巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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「オプショナルな正統性」の辿る不幸なる運命(by リチャード・J・ノイハウス)

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目次

 

 

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リチャード・ジョン・ノイハウス(Richard John Neuhaus, 1936 – 2009)

 

正統性がオプショナルなものとなる時

 

正統性(正説;orthodoxy)がオプショナルなものとなる時、遅かれ早かれ正統性は追放・排斥されていくだろう。」私はこれをノイハウスの法則と命名しようと思います。

 

ある人々はこの格言にとまどいを覚えるかもしれませんが、少なくとも私にとってはこれは公理的です。正統性というのは、ーーそれがどんなに丁重に表現されていたにしてもーー、そこには「事物に関してはそこに是と非、正と誤が存在する」ということを私たちに提示しています。

 

正統性がオプショナルなものである時、それはーー正誤/是非に関する話し合いに〈非寛容〉であらざるを得ないリベラル的〈寛容〉法則の下、その存在を認可してもらえます。それゆえ、これは条件的承認であり、要は正統性の ‟善良なる振る舞い” 如何にかかっているのです。

 

正統性の保持者が、この事やあの事を信じたり実践したりすることは、寛容の事項として許可されてはいるかもしれません。しかしひとたび正統性の保持者たちが「これこれは他の人々にとって規範的です」と厚かましくも(!)提示しようものなら、それはーー彼/彼女がそれによって〈寛容〉されているところのーーエチケットに対する許し難い(intolerable)侵害だとされます。

 

礼儀をわきまえた教会は、自らの教会に、二、三の正統的 ‟変人” たち(orthodox eccentrics)を堪忍してあげているかもしれません。そしてそういう変わり者たちまでも受け入れてあげることのできる自分たちの深い包括性を秘かに誇ってさえいるかもしれません。

 

「おお、哀れなジョンソンは、われわれ皆が異端者だと思っている!」と心中ひそかに牧師は笑っています。牧師は、ーーたといそれが哀れな老いぼれジョンソンでしかなかったにしてもーーとにかく、誰かが、自分のことを異端者であるほどに冒険的であると考えてくれていることにかなり満足感を覚えています。

 

そして絶えずこういった自己陶酔感を自分に提供してくれる老いぼれジョンソンを身近に置くことができていることにも、牧師は満足感を覚えています。しかしひとたびジョンソンの見解がほんの僅かでも優勢の兆しをみせ、それゆえに牧師のセキュリティー感および福利が脅かされようものなら、その時、話は全く違ってきます。

 

ですから、いくつかの諸教会の指導層は、長い間、教理をアカデミックな流行および大衆偏見(両者は往々にして同一のものですが。。)の命令に合わせ調整してきました。そしてその際、彼らは正統性という選択肢をーーそれにどうしても ‟こだわりたい” 人々に対する配慮の印として、そしてラディカルに『中道路線』に献身している人々によって愛玩されているいわゆる ‟バランス” に対する証しとしてーー許可してあげています。

 

それは思った以上に、魅力的な適応です。宗教の世界でも、繊細な人々は「できることなら自分は原理主義的でもなく、また弱虫だとも思われたくない」という願望を持っています。複数のオールターナティブを考慮しつつ、さらにもし自分が選べるのなら、やっぱり、‟いい人” でありたいと人は願うものです。

 

非オプショナルな正統性

 

しかしかつて「正統性」と呼ばれていたものが現在、「新しき正統性」と衝突しています。ここ数十年の間に勃興してきたリベラル主義に基づく「新しき正統性」は無情にして陰険です。これに比べると、古い正統性は、単なるレトロな風変り者であるに過ぎません。「古い正統性」を、客間にいるおかしな老叔父に譬えるなら、「新しき正統性」は、ファミリールームで狂ったようにわめきたてる婆のようです。

 

「古い正統性」が、旧きを擁護する一方、「新しき正統性」は未来を擁護し、それゆえに、反論に一切耐え得ない命令事項の担い手です。過去に住まんとする少数の者たちの選択は、未来がオープンで不確定であるとみなされている限りにおいて堪忍され得ます。

 

正統性を堪忍するということは安全策の方法でもありました。今後もしかしたら、過去のやり方がもう一度復興してくるかもしれません。それは誰にも分かりません。しかしオプショナルであるところの「古い正統性」は、決してオプショナルではない「新しき正統性」によって追放・排斥されつつあります。

 

長く支配的になっている鷹揚なリベラル寛容は、選択における好みや優先への適応とはむつまじい関係を結んでいますが、真理に関する問いに対しては不快感を露わにしています。リベラル寛容も、「これこれの事について真理が存在する」という事を否定しているわけではありません。しかしその真理が何であるのかということを誰が公言するというのでしょう。

 

