巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

キリスト教対等主義(Egalitarianism)の詳細分析ーーウェイン・グルーデム、フェニックス神学校【総括編】

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ウェイン・グルーデム(Wayne Grudem, 1948~)過去20年間に渡り、イリノイ州にあるトリニティー神学校で教鞭を取った後、現フェニックス神学校教授。ハーバード大(B.A.)、ウェストミンスター神学校(M.Div.)、ケンブリッジ大(Ph.D.)1998-1999年にかけ、Evangelical Theological Societyの会長。『ESVスタディー・バイブル』編纂主幹。

 

目次

 

Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chap14.(抄訳)

 

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対等主義の研究

 

男性優越主義というのは実際、歴史をとおして主要な問題であった。

 

これまでの歴史を振り返ってみますと、ほとんどの文化圏において、男女に関する聖書的スタンダードからのもっとも深刻な逸脱は、フェミニズムではなく、むしろ過酷で抑圧的な男性優越主義に因るものでした。

 

これは米国内の家庭に限らず、世界のさまざまな文化圏において今日も存在している問題です。非キリスト諸教ーーたとえばイスラム教などでは、悲劇的な形で女性を抑圧している場合が実際多く、神のかたちに等しく造られた存在として女性たちを取り扱っていません。

 

聖書は冒頭からそれを是正し(創1:27)、男女は共に神のかたちに創造されたと記してあります。その後も聖書は一貫して、神の目に女性が等しい尊厳と価値を持ち、私たちはお互いをそのような存在として取り扱うべきであるということを言っています。

 

しかしながら、この真理がいつも認識されてきたかといいますと、残念ながら、教会の中においてでさえも常にそうであったとは言えません。現在のこの論争における神のご目的の一つは、これまでエヴァンジェリカル界の諸教会や家庭の中に存在してきたいくつかの間違った伝統や男性優越主義に関する誤った考えを是正するためのものではないかと私は考えています。こういった事柄に関し、私たちは、教会が主により従順になっていくことを絶えず期待しつつ生きていくべきだと思います。

 

、、キリスト教会は、これまで、このように論争を通して、学び、成長し、そして清められてきました。そしてキリスト教理史をみましても、ある論争が一定期間続いた後、聖書信仰の教師や指導者たちのmain body(主体)は、常に正しい決断、そしてより深い理解へと導かれていきます。なぜなら、イエス・キリストこそ教会の「主(lord)」であり、主は教会を守り、清め続けてくださるからです。

 

その一方、残された少数派はなおも間違った諸意見に執着し続け、やがては周縁化し、消えていくか、もしくはたとい存在し続けても、それ以後は、キリスト教会に、もはやこれといった影響を及ぼす存在ではなくなっていきます。

 

ですから、現行のこの論争もまた、過去の諸論争と同じく、教会が正しい決断をくだす段階に達し、間違った諸見解が是正される状態に達するまで、続くだろうと思います。

 

男性優越主義の誤りについて申し上げましたが、しかしそうであるからといって、エヴァンジェリカル諸教会(および家庭)が常にそういう誤りの内にあったかというと、そうではありません。

 

例えば、ヨハネ・クリュソストモス(374-407)の説教集をひもとくと、その中には、彼が夫たちに妻を愛するよう勧告し、互いに対し尊厳と敬意をもって接するよう促す多くの美しい文章が盛り込まれています。そしてそういった説教は教会史を通し、主だった著述家たちの文章に見いだされます。

 

また今日、多くの教団・教派では男性にも、そして女性にもそれぞれにふさわしい奉仕の働きが与えられるよう奨励がなされています。ですから、相補主義クリスチャンである私たちは、絶えず、次のように自問し続ける必要があると思います。

 

つまり、「聖書の定めた枠の範囲内で、私たちは女性の方々がより一層、尊い働きができるよう励まし、それらを積極的に肯定していくにはどうしたらよいのだろうか」と。そして神の国の働きの中にあって、男女が真に等しい価値をもっているということを本当に純粋に自分は信じているのだろうか、と。

 

対等主義は、聖書釈義の分野において停滞している。

 

この論争が進んでいくにつれ、語の意味、文法的構造、より大局的な聖書的そして歴史的背景など、さらに多くの情報や事実が明るみになってきています。そして、学的な分野におけるこういった進展は、相補主義の立場を強め、裏付けるのに貢献している一方、再三にわたり、対等主義の立場は揺さぶりをかけられてきました。

 

例えば、アンドレアス・コステンバーガー(Andreas Kostenberger)とH・スコット・バルドウィン(H. Scott Baldwin)の研究により、1テモテ2:12のauthenteoの意味に対する私たちの理解に重要な進展がみられました。

 

そしてこの研究により、この語には否定的な意味が付与されている、という対等主義側の主張ではなく、「権威がある」「権威を行使する」という意味があるということが明示されたのです。*1

 

またリチャード・ホーヴ(Richard Hove)の重要な研究により、ガラテヤ3:28(「、、男子も女子もありません、、、なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」)の箇所が、異なる役割をもつ異なる人々の間の一致(unity of different persons with different roles)を説くものであって、対等主義者の主張する「男女の役割における同一性(sameness of men's and women's roles」を説いたものではないということが示されました。*2

