさい」と言っているのでしょうか。いいえ、これは私とあなたとの間のことではないのです。

 

これはあくまであなたと神さまとの関係にかかわることなのです。あなたにどうしなさい、こうしなさいという資格は私にはありません。ただ神さまがあなたの目を開いてくださいますようお祈りします。私たち女性が失ってしまった霊的慣習について、あなたの目が開かれますように。

 

そして神さまの御言葉にさらされ、主に従うことのすばらしい益について、あなたの目が開かれますように。決断はあなた自身にかかっています!あなたは私に申し開きをするわけじゃないのです。私たちは皆、神さまに申し開きをするのです。

 

もしここの聖句が、1世紀のクリスチャンのためだけに書かれたものであり、私たちのためではなかったとしたら、どうなるでしょうか。つまり、祈る時にかぶり物を着けるのが、どういうわけか「間違い」だった、、そう仮定します。そうしてある日、私は召され、天で主に会い、主は私にこんなことをおっしゃったとします。

 

「ああ、あのⅠコリント11章の聖句ね?あれはね、わたしがうっかり間違って、聖書に入れてしまっていたものなんだよ。あれは間違いだった。かぶり物を着けなさいという意図はわたしにはなかったんだよ」と。

 

そうすると、この場合、私は何を失うでしょうか?

 

唯一、失ったものとして追憶できるのは、おそらく、祈っていた私の外観が他の人とは違っていて、ちょっぴり変に見えていた――それくらいだと思います。でもそれって大きな損害ではありません!それほど大きな損害ではないのです。

 

それに仮に、この聖句が2013年においては文化的に意味をなさないものだと主が考えておられたとしても、聖書の言っていることに従順に従おうとした私の姿勢によって、主に栄光が帰されないでしょうか。

 

そして神より与えられし主人の権威を私が認め、それに敬意を示していることで、主人に光栄が帰されないでしょうか。神さまは私の従順そして主に従いたいと願う心を理解し、いとおしんでくださると思います。私の側からのそういった従順な態度、それがかぶり物そのもの以上に、神さまにとって意味があるのだと思います。

 

一方、Ⅰコリント11章を含めた神の御言葉が、現代を生きる私に実際、適用されるのだとしたら、いったいどうなるのでしょうか。もし神が実際に、聖書の中にこの聖句を入れてくださったのだとしたら?

 

もし主がご自身の主権のうちに、ある明確な意図をもって、この聖句を入れてくださったのだとしたら?――そして私がそういう主のおっしゃることにあえて従わないのだとしたら?

 

もしくは、「えっ、だって、今じゃ、誰もかぶり物なんか着けてませんよ。だからこの掟には従わなくたっていいに決まっている。」と言い訳をしながら、神の掟をないがしろにするのだとしたら?

 

こんなに小さいことを実践することを拒む自分は、どうやって主に申し開きをすることができるのでしょうか。どうやって自分を弁護することができるのでしょう。王の王、主の主にどんな言い訳ができるというのでしょう。

 

私はどんなにしても言い訳を打ち立てることができませんでした。なぜ主が私にそれを求めておられるのか、その意味が分からないとしても、主に対する私の従順を神は祝福してくださると思います。たとえ、それが不人気なことであっても。たとえ、ひとりぼっちでそれに従うことになったとしても。

 

ベールを着けて祈ることによって受けているたくさんの祝福

 

私は一人で祈る時、また教会で祈る時、かぶり物を着けていますが、こうやって神さまに従ったことで、思いもかけない祝福がたくさん与えられたのです。

 

主人の権威に対してふさわしい態度をとることが前よりもずっと容易になりました。自分の頭に彼の権威のしるしがあることを自覚しているからです。また、祈ることに対して、主人に対して、また神さまに対して、どのような態度でのぞんだらいいのか、そういうことが以前より分かるようになりました。

 

 ☆かぶり物を着て祈る中で、神さまが、私を守り導くために主人を私の上に置いてくださったことを知り、主人に対して、以前よりも、もっと謙遜になり、感謝するようになりました

 

 ☆祈る中で以前よりもっと主人を尊敬するようになりました。そしてそうやって尊敬の念をもって神さまに近づく時、その時に、力強く奇跡的な方法で祈りが答えられるのを体験しています。それは不遜な態度で神さまや主人に接し、祈っていた時には決して見ることのできなかったものでした。

 

☆かぶり物は、効果ある力強い祈りの生活の大きな鍵だと思います!頭の上の小さな布切れにマジカルパワーがあるとか、「かぶり物を着けないのなら神さまは私の祈りを聞いてくださらない」とか、そういうことではありません。でも、かぶり物は、祈る上での私の態度、心の姿勢に確実に影響を与えています。

 

