巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

十字架を見上げながら、クリスチャン・ヨガ?(by バジレア・シュリンク)

 

目次 

 

バジレア・シュリンク著「キリスト者とヨーガ」原題:Christen und die Yoga Frage (Christian and Yoga?), 1975.

 

まえがき

 

Bread And Yoga

聖トリニティー教会でのヨガ教室(出典

 

ヨガは今日、西洋社会においてますます広がり、関心を集めています。ヨガは多くの人々に合理主義や物質主義、あるいは無神論によってもたらされた精神的かつ霊的な空虚さを満たす答えであると考えられています。

 

そもそも、その発祥地はインドであり、ヒンズー教に根柢を置いています。ヨガというものは一定した概念を持たず、むしろその形態はさまざまな方式や修行から、精神的、宗教的な目標ある生き方に至るまで多彩な面を持っています。それと同様に今日、西洋でヨガを実践する人々も、その動機や年齢層、社会層において多彩であり、ドイツだけでもヨガ修行者はおよそ10万人を数えています。(1976年当時。)*1 

 

ヨガ流派の中で、「独創的知識の科学」とも呼ばれている超越的な瞑想があります。元来、秘術マントラ(真言、呪文)・ヨガの分派ですが、ヨーロッパで広まっているうちにその特徴を受けたのです。1974年には、欧州で合わせて50万人という修行者数を数えており、1960年代からアメリカやイギリス、ドイツで布教している、創始者で教祖であるマハリシ・マヘシュ・ヨーギー(ヨガ行者)は、1972年には世界布教を目標として掲げ始めました。

 

Image result for ãããªã·ã»ããã¼ã·ã¥ã»ã¨ã¼ã®ã¼

マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー(महर्षि महेश योगी, Maharishi Mahesh Yogi、1918-2008)。ヒンズー教に由来する超越瞑想(トランセンデンタル・メディテーション、TM)とその普及を行う諸団体の創立者。ニューエイジ・ムーブメントの一翼を担った。参照

 

 

すなわち、3600の支部ーー世界人口の100万人の一つの割合ーーを通して、この「独創的知識の科学」である超越的な瞑想を連鎖的に宣べ伝えていくべきだと主張しているのです。言い換えれば、このヨガの秘伝を授けられた人は、他人にそれを宣べ伝えていく義務がある、という方式です。

 

Image result for ãããªã·ã»ããã¼ã·ã¥ã»ã¨ã¼ã®ã¼

 

ヨガの各派は、ヨーロッパをキリスト教会に至るまで征服しようとしています。インドの友人が私たちに話してくれたところによれば、今日、インドにおいてヨガはわずかな意味しか持たず、人が途方に暮れた時、ヨガは何の助けも与えてくれない経験を度々したと言っています。

 

ですから当然のこと、インドのクリスチャンたちは、ヨガとキリスト教の混合をはっきりと拒否します。しかし、キリスト教国家にヨガの教えが広く侵入しているのは、それらの国々におけるイエス・キリストに対する反抗や背信を物語っています。

 

ヨガとは何か?

 

Related image

ヨガ(出典:Awakening Presence Workshop

 

ヒンズー教においてのヨガは、禁欲、修行、呼吸法や瞑想を通して、人の魂をこの世のすべてから解き放すための行(ぎょう)です。それには二つの意味が含まれています。その一つは、ヨガを修行する者の現世における存在であり、もう一つは生まれ変わりの循環、すなわち魂の輪廻であり、後者が強調されています。

 

古代ヒンズー教の教理によれば、きよめられていない者の魂の宿命(カルマ)は、過去の行ないに応じて再び母胎に入り、生まれ変わる必要があると言います。しかも、もし自力によって清められることに達するなら、その者は輪廻の循環を脱し得る、というのです。この解放には悟りが伴い、それは、個々の魂(アートマン)が最終的には「絶対的な存在」であるブラフマンに一致することを意味しています。

 

従ってインドのヨガは、個々の魂が本質的には、その性質と実体において、神聖なるものであるーー人間の神格化ーーという理論から成り立っており、すなわち、人間は堕落した罪人、罪によって歪められた神の似姿ではなく、むしろ神そのものである、という教えなのです。ここにヨガの魅惑が潜んでいるのです

 