 

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また、「当時のエペソでは女性たちには十分な教育が施されていなかったため、パウロは女性たちが教会で教えることを禁じた」という対等主義の人々の主張とは対照的に、スティーブン・バウ(Steven Baugh)等は、新約が書かれた当時のエペソにも教養のある女性たちが存在していたことを示しました。*3

 

またM・H・ブーラー(M.H.Burer)およびダニエル・B・ウォーレス(Daniel B. Wallace)の研究を通し、ローマ16:7のギリシャ語episemosは、ユニアス(ユニア)は、「使徒たちの間によく知られている(well known among the apostles)」というよりは「使徒たちによく知られている(well known to the apostles)」という意味であるということを提示しています。*4

 

 またこれは私自身の研究によるものですが、「権威のある人("person in authority")」を意味する50以上の例を検証し、ケファレー(kephale 「かしら」)の意味に関する考察をいたしました。*5

 

対等主義の一部は、家庭内において夫が妻のかしらであるという聖句によって示されている男性リーダーシップを否定しなければならない必然性から、「AはBのかしらであっても、AはBの上に権威を持ってはいない」という主張をしています。しかしながら、聖句中にあるどのテクストをとっても、そのような事が明確に意味されている聖句は未だ一つ足りとも見つかっていません。*6

 

こういった諸研究を概観した際に見て取れるのは、相補主義は詳細な聖書研究により、ますます堅く立っていきているのに対し、対等主義の議論は、不安定になってきているということです。

 

でもここで疑問が生じます。それならば、どうして現在、対等主義の立場が前進しているのでしょうか?

 

なぜ対等主義が前進しているのか?

 

聖書研究の分野で大幅に後退しつつある対等主義ですが、それにもかかわらず、エヴァンジェリカル界の最前線においてそれは前進を続けています。なぜでしょうか。この20年余りに渡り、私はこの論争に参入し、一連の動きを注意深く見てきましたが、その結果、私は「対等主義前進」の要因として、以下のような点に気づきました。

 

① 聖書の不正確な解釈

 

本書で取り扱っている対等主義者たちのさまざまな主張の大半がこのカテゴリーに入ります。(中略)

 

② そこに存在しないものを無理に聖書の中に読み込もうとする

 

対等主義者の中には、聖書が実際には言っていないことをベースに議論を繰り広げている人々がいます。

 

例えば、「デボラがイスラエルを率いた」という主張*7、「ミリアムはイスラエルの民の上に立つ指導者であった」という主張*8、「アブラハムはサラに服従した」という主張*9

 

また「箴言31章は、家庭内における男性リーダーシップを覆す内容の章である」*10、「新約の教会では使徒たちに対し特別な権威は何も付与されていなかった」という主張*11、「ペテロがタビタを生き返らせたのは、彼女が指導者の役割を担う人物だった」*12、「1テモテ5章の未亡人たちは、教会の長老だった」*13、「家を所有していた女性たちは、家庭集会において教会を「監督」していた」*14、「新約の教会の長老たちは諸教会の上に権威を持っていなかった」*15、「パウロは女性たちに『みことばを説教しなさい』と言っている」という主張*16等。

 

聖書の語の意味に関する誤った言及

 

また対等主義の人々の中には、「すべての英語訳聖書は間違っている」「ほとんど(あるいは全ての)ギリシャ語辞典は間違っている」と主張し、それゆえに「(この論争の中でキーワードとなっている)いくつかの言葉に新しい意味が付与されなければならない」と言っている人々もいます。

 

例を挙げますと、創世記2:18bの「わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」の聖句をもって、「これはエバがアダムよりも優越(superior)していたということを意味している」という主張*17

 

それから、「『かしら(head)』の意味は、「長(かしら)」とされている人に付与されている権威を否定する意味での『源(source)』である」という主張*18

 

さらに、「ローマ16:2のフィベは、多くの人々の『指導者』であり、『統治者』であった」*19、「エペソ5:21で言っている意味は、夫と妻が、『相互に恭順し合いなさい "mutually submit"』ということである」という主張などです*20

 

その他の例を挙げますと、「1テモテ2:12の『権威をもつ(have authority)』の意味するところは、『権威を濫用する』ないしは『殺す』、『暴力をふるう』『自分自身を人の創始者であると宣言する』である」という主張*21、「1テモテ2:12で、パウロは、『男性に対し、支配権を得る目的で教えるという行為』を女性たちに禁じていると言っている*22」といった主張などが挙げられます。*23

 

古代および現代史に関する誤った言及

 

対等主義関係の著作の中で、何度も何度もくりかえし、史実に基づかない古代世界に関する誤った主張がなされています。

 

例を挙げますと、「当時の古代世界においては、女性たちは、教会指導者として奉仕するに十分な教育を受けることができていなかった」という主張がよくなされます。*24

 

しかしながら、古代世界の実証研究が進むにつれ、ますますこういった主張の信ぴょう性のなさが明らかになってきています。

 

