巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

統一教会の「平和」、フェミニスト神学の「平等」ーー定義のないあいまい用語と敵のほくそ笑み

5.25 HWPL Peace Walk

人はいろいろな意味合いで「平和」という用語を使っている。写真:Heavenly Culture, World Peace, Restoration of Light*1

 

目次

 

統一教会の方の訪問を受ける

 

昨日、近所の奥さまがわが家を訪問され、お交わりする時間を持ちました。この方は非常に親切で純真なこころを持った神を愛する女性なのですが、かねて話す中で、彼女のボキャブラリーから出て来る言い回しがどうもスピリチュアル系/新興宗教系の感じがしていました。

 

でも私と話す時には努めてイエス様や新約聖書の話をしようとしている風もあり、かといってどこの宗教とも特定できない独特のあいまいさがあり、私自身もあえて彼女に訊いてはいませんでした。(最近は、クリスチャンと名乗りつつも、個別宗教やそれに付随する歴史性をあえて避ける形での信心形態を好む方が増えてきました)。

 

そうしたところが昨日、彼女の方から「私は40年以上、統一教会の会員なので、、」と初めてアイデンティティーを明かしてこられました。「あっ、統一教会、、なるほど、、」と、それを聞いて、これまでのいろんな「?」に納得がいきました。

 

彼女は涙を流しながら、「天のParentsの御心は、あらゆる教派、あらゆる宗教の人々がこれまでの憎しみや対立、戦争をやめ、互いに愛し合い、平和をつくっていくことだと思います。ですからあなたも、プロテスタント教徒としてのアイデンティティーを保ちつつも、神様のみこころの中で、世界の人々の平和と一致を求めてくださるよう心からお願いします」とおっしゃり、次の手記を渡されました。以下、日本語に訳します。

 

「一つの理想的な平和世界」

 

「宗教というのは、一つの理想的な平和世界に向かって流れゆく広大な川のようです。この川は平和という茫洋たるひろがりに行き着くまでに長い道のりを流れゆきます。そしてその道程の中で、多くの細流がそれに合流します。

 

この川は、それに合流する細流のどれをも拒絶したりしません。すべてを受け入れます。それはあらゆる細流を包み込み、海洋へと動きを続ける中で一つの流れを形成していきます。川を求め、それに流れ込もうとしている細流は、今日現存する無数の宗教および教団教派です。それぞれの細流はそのはじまりを異なる源流に辿ることができます。しかし、それらは皆、同じ終着点に向かっています。そう、それらは皆、平和に満ち溢れた理想世界を目ざしているのです。」(引用終り)

 

統一教会によるミンダナオ島での “超宗教平和祝福祭” ニュース新天地より(천지일보

 

定義づけのない言葉

 

先日私は、クリスチャン・フェミニストの方々が(「すでに、今まだ already, not yet」という神の国の原理やら軌道解釈やらを援用しつつ)最終的理想郷として描き出そうとしている対等主義的ユートピア「ファランステール」と、聖書の啓示している「神の国」は果して同一のものなのでしょうか、という提議を、前の記事の中でいたしました。

 

ここで焦点となるのは、対等主義クリスチャン・フェミニストの方々の用いる「平等」という語の意味と用法についてです。彼/彼女たちは、「平等」という語を頻用しますが、多くの場合、そこに定義づけはなく、非常にあいまいな使われ方をしています。*2 *3

 

そして、用語のあいまいさに関し、同様のことが統一教会のこの女性の手記についても言えるのではないかと思います。彼女の頻用する「平和」とはどういう意味での「平和」なのでしょうか。

 

この文章を読むと、彼女の思い描いている「一つの理想的な平和世界」というのは、異なる宗教や教団教派という細流をどれ一つとして「拒絶せず」すべてを「受け入れる」ことによって完成される世界であることが分かります。

 

しかしこういった善悪/正誤を問わない無差別の「受容」からもたらされる、ふわふわした十字架抜きの「平和」がまがいものであることをイエス様ご自身が明示しておられます。

 

マタイ10:34-39

「34 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。

35 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。

36 さらに、家族の者がその人の敵となります。

37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」

 

コロサイ1:19-20a

「なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったのです。」

 

冒頭に挙げたような種類の「平和」がいかに聖書の啓示する「平和」とかけ離れているかをA・W・トーザーが次のように活写しています。

 