ヨガの各派は、主としてその修行法によって異なります。たとえば、ハタ・ヨガは、胃腸器官の浄化、特定な姿勢(アーサナ)、そして呼吸法(ブラーナ・アーヤーマ)などの身体的な技術を重視します。呼吸法とは、呼吸を遅くさせ、それによって知られているとおり、思考力が遅くなり、意のままに知力を無くすことができるのです。

 

Image result for ãã¿ ã¨ã¼ã¬

ハタ・ヨーガとクンダリニー(出典

 

ヨガの他の派は、瞑想的な技巧を強調しています。たとえば、大きな声、小さな声、あるいは無言で「マントラ」を繰り返す、マントラ・ヨガがあります。このマントラとは、言語の意味も文法もない魔法的な決まり文句であって、その一つはマントラOMです。それらは神秘的、あるいは宇宙の力であるヴィシュヌ神やシヴァ神、「絶対的な存在」であるブラフマンを表現するものであるとされています。

 

ヒンズー教徒は、このマントラを絶え間なく繰り返すことによって、それらが表現している力と同化できると信じています。こうして人は、創造者なる神に、もはやへりくだって近づこうとせず、むしろマントラによって、神ーー異教の神々ーーとの神秘的な同化を実践しようとするのです。

 

現在、ヨーロッパにあるほとんどのヨガの流派は、ハタ・ヨガの影響を受けており、その修行の目的は身体を強め、関節を柔軟に保ち、各器官の老廃物を除き、神経を休ませることによって、調和のとれた生活へと導くことにあります。そうして生存競争に打ち勝つことができる、と教えるのです。子どもの頃からヨガのコースを始めています。

 

Image result for yoga class in United Methodist Church

3-4歳の子ども達を対象にしたヨガ教室。第一合同メソディスト教会にて。(出典

 

しかし、ヨーロッパにあるヨガの派は、輪廻からの魂の解放ということにはめったに触れることなく、世的な成功に力点が置かれています。ですから、ヨーロッパにおいての新しい解釈のため、ヨガは本来の目的とは違ってただスポーツか体操とみなされています。修行をし始めた初心者は、最初の頃、体が軽くなり、以前より大きなストレスに耐えることができるようになる、などといった肯定的な体験をするかもしれません。

 

こうした良く見える最初の体験に誘惑されて、多くの人々が安易にヨガにますますのめり込み、その教えに深入りして、ついには罠にかかってしまうのです。

 

しかし、この肉体的な修行は、その背後にある霊的なことと切り離して考えることができません。修行によって人の心が影響されるのは当然の成り行きです。ヨガ・コースの背後にある実際的な発起人はヨガのヨーギーであり、彼らはインド・ヒンズー教のヨガにおける訓練を受け、その最終的な狙いは前記のごとく、修行者たちをインド・ヨガに導き入れることにあるのです

 

ですから、肉体的な修行、呼吸法、リラックスを求める外的訓練は、さらなる自己認識と霊魂をコントロールできる技術の習得を求める訓練へと必然的に導いていきます。また、ある種の禁欲主義や苦行によってこの習得に到達した人は、究極的に異教であるヒンズー教のとりことなっていくのです。

 

First United Methodist Church ,FUMC, Gadsden, Alabama, yoga, Rajan Zed

アラバマ第一合同メソディスト教会(FUMC)のヨガ教室(出典

 

このことからヨガについて度々なされた疑問が解けたと思います。結局のところ、ヨガはヒンズー教と切っても切れません。現在、ここヨーロッパで実践されているヨガは、単なる健康を促進させる体操ではありません。そう思い込んでいる人は、勘違いしているのです。なぜなら、ヨガの修行の背後にはーーしばし強調されているのとは相反対にーーヒンズー教哲学やオカルトの世界から切り離せないものがあるからです。このことをヨガの主張者自身が公に語っています。

 

体を完全にコントロールできるように手助けをする、一見、無害で非宗教的なハタ・ヨガは、実はラージャ・ヨガ(瞑想を中心の行法)への準備でもあります。

 

 

ヒンズー思考のある側面が、ハタ・ヨガに採り入れられており、一見、体操のように見える訓練の裏に隠れた動機が仕組まれ、人の心に霊的な影響を及ぼしていきます。それは、「金剛坐」、「英雄坐」、「蓮華坐」といった姿勢の名称からも明らかです。その際、単に肢体の一部が活性化されるだけではなく、内臓器官や腺、あるいは神経中枢にも影響が及んでいきます。

 

ヨガの目に見えない目的とは?