また、対等主義の著作・論文の中では、聖書のどの聖句からも立証されていない(ないしは、確立された諸事実)によっても裏付けされていないことが事実であるかのように主張されています。

 

例を挙げますと、「当時のエペソにおいて、女性たちは偽りの教理を教えていた。」*25、「当時のコリントにおいて、礼拝時に、女性たちは集会をかき乱していた。」(同著7章7項)といった主張です。

 

実に、こういった主張が、あちこちで再三にわたり繰り返されているため、次第に人々はそれが事実であるかのように思い込み始めます。そしてこう考えるのです。「きっと、学者さんたちがこの点に関して学的裏付けをしてくれているに違いない。」

 

しかし実際はどうかと申しますと、そのような主張をバックアップする堅い証拠は未だどこにも見いだされていないのです。そして人々はそのことを知らずにいるのです。

 

聖書の権威を拒絶し、リベラリズムへ向かわせる解釈メソッド

 

ある人々はこのように言います。「でもこの論争は結局、聖書解釈の違いに過ぎないんですよ。*26

 

そしてこういった人々は、どちらの見解も教会内で許容されるべきだと結論づけています。(もちろん、対等主義者たちのある主張に関しては、私も、それらを単なる解釈の違いだと認めておりますし、本書の中でもその点に言及しています。)

 

しかしながら対等主義者たちによるもう一つ別の種類の解釈が存在することもまた事実であり、この種の解釈は、非常に厄介です。というのも、彼らは、信者の人生の中におけるみことばの権威についての前提の部分で、私たちと同じ土台に立っていないからです。本書の13章でも詳説しましたが、こういった対等主義者たちの主張は、暗にあるいは明瞭に、聖書の権威を否定するものです。*27

 

例えば、「旧約聖書のヘブライ語の語彙の意味は、私たちにとって権威を持つものではない」という主張がなされています。*28

 

その他にも、「創世記1-2章は、歴史的に正確ではない」*29、「男性リーダーシップに関する新約の倫理は、まだまだ改善の余地がある*30」、「1コリント14:34-35の箇所は、聖書の一部として取り扱うべきではない。*31」、「1テモテ2章において使徒パウロが言ったことは間違いだった*32」等など。

 

またこのカテゴリーに適合するもう一つの主張は、次のようなものです。

 

パウロや新約記者たちは、教会における完全な形での女性リーダーシップに向け、軌道(trajectory)を走っていた。しかし、彼らは新約聖書が完成する時点においては、まだその最終目標に到達することができなかった。それゆえ、私たちは使徒たちの教えを越え、彼らが進んでいた方向に動いていかねばならない。*33*34

 

こういった軌道解釈(trajectory hermeneutic)と類似の例として挙げられるのが、ケビン・ギルス(Kevin Giles)の見解です。ギルスは、「聖句を引用していても、教理的な問題には解決がもたらされない。だから、そうする代わりに教会が歴史的に保持してきた見解に依って決定を下さねばならない」(少なくても、ギルス氏が「これこれの点において教会は正しい教理を保持していた」と考える事例において)と考えています。これに関する検証は10章2項をお読みください。

 

また聖書の権威を否定する事例としてこれとは別の次のような説もあります。

 

これは「贖罪的な運動としての解釈法("redemptive movement hermeneutic")」と言われるものです。この解釈によれば、「恭順」を勧告する新約聖書の聖句および教会における男性リーダーシップに関する聖句は、文化的に相対的なもの(culturally relative)であるということです。*35

 

あるいは、「この問題に関しての個々人の決断はすべて、自分がどの聖句に力点を置くかにかかっている」といった主張もなされています*36

 

その他の主張を列挙します。

 

「この問題に関して聖書が教えていることを把握することは不可能」*37。「男性の牧師や長老の権威の下になされるのなら、女性も教えたり、成人男性の上に権威を持つことができる*38。」*39

 

「(たしかに女性スタッフたちは成人男性を前に説教したりしていますが)私たちはあくまでパラチャーチ(学生宣教団体等)であり、『教会ではない』ので、その点に関しては、私たちは新約聖書の掟に従う必要はないのです。」*40

 

権威としての聖書を拒み、経験や個人の召命をベースに判断している。

 

こういった対等主義者の人々は、みことばそのものよりも、個人の経験に、より高い権威を据えています。そして次のように言っています。

 

「神様が明らかにこの女性たちのミニストリーを祝福してくださっており、私たちはそれに反対することができないと思います。ですから、私たちはこの問題に関し、聖書が何と言っているかという不明瞭な議論で時間を無駄にすべきではないと思います。*41

 

「もし彼女が真実に、神様から『牧師になりなさい』という召命を受けたのなら、その女性のミニストリーの正当性を私たちがどうこう言うことはできないと思います。*42

 

 「今日、多くの預言的声が示すところによれば、女性たちもまた、(成人男性を含めた)男女に聖書を教え、牧師として奉仕することが許可されるべきなのです。(しかし、ここでもまた、この命題に関し、聖書自体は何と言っているかということについての彼らの言及はありません。)*43」 

 

「私たちは現在、聖書の中に見いだされる古い諸基準がもはや適用されないというーー歴史上、例をみないユニークな時代に生きているのです。*44

 