真理に関する問いが実践において否定される時、人はありとあらゆる種類の雑多な「真理 "truths"」に対して寛容であることを選択することができます。あるいは、「いや、寛容を必要とするような真理など、実のところ、どこにも存在しない」と結論づけ、別の道を選ぶ人もいるでしょう。〈寛容〉の道に対するオールターナティブは、権力の道です。寛容は審判を差し止めます。それに対し、権力への意志は、制限することに対する一切の理由を認めません。

 

いくつかの諸教会においては、この「新しき正統性」が、フェミニストおよびホモセクシャル扇動の中で最もアグレッシブに顕示されています。しかしながらこういった現象は、より旧い正統性によって信奉されていた規範的諸真理に対する彼らの断固とした否定に続いて起こってきた可視的な噴火に過ぎません。

 

新しき正統性の支持者たちは、「自分たちもまた規範的諸真理にコミットしている」と抗議するかもしれませんし、彼らのそういった主張にはたしかに一理あります。しかし彼らの言う諸真理は、命題、慣例、教会権威、啓示の内に具現化されたものではありません。それらは、「私たちが本当には誰であるのか」に関する真理を表現する体験的諸真理であり、ここでいう‟私たち”とは、性、人種、階級、民族、‟志向 orientation”によって規定されています。

 

アイデンティティーが切り札

 

「古い正統性」の枠組みの中では、議論をする上で、互いに意見を違わせることは可能でした。証拠、理性、ロジックが、少なくとも原則上、考慮に入れられていました。しかし「新しき正統性」はそうではありません。ここでは不同意というのは、許し難い(intolerable)個人的侮辱とみなされます。

 

それは他者の否定、自己像に関する他者の経験の否定という風に受け取られます。それはいと高き至高なる ‟私のアイデンティティー”という神に対する冒涜的な攻撃です。「アイデンティティーとしての真理」はアイデンティティー主張を超えては上訴不可能です。ですからこのゲームにおいては、アイデンティティーが切り札なのです

 

聖パウロや、アクィナスや、シエナのカテリーナや全地公会議が言ったことに訴えたところで、それらは、「ええ、でも、かれらは私ではないのですから!」という否定しようのないやり返しの言葉の前に耐久できません。人々は(社会学者ピーター・バーガーが呼ぶところの)いわゆる「集団アイデンティティー箱」の中に彼らの諸真理を詰め込んでいます。そしてもちろん、その箱の中の主要アイテムは、「私、抑圧されているんです」という主張です。

 

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出典

 

例えば、それぞれのグループに当てがわれたアイデンティティーに同意していない無数の女性たち、黒人たち、アメリカ先住民たち、同性愛者たちがいることを誰も否定しません。しかしその事実は、集団アイデンティティー箱のパッキング・分配係の人々を困らせはしません。

 

彼らは説明します。「〈アイデンティティー反体制派〉、つまり、自分たちに当てがわれたアイデンティティーを受け入れていない人々は二重の意味で被害者になっているのです。彼らはまず、彼らの抑圧者たちによって虐げられている犠牲者であり、それと同時に、自分たちが抑圧されているという現実に対して彼らを盲目にさせている虚偽の意識ーーこれの犠牲者ともなっています。あるいは彼らは、彼らの真の自己像を否定する者たちとの協力に買収された売国奴であると言われたりもしています。」

 

「アイデンティティーとしての真理」の主唱者たちは、反体制派たちの動向をとらえています。そして主唱者たちは自分たちの要求しているのはただ「受容」であると言っていますが、その実、この「受容」というのは自らの真正なる自己に対して真実であるために必要不可欠だ(と彼らが考えているところのもの)への同意を間違いなく意味しています。

 

そしてそれに同意しないことはただ単に不同意なのではなく、彼らの人間性への否定に他ならず、それは特にーー‟いい人であること” に信条的にコミットしている諸教会内においてはーー、よろしくないことなのです。

 

それがゆえに、女性按手の問題、そして同性愛問題は、解決困難で手に負えないのです。というのも、ここにはーーそれによって真理が円環的に規定されているところのーーアイデンティティーという体験的円環の外側なんら共通の基盤をもたないからです

 

保守派は聖書や聖伝の権威に関して息まき、一方の穏健派は(西暦1968年以前の)初期教会においてさまざまな相違が同伴していたという様に訴えていますが、いずれもたいした効果は出せていません。

 

とにかく争点になっている問題が何であれ、「新しき正統性」は一歩も譲らず、今後も受容と包括性を要求してやまないでしょう。受容と包括性への要求ーーつまり、これが意味するのは、

①何であれ/誰であれ彼らのアイデンティティーに問いを差し挟むような者たちへの拒絶および排除であり、

②彼らが意志する通りに信じ、発言し、行動する彼らの権利のことです。なぜなら、ーー彼らが自分たちが最も真実であると信じるところの者になるのならーー、その時、彼らが行なうことは、彼らが必ず為さなければならないことだからです。

 

「ということは、あなたは、私がありのままの自分であることを否定した上で、否が応でも自分に同意させたいってわけ?」ーーこういった理屈により、ひ弱な人々は容易におじけづいてしまいます。

 

ー終わりー