 

ヨガの各流派は、それぞれ独自の教理を持っていますが、いわゆる伝統的ヨガのもっとも重要な教えは自己発見にあります。すなわち、おのおのの内にある本質において清く神性なもの、すなわち人間に内在する神を再発見することなのです。

 

ヨガの基本的な教えによれば、自然、特に人間の本質は善であり、尊いものだとされています。すべてのヨガ修行者は、自らを神とし、あるいは神の一部であると信じています。この教えを広めている導師たちはーー欧米では現在みられるようにーー異様な影響力を持ち、人間化した神としての権威を利用しているのです。17才の少年の前で、大の大人たちがひれ伏したりしてさえいる有様です。

 

ではいったいヨガによって、いかにして真の自己を見つけ、自分に内在するいわば「縛られている神聖な自己」を解放することができるのでしょうか。その道は、肉体的な修行によって無我の境地に達し、宇宙の力に自分を開くことにあります。その時、人は宇宙ーーたとえば空気、水、栄養物などーーにみなぎっている「生命の力」と一つになって、その結果、神になり得るというのです。

 

言い換えれば、なんの欠点も罪もない、完全な状態に飛躍し、超人間になることを意味するのです。そこで主張されているとおり、人は初めて切望されたゴールに達します。すなわち、至福、完全な調和、意識の最高段階である、神としての意識に到達し得るのだと教えます。

 

このようにヨガは、その本質において自己救済です。それはヨガに「縛られている魂」を解放する、なにか良いものであるかのような印象を与えますが、実際のところ、そこにある罪深い自己を甘やかし、エゴを助長することになります。ですから、ヨガを修行する者たちはいつも自己中心であり、自分のことだけに捕らわれているのです。その結果、ますます人との付き合いが困難となっていきます。彼らの主張する自己救済は勘違いです。

 

もし自己救済は宇宙の力によって成就できるとするならば、覚えておかなければならないことが一つあります。中立的な力というものは存在しない、ということです。すべての力の背後には、霊的人格をもった超自然的な存在があります。

 

では、それはどこから来て、またどんなものなのでしょうか。イエスが言われたとおり、ご自身は上のものに属しておられますが、下のものも存在するのです(ヨハネ8:23参照)。すなわち、神の敵である悪魔が存在し、それは下のものに属しています。そして後者は人間に力を授け、特別な能力を与え得ます。

 

では、ヨガ修行者の内に入る力は、いったいどこから来るのでしょうか。また、ヨガの目標なる人間神格化、超人間に到達したならば、今度はだれと一つになるのでしょうか。前述したとおり、ヨガによって受ける力は、究極的にヒンズー教の「絶対的な存在」であるブラフマンから来ます。ヨガ修行者はヒンズー教の伝統の中で生活しているのですから、これは当然の結果ではないでしょうか。

 

Brahma-Ji

出典 Brahma - Centro Yoga Arjuna - Hatha Yoga

 

彼らは一方では、自分自身が神であると信じていますが、他方では「クリシュナ」、「シヴァ」といった神々を持っているのです。そして、この神々にヨガ修行者がかかわりを持つと、当然のことながら、この神々を受け入れることになりますが、これは悪霊とのかかわりを持つことを意味します。パウロが捧げものについて語っているように、「偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている」(1コリ10:20)ことになるのです。

 

ヨガを一生懸命修行する人は、その背後にあるオカルトゆえに、知らず知らず、サタンの支配下に引きずり込まれていきます。ヨガを修行する者の中に注ぎ込まれる宇宙の力、すなわち異教の神々の力によって、たとえそれが「クリスチャン・ヨガ」と名乗っても、修行する者は下の力の支配下に入るという危険にさらされます。

 

Image result for christian yoga

クリスチャン・ヨガ(出典

 

そして、最終的に、修行する者はイエスの御国、光の御国から闇の世界、悪魔の王国の支配下に移されます。気がついた時には、ほとんどの場合、すでに遅すぎ、イエスの御国から悪霊の世界への移転が永遠まで悲惨な結果をもたらします。それは、ヨガの霊的な源のゆえです。

 