偏った情報提供

 

私はこれまで何度となく、ある一人の牧師が、いかにして自教会を対等主義路線に持っていくかという一連の行動のパターンを目の当たりにしてきました。

 

残念ながら、こういった牧師たちの中には、この問題にかんする適切な情報を公平に信者に知らせることをせず、相補主義側の立場を言い表すフェアな機会を提供することを拒む人々もいました。そして大抵の場合、こういった牧師は、次のような手順を踏んで、教会を対等主義化させます。

 

)対等主義の著作を数冊読み、これが正しいと確信する。

)支持者集めを始め、長老会や役員会の大半を、対等主義側につかせる。

)対等主義の見解に沿った説教をシリーズで行なう。

)実際に、教会の女性たちに、(成人男性をも含めた会衆の前での)講壇説教をさせる。

 

そんな中、もしも誰かがこの牧師のやっていることに異議を唱えた場合、牧師および仲間の指導者たちは、その信徒を「分派を起こす者」だとみなし、「彼/彼女は、教会のリーダーシップに誤った形で逆らっているのです」と言います。

 

またある教会メンバーが、「相補主義側の立場を表明する機会をもください」と頼みにいくと、「でも、その立場については皆がすでに言っているので、あえてまた聞く必要はないでしょう」と言われます。

 

しかしながら、実際、多くの信徒たちは、(対等主義側との有益な対話をも含めた)相補主義の見解について、未だかつて、一度もまともな説明を聞いたことがないというのが現状です

 

そのため、こういった「直観的」相補主義クリスチャン("instinctive complementarians":つまり、あれやこれや著作集や神学書などを読まなくても、聖書を読み相補主義のあり方が正しいということを心で知っているクリスチャンのこと。)は、アカデミックな世界で30数年以上に渡り議論を重ねてきた対等主義の神学者たちからの鋭い問いに、(学的に説得力のある)答えをすることができず苦しみます。

 

また自教会の牧師の対等主義的アジェンダに対し、聖句を引用しつつ疑問を投げかけても、牧師は、対等主義の神学者たちの議論手法でもって、「A教授やB教授の見解によれば、あなたのそういった見解は間違っている、、、」等、その信徒に答えるので、彼/彼女の立場はさらに苦しくなります。

 

対等主義の教会の5類型

 

Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chap 14, sec.2(拙訳)

 

はじめに

 

対等主義のグループ

 

対等主義の諸グループは、次のような考えを支持しています。ーーつまり、①男女はその価値において同等の存在である。②家庭および教会におけるすべての役割は、賜物、能力、趣向によって決定されるのであって、性別によって決定されるのではない。

 

本項において私は、あるグループ(組織)の優勢な強調点が対等主義的見解にある場合、そのグループを「対等主義」のカテゴリーに入れています。(しかしあるグループではその中に相補主義的見解を持った人々も混じっています。その一方、対等主義的な立場だけが是認されている団体もあります。)

 

類型① リベラル諸教団

 

ある教団が「リベラル」だと言う時、私が意味しているのは、リベラル主義が支配的な神学的見解である、ということです。したがってもちろん、その中には、ほとんどと言っていいほど、より保守的な信者の方々も混じっておられる場合が多く、そういった方々は自教団のリベラル化を嘆き、そこに留まりつつ、内部改革を目指しておられます。

 

本書の11章と13章で説明した通り、対等主義というのは、神学的にリベラルな教団すべてにおいて支配的な見解であり、その教団がさらにリベラル化傾向を深めるに従い、対等主義もまたその内部で勢力を増していきます。*45

 

しかしながらことわっておきたいのは、すべての対等主義者がリベラル者ではないということです。いくつかの教団では、その他の理由から、女性を牧会職に就かせています。(それについては後の項で取り扱います。)

  

それにもかかわらず、ここに不動の事実があります。それは何かと申しますと、神学的リベラリズムは必ず女性牧会者承認の方向に向かうという事実です。すべての対等主義者がリベラル者であるわけではありませんが、リベラル者は皆一様に対等主義者です

 

今日、米国内において神学的にリベラルな教団ないし神学校の中で、女性教職就任に反対の声を挙げている機関は皆無です。

 

類型② 文化的センシティブ対等主義者(Culturally Sensitive Egalitarians)

 

その他の対等主義諸グループは神学的にはリベラルではないのですが、その他さまざまな理由から対等主義の立場を採っています。

 

一つの理由として、周囲の文化に効果的に関わっていくことに力点を置いているグループは、他の諸グループ以上に、現代文化の中における対等主義的傾向に魅力を感じる傾向があるという点が挙げられると思います。その他の特徴を挙げると、彼らは周囲の文化に対し肯定的な影響を及ぼしたいと願う余り、

 

① 自分たちが正しい教理を持しているかどうかという検証作業や、

② 彼らの目に、主要教理とは映らない二次的な教理に対し、はたして自分たちが聖書に忠実であるかという確認作業(*そして彼らは教会における女性の役割をめぐる論争をこののカテゴリーに入れ込んでいます。)以上に、ミニストリーにおける効果的結果に、より高い価値を置いています。

