巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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聖書批評学の変遷(聖書神学舎 津村俊夫師)

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ポスト構造主義

 

目次

 

聖書神学舎教師会〔編〕『聖書信仰とその諸問題』聖書信仰と批評学、p.82-86.(執筆者:津村俊夫師、ウガリト語、旧約聖書学)

 

聖書批評学の変遷

 

福音主義の聖書学者が直面する最大の問題は、昔も、今も、聖書釈義における聖書批評学の位置づけであり、みことばを「正面から」学ぶための方法論の確立だと思います。

 

私が聖書の研究に従事するようになって、半世紀になりますが、この間、聖書学の分野で何が起きてきたか。それは、構造主義からポスト構造主義*1へ、そしてポストモダンの聖書解釈学の時代へという流れとしてとらえることができると思います。

 

1.通時論から共時論へのシフト

 

人文科学における通時論から共時論へのシフトは、20世紀初めに、ソシュールの言語学*2において始まり、それから、人類学や文学、文芸学一般に、そして、数十年遅れて、1970年代に、ようやく聖書学に起きました。聖書学も時代の子であり、世の一般学の流れや「現代思想」との関連で観察しておくことが重要です。*3

 

この共時論へのシフトによって、従来のように、まずテキストの背後に入っていく文学的前史に注目する通時論(たとえば、JEDP資料説)でなく、あるがままのテキストから出発することが当たり前のことになってきています。すなわち、成立のプロセスよりも、出来上がっているプロダクトに焦点を当てた研究が中心になってきているのです

 

30年前には想像もできなかったようなことですが、国際学会の席上で、また学術雑誌で、「歴史的批評的アプローチ」はもはや絶対的ではない、と表明されるようになっています。数年前のことですが、国際旧約学会の編集長のヤン・ヨーステン(Jan Joosten)教授は、Vetus Testamentum特別号(2013年)の巻頭言で、次のように書いています。

 

「19世紀から20世紀の半ばにかけて一世を風靡したドイツ歴史批評学という、一つの学派による覇権(ヘゲモニー)の時代は終わった。今や、学問的アプローチの『小国分割』balkanization*4の時代を迎えようとする危険の中にある。」*5

 

この「歴史的批評学」の「歴史的」とは「通時的」という意味であり、テキストの背後に入っていく「発生史的」アプローチのことを意味してきました。

 

2.歴史的事実(史実)に対する不可知論

 

しかし、このようなテキストの背後に入っていく「通時的」「発生史的」アプローチをしないで、「共時的」「構造的」アプローチをすることは、そのテキストが担っている歴史的(時空的)コンテキストや、著者の置かれていた歴史的状況に対して無関心でいることではないはずです。

 

ところが、現代は、「歴史」に対する否定的な態度が聖書学においても支配的です。たとえば、サムエル記のような歴史文書に記されている記事が、史実の記録であるのかどうかは「わからない」という不可知論的な見方が聖書を「学問的に」研究している学者の間で蔓延しています。

 

この30年間、テキストの「あるがまま」の姿(プロダクト)を見る「共時論」に集中し、テキストの背後に入っていって、その成立のプロセスに注目する「通時論」を軽視する中で、その結果、テキストや著者の「歴史性」(時空性)を無視するまでになってしまっているのではないかと思われます。

 

この流れの中で、今や、すべてを「最終形態」(final form)から見る、聖書に対する「新しい」アプローチが叫ばれています。「五書」であれば、すべてを捕囚期の最終編集者の立場から見ていくという立場です。これは、共時論にのみ注目する、ポストモダンの「聖書学」の行き着くところであると言えるでしょう。この「最終形態」からすべてを見るという流れは、別の角度から言えば、史実性(historicity)よりも歴史記述(historiography)を重視する考え方と軛を同じくしています。

 

たとえば、ユダヤ人聖書学者のマーク・ブレットラー(Mark Brettler)は、「史実というものを基盤とするいかなる歴史の理解も、聖書の文書に有益な仕方で適用することはできない*6」とまで主張し、史実を見られなくしている聖書学の現実を暴露しています。しかし、史実を追及することを諦めては、人間はヴァーチャルな世界に逃避し、「歴史」がリアリティーを持たなくなってしまうのではないかと思います。