「想像してみてほしい。『金の子牛』の事についてイスラエルの民と話し合うべく、パネルディスカッションの席につくことに同意したモーセの姿を。もしくは、バアルの預言者たちの隣に紳士的な居ずまいで腰を下ろし、彼らと話し合いをしているエリヤの姿を。あるいは、パリサイ人との見解の違いを乗り越え相互に歩み寄るべく、彼らとの座談会の場を求めている主イエス・キリストの姿をあなたは想像できるだろうか。

 

 あるいは、より高度なレベルでの一致をもたらすべく、アリウスとの間の見解の違いを超越しようと努めるアタナシウスの姿を。または、『より寛大なキリスト者間の交流』という名によって、ぺこぺことご機嫌取りをしながら教皇の前に参じているルターの姿を。

 

(尊敬を受けるとまではいかなくとも)少なくとも人に好かれたい、好意を得たいという願いは、およそ人間の性格の中に存在する大きな弱点である。しかしイエス・キリストに仕える僕にとっては、こういった弱点は決して大目に見ることができない。最近もてはやされているのは、『いつも笑顔で、愛想のよい、無性の宗教マスコット』としての神の御子のイメージである。そしてこのマスコットはやわらかい手で誰彼となく握手を交わし、どんな問題に関してもいつも『そうですよ、そうですよ。』と相槌を打ってくれるのだ。」(引用元

 

「神学的リベラリズム」と「用語におけるあいまいさ」

 

「神学的リベラリズム」と「用語におけるあいまいさ」の間には深い相関性があると思います。例えば、先日の記事「なぜ男性たちは教会に来たがらないのだろう?」の中で紹介されていたレズビアン牧師の方の牧会する教会のHPには次のような「信仰告白文」が書かれています。以下、日本語訳します。

 

私たちが信じていること

いかに生きるかが、何を信じるかよりも大切であるということを私たちは信じています。マウント・セイムールにおいて、私たちはプログレッシブな形のキリスト教に倣っており、それは以下に挙げることを含意しています。

 

①私たちは聖書を真剣に受け取っていますが、文字通りには受け取っていません。

私たちは聖書を「人間の作った産物」として理解しており、聖書は二つの古代共同体という文脈の中で書かれています。この書物は、当時の人々がいかに神および彼らの信仰生活を理解し体験したのかについて記した記録です。私たちは聖書を、知恵の中心的源泉、インスピレーション、人生の理解や指針として用いています。

 

②私たちはイエスの道に倣っています。

私たちはイエスの物語や彼の生き方を、自分たち自身の生き方の模範として捉えています。私たちはイエスを、歴史上の人物として理解しており、また、「内なるキリスト」、「われわれの間におられるキリスト」と呼ぶところの神秘的な臨在として理解しています。そしてこういった理解を通して、私たちは神的な存在のかたちに造られたという事のより深い意味を獲得していきます。

 

③私たちは一人ではありません。神が共におられます。

私たちは「神」のことをいろいろな名称で読んでおり、さまざまな方法で聖なる方を体験しています。私たちは自分自身よりも大きい何かとしての神、且つ私たちの一部としての神を経験しています。私たちは主として神のことを、イエスを通した人間のかたちの内に理解しています。

ー以上、抜粋終りー

 

人間の作った産物としての聖書観、神の子ではなく「模範」としてのイエス像、イエスの贖罪死、復活、再臨への信仰の不在、超越的神観を拒んだ上でのアンバランスな「内向き」霊性*4、歴史的特殊性を拒んだ抽象的「内なるキリスト」というグノーシス主義傾向*5等、ここにはキリスト教リベラリズムの特徴が余すところなく表現されていると思います。

 

秘儀宗教、オカルト、シンクレティズムへの門戸が開かれる

 

また「私たちは『神』のことをいろいろな名称で読んでおり、さまざまな方法で聖なる方を体験する」という立場から、異教やオカルト、秘儀宗教とのシンクレティズムへの門戸が開かれていきます。

 

同じバンクーバー地区に、「ヨガ・チャペル(Yoga Chapel)」という対等主義プログレッシブ教会があり、ハタ・ヨーガ及びクンダリーニ・ヨガの修業を終えた4人の牧師と2人のスタッフがUnited Church of Canadaの後援の下、牧会をしています*