 

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フラー神学校

 

このような文化的センシティブ対等主義グループの一例を挙げると、イリノイ州にあるウィロー・クリーク・コミュニティー教会*46、カリフォルニア州のフラー神学校などが挙げられます。(この神学校は、1947年の創立当初より、リベラル諸教派およびリベラルな学会で支持を受け、影響力を持つことに力点を置いてきました。*47

 

その他、圧倒的に対等主義路線の機関として挙げられるのは、カナダのブリティッシュ・コロンビア州バンクーバーにあるリージェント・カレッジです。そしてこの神学校もまた、周囲の文化を理解し、特に、アカデミックおよびプロフェッショナルなレベルにおいて効果的に関わっていくことに高い価値を置いています。*48

 

類型③ 体験指向の対等主義者(Experience-Oriented Egalitarians)

 

このカテゴリーに入るのは、物議を醸し出す/ないしは混乱した教理の分野だと映るもの以上に(少なくても実際面において)効果的なミニストリーや神からの強烈な召命こそ優先されるべきだと考えている立場の人々です。

 

(そして彼らはしばし、この「物議を醸し出す/ないしは混乱した教理の分野」のカテゴリーの中に、教会における男女の役割に関する論争を入れています。)

 

アッセンブリーズ・オブ・ゴッドがこのカテゴリーに入り、また、International Church of the Four Square Gospelもそれに該当します。*49。また、聖霊の力の個人的体験に非常に力点を置いているトロント・エアポート・クリスチャン・フェローシップ(元ビンヤード教会)もこのカテゴリーに入るでしょう。

 

私はここでキリスト教雑誌『カリスマ』もこのカテゴリーに入れようと思います。なぜなら、少なくとも1997年ないし98年以降、『カリスマ』誌、および姉妹雑誌である『Ministry Today』は、女性牧師等に特集記事が組まれるようになったからです。*50

 

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ビンヤード教会連合もこのカテゴリーに入るでしょう。ジョン・ウィンバーがビンヤード運動を率いていた当時、彼はビンヤード教会内で、女性たちが長老として奉仕することを認めていませんでした。*51

 

しかしながら、1997年のジョン・ウィンバー氏の死後、それぞれの系列教会や指導者の間で見解にばらつきが生じるようになりました。2001年10月18日、ビンヤード全国委員会は、「(女性のミニストリーに関しては)それぞれの枝派教会が、それぞれ独自の政策決定をすることを承認する」という声明文を出し、それによってビンヤード運動内において女性牧師や長老が許容される効果的な足台が築かれました*52

 

その他、神からの個人的召命およびミニストリーでの実りの経験に高い価値を置いているグループとして挙げられるのが、ウェスレアン・チャーチ、ナザレン・チャーチ、フリー・メソディストなどです。

 

類型④ 強い指導者の影響を受けた対等主義者(Leader-influenced Egalitarians)

 

プロテスタント陣営内の団体の中には、一人か二人の強力な指導者の影響により、主として対等主義の立場を受け入れたグループも存在しています。

 

このカテゴリーに入るのは、米国のインターヴァーシティ・クリスチャン・フェローシップ(IVP)です。この学生宣教団体は、つい最近まで会長を務めていたスティーブ・ヘイナー(Steve Hayner)氏の指揮の下、強力な対等主義路線を採るようになりました。

 

報告によると、ヘイナー氏の指導下にあった当時、IVPのスタッフの中で相補主義の立場に立っていた人々は、公に相補主義の立場に立った教えをすることが許されていなかったということです。

 

また米国IVP出版社の著作類をみましても、同社の編集方針における強力な対等主義路線が露見されます。同社は数多くの対等主義に立つ著書を出版してきましたが、その反面、この20年の間、相補主義の立場から書かれた本は出版していないようです。

 

私はウィロー・クリーク・コミュニティー・チャーチをこのカテゴリーに入れます。なぜなら、この教会は開拓当初から、ホィートン大学神学教授であったギルバート・ビレジキアン氏(Gilbert Bilezikian)の強い影響を受けてきたからです。

 

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ビレジキアン教授は、開拓初期からウィロー・クリーク教会の長老を務めてこられ、氏の著書であるBeyond Sex Rolesは、エヴァンジェリカル界における一連の運動の中で、最も甚大な影響力をもつ対等主義の本の一つとみなされています。(従って、ウィロー・クリーク教会は、このカテゴリーにも、それから前項の「文化的センシティブ対等主義」のカテゴリー両方に適合しているわけです。)

 

最後に、Christians for Biblical Equality (CBE)のこともこの項で挙げておきます。

 

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CBEはパラチャーチの団体ですが、この団体はエヴァンジェリカル界(福音派、カリスマ・ペンテコステ派)における対等主義の立場を定義し、擁護し、促進する目的をもって設立されました。これは相補主義を擁護するCBMW団体の対等主義ヴァージョンと言っていいでしょう。

 

類型⑤ どちらの立場を採るべきか決めかねている、あるいは決断を差し控えているグループ

 

