巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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公同性(catholicity)を追及しながらもプロテスタント(改革派)の伝統内にとどまり続ける道はありますか?【カルヴィン・カレッジのジェームス・K・A・スミス教授に質問してみました!】

St Clement's Church, Roghadal, Isle of Harris (Foto: Les Hull, Wikimedia Commons)

St Clement’s Church, Roghadal, Isle of Harris(ゲール語、詩篇歌、16世紀宗教改革、スコットランド、ジョン・ノックス、清教徒)出典

 

ポスト原理主義者である若いエヴァンジェリカルの若者たちの前には現在、大きく分けて二つの道が開かれている、とジェームス・K・A・スミス教授は言います。

 

一つは、イマージング・チャーチ・ムーブメントの流れに沿った懐疑主義とリベラリズム。もう一つは確固とした信仰を持ちつつ且つ公同性(catholicity)を追及する道です。(詳しくは以下の記事をご参照ください。)

 


しかし公同性を追求する道といわれても、いまいち抽象的でよく分かりません(よね?)私が観察する限り、公同性を求める福音主義の若者たちはーー彼/彼女が、福音派であれ、聖霊派であれ、改革派であれ、ルーテル派であれ、メソディスト派であれ、兄弟団であれ、チャーチ・オブ・クライストであれ、カルバリー・チャペルであれ、C・C・Cであれ、単立であれ、無教派であれーー、その道中、ほぼ例外なく次のような根本的問いを持つようになるようです。

 

「はたして自分は今いる場所にとどまりつつ(=○○派プロテスタントという独自のアイデンティティーや特定の解釈伝統を保ちつつ)、尚且つ公同性を追求しつづけることができるのだろうか。現実的にそれはポッシブルなのだろうか。ピーター・ライトハート師の提唱する宗教改革的公同主義(Reformational catholicism)というあり方は可能なのだろうか。それとも、この道は、伝統諸教会(カトリック、東方正教会)というテリトリーへの『参入』を通してしか最終的解決&たましいの安息を見い出すことのできないものなのだろうか?」

 

そこで私は数日前、カルヴァン大学のジェームス・K・A・スミス教授にこの件について直接相談し、「プロテスタンティズムの解釈伝統にとどまりつつ、且つ、公同性を追求する道は果してほんとうに可能なのでしょうか。この点で現在模索している日本の若者たちに何かアドヴァイスがありましたら、お願いします。」と書き送ったところ、今朝、返事をいただきました。

 

スミス教授は、数年前にそのような悩める若者たちに(特に改革派の背景を持つ学生たちを対象に)次のような小冊子を書いたそうです。

 

James K.A. Smith, Letters to a Young Calvinsit: An Invitation to the Reformed Tradition, 2010.(サンプル

 

そしてこの中で、プロテスタンティズムの解釈伝統と公同性のことを取り扱っているそうです。これらの資料が、改革派の背景を持つどなたかの知的・霊的道程の助けになり、また励ましとなりますように。

 

 

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