 

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Leap of Faith: Praise God in the lotus position at Yoga Chapel

 

ヨガ・チャペルの牧師の内2人は、リベラル教団合同メソディスト教会(UMC)の方々であり*、2012年に、米国聖公会がUMCとフルコミュニオンに入った場合、米国聖公会メインストリームにこういったものが流入してくるのはもはや不可避であるように思われます。*6

そしてヨガ・チャペルのHPの「信仰告白」もまた、上記の教会のHPと同様、「聖なるストーリー」「ユニバーサルな真理」など、非常にあいまいで、どのような意味にも受け取れるような言葉で埋め尽くされています。*7

 

「キリスト教」と「リベラリズム」ーー異なる二つの宗教

 

前世紀初めに、グレシャム・メイチェンは、「キリスト教」と「リベラリズム」というのが二つの異なる宗教であることを次のように指摘しています。

 

「殊に宗教的領域においては、現代は戦いの時代である。これまでキリスト教として知られてきたところの偉大なる贖罪的宗教が、これとは類を異にする宗教信仰と戦いつつある。その異なる宗教信仰は、キリスト教のものであるところの伝統的言葉を使用するが故に、それだけ尚一層、キリスト教信仰にとっては破壊的である

 

 この現代の非贖罪的宗教なるものは、モダニズム或いはリベラリズムと呼ばれている。しかしながらこの両者はともに不完全なる名称である。特に後者の如きはいかがわしき名称である、、この運動の表現形式は多様であるとはいえ、そのよって来る根源は一つである。すなわち現代的自由主義宗教の種々相はその根源を自然主義に発する。すなわちキリスト教の起源に関して、神の創造力のいかなる侵入をも拒むところに、その根源を発するのである。」(メイチェン著『キリスト教とリベラリズム』第1章 引用元

 

そして以下に続く項で、メイチェンは、いかにリベラリズムが「キリスト教の特殊性に抗し」、「キリストの人格に関する信条または彼の死と復活による贖罪についての信条のごときキリスト教の特殊性に抗し」ようとしているかについて詳述しています。

 

リベラル神学者は、「宗教の一般普遍的原理のあるものを救わんことを求め、これらキリスト教の特殊性については、その普遍的原理の単なる時代的象徴であるに過ぎないと考える。そして彼はこれらの一般普遍的原理を目して、『キリスト教の本質』を構成するものとみなすのである。(引用元)」だからこそ、リベラリズムにとって、あいまいな語法はその目的達成のためにどうしても不可欠なアイテムなのだと思います。

 

 

「平和」「正義」「平等」ーー

定義なき、あいまいな用語の背後でほくそ笑む敵は、キリスト教的なフレーバーを漂わせつつ、光の天使を装い、教会内に祭壇を築きつつあります。

 

ー終わりー

 

【補足資料】真実な平和を求めてーー平和問題に対するキリストの答え

 

バジレア・シュリンク著「真実な平和を求めて」より一部抜粋

 

平和運動はますます広がりつつあります。平和が宣言され、平和のシンボルである鳩のポスターが貼られ、平和スローガンが叫ばれている今日です。そして、何十万もの人が群れをなして平和のための行進に参加しています。これは、新しい時代と新しい世界の前触れなのでしょうか?

 

わたしたち自身、どの側につくか決断しなければなりません。ですから、このことについて考えをめぐらせないわけにはいきません。

 

〔中略〕平和の君なるイエス・キリストに従って行く道のみが、平和に至る道です。この道を歩まない限り、何千もの人々が平和をアピールして行進したり、デモを行なったとしても、世界に平和は訪れません。そこには、平和の理想を単純に信じやすい人々や、戦争の不安に駆り立てられた人々が多く混じっているかもしれません。

 

しかし、平和運動の中に、憎悪や争い、暴動へのそそのかし、無神論者として神に敵対し相手側との戦いを呼びかけ、更には破壊と暴力を肯定するような人々のグループが含まれている限り、この運動は決して世界に平和をもたらしめません。

 

むしろ、わたしたちの態度は次のようであるべきです。平和を実現するためにイエス・キリストによって変えられ、家庭でも職場でも争わず和解の中に生き、平和を守ることです。そうすれば世界に平和が訪れます。

 