その他のエヴァンジェリカル界は、今もってこの問題に関する明確な結論を出すことができずにいるか、もしくは、同じ団体内にあって、どちら側の見解もかまわないという決定を出しています。

 

多くの福音主義神学校がこのカテゴリーに入るでしょう。私が20年間教鞭を取っていたイリノイ州にあるトリニティー神学校がその一例です。この神学校では大多数の教授陣が2ポイント相補主義(*つまり、①家庭内でも、②教会内でも、その両方で相補主義)に立っていますが、少数派ではあっても有力な対等主義者の教授たちも学内に存在します。

 

ゴードン・コーンウェル神学校でも同様に、両方の見解を教授陣に許容しています。しかし、新約学の教授陣としてのアイダ・スペンサー(Aida Spencer:常勤)およびキャサリーン・クローガー(Catherine Kroeger:非常勤)両女史の存在が意味するところは何かと申しますと、ゴードン・コンウェル神学校では、対等主義の見解が他の神学校に比べはるかに強力であるということです。(両女史は、影響力のある対等主義著述家であり、スピーカーです。)

 

イリノイ州にあるホィートン大学および、ミネソタ州セント・ポールにあるベテル・カレッジ/神学校も同様に、教授陣の中に、相補主義、対等主義、両方の見解の持ち主が存在します。

 

対等主義前進を支える二大同盟者たち

 

Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chap.14(拙訳)

 

対等主義(egalitarianism)は、キリスト教諸機関に影響力を及ぼそうとしていますが、その際、対等主義には、二人の重要な同盟者がいます。

 

まず第一番目の同盟者は、世俗文化です。世俗文化は、その卓越した数々の表現をもって、激しく神の言葉の権威に逆らっています。また、この文化は、社会の中に、「男性だけに開かれている役職がある」という事実に激しく反対し、神のご計画に沿った形で機能する家庭のあり方にも強く反対しています。そして(多くの面において)、世俗文化は、「権威」一般に対し、拳を突き上げています。

もちろん、世俗文化に属している人々の中にも、そのような考えを持っていない方々もおられます。しかしながら、メディア、エンターテイメント産業、一般大学機関などーーこういった文化の極めて影響力をもつ中核部分は一様に、上記のような強力な対等主義スタンスをとっているのです。

 

「忠犬は、主人が何者かに攻撃されたら、吠える。

もし、神の真理が攻撃にさらされているのを見ながら、

尚も自分が沈黙を保ち続けているのだとするなら、

私は臆病者である。」

 ジャン・カルヴァン(1509-1564)

 

対等主義の第二番目の同盟者は、臆病な教会指導者たちです。

 

彼らは、内心、「たしかに聖書は相補主義の教えを説いている」ということを信じています。しかしながら彼らは臆病者であり、それを堂々と教えたり、その立場を擁護するために声を挙げる勇気に欠けています。彼らはだんまりを決め込む「消極的コンプリメンタリアン」です。

 

自分の所属する組織が、対等主義の圧倒的プレッシャーの元、今や変節の危機にさらされているというこの機におよんで、彼らは、心の中では「聖書はそんなことを教えていない」と信じているにもかかわらずーー次から次に譲歩を重ね、降参していくのです。

 

これは、リベラルな教団の中にいる保守的信者たちが、同性愛問題に直面した時の状況と類似しています。実際、非常に多くの人は、「同性愛は非聖書的で間違っている」と心の中では考えているのですが、実際に声を挙げる人は稀です。

こういった同性愛問題に取り組んできた米国福音ルーテル教会のロバート・ベンネ氏はこういった人々の問題について次のように言っています。

 

「話し合いの席には毎回、同性愛を公言している人々も同席しているわけです。そのためでしょうが、この問題に関してまだ確信が持てていなかったり、普通に善良だったりする人々は、反対の声を挙げたり、修正主義者のアジェンダに対する差し控えを提案するといったことに困難を覚えているようです。大半の信者たちは、『自分はあくまで礼儀正しく、寛容でありたい』と望んでおり、こうして『愛のうちに和を保ちたい』という願いから、(同性愛肯定に向けた)その修正アジェンダを受け入れていくーーそういったケースがしばし見られます。*53

 

対等主義化した南部バプテスト連盟(Southern Baptist Convention)を再び相補主義に回復する働きにおいて尽力したリーダーの一人が、何年にも渡る苦闘の末、私に次のように打ち明けてきました。

 

 「一連の苦闘における最大の問題は、私たちに反対する穏健派の存在ではなかったのです。いいえ、そうではありませんでした。むしろ最大の問題は、われわれに同意しつつも、私たちを支えるために声を挙げたり共に立ち上がることを拒む、そのような保守派信者の存在でした。

 

その点で使徒パウロは、臆病な牧師たちとどんなに違っていたことでしょう!彼は神の言葉の中で「不人気な」教えのためにしり込みすることなく、反対に果敢に立ち上がりました。エペソで教会の長老たちに会い、彼らの間で労した3年間の働きを振り返った際も、彼は清い良心をもって次のように言うことができました。

 

使徒20:26-27

「 だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。」

 