ヨガの背後には確かに魔術の力があるという事実は、すでにマントラ・ヨガで述べたとおりです。広範囲に広まっているマハリシ・マヘシュ・ヨーギーの超越的な瞑想は、主としてこのようなマントラを用いています。マントラがヒンズー教に源を発していることは、マハリシも自分の弟子たちに教えていますが、それらのマントラが意味するのはヒンズー教の神々であることについては、彼は何も語っていません。

 

彼の弟子たちが書いた書物の中で、何度も繰り返し述べられているのは、マントラは単なる「身体器官の振動」にしかすぎないとされています。しかし、これは事実を隠そうとする説明であり、彼らはこのような方法で、異教にその起源を発する魔術的・宗教的な技巧を「独創的知識の科学」と名づけています。そのため初心者は、ヨガに加わることは、ヒンズー教の伝統を受け入れる宗教的な行為であると気づかないのです。

 

スイスのインド文化・言語学者である、エルンスト・ゴグレラー氏は、1974年9月、バーゼルで発行されている「キルヘンボーテン(教会の使者)」紙上にて、マントラについて次のように書いています。

 

「マントラの意味が一般大衆に秘密とされ、またその背後にある力が初心者たちの目から隠されているという事実は、マントラが聖書的な意味での、祈りや黙想と比較し得ないことを明らかにしている。マントラとは、魔術的な言葉、もしくは魔術的な決まり文句にすぎないのであって、それらはモーセ六書と七書に含まれている、グノーシス主義のアブラクサス、あるいはサトル・アレポ・チャートに相当するものです。」〔注:中世に著された魔法についての文書で、その聖書的にみえる題名は誤解を招いています。〕

 

 

アブラクサス(Abraxas)は、グノーシス主義の文献に、アイオーンの一人としてガマリエルやサブロとともに多く登場し、選ばれし者を天国に連れて行く存在。出典(絵画:Abraxas from Infernal Dictionary, 6th Edition, 1863)

 

ヨガ修行者が古代インドでの起源以来、魔術とオカルトの力とのかかわり合いを持っていることは、ヨガ教本によれば、修行者がヨガにおいて進歩するに伴って超自然的な力(シッディヒス)を得ると約束していることからも明らかです。良く知られているヨガの専門家ミルツェア・エリアデは、次のように書いています。

 

「インドでは、ヨーギーは常に、オカルトの力を持つ魔術師、すなわちマハーシッディハとみなされていました。」そして、この能力には、「どんな距離にあっても目的物に手が届くことができる力、誰も抵抗できない圧倒的な意志、元素を支配する力、願望を満たす力」が含まれています。*2

 

この能力によって、ヨーギーはいわゆる奇跡を行ないます。1974年9月の新聞は、一人のヨーギーがドイツ、ケルンにおいて、摂氏1000度以上に熱した石炭の上を素足で歩き、その弟子たちも従ったが、何の火傷もしなかった、また、自分の心臓を8秒間完全にストップさせることができた、と報じています。

 

しかし、ヨガ修行者が心を開くのは、結局、闇からの力に対してです。そのため、この教えが言っているような解放、自由、調和などを得るはずはありません。サタンは実のところ、偶像や神々、ヒンズー教の神秘的な教理の背後にも潜んでおり、あらゆる幸福や喜び、調和、すべての良いものを打ち壊そうとする破壊者なのです。サタンはこのようにして人間を滅ぼすために、その罪にとどまらせ、自分の支配下に引きずり込もうとします。

 

だからこそ、真のクリスチャンはイエスと共に、あらゆるオカルトや悪霊的なものに対して、戦うしかありません。これらは、ヨガの教理にも潜んでいます。しかし、「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです」(1ヨハネ3:8)。このイエスは主であり、サタンやあらゆる悪霊に対しての勝利の君であり、また天においてすべての支配、権威、勢力、主権の上に置かれた偉大な支配者であられます。

 

当然ながらいわゆる「クリスチャン・ヨガ」というものはあり得ません。だからこそ、ヨーロッパにおいて、度々ヨガにキリスト教用語や祈りが用いられていることはとんでもないことです。

 

