巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「聖書のみ」と権威の所在ーーまだまだ考察はつづく

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私はこれまで「聖書のみ」というプロテスタントの土台教理は間違いなく聖書的であると考えてきました。しかしいざ「聖書のみ」の教理が ‟聖書的” であることを強固にバックアップするための ‟聖書的” 論拠を探し始めると、「あれっ?」となってしまいました。

 

特に、新約聖書の正典化における歴史的経緯を調べれば調べるほど、この教理の信憑性について不安が増し加わっていきました。ああそれにしてもイエス様を信じた日以来、「聖書のみ」の教理を疑うような日が自分のクリスチャン人生に到来するなどとは想像だにしませんでした!

 

現時点でみるとこれは自分にとって悪夢以外の何物でもありません。つまり下手をすると、「われここに立つ(Here I stand.)」が一転して、「われここに倒る(Here I fall.)」になってしまうかもしれないのです。

 

仮に皆さんが私と同様プロテスタントの方であり、且つ、現在、私と同じように「聖書のみ」の教理にやや疑問を感じ始めているとします。(もしくはなぜ伝統諸教会の弁証家たちがこれほど激しく「『聖書のみ』の教理は非聖書的だ」と論駁するのか、純粋に興味を持っているとします。)

 

それで皆さんが私と似たような問題意識を持っておられるのなら、おそらく、

A.(最悪の場合)「聖書のみ」の教理を非聖書的なものとして破棄しなければならない事態に陥ったとしても、それがそのまま、

B.カトリック教会やオーソドックス教会の教権(magisterial authority)を聖書解釈における誤りなき権威として受け入れることにはつながらない、

というAからBへの飛躍を感じておられるのではないかと思います。

 

つまり、自分の立っている土台は結構ぐらぐらしている。でもいろいろ事情があって向こう側にも跳躍できない。ーーというにっちもさっちもいかない状況にあるということです。

 

ウェストミンスター神学校のマイケル・ホートン師が、そういった「迷いプロテスタント教徒たち」の抱えるジレンマを次のように表現していました。

 

「次のことをしかと覚えておかねばなりません。『地上的教師の誤りなき確実性』と引き換えに、聖書解釈に伴う責任を明け渡したい(投降したい)という願いから〔カトリック等に〕改宗しようとする人々は誰であれ、ある意味、非常に ‟プロテスタント的” 動きをしているのだということを。

 

というのも、少なくとも、〔その決断に至る〕最初の跳躍は、個人的判断および聖書解釈によるものであり、あらゆる点で、ルターの『われ、ここに立つ』と同じく個人的なものです。どの宗派の信仰告白であれ、教会的みからだであれ、それらを受容するための決断は、個人的コミットメントであり、そこには聖書の明瞭な教えに関するその人自身の識別が含まれているのです。」(引用元

 

そしてホートン師のこういった主張に対し、カトリック弁証家のブライアン・クロス師は次のように述べています。

 

「マイケル・ホートン師はここで、①人が信仰に至る上で果たす人間理性の持つ役割および立場と、②人が神的権威を発見した後に果たす人間理性の持つ役割および立場ーーこの二つを融合しています。それゆえに、ホートン師の主張は次のことを前提しています。

.私たちは信仰に至るに当たり、人間理性に寄り頼まなければならない。

.従って、ひとたび私たちが信仰の状態に入った後も、人間理性は引き続き、最終的調停者/裁定人としてとどまり続けなければならない。

しかしもちろん、こんな事はホートン師自身も信じていません。たとい人が『聖書が神のことばである』ということを信じるに至るに当たって人間理性を用いなければならないとしても、そうだからといって、人間理性がーー聖書が服従するところのーー権威としてとどまらなければならないという事にはなりません。ホートン師とてこのような事は信じていません。

 

それと同様、キリストのお建てになった教会の教権(magisterium)の神的権威を発見するに至るべく、人間理性および私的判断の使用が必要であるという事実があるからといって、それで、『人間理性というのがーー各自の聖書解釈をベースに、教導権の教えを裁断する最終的調停者として存続し続けなければならない』ということにはなりません。」(引用元

 

ノートルダム大学のアラスデア・マッキンタイア教授(Alasdair Chalmers MacIntyre;1929-)が、カトリックとプロテスタント双方の「解釈的パラダイム“interpretive paradigms”」を比較対照しておられます。(参照)今後も引き続き、双方の論点を吟味しつつ、考察をしてゆくことができたらと思います。