「伝えたからです」の「から(for)」という語から分かるのは、ここでパウロが自分がなぜ「だれの血についても、責任がない」のか、その理由を述べているということです。

 

彼は言います。エペソ教会内のあらゆる失敗に対し、自分は神の前に「責めがない」。なぜなら、私は「ひるむことなく」「神のご計画をすべて(the whole counsel of God)」彼らに伝えたからです、と。彼は、聖書のある教えが「人々の反感を買うから」という理由で、それを説くことを差し控えるようなことはしませんでした。

 

そして、そういった教えが「自分に対するバッシング、葛藤、そして衝突を招いてしまう可能性があるから」と言って、教えを説くことを差し控えるようなこともしませんでした。そうです、パウロは、教えの内容が人気のあるものであろうと、逆に人々の反感を買うようなものであろうと、聖書のあらゆる主題を余すところなく人々に説いたのです。

 

もしも使徒パウロが今日生きており、こういった諸教会を牧会開拓していたとするなら、彼は、現地の牧会者たちに対し、男女の聖書的役割について、あいまいでお茶を濁すような言い方をするよう勧告するでしょうか。

 

現在、社会全体で、もっとも論議がなされ、かつ緊急テーマとなっているこのジェンダー問題に関する神のみこころに対し、何も言わず泣き寝入りするようパウロは勧告するでしょうか。「何も言わなければ物議も醸し出さないし、荒波を立てることもない。。。そうしたら教会内に『平和を保てる』。だから私は黙っていよう。。」

 

こうしてあなたの「沈黙」により、この論争の決着は、次世代まで引き延ばされることになります。はたしてパウロはそのような勧告をあなたに出すでしょうか。「キリストに従うにあたり、私たち信者は割礼を受ける必要がない」とパウロが説教し始めたことを引き金に、ものすごい迫害が起こりました。ユダヤ人の敵対者たちはパウロを町から町へと追跡し、ある時には彼を石打ちにまでしました。(使徒14:19-23)。

 

しかしパウロは一歩もひるまず、救いの福音の使信に関し、妥協しませんでした。そうです、救いは、キリストを信じる信仰「のみ」によるものであって、「信仰と割礼」によるものではないと宣言したのです。そして後にパウロは、自分が迫害の憂き目にあった諸教会に対し手紙を送った際にも、福音の純粋性を守るよう強調し、次のように書きました。

 

ガラテヤ1:10

「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」

 

教会指導者たちも、そして他のすべての信者たちも、今一人一人が、この問いの前に静まることが大切ではないかと思います。

 

ー終わりー

 

*1:参照:

*2:Evangelical Feminism and Biblical Truth, p.184-85参

*3:同著p.289-91参

*4:同著p.224-25参

*5:参照:

*6:同著p.202-11

*7:Evangelical Feminism and Biblical Truthの4章1項を参照

*8:同著4章5項

*9:同著4章8節

*10:同著4章10項

*11:同著5章8項

*12:同著5章12項

*13:同著7章13項

*14:同著7章14項

*15:同著7章16項

*16:同著7章18項

*17:同著3章9項。

*18:同著6章6項

*19:同著7章1項。

*20:同著6章4項。

*21:同著8章8項、9項、10項。

*22:同著8章11項

*23:1テモテ2:12の検証記事リスと一覧

*24:Evangelical Feminism and Biblical Truth,8章2項参照。

*25:同著8章1項。

*26:訳注:関連記事

*27:訳注:関連記事

*28:同著3章5項。

*29:同著3章7項。 

*30:同著6章5項

*31:同著7章5項。

*32:同著8章14項

*33:同著9章4項。

*34:訳注: 

*35:

*36:同著9章5項

*37:同著9章9項

*38:同著9章12項。

*39:訳注:

*40:同著9章13項。

*41:同著11章4項参照。訳注:

*42:同著11章5項。

*43:同著11章6項

*44:同著11章7項

*45:Evangelical Feminism and Biblical Truth, chapter 11, section 11.2, pp. 469-72, chapter 13, pp.500-505において、リベラリズムと対等主義の相関性についての考察がなされています。訳注:

*46:本書のAppendix 8, pp.759-60に、ウィロー・クリーク教会の政策声明の文書を掲載しています。

*47:訳注:カリフォルニア州パサディナにあるフラー神学校(Fuller Theological Seminary)は1947年にチャールズ・E・フラー氏によって設立されました。この学校は、保守福音信仰の神学校としてスタートしましたが、次第にリベラル化が進み、1971年には、「信仰告白」から聖書無謬についての告白を削除するに至りました。