また、私を高ぶりから守ってくれてもいます。神さまにとって一番大切なのは、祈る時の私の心の態度であり、主人に対する態度なのです。外面的な象徴は、主として私自身の益のためであり、また主人の益でもあり、御使いのためでもあるのです。

 

 ☆ベールや帽子をかぶって家で一人で祈る時、私は以前よりもずっと霊的に主人とつながっていること、そして主人と近いことを感じるようになりました。かぶり物という象徴は、主人の権威や私に対する守りを思い出させるものですが、それによって、主人の愛の中で、そして神さまの愛の中で、(前よりもずっと)「守られている」という安心感を得るようになりました。そしてその愛の中に安心して憩うことができるようになりました。

 

☆祈る前にかぶり物を着けるという行為によって、日々、私は自分の上に立てられた主人の権威の大切さを認識するようになり、それによって夫婦関係をふさわしい形でみることができるようになりました。そして主人にもっと敬意を払うことができるようになりました。

 

 ☆私が夫の権威を認めるしるしである、かぶり物を着けはじめたことで、主人は、わが家の霊的リーダーとしての自信を回復し、「自分は神さまの方法で、妻や子どもたちを導くという深遠な責任があるんだ」ということを自覚するようになったそうです。男の人は視覚に強い存在です。神の前に、私がこのような形で夫を敬おうとしているという事を夫が「見る」時、それは力強く、彼の魂に語りかけるのです。

 

こういった神さまの深い奥義は、あまりにもすばらしく私の理解を越えています。 上に挙げた祝福の他にも、パウロ自身、次のようなことを挙げています。

 

☆主人のリーダーシップおよび権威を認めていることを示すべく、かぶり物を着けるという私の行為は、天にいる御使いたちにインパクトを与えているというのです(Ⅰコリント11:10)。

 

☆私がみずから進んでかぶり物を着けることは、かしらと霊的権威という神さまの秩序に対して敬意を示すことであり、それは主にとって大切なことです。

 

かぶり物は私の光栄である私の髪(15節)をおおうものです。それゆえ、「私」の光栄は、祈りの間、見えなくされているのです。一方、主人はキリストの栄光の現われであるため、主人の頭はおおわれていません。女性は男性の栄光の現われです(7節)。

 

男性の栄光は祈りの間、おおわれていなければなりません。主の御目的に仕え、主に栄光を帰すべく、このような形での礼拝や祈りを神さまは望んでおられるのです。

 

かぶり物を着けるという私の行為は、男性がまず造られ、その後、(男性が女性のためではなく)女性が男性のために造られた(9節)という創造の秩序に関係するものです。

 

それは神と人間の関係を髣髴させるものです。神ははじめからおられ、(神が人のためではなく)人が神のために造られました。そこには神さまの深い奥義があって、謙遜に告白しますが、それは私の理解を越えています。

 

私にはこういった一片の布きれが、正確にどういう重要性をもっているのか、それも分かりません。ただ分かるのは、主人の権威のしるしを頭に着けようという私の意思によって、霊的および天的な領域で起こっている事に、何らかの影響が及んでいるということです。

 

ですから、たとえ全部の意味は分からなくても、神さまのくださった処方に従うのが賢明だと思います。患者さんは、たとえ処方箋が自分の体内で薬学的に生化学的にどのように働いているのか全く知らなくても、お医者さんの指示に素直に従うことで、薬が効き、いやされるのです。私たちがお薬を飲むなら、自分の理解とは関係なく、処方箋はちゃんと効を為すのです。

 

神さまの掟もそんな感じだと思います。主より恩恵を受け、また神さまに栄誉を帰すために、私たちに求められているのは理解ではなく、あくまで従順なのです。

 

これって律法主義的?

 

祈り、聖書朗読、教会に行くこと、夫を敬うこと、人を愛すること、十一献金をすること、慎み深く身をつつむこと、、、神さまに対するどんな従順の行為であっても、それを律法主義的なレベルにおとしめることは可能です。

 

鍵は、私の動機にあります。

 

もしキリストに栄光を帰し、キリストを喜ばせたいというのが私の願いなら、それは律法主義ではなく、喜びに満ちた自発的な従順です。神さまは、私が正しい動機でもって、正しいことをするよう望んでおられるのです。

 

(2014年4月9日更新追記)。これまで家や教会で祈る時は、スカーフを頭にかけていました。数ヶ月前、グレッグ(主人)が「帽子をかぶって教会に行ってもいいかもね。」と言いました。帽子も、すごくいい感じです!家で祈る時は、今でもスカーフを使っています。

 

私は個人的に、フルタイムではかぶり物を着けていません。でも、もしグレッグがそうしてほしいって望むなら、もちろん、喜んでそうするつもりです。この聖句を文字通り生きることで、私は主人に敬意を示そうと努めているのです。

 

この証しを読んでくださって、ありがとうございました。

 

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