巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

女性というbeingへの召しーー「個」の信仰から「共同体」としての信仰へのひろがりという展望のなかで

静穏(出典

 

目次

 

「ミニストリー」

 

私たちのプロテスタント界では、「ミニストリー」という言葉が頻繁に聞かれます。海外の宣教地にいても四六時中私たちはこの言葉を目にし耳にします。宣教師同士の会話でも「あなたはこの地でどういうミニストリーに関わっていらっしゃるのですか?」というのが半ば挨拶ことばのようになっている感もあるほどです。

 

特定の働きに対する主の召しを受けた個人やグループが奉仕にたずさわる時、私たちはそれが主に対する、そして隣人に対する「ミニストリー」であると捉え、信仰と愛のうちにその働きに従事していくのだと思います。

 

私は ‟浮いている” のかな?

 

「女性が牧会職につけないのなら、そういう賜物をもった女性たちは他にどんなミニストリーにつけばいいのでしょう?」という真摯な相談を受けることがあります。特に、以前、対等主義の教会で、牧師や教師としての働きに従事してこられた女性の方々にとって、この問いはほんとうに切実です。

 

相補主義(complementarianism)への移行から、60代になって、説教者としての働きをやめたフランス人の女性の方がおられます。その方は保守的な教会に移ったそうですが、「私は自分のおるべき場所がいまいちまだよく分からない。ここの女性の方々は皆、従順で善い人ばかりだけど、神学的な話などはできない。暗黙の内にかもしれないけれど、ここの教会ではそういうのが女性たちには奨励されていないように感じる。それで自分は ‟浮いている” のかもしれないと思う。」と内なる苦境をシェアしてくださいました。

 

「自分は ‟浮いている” のかもしれない」--たしかにこれは、信仰と実践のレベルで相補主義的志向をもち、且つ、男性たちと同等の(神学)教育を受けてきた現代クリスチャン女性の多くが何らかの形で感じる「フィット感のなさ」なのかもしれません。

 

思えばこのブログの誕生それ自体もまた、こういった「フィット感のなさ」に対する、一人の現代女性の試行錯誤の表れといっても過言ではないと思います。この記事の中でも書きましたように、私の場合は、いろいろと模索する中で、神学論文や記事の「翻訳」という世界に安らぎを見い出すようになりました。そして翻訳という作業をとおし、血気盛んな神学的グランパたちとけっこう楽しく心的対話をするようになりました。

 

そしてそうする中で次第に、何かの働きを「為す ‟doing”」こと以上に、「‟であること(being)”/存在」そのものに対する関心と意識の深まりが生じてくるようになりました。

 

Being(あり方)への召し

 

というのも結局私がこれまで一貫して追い求めてきたのは、個々の働きや役職やミニストリーというよりはむしろ、「聖書の神が企図されている女性像(womanhood)とは何だろう?人間とは何だろう?」という、神の前における人のあり方や存在(being)そのものだったからです。

 

聖書的女性像を探求し、みことばの描く円の「中」(つまり女性にとってのホワイトゾーン)にとどまっていたいと願う心の延長線上に現在の「翻訳ミニストリー」(?)的なものが表出してきているわけですが、やはり私にとっての中心はbeingへの問いかけと求めにあります。

 

シンディー・ジェイコブス女史が「Women of Destiny: Releasing You to Fulfill God's Call in Your Life and in the Church(運命の女性たち:あなたの人生の中、そして教会の中で、神の召しを実現すべくあなたを解き放つ」という著書を記しておられます。

 

ここでの暗黙の前提は「あなたという女性には果たすべき神からの召命がある。」ということではないかと思います。そしてその召しを果たす(fulfill)べく、あなたや私は「解き放たれる」ことが必要だとジェイコブス女史は考えておられるのだと思います。

 

こういった考え方は、良くも悪くも、現代プロテスタンティズムの「神と個人」という思想、そして、そこから導き出される(神のご計画の中における)女性一人ひとりの「ミニストリー」や使命に対する真摯なる情熱を反映していると思います。

 

共同体としての信仰へのひろがりの中で

 

先日、カトリック教会に通っておられる姉妹の方からお便りをいただきました。公同性に関し、彼女は神父様が「堅信を機に、個人の信仰から共同体としての信仰へのひろがりを志すよう」講話された旨をシェアしてくださいました。

 

これを聞いた時、私は、「プロテスタンティズムの『神と個人』『ミニストリーへの情熱』というものが(霊的個人主義に裏打ちされた)‟自己実現”という偶像礼拝から真に自由になるためには、やはりこの『共同体としての信仰へのひろがり』--これが不可欠なのではないだろうか?」と思いました。

 

教会の中で「個」としての自分がどのような神の使命を果たしていくかという問いは大事ですが、それ以前にまず、「個」であるひとりの人間が「個」を超えたところにある「教会共同体」というみからだの一部であること(being)ーー、この驚異的神秘、存在の奥義という真理の中に深く沈み込み、そこから公同的に女性としてのあり方を考えていくということが大切なのではないかと思います。

 

余白の美

 

典礼が天における本体を地上に映し出す鏡だとするなら、公同礼拝の中における男性と女性のあり方(being)や位置はきわめて重要なものになると思います。なぜならそれは、神とキリストという三位一体の神の存在の神秘と、なんらかの形で有機的つながりを持っているからです(1コリント11:3)。

 

典礼を神の造形された美術ととらえる時、私がよくイメージするのは書道です。5才の時に習字教室に通い始めて以来、私は書道の世界の美しさに魅了されてきました。小学校に入ってからも、暇さえあれば書道の作品集をながめていました。

 

特に私は「余白」の部分が好きでした。余白というのは、黒い筆文字が書き込まれることによって、いわば受動的に現れてくるかたちであり空間なのですが、不思議なことに、全体的な作品としてみると、筆文字の部分だけでなく、この受け身で物言わぬ「余白」もまた、‟能動的に” 生き生きと見る者になにかを訴えかけてくるのです。そして日本人は太古よりこの部分に風情(ふぜい)をみいだし、「余白の美」として愛でてきました。

 

そして私は、典礼の中における女性の存在はこの「余白の美」になぞらえることのできる静寂で美しいものなのではないかと思っています。私たちは「女性が男性の栄光の現われ」(1コリ11:7b)であることを可視的に表すべく頭をベールで覆います。そして私たちは人々を「導く」のではなく「導かれる」位置にしずかにたたずみます。

 

私たちは、女性のそういったあり方が天的礼拝の本体の中でいかなるアナロジーとなっているのか、その全貌を知ることはできないと思います。(それをご存知なのは神だけです。)

 

しかし一ついえることは、キリストのみからだという教会共同体の中にあって、礼拝者としての私たち女性のbeing(佇み)は、天的な美しさーー創造主なる神の美しさーーの一片をこの世に投影している、ということではないかと思います。

 

そして贖われた男女で構成される共同体の存在の深みから、主なる神はこの世にメッセージを発し、それが公同的な次元での「ミニストリー」という結晶となって、いのちの実を結んでいくのではないかと思います。

 

読んでくださってありがとうございました。