、、今日の平和運動の姿は、たとえ多くのクリスチャンや牧師、さまざまな宗教の代表が参加したとしても、聖書的ではありません。イエスは終わりの時代について、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる、、、」(マタイ24:7)と述べられました。そして、ヨハネの黙示録には次のように書かれています。「すると、火のように赤い別の馬が現われた。その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた、、、」(黙6:4)。

 

また、いわゆる「ラッパの審判」(黙8、9章)において、聖書は恐るべき規模の戦争を預言しています。

 

わたしたちは自分の生き方を一新し、悔い改めや祈りによって、そのために備える必要があります。そして、起こるであろう戦争に対して、神のこの裁きに憤慨し行進するのではなく、むしろ、恵みの時の延期と裁きの緩和を祈り求めるべきです。

 

わたしたちは、デモ行進によって神の裁きを阻止することができると自負しています。しかし、神へのあらゆる冒涜とその他、天にまで届く罪に対する神の今に至るまでの憐れみと忍耐の末、神の義が審判を下されるでしょう。

 

それにもかかわらず人は、いわば神のご計画に介入し、デモなどにより平和を無理にでも得ようとするのです。かえってそのようなデモ行進は、最終的に神に敵対するものとなります。ですから、あらゆる政治的な平和運動は、単にユートピアだけではなく、惑わしなのです。イエス・キリストの定められた平和の前提条件に逆らう道は、戦争へと導きます。そして多くの人々が神の戒めの道を歩むときにのみ、平和が訪れるのです。

 

大衆が蜂起し、自分たちの気に入らないものすべてに対してデモ行進をし、その際、暴力を振るったり、物を破壊したりするまさにこの時代において、イエスの周りにもご自分に従い行く人々が集まっています。

 

名実ともに、「平和の君」と称せられるイエスの集められる群れは、反乱者たちではなく、イエスを模範とし、その呼びかけに従い、神の印を押された人々から成っています。

 

憤慨する人々からの挑戦のもとに、イエスに従い行く人々の群れは、かつてないほど速く、そして大きく結晶しつつあります。イエスはこの群れを用いて、世界に平和をもたらされるでしょう。罪と不法がかつてないほど勝ち誇る現代、この群れは憎悪、不正、侮辱、更に牢獄と収容所での迫害にあって、真のイエスの弟子として強められています。この平和の君に属する人々の群れは成長しつつあり、イエスの再臨の日までに数においても、質においても完全なものとなるでしょう。

 

罪は、人々の、あるいは国民の滅びであるということは変わらない事実です。罪は憎悪を生み、それは戦争につながります。どんな平和行進もそれを防ぐことはできません。あらゆる罪の悔い改めなくしては滅びのみであり、戦争が起こります。周知のように、核戦争が起これば、今度こそ、かつてないほど大規模な破壊を招くでしょう。

 

イエスは今、恐ろしい戦争への危機にあって、平和と反戦を叫ぶのではなく、御自分とその戒めに従い、平和のためになることをするよう、わたしたちに忠告しておられます。

 

もし、わたしたちがそうするならば、イエスほどに、平和を与えようとされる方はほかにおられません。ですから、イエスを選び、御言葉に従って行動しましょう。イエスは真理であり、わたしたちに真理を教えてくださいます。

 

イエスとは異なる精神に導かれているような平和運動に入るのではなく、平和の君なるイエス・キリストのもとに集まりましょう。わたしたちがご自分の敵である人々と共に行進するのを、イエスが目にされるようなことがあってはなりません。そんな行動によって、イエスを悲しませることがありませんように。わたしたちは、真意を見極めずに同調することによって、彼らと共に次の世界大戦争への道を開きたくはありません。

 

イエス・キリストは今日、その平和の御国が訪れるようにと、わたしたちをご自分のもとに招いておられます。来たるべきキリスト再臨の日に、時は満ち、イエス・キリストは御国を建設されます。その時、平和と愛、喜び、義と真実がこの世を支配します。

 

イエスの道を歩み、イエスに忠実な人々の群れに加わろうではありませんか。

*1:

*2:参:役割における「違い」と「優劣」を混同してはいけない。

*3:ジェンダー・フェミズム論争においては、「義」「正義」という言葉についても同様のことが言えるのではないかと思います。 

*4: 

*5:関連記事

*6:

*7:詳しくはここを参照ください。