巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

節目(ふしめ)

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出典

 

竹の節には独特の風情(ふぜい)があります。数年前、北大や山梨大の研究チームが野生の竹がなぜ節をもつのか、その謎を解明すべく調査に乗り出したそうです。

 

それによると、互いに隣り合う節と節の間隔が、ある一定のルールに従うよう絶妙に調節されており、その結果、「軽さ」と「強さ」を併せ持つ理想的な構造が形成されているということが分かったそうです。(参照

 

私たちの人生には韻律があり、節目があります。連続性があり、非連続性があります。自らの意志で自発的に彫り込んだ節目もあれば、外的な要因によってやむをえず彫り込まれた節目もあります。

 

今日、前のブログ(2014-16)の大部分をネット上から消しました。この作業をしていく中で、いろんな思い出が蘇ってきて、胸が一杯になりました。主よ、私は変わってしまったのでしょうか。遠くに来てしまったのでしょうか。でも、、追憶の中にあって全ては元のままであり、イエスさまがいて、朋友たちがいて、それはけっして途切れることのない小川のように連続しています。

 

小さな竹に刻まれた一つの「節目」。

 

桂冠詩人テニスンは「I am part of all that I have met.」という宝のような言葉を人類に残しました。訳すと「私は、自分がこれまで出会ってきたすべての一部である」という風になるでしょうか。深いことばです。

 

私たち人間は、歴史から他者から事象から神から離れた孤立存在ではなく、よいものであれ悪いものであれ、自分がこれまで出会ってきたもの、見、聞き、経験してきたものすべてのものからなんらかの形で影響を受けつつ、有機的な織りなしのうちに形成されてきた存在であるという深遠なる事実を、テニソンは詩という形でみごとに表現していると思います。

 

森有正がかつて「はるかに行くことは、遠くから帰っていくことだ」と言いました。逆説的ですが、遠くから「帰る」ために人は「出かけて」いくということです。

 

そういえば、古のアブラハムも、主の命に従い、はるか「出て行った」(ヘブル11:8)のは、彼が遠くから「天の故郷」(ヘブル11:16)を求め、そこに帰っていくための歴程を経るためであった、ということがもしかしたら言えるかもしれません。

 

私たちはこの節と次の節との間にどのくらい間隔があるのか、どれくらい彷徨い、あるいは待たなければならないのか、知ることができません。

 

しかし主はそれらをすべてご存知であり、互いに隣り合う節と節の間隔を絶妙に調節してくだり、こうして、私たちの人生のうちに、「軽やかさ」と「強さ」を併せもつ、一つの統合されたタペストリーを形成してくださると信じています。

 

ーおわりー