巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

【悩み相談】「女性牧師によって実際にすばらしい祝福が教会にもたらされていると思います。ですから神様が祝福されているものに私たちは異議を唱えるべきではないと思うのですがどうでしょうか。」

Female preacher

出典

 

Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chapter 14.4.(拙訳)

 

シンディー・ジェイコブスが次のような議論を展開しています。

 

 

「数多くのミニストリーの場において、女性たちは、男女双方に聖書を教えています。そして彼女たちは、御国のために敬虔にして永続する実を結んでいるのです。もし彼女たちの働きが神様に認可されていなかったのなら、こんな事は起こりうるものなのでしょうか。もし神様が彼女たちに油を注いでおられなかったのなら、彼女たちのミニストリーは単に命のない、死んだ働きとなっていたのではないでしょうか。」*1

 

 

 

〔グルーデム師はこの項で8つの回答を提示していますが、本記事ではAnswer.D-Fの部分を翻訳抜粋いたします。〕

 

回答D

教会が、女性牧師/長老制度を導入することにより、男性リーダーシップが次第に浸食されていきます。また、家庭においても教会においても、いわゆる女性化(feminization)が進行していくようになります。さらに、この制度により聖書の権威もむしばまれていきます。なぜなら、信徒は聖書に書かれてあることに人々が従っていない状況を目の当たりにしているからです。

 

ーーーーー

女性牧師たちのミニストリーによって「すばらしい祝福」がもたらされていると人々が言う時、彼らは、それがもたらす諸結果全体を鳥瞰図的にみることができていないと思います。ひとたび女性牧師や女性長老制度が教会に導入されると、次に挙げるような別の諸結果が付随してくるようになるでしょう。

 

.現在あなたの教会にいる最も保守的で誠実かつ、聖書を神のことばと信じているメンバーの多くがやむをえず教会を去ることになるでしょう。なぜなら彼らは今や教会が公然と御言葉に従っておらず、従って「もはや自分の良心がそのことを耐受することができない」という結論に達するからです。*2*3

 

.それでも尚教会にとどまることにした教会員の方々は現在でも変わらず、「聖書は、女性たちが牧師/長老になるべきではないと教えている」ということを信じていますが、それと同時に教会のリーダーシップをもサポートしたいという願いを持っています。彼らの多くは、自分の尊敬する教会指導者たちが御言葉に対する不従順を奨励していると考えるでしょう。そして、その事により、その他の領域においても、御言葉に対する彼らの確信がむしばまれていく傾向があります。

 

.「聖書は女性たちが牧師になることを許容している」という結論を受け入れるに至った人々は通常、私が前章で述べたような解釈メソッドーー私たちの人生の中における効果的聖書の権威をむしばみ弱体化させるような方法論ーーの一つか二つをも受容していくようになります。それゆえ、彼らは将来、その他の聖書箇所からチャレンジを受けた際、聖句の効力をかわすべく、そういったメソッドを採用していくようになるでしょう。

 

.女性牧師/長老たちの教会は時の経過と共にますます‟女性化(feminized)*4*5 していく傾向があり、女性たちが主要なリーダーシップの重職を占める割合が高くなっていく一方、その教会における男性たちの占める人口比がますます低くなっていきます。*6

 

.家庭内における男性リーダーシップもまたむしばまれていくでしょう。なぜなら、人々は、「女性たちが、教会という『神の家族』における長として指導者として機能していけるのなら、それなら、家庭において女性たちが男性と同じようにリーダーシップの役割を果たせないということがありましょうか。そんなはずはありません。」とーーあからさまにではないとしても直観的にーー判断していくようになるからです。こういった影響は突然、即時に現れてくるわけではありませんが、時の経過と共に増し加わっていくでしょう。*7

 

ですからまとめますと、女性たちが聖書を説教する際に神様が与えてくださる「すばらしい祝福」というものだけが、女性の説教行為から生み出される結果ではないということです。そこには相当にネガティブな諸結果も付随してきます。

 