 

3.著者よりも読者にフォーカス

 

また、今の時代は、著者よりも読者にフォーカスが当てられている時代で、著者の意図(authorial intention)が軽視されたり無視されたりする、読者中心の解釈学のもと、聖書本文がどのように「受容」されてきたかという「受容史」(reception history)に関心が向けられている時代だとも言えます。

 

現在、このことをテーマとしたプロジェクトと辞書の編纂*7が進んでいます。一昨年の夏のサムエル記の国際学会(ルーヴェン大学)*8でも行われたことですが、たとえば、IIサムエル記12章26-31節の「ダビデのラバ攻略」をテーマとした「ヨーロッパの絵画」が時代の流れの中で、どのように描き変えられ、受け入れられていったかということが聖書学の問題として論じられていました。

 

このような「受容史」に研究がシフトしていく中で、新約の旧約引用の問題も「受容史」の一つの例として扱われています。しかし、聖書外で、聖書がいかに受容されていったかということと、旧約が新約にいかに受け入れられたかということを、区別する必要があるんではないでしょうか。

 

たとえ教父による「受容」であっても、それは解釈史の中の現象であっても、聖書そのものの研究ではありません。聖書の「霊感」を信じ告白する「福音主義」の立場からすれば、正典としての「聖書」(旧新約66巻)が他の古代文献と違う点を特に意識する必要があると思います。

 

ー終わりー

 

聖書信仰と批評学、p.82-86.

*1:ブログ管理人注ポスト構造主義ーー1960年代後半から 70年代後半のフランスにおいて登場した、構造主義を批判的に継承しつつそれを乗り越えようとする思想運動。代表的人物に J.デリダ、G.ドゥルーズなどがいます。ポスト構造主義は、西欧近代の主流的見解であった人間主体中心主義、すなわち認識の原理でありかつ世界存在の原理である「主観性」の哲学を解体させた構造主義による認識論的革命を踏まえつつ、構造主義が代置した諸関係の構造化の視座が持つ、依然として閉鎖体系を構築して構造を主体化させる傾向、要するに暗黙裏の形而上学的思考を批判し、非形而上学的思考の可能性を模索するものです。デリダの脱構築も、ドゥルーズのノマドロジーも、西欧思想を貫く、客観的、普遍的な世界認識を支えるロゴス (言葉の働き) の企てとその背後にある欲望を問題にすることによって「主観性」の哲学の持つ認識論を乗り越えようとする試みであるといえます。(参照

*2:フェルディナン・ド・ソシュール『一般言語学講義』小林英夫訳、岩波書店、1972年(原著1916年)。

*3:ブログ管理人注

Vern Poythress, Structuralism and Biblical Studies,in Journal of the Evangelical Theological Society 21/3 (September 1978) 221 -237.

*4:ブログ管理人注バルカニゼーション(Balkanization):

ある地域や国家が、互いに対立するような小さな地域・国家に分裂していく様子をあらわす地政学用語。この用語の起源は20世紀に起こったバルカン半島の紛争にある。現在、使われている「バルカニゼーション」は元々は、第一次世界大戦後のオスマン帝国崩壊に続いて起こった民族国家群の分離独立をあらわす歴史上の出来事である。第一次世界大戦の勃発した地でもあるバルカン半島は、別名「ヨーロッパの火薬庫」とも言われ、1990年代のユーゴスラビア紛争等現代に至るまで民族問題が噴出している。(参照

*5:Jan Joosten, Vetus Testamentum, IOSOT (2013), 1.

*6:T・レーマー『申命記史書ーー旧約聖書の歴史書の成立』山我哲雄訳、日本基督教団出版局、2008年、p.167.

*7:たとえば、Encyclopedia of the Bible and Its Reception, 30 vols. (2009-), The Oxford Handbook of the Reception History of the Bible,(2011).

*8:Colloquium Biblicum Lovaniencese (CBL).