【ある客員教授の嘆きのレター】
それと並行して福音主義フェミニズムもフラー大のキャンパス内に深く浸透するようになり、相補主義的な発言を公にすること自体、難しい状況にまでなっていきました。1987年5月、ウェイン・グルーデム氏は、一通の手紙を受け取りました。フラー大に客員教授として招聘されていたある新約学の教授(「牧会書簡コース」担当)からのそのレターは、当時のフラー神学校の実状を生々しく物語るものでした。以下、その手紙を引用します。
「私はフラーで牧会書簡コースを担当していました、、〔保守信仰の立場から講義をしたところ〕、ああ、私はトラブルに巻き込まれてしまったのです。一人の女性は激怒して教室から出ていきました。また学内の女性委員会が、私のクラスの生徒全員に通知状を送りました。
そしてその通知状の中で、「)私がこのような教えをすることは全く許されるべきではないこと、)女性委員会は、今後、伝統的な線に沿った私の聖書解釈を検閲(censor)していくつもりである」旨を記していました。私は学部長に手紙を書き、大学当局からの反応を見ることにしました。驚いたことに、当局は、万人救済論の教えを学内で講義することは許可している一方、女性に関する私たち〔相補主義キリスト者〕の見解については、これを禁じなければならないと考えているのです。」 

二カ月後、この教授は追記のレターを送ってきました。
「その後の二週間半というもの、私はキャンパス内で誹謗・中傷の嵐の中に投げ込まれました。大学内の委員会でも私は問題人物としてやり玉に挙げられ、抗議レターも相次ぎました。本当に惨憺たる状況でした、、その後、学部長から連絡がありました、、彼は私に、生徒たちの前で自分の本意を再度明らかにし、誤解を生じさせた部分に関して責任を負い謝罪の意を表明するよう言ってきました。それで、、私はそのようにしました。翌日、私のクラスの生徒の何人かは、当局および学部長の私に対する扱いを見て非常に悲しみ、その日、学部長の元には手紙や訪問が殺到したそうです、、しかし学部長は、私が自分の個人的見解を、その他の諸見解よりも強調したことを責めてこられました。」

*48:相補主義者の教員であるJ・I・パッカーおよび、ブルース・ウォルケ(Brice Waltke)の二人は、今でもリージェント・カレッジと提携していますが、二人共、定年に達し、現在は非常勤で教えておられます。何人かの学生たちの報告によれば、ゴードン・フィー教授、スタンリー・グレンズ教授等の対等主義の立場が、リージェントのクラスの中で学生たちの耳にする支配的見解であるということです。(とはいっても、フィー氏もすでに定年を迎え、非常勤でしか教えておらず、グレンズ氏はもうリージェントでは教えておられません。)1994年5月、私(Wayne Grudem)は、リージェント・カレッジ学生会の招待を受け、土曜の午後のセミナーの席で、80名ほどの聴衆を前に、教会内における男女それぞれの役割について講演しました。ある学生会長の話によれば、私の講演はあくまで平和的になされたため、多くの人々の共感を得たということでした。しかし、次の学期になり、学生たちが再度を私を招待すべく動き出したとき、一騒動が起こりました。大学当局が学内での私の講演を認可しない方向で応答してきたのです。それに対し、百人以上の学生が嘆願書にサインをし、私の講演を望みました。しかしながら、1994年12月に明らかになったのは、今後、大学当局は、私や外部の講演者が、ミニストリーにおける女性の役割について話すことを認めないということでした。

*49:アッセンブリー教団の「ミニストリーの中における女性の働きについて」の宣言文に関しては、Appendix 8, p.705-10をお読みください。注意していただきたいのは、アッセンブリー教団は「これらの聖句に関してはさまざまな異なった見解があり、そのため我々教団委員会としては、その中のどの見解を採用していいのか決定することができない」と主張することによって、見事に本来の問いを中性化しているということです。(この声明文に関するさらなる検証;本書のp.371-76をお読みください。).

*50:一例を挙げますと、シンディー・ジェイコブスの "Women Of God, Arise!" (『カリスマ』誌1998年5月号、p76-79、110)

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ラリー・キーファウヴァー(Larry Keefauver)の "Empower the Women" (『Ministry Today』誌1998年5月・6月号、p9、"Women of the Word" 同誌1997年3月号)。尚、『カリスマ』誌の編集者であるJ・リー・グラディー氏は、対等主義の立場を促進させる二冊の著書を記しておられます。①Ten Lies the Church Tells Women, 2000. ②Twenty-Five Tough Questions About Women and the Church, 2003.

*51:この事実に関しては、"Vineyard Restricts Elders to Men" (Council of Biblical Manhood and Womanhood, News 1.1, Aug, 1995 at www.cbmw.org)をご参照ください。その中でウィンバー氏は次のように言っています。「私が信じるところによりますと、神は教会においてジェンダーを基にした牧師/長老職をお立てになりました。私は伝統的(かつ自分の見解によると聖書的な)見解――つまり、結婚、家庭、教会における男性のユニークなリーダーシップの役割を是認しています。従って、私個人としては、地域教会の中で女性を牧会職に就任させることに関しては賛成しておりません。」(しかしながら、その一方において、ウィンバー氏は、「地域教会の(男性)牧師・長老の権威の下でなら、女性たちも男女混合の会衆に向かって説教することを許可する」との説明も加えていました。).

*52:ビンヤード教会の現行のポリシーに関するこの声明文は、Appendix 8, p. 711をお読みください。ビンヤードの牧師たちによって記された対等主義関係の著作の一例。Nathan, Who Is My Enemy (2002) Williams, The Apostles Paul and Women in the Church (1979).

*53:World, Aug.2, 2003, p.21