たとえば、主の祈りなど、キリスト教の祈りをマントラの代わりに使っているのです。しかも、神学者でさえもこれを推薦しており、キリスト教団体は、「これこそ、わたしたちの活気に欠けている祈りの生活を新たにするもので、キリスト教の目的のためになる、何の害もない中立的な方法なのだ」と言って、他の人々をヨガへと招いているのです。しかしながら、ヨガの起源や修行や目標は、キリスト教信仰のそれらとは全く相入れないものです。そればかりか、御自身に従って行くようにと招く生けるキリストと御言葉のすべてが、この究極的にオカルトであるヨガとはっきり対立しています。

 

Related image

第一ルーテル教会とヨガ(出典

 

ヨガの持つ最大の危険性は、その悪魔的な背後に潜んでいます。それに加えて、ヨガが教えている自己救済は、キリスト教信仰に全く反するものです。わたしたち罪びとである人間には、神になるためにだんだん自分を高めようといかに努力しても、身体や精神の修行によって自分を贖うことはできません。

 

真理に属する者は皆、自己の内にまだ解放されていない善い自我などは無いということを知っており、むしろ生まれながらにして、自分がサタンと罪のとりこになっているのを自覚し、そこからキリストによって解放されなければならないと知っているのです。

 

ましてや、自分を贖うために、自己の内にある「神聖な自分」を見いだそうなどとは決してしません。なぜなら、すでに真理を通して、罪びととしての自己を発見しているからです。そして、「人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ」(創8:21)との御言葉のとおり、その自己は悪であることを知っています。自分は罪や咎の恐るべき現実を認識しており、そのために救い主が必要であることが分かっています。そして、イエス・キリストこそがその救い主であられることを知っているのです。

 

イエスが人となり、私たちのために十字架につけられ死なれたのは、私たちをすべての悪、利己主義、高慢やその他すべての罪深い欲の根源である自我から贖うためでした。

 

「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)という御言葉のとおり、主の流された血潮と贖いの御業によって、罪とサタンは敗北しました。信仰によって古い人がキリストと共に死ぬならば、そこには贖われた者としての新しい人が生まれます。神の御子なるイエスのみが、それを成し得る権威をお持ちです。真のクリスチャンにとっては、イエスが人生のすべてです。そして、イエスと共に生き、イエスに従っていく彼の最高の目標は、永遠にイエスと共に御国に住まうことです。

 

神の小羊なるイエスを救い主として心から愛し、イエスと個人的な交わりを持っている者は、背後に神秘的な教えや魔術的な呪文があるヨガの修行に参加することはできません。そして、無我の境地に入るためにヨガの修行を通して、宇宙のもろもろの力や異教の神々に心を向けようとはしないのです。

 

彼の思いはすでにイエス・キリストに向けられ、そして祈りの時に、イエスとその御言葉に思いをはせます。彼は無我の境地に達しようと心の機能を停止させる必要がありません。なぜなら、その魂は生きることや愛することを願っているからです。何にもましてイエスを愛し、そしてイエスによって、人々や神の創造されたすべてのものを愛するのです。

 

しかし、究極的に下から来る力によって、まだ解放されていない、いわゆる「神聖な自己」を自力で贖わなければならないと考える者は誰でも、ますます罪のとりことなっていくでしょう。ですから、もしクリスチャンがそのようにして下からの力の支配下に入るなら、自分自身を責めるべきです。

 

ゆえに、今日のクリスチャンはヨガに関して、キリストかベリアルのどちらかを選択しなければなりません(Ⅱコリント6:15)。どんなに考えても、キリスト教信仰とヨガとを混じり合わせることはできません。西洋社会で広まりつつある禅の教えについても同じことが言えます。

 

旧約聖書は私たちに、はっきりとこのことを教えています。当時のイスラエルの民が生ける神のほかに偶像、すなわち他宗教の神々を礼拝したことによって、生ける神の怒りと大いなる裁きを招きました。このような混合は、宗教融合なのです。そして、単なる偶像礼拝ではなく、これこそしばしばイスラエルの犯した罪でした。

 

「それが仏教やヒンズー教、あるいは他のいかなる宗教であっても、人々が熱心に救いを求めているのならば、義なる神は、彼らをも受け入れてくださるに違いない」という主張がしばしばなされますが、それは明らかに誤った考えです。このような主張がヨガを修行する言い訳として使われますが、このような弁解は通用しません。もちろん、聖なる神の側からみれば、その恵みには限界がありません。ただし、神の御子イエス・キリストについての啓示を受け入れた者と、真理をまだ聞いていない者との間には明確な違いがあります。