回答E

何が正しくて何が誤っているのかということは聖書から決定されなければならないのであって、私たちの経験や、ある種の諸行為のもたらす結果に対する私たちの評価によって決定されてはなりません。

 

結果によって正誤を決めるというやり方は通常、「目的は手段を正当化する」という格言によって知られています。そしてこれは倫理的な諸決断をする上で危険なアプローチです。というのも、これはいともたやすく、御言葉に対する不従順を人々に誘うからです。

 

1966年、ジョセフ・フレッチャーが『状況倫理ーー新しいモラリティー*8』という本を出版しました。

 

 

この本の中でフレッチャーは、「最大多数の人々の最大善を為すべく、人は時として、聖書に書いている倫理的掟を破る必要がある」と説きました。しかし、こういった思想がアメリカ社会に浸透していくにしたがい、フレッチャーの状況倫理における「新しいモラリティー」は倫理的基準に関わるおそろしい土砂崩れを引き起こし、神の倫理的掟全般に対する広範囲なる不従順をもたらしました。

 

もしも私が「女性たちはーーたとい聖書がそう言っていなかったとしてもーー牧師になるべきである。なぜならそれは良い結果をもたらしているからである」と言ったとするなら、私は状況倫理に降参していることになります

 

何が正しく何が間違っているのかは、聖書の教えによって決定されるべきであって、御言葉に違反する行為からもたらされる諸結果をみた上で、それらの行為が正しいのだと結論づけてはなりません。

 

回答F

人間の経験だけを基盤にものごとの正誤を判断するのは、神学におけるリベラリズムの土台です。そしてフェミニズムは私たちをこういった方向へ引っ張っていきます。

 

J・I・パッカーは神学的リベラリズムの特徴の一つは「自らの経験を省察することにより、神を理解することができるとする、洗練されたヒューマニティーの力に対する楽観的見解」にあると説明しています。*9

 

それゆえ、神学的リベラリズムにおいては、聖書よりも経験が神学における究極的基準になっています。もしも私たちが「女性も男性も教会のあらゆる働きにおいて全く同じ役割を担うことができる。なぜなら女性説教者たちや女性聖書教師たちの働きの上に注がれている祝福を私たちは目の当たりにしているから」と判断するなら、そういった対等主義的理屈づけは、私たちを神学的リベラリズムへと引導していきます

 

ー終わりー

*1:Cindy Jacobs, Women of Destiny, p.176

*2:これに関する実例を一つ挙げます。1996-97年にかけ、イリノイ州リバティービルにある著名な福音主義教会で実際に起こったことです。そこの教会の牧師は数か月かけ、女性たちを教会の統治部に加える手続きを完了させました。その結果、そこの教会にいた最も保守的で最も活動的な人々が10家族以上教会を去り、同じ街にあるもう一つの主要な福音主義教会である南部バプテスト教会に移ってきました。ちなみに当時私はその教会の長老をしており、教会は明確に相補主義的立場を告白していました。

*3:訳注:関連記事

*4:Podles, The Church Impotent (1999)を参照のこと。

ポドレスの調査によると、1952年、典型的なプロテスタント教会における主日礼拝の男女参加比は53、47の割合で、これは米国人口に占める男女比とほぼ同じ割合でした。しかしリベラル派諸教団においてフェミニストの影響が浸透した後の1986年までには、教会での割合が60、40になりました。ポドレスの調査対象は主としてローマ・カトリック教会とリベラル派のプロテスタント諸教会であり、彼は結論として、もしも現行の風潮が続くとしたら、「プロテスタント聖職者はこの一世代の内にーー看護の世界と同じようにーー特徴的に『女性の仕事』となっていくでしょう。」と述べています。

*5:訳注:

*6:訳注: 

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↑ デイビッド・マロー著『なぜ男性たちは教会に行くことを忌み嫌っているのか』

*7:訳注:The Church as Family: Why Male Leadership in the Family Requires Male Leadership in the Church As Well

*8:Joseph Fletcher, Situation Ethics, 1966.

*9:J.I. Packer, "Liberalism and Conservatism in Theology" in Ferguson and Wright, New Dictionary of Theology (1998), 385.