 

私たちクリスチャンにとっては「ほかの誰によっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4:12)との御言葉が語られています。ヨガは、私たちキリスト者にとって滅びへと導く背教の道です。キリストの救いにまだあずかっていない人々にとっても、それは誤った道です。それでも、主は彼らの向きを変え、イエス・キリストの真理の道に導くことがおできになります。

 

ですから、神は旧約の民に呼びかけられたよりもさらに強く、小羊なるイエスの尊い血潮と犠牲によって贖われた新約の民である私たちに呼びかけておられます。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え」(列王記上18:21)と。

 

私たちがイエスに仕えると同時に、ヨーギーや導師の教えが提供する他の神々や異教の偶像について行けると思うならば、イエスの、「お前は不幸だ!」という言葉が私たちにも語られます。なぜなら、私たちは大きな代価を払って買い取られているからです(1コリ6:20参照)。

 

もう一つの局面は、ヨガが個人の信仰生活に限られた、単なる私的な事柄ではないということです。前述のごとく、マハリシ・マヘシュ・ヨーギーは世界布教構想を練り、「全世界の人々にいやしと幸福をもたらしたい」と言っています。

 

Related image

ビートルズとマハリシ・マヘシュ・ヨーギー(出典

 

すでに今日、ヨガの実態は生ける神と無縁で、さまざまな宗教を集合させた「世界統一教会」に合流しようとする兆候を見せています。まさに、新しい統一された世界を目指す、世界共同体、世界宗教、反キリスト的世界教会の一片が見え始めています。

 

世界平和女性連合(WFWP;統一教会系列の団体)主宰のインター・フェイス祝祭の様子。出典

 

イエスは、この大きな惑わしに対して、私たちに語りかけておられます。「わたしのもとに来なさい。」(マタイ11:28)。「わたしは道であり、真理であり、いのちである。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。わたしを信じる者は、永遠のいのちを得るのです。」(ヨハネ14:6、5:24)。

 

まさに、イエスにのみ、不幸と滅びをもたらす罪からの贖いと真の救いがあります。そして、かの日、その似姿に変えられた私たちを、イエスは天の栄光に迎え入れてくださいます。そして、イエスは私たちにその御国に永遠に住まわせてくださいます。

 

事実、イエスのみが世界のために唯一の御計画をお持ちになり、そして、その救いの御計画とは、私たちが完全な者とされることだけでなく、世界が新しくされることも含まれています。御自分によって造られ、イエスの犠牲によって贖われた世界を、神は義による裁きと恵みによって再び新しく創造されます。しかし、誰でもこの方を見捨てて、他の方法、すなわち下から救いを求めるなら、滅びを刈り取ることになります。

 

「まことに、わが民は二つの悪を行なった。生ける水の源であるわたしを捨てて、無用の水溜めを掘った。水をためることのできない、こわれた水溜めを」(エレミヤ2:13)。「イスラエルの希望である主よ。あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。あなたを離れ去る者は、地下に行く者として記される。生ける水の源である主を捨てたからだ」(エレミヤ17:13)。

 

ー終わりー

 

 


上記のように、福音自由教会内でヨガ教室が開催されているという事実を、私たち信徒はどのように受け取ったらよいのでしょうか。この立場は、日本福音自由教会協議会の公式見解を反映するものなのでしょうか?つまり、貴協議会が「クリスチャン・ヨガを公認している」と言う風に私たちは受け止めるべきなのでしょうか。どうか、自分を含め福音自由教会を愛し敬うすべての兄弟姉妹のために、「クリスチャン・ヨガ」の教理と実践に関する貴協議会の公式的立場をお教えください。ありがとうございます。主の恵みが豊かにありますように。

 

クリスチャン・ヨガについての関連記事:

キリスト教とヨガ(カトリック教会の教え)

*1:ブログ管理人注:マーケット研究センターGesellschaft für Konsumforschungの調査(2016年)によると、300万人のドイツ人が定期的にヨガを実践しており、その内の90%が女性です。また約1000万人がヨガを実践したことがあり、1250万人がこの先12カ月以内にヨガを始めたいと答えています。参照元

*2:M・エリアデ著『ヨーガ